第一章 祖父の遺言①

 大陸れき一八九七年、六月じようじゆん

 窓の外を初夏の風景が飛ぶように過ぎていく。どこまでも続く穏やかな田園風景の中に、時々、農作業をしている人の姿が見える。空はわたり、青葉がきらきらと美しい。穏やかで美しい景色を、セシアはうれいをふくんだ表情で、車窓から眺めていた。

「そうくされた顔をするものではない」

 はす向かいに座る祖父がセシアに声をかける。

 バルティカ王国の主要な都市を結ぶ急行列車内にて。一等客だけが利用できるラウンジに、ドワーズ侯爵とまごむすめの姿はあった。

 早朝に始発駅を出た急行が大陸南東部にあるエルスターの駅で二人を乗せたのは、十時過ぎのこと。領地であるエルスターから王都キルスまでは約八時間の長旅である。

「おじい様、私が社交界を苦手に思っていることをお忘れなのですか?」

 セシアはあきれながら祖父を見やった。

「忘れてはおらんが、おまえももう二十二歳になる。今年こそは結婚相手を見つけてもらうぞ」

「もう二十二歳になるんだもの、今さら見つからないんじゃないかしら」

 ふう、とセシアはためいきをついた。

「ジョスランのことか。だいじようだ、今年はしんらいできる者に声をかけてある」

 祖父の言葉に、ピンときた。

 この国では十八歳になる年の春に社交界デビューする。セシアも慣例通り十八歳で社交界にデビューしたが、最初のシーズンは叔父ジョスランのせいでさんざんだった。以来、一度も社交シーズンの王都に足を運んでいないし、事情を知る祖父も無理にセシアを王都に連れて行こうとはしなかった。

 だが今年は去年までの言い分が通じず、「わしが選んだ男と結婚するのがいいか、自分で選んだ男と結婚するのがいいのか、決めなさい」とせまられてしまったのだ。

 養われている身である。貴族の娘は当主の決定に逆らえない。

 そこでしぶしぶ、実に四年ぶりに社交シーズンの王都へとおもむくことにしたのである。

「そう。要するに、私がこれから王都でお会いする方々は、おじい様のお眼鏡にかなっているというわけなのね。それは楽しみですこと」

 祖父の言葉からすでに何人かお相手が選定されているらしいと知り、セシアはいやを織り交ぜながら答えた。

「わしも七十をえる。健康には気を付けているつもりだが、いつまでもおまえのそばにいてやれるわけではないからな」

 セシアの祖父、ドワーズ侯爵であるモーリス・ラング・ドワーズは七十をいくつか越えて、かみひげも白くなってはいるが、眼光はするどく、背筋もピンとびている。若い頃、軍隊に所属しており、今もたんれんを欠かさないためだろう。

「人間、いつ何が起きるかはだれにもわからん。おまえの両親も、ある日とつぜん事故に巻き込まれて帰らぬ人となったではないか」

 祖父のてきに、セシアはうっとまゆをひそめた。

 今から十三年前、セシアの両親は馬車の事故で亡くなっている。

「それなんだけれどね、おじい様。実は、結婚については考えていることがあるのよ……」

 セシアは車窓から祖父に視線をもどした。

ぐうだな。わしもいろいろ考えておる。まあとにかく、王都に着いたらきちんとジョスランと話し合わなくてはな」

 いい機会だから伝えようと意気込んだのだが、祖父はセシアの視線をけるように、窓の外に目を向ける。

 おそらく祖父も気が付いてはいるのだ。セシアに結婚する意思がないことを。けれど祖父はセシアをとつがせたいと思っているし、この考えを曲げることはないだろう。長年、家族として付き合っているからわかる。

「おじい様、私、結婚は……」

「この話は以上だ。おまえはドワーズ家の一人ひとりむすめだ、いつまでも一人でいられないことはわかっているだろう?」

 言いつのろうとしたセシアにいちべつをくれ、祖父が話を切った。

 セシアは言葉を続けられず、ひとつ溜息をつくと再び窓の外に目を戻した。

 今まで結婚の話を持ち出されるたびにのらりくらりとかわしてきたが、今回ばかりは難しそうだ。

 ──結婚なんてしたくないのに……。

 セシアは、夏用のドレスの下にかくされている、右の下腹部の大きなきずあとを思いかべた。

 おぞましい傷痕だ。セシア自身も目を背けたくなる、この傷は己の罪のあかしでもある。

 許される日など来ない。おまえだけ幸せになるな。この傷はそう語りかけている気がするのだ。だから、結婚なんて無理。

 くりいろの髪の毛にすみれいろひとみ、ミルク色のほおによく熟れたベリーのようなくちびる。整ってすっきりと美しい顔立ちのセシア・ヴァル・ドワーズは、ドワーズ次期こうしやく夫妻の娘として生を受けた。その両親はセシアが九歳の時に事故で他界、その時には祖母もすでに他界していたため、セシアは九歳の時からずっと祖父であるドワーズ侯爵と、領地エルスターのしきで暮らしてきた。

 そして十八歳の春、セシアは慣例通り王都の社交界にデビューした。

 王都キルスでは春から夏の終わりまでが社交シーズンだ。この間、国内の貴族たちは王都に集まり茶会やとう会、観劇など様々なもよおものを通してしんぼくを深める。独身の令息れいじようたちは結婚相手を探す。結婚相手でその後の人生が決まるといってもいい令嬢たちにとって、社交シーズンはまさに勝負のシーズンでもある。

 結婚したいという気持ちはなかったが、将来のために交友関係は広げたい。そう思って臨んだ社交界デビューだったが、デビュタントとして過ごしたあの夏は本当にさんざんだった。

 まず舞踏会に招待されない。これにはセシアだけでなく祖父もこんわくした。そして祖父のツテでようやく招かれた舞踏会でも、誰からも相手にされない。異性はもちろん、同性の知り合いすらできない。なぜかどこに行っても敬遠され、一人ぼっちになるのだ。

 わけがわからなくて落ち込んでいたところに、さる親切な令嬢がそっと近づいてきてその理由を教えてくれた。いわく、「ドワーズ家のジョスラン様は、人のお金をだまし取ることで有名よ。そのめいであるあなたと、お付き合いしたいと思う人がいると思って?」

 父の弟であるジョスラン・イル・ドワーズは、祖父にたいされた領地からの収入を元手に投資を行っているのだが、祖父によると「ドワーズ家が付き合う人間としてふさわしくない」種類の人間とも関係が深いらしい。かねづかいもあらければ、借金もずいぶんあるようだ。そのせいで保守的な祖父とはそりが合わず、えんになっている。加えて、セシアが生まれる前にエルスターの屋敷を出ており、めったに姿を見せない。

 セシアにとってのジョスランは「血はつながっているが、ほぼ他人」という認識だった。

 そのジョスランに関心を持たなかった自分も悪いかもしれないが、がこんなにも社交界でけむたがられているなんて知らなかったし、そのせいで自分まで社交界で敬遠されるとは思わなかった。祖父も、ここまでとは思わなかったようである。

 翌年からセシアはジョスランを理由に、社交シーズンになっても王都に行かなかった。祖父も、ジョスランの行いが改められない限りは、セシアが社交界で誰からも相手にされないことはわかっていたのだろう。十九歳から二十一歳までの三年間は引きこもりを許してくれた。だが、今年はそれが許されなかった。

 理由は、ジョスランが祖父から管理を任されている土地を、勝手に売ろうとしたからだ。土地の管理は叔父だが所有者は祖父であるため、売買けいやく書が祖父のもとに送られてきたのである。

 これを見た祖父はげきし、王都に出向いてジョスランと相続の話をする、他人ひとごとではないからセシアも同席しなさい、ついでに結婚相手も決めなさいということになり、今年は王都に出向く羽目になったのである。

 元気とはいえ祖父も七十を越えている。憂いをくしておきたいと思うのはわかるが、こちらにはこちらの事情がある。

 まず、セシアの下腹部に残っている大きな傷痕の存在だ。傷は深く、長く歩いたり、何曲もダンスをしたりと少し体を使うとズキズキと傷口が痛むのだ。みにくい傷痕だから、誰にも見せたくない。それに、月のものが来るたびにもうずく。もしも自分が子どもを望めない体だったら……?

 それでなくてもこのけがは、大切な人の人生をせいにしたしようだ。自分だけが幸せになるなんてできない。

 社交界での一件をきっかけに、セシアは本格的にけつこんしなくてもいい人生を探すことにした。

 その準備として始めたのが、去年から祖父に協力してもらいつつもセシア主導でエルスターに工場をゆうすることだ。

 現在このバルティカ王国には、となりのロディニアていこくが周辺国のひとつであるレストリア王国にしんこうしたことで、大勢のレストリア系難民が流入している。さらにロディニア帝国はバルティカ王国との国境にあるリーズ半島へも侵攻、実に四年にわたる戦争がつい一年前に終結したばかりだ。そのせいでこの国は経済じようきようも治安も悪くなっている。

 セシアの生家、ドワーズ家が領主を務めているエルスターでも、難民流入や戦争のえいきようによる貧困問題への対応が急務だった。

 その解決方法として手っ取り早いのは、ようを作ることだ。

 王都の社交界に顔を出さなかった三年間、セシアは領地をくまなく見てまわり、集まりには顔を出し、領民の声を聞いてきた。収入がほしいのは領民たちも同じだ。セシアが目をつけたのは、ぼうせき工場だった。

 機械の登場でせんの大量生産、大量消費も可能になってきており、繊維は世界的にじゆようが高まっているのだ。かくてき少ない投資で始められるのもいい。

 ゆくゆくはその事業の収益で暮らしていけたらいいと思っている。そうすれば結婚しなくても生きていける。

 いずれ祖父がジョスランにドワーズ家のとくゆずれば、セシアが政略結婚させられるのは目に見えている。

 そうなる前に事業をどうに乗せたかったのだが、事業を始める前に結婚しなくてはならないらしい。

 ──困ったわね……。

 窓の外は初夏の光にあふれてまぶしいが、セシアの心はどんどん暗くしずんでいった。



 十八時過ぎ、セシアたちを乗せた列車はほぼ定刻通りに、王都にあるキルス中央駅へととうちやくした。

「ホテルに行く前にジョスランのところへ行くぞ」

 かいちゆう時計を見ながら祖父が言う。

「今からですか? この時間なら、タウンハウスにはいないのでは?」

 社交シーズンだからどこかの夜会に顔を出しているのではと暗に聞くと、

「今日到着することも、夕方のうちに顔を出すことも伝えてある。とにかくこれについて、ジョスランから話を聞かねばならん」

 祖父は手にしたアタッシェケースをかかげてみせた。

 なるほど、そういうことならしかたがない。駅前に手配してあった馬車に乗り、セシアたちはタウンハウスへと向かった。

 ドワーズ家のタウンハウスはセシアが生まれるより前にジョスランに譲られているため、セシアは一度も訪れたことがない。ジョスランがドワーズ家の人々のたいざいいやがるので、ドワーズ家の王都での滞在先はホテルなのだ。

 祖父は王都を訪れるたびにジョスランに会っているが、セシアがジョスランと会うのは何年ぶりだろうか。考えてみればジョスランとは祖父に金の無心にきた折にばったり出くわす程度で、きちんと話をするのは初めてのような気がする。

 夕方の王都を馬車が走る。窓から外を見ていると、王都がいかにはなやかな場所であるかがわかる。すれちがう馬車の中にかざった貴婦人を見かけ、ああこれからどこかで夜会があるのかしら……などと思いをせているうちに、ふとセシアは、幼いころのある夜を思い出した。

 あれは、六歳か、七歳か、その頃の出来事だったと思う。


「つまらないと思わない?」

 夏になると祖父と両親は社交のために王都に出かける。その間、セシアはエルスターでお留守番だ。

「わたしだけ仲間外れなの」

 一人ぼっちがさびしくてなかなかねむれない夜、セシアはよくクロードとおしゃべりをした。クロードは使用人の子どもで、セシアより五歳年上の男の子だ。長い銀色のかみの毛をひとつに束ね、き通る青いひとみを持ち、せんさいで整った顔立ちをしている。クロードの母親もぎんぱつに青い瞳をした美しい人で、セシアはこの二人がようせいの国からやってきたのではと思っていた時期がある。実際は、戦争で夫を亡くし、命からがらエルスターまでげてきたのだが。貧困院でふるえる身寄りのない母子をあわれに思い、セシアの母が使用人としてやとったのだ。

 しきの中に年の近い人間がほかにいないことから、クロードはセシアの子守を命じられたのだろう。でも当時のセシアはそうとは知らず、クロードがそばにいてくれるのは自分のことが好きだからと信じて疑わなかった。

 クロードはいつも優しくて、セシアのわがままにも根気よく付き合ってくれたからだ。

 今夜だって、こうして付き合ってくれている。本当は、ベッドに入ってからクロードを呼びつけることは禁止されており、大人にバレるとクロードがおこられる。でも、セシアの「眠れない」の一言に、クロードはけつけてくれた。

「大人になったら仲間に入れてもらえるよ。セシアはドワーズ家のれいじようなんだから。ほら、もう横になって。セシアがるまでそばにいてあげるから」

「本当? じゃあ、早く大人になりたい! そうしたらクロードといつしよとう会に行けるんでしょ? 舞踏会って、知ってる?」

 ベッドに横になり、クロードに布団をかけてもらう。

「知ってるよ。でも僕は貴族じゃないから、セシアと一緒に舞踏会へは行けないよ。それに大人になったら、こうしておしゃべりもできなくなる。立派なしゆくじよは、寂しいからってだれかにい寝してもらったりしないものだからね」

「えー!? そんなのいや! じゃあ、大人にならないわ。だからクロード、どこにも行かないでね」

 おどろいてひじをつき体を起こしたセシアに、まくらもとのクロードは微笑ほほえんだ。

「僕はどこにも行かないよ。セシアのそばにいる。セシアこそ、僕を追い出さないでね。僕には行くあてがないから」

「もちろんよ。当たり前でしょう? わたし、あなたを追い出したりなんてしないわ」

 何を言い出すのだと聞き返すと、クロードが安心したようにうなずいた。

「ありがとう、セシア」


「セシア、着いたぞ」

 物思いにふけっていたセシアの意識を引きもどしたのは、祖父の声だった。

 はっとなって目を上げると、馬車はいつの間にかいつけんのタウンハウスの前に着けられている。門に掲げられたどうつたからまったもんしようはドワーズ家のもの。

 祖父のエスコートで馬車を降り、ぎよしやが門を開く。そのまま中に進み祖父がドアのノッカーをたたくと、ほどなくして大きなドアが開かれた。

「やあ、父上。それにセシア。久しぶりだね。大きくなったなあ」

 むかえてくれたのはジョスラン・イル・ドワーズ、その人だった。

 長くびたくりいろの髪の毛を無造作に束ね、シャツは上のボタンを留めていないから胸元が丸見えだ。祖父や父と面差しが似ていることや、髪や目の色が自分と同じことから、血のつながりがあるのはちがいないが、祖父とえんになるのもなんだかわかる。祖父とジョスランの価値観には、大きなへだたりを感じるからだ。祖父は真夏でも服をくずすことはない。

「おまえは相変わらずのようだな、ジョスラン。そんなだらしない格好で人をむかえるものではない」

 祖父の小言にジョスランは軽くかたをすくめ、「まあ中へどうぞ」と二人を案内した。

 通されたのは応接間だ。三人そろって椅子いすに座る。

「まずは遠路はるばるようこそ、キルスへ。すぐにお茶を用意させましょう」

づかいはいい、用件が済めばすぐに出ていく。エルスターにマデリーの売買けいやく書が届いた。なんだ、これは? 金に困って領地を売ろうというわけじゃないだろうな?」

 祖父が手にしたアタッシェケースから一通のふうとうを取り出し、テーブルに置く。

 マデリーは祖父がジョスランに貸している土地の名前だ。

「まさか。マデリーの管理者が僕だと知った業者が、勝手に作成して送り付けたのかもしれませんね。僕なら飛びつくとでも思ったのでしょう。中を見ても?」

 断りを入れてから、ジョスランが封筒を手に取り中身を確認する。

「へえ、ずいぶんいい値段をつけていますね。あそこにはこれだけの価値があるのか」

「おまえの仕業ではないんだな?」

「僕はそこまで信用がありませんかね。確かに僕はりよ深いほうではありませんが、マデリーを売る気なら、契約書は僕あてに送るように手配しますよ。そこまでボンクラじゃない」

 念を押して確認する祖父に笑って答えながら中身を戻すと、ジョスランは封筒をテーブルの上に置いた。

「それならいい。では、この封筒はこちらで処分するぞ」

「ええ、どうぞ。何かのちがいでしょうからね」

 その時、応接間のドアが開いてワゴンを押したメイドと、ジョスランの妻カロリーナが姿を現した。

 りの深い顔立ちにハシバミ色の瞳、くせのある赤毛。セシアたちバルティカ人に比べてはだの色をしたカロリーナは、異国の大公のまごむすめなのだと聞いている。だが本当のところはわからない。素性がはっきりしない娘とのけつこんを祖父はまだ完全には許していない。たちが結婚したのは二年前だが、セシアがカロリーナに会うのは今日が初めてだった。

「気遣いは無用とのことですが、遠くから来た人間にお茶のひとつも出さないと思われるのも嫌なのでね。父上がぎらいしているカロリーナですが、この国の作法もだいぶ覚えました。お茶をれるのもずいぶん上達したんですよ」

 ジョスランに目でうながされ、慣れた手つきでカロリーナがお茶を淹れていく。その動作はよどみなく、セシアの目にも不自然ではなかった。

「ああそうだ、父上のために貴重なはちみつも手に入れたんです。おつかれですから、いかがですか? この茶葉に蜂蜜はよくあいます」

 ジョスランの目配せでカロリーナが、ワゴンの上から小さな容器を取り上げてみせた。

「……そういうことなら、いただこうか」

 祖父は甘いものが好きなのだ。

「セシアはどうする?」

「私はえんりよします。食事前ですし」

「はは、一人前に体形を気にするようになったのか」

 体形のことは言っていないのに、ジョスランに笑われて、セシアはむっとした。別に太ってはいないが、胸が大きいために太って見えることは気にしていた。

 ジョスランが二つのカップに蜂蜜を注ぎ、ひとつを祖父の前に置く。セシアの前にはカロリーナがカップを置いてくれた。

 給仕を終えると、カロリーナがメイドとともに部屋から出ていく。三人のじやをしないためだろう。

 祖父がカップを手に取るので、セシアもそれにならってカップに手を伸ばす。

 ジョスランと祖父がほぼ同時に口をつける。ねこじたのセシアはカップを手にしたまま、しばらくお茶を飲む祖父と叔父をながめていた。

 ジョスランがカップを置き、テーブルの上の封筒を手に取る。

「父上のために淹れたお茶ですから、遠慮せずどうぞ。カロリーナの淹れたお茶も悪くないでしょう?」

「そうだな」

 ジョスランの言葉に頷き、祖父がぐいぐいとお茶を飲む。

 セシアはその様子を不思議そうに見つめた。

 このお茶は淹れたてで、ぐいぐい飲めるほど冷めているわけではない。確かに外は暑く、セシア自身はのどかわきを覚えていたものの、祖父が熱いお茶を一気飲みするこうにはかんがある。いくら祖父が熱いものが平気な舌をしていたとしても、そもそもお茶をこんなふうに一気飲みするのはマナーはんだ。マナーに厳しい祖父が、こんなことをするはずがない。

 そうこうしているうちに、祖父がソーサーにカップを戻し、そのままうつむいてだまり込んでしまう。

 ──何か、おかしいわ。

 その姿に違和感を覚える。

 先ほどまで祖父はジョスランにいかりを向けていた。顔は上げて、ジョスランをにらんでいたはずだ。それなのにどうして、うつむいてしまうのだろう?

 セシアはカップを手にしたまま、じっとそんな祖父を見つめた。視界のすみで、ジョスランが封筒から中身を取り出して眺めている。

「ところでセシア、おまえは次のドワーズこうしやくが僕になることに異論はあるかい?」

 不意にジョスランが聞いてきたので、セシアは祖父から叔父へと視線を移した。

「いいえ」

 この国では相続人と血が近い男性から相続人になっていく。女性が相続人になることはほとんどない。祖父にはほかに息子むすこがいないから、ジョスランがぐのは順当といえた。

「おまえの目に僕はどう映っているんだろうね? ただのほうとうものかな」

「……何かお考えがあるのだとは思っております」

「ふん、よくしつけられているな。さすがかしこい兄上のまんの娘だけある」

 ジョスランが言葉とは裏腹に、小ばかにしたように言う。

「金は、め込むものじゃない。使ってこそ生きるというものなのに、どうしてそれがわからないんだろうな? これはづかいではないというのに、父上は二言目には『無駄遣いするな』だから、いやになるね」

 ジョスランの散財ぶりは祖父やしつから聞きおよんでいる。祖父がジョスランにしつこく生活態度を改めるよう求めていることも、それにジョスランが反発していることも。

「貴族にとっての財産とは、先祖から預かったもので、子孫にそのままわたすのが務めだと聞いております」

「おまえは本当に、兄上にそっくりだな。見た目じゃない、考え方がな。……そういえばセシアはまだ独身だったな。相手が見つからないようなら、しようかいしようか?」

「その必要はありません。自分の将来は自分で決めます」

 ニヤニヤしながら提案するジョスランにかちんときて、セシアはややきつい口調で言い返した。

「はは、その口調、まさにドワーズ家の娘って感じだな。古い価値観にしがみついて生きていくのもいいだろう。僕は好きじゃないけどね。まあ、何をするにしても金はいる。そうだろ?」

 同意を求められても、話の内容が見えないので答えようがない。

 ──結局この人が気になるのは、お金のことだけなのね……。

 うんざりしたセシアに構うことなく、ジョスランは封筒から出した書類をさっと祖父の前に差し出す。

「ところで父上、これは、大切な書類です。父上のサインを、いただけませんか?」

 ゆっくり区切るように言って、シャツの胸ポケットからペンを取り出し祖父の前に置く。

 セシアはそんなジョスランをいぶかしげに見つめた。何を言っているのだ、叔父は。先ほどこれは何かの手違いで送られたものだと言っていたではないか……。

 だがセシアの予想に反して祖父がペンを手に取る。

「おじい様?」

「セシア、黙りなさい」

 おどろいて声を上げたところをジョスランにするどく制止され、セシアは口をつぐんだ。

「父上、サインをください。ここですよ」

 ジョスランが立ち上がって祖父のかたわらに立ち、サインするべき場所を指さす。

 祖父の手がふるえる。

 最初は小刻みだった震えがどんどん大きくなることに、セシアは不安を覚えた。

「さあ……父上の名前を書くだけです」

「待って、叔父様。おじい様の様子が……!」

「黙れと言ったのが聞こえなかったか、セシア!」

「でも!」

 セシアは急いで立ち上がって祖父のそばに行くとひざをつき、その顔をのぞき込んだ。

「……!」

 うつむいたままの祖父の顔色がむらさきいろに近い。

「叔父様、おじい様がおかしいわ!」

「……くそ、早すぎる。だれか! 医者を呼んでくれ!」

 ジョスランも祖父の様子がおかしいことに気付いたらしく、あせったように大声を出す。誰かが室内を覗き込み、そのまま走り去る気配があった。

 そうしている間にも祖父の顔色はどんどん悪くなり、やがて口からあわきながら体を大きくかたむけた。

 ジョスランが支えようとするが支え切れず、祖父がゆかたおれ込む。

「おじい様! おじい様!!」

 セシアは床に倒れた祖父の体をさぶった。なぜ。どうして。さっきまでつうにしていたのに、顔色は今や完全に紫色になり、目の白い部分はじゆうけつして真っ赤になっていた。ごぶごぶと口から泡があふれ続け、祖父の体が大きくけいれんする。

「どういうことだ!」

 ジョスランがさけぶ。

 それからの数分間は、セシアにとってしようがい忘れられない、悪夢のような時間になった。

 タウンハウスの人間が早く医者を呼んでくれますようにと願いながら、セシアはジョスランとともに床に膝をつき、のたうち回る祖父を二人がかりで押さえ続けた。

 どれくらいそうしていただろう。おそらく、五分か、十分……そんなに長い時間ではない。

「おじい様……?」

 やがて痙攣はしずまり……。

「おじい様!?」

 セシアの呼びかけに、祖父はもう答えなかった。紫色に変色した顔に、見開かれた目は真っ赤に染まり、口元には吹き出した泡が筋となって垂れている。呼吸が苦しかったのだろう、のどもとをかきむしったためシャツのボタンはちぎれ、まるで誰かにおそわれたかのよう。

 りんとしたたたずまいしか知らないセシアにとって、それは世にもおそろしい姿だった。

 信じられなかった。

 思わず祖父のほおれる。

 まだ温かい。なのに、呼吸をしていない。

 ついさっきまでセシアのとなりにいて、いつも通りに会話を交わしていたのに。

 セシアのすみれいろひとみからぽろりとなみだがこぼれ落ちる。

「なんてこった……」

 すぐ近くで床に座り込んだままぼうぜんつぶやくジョスランに、セシアは目を向けた。

 ジョスランも驚きをかくせない様子ではある。だが、セシアは先ほどの祖父の異常な行動を覚えていた。お茶を一気飲みしたあと、ジョスランは「何かのちがい」と笑ってみせたマデリーの売買けいやく書を、祖父の前に置いて祖父にサインを求めた。手違いであればサインなんて必要がない。

 マデリーはもちろん、このタウンハウスもジョスランに「祖父が貸しあたえている」だけであり、名義は祖父である。祖父の資産を勝手にばいきやくすることはできない。必ず祖父のサインが必要になる。

 ジョスランは金に困っており、マデリーを売るつもりだったのだ。だから祖父にサインを求めた。祖父のもとに送られてきた売買契約書は本物。手違いは、ジョスランではなく祖父のもとに送られてきた点だろう。セシアはそう結論付けた。

様が、毒を入れたんでしょう!?」

 セシアは祖父の体に手を置いたまま、涙にれた目でジョスランをにらんだ。

「どうしてそうなる?」

 ジョスランがぎろりとセシアを見返す。

「だって、おかしいもの! お茶を飲むまでおじい様はなんともなかったわ。このお茶に毒が入っているのよ! あのはちみつがあやしいわ!」

 セシアはテーブルに残されているティーカップを指さした。

「毒だと? 言いがかりはよせ。自分の父親に毒を飲ませるわけがないだろうが」

「売るつもりだったからでしょう、マデリーを。その契約書は本物で、おじい様がじやだから毒を飲ませたのよ! だからサインを……サイン……!?」

 言いながらセシアは、ジョスランの行動がじゆんしていることに気付いて、混乱してきた。毒を飲ませて殺すつもりなら、サインなんて求めるだろうか……?

「ばかなことを言うな! 僕がそんなわかりやすい罪を犯すわけがないだろう? だいたい、待っていればドワーズ家の財産は僕のものになるんだぞ!?」

「だ、だったらどうして、今、おじい様にサインを求めたの! おかしいじゃない! それは何かの手違いと言ったくせに、おじい様にサインを求めたわ!」

 矛盾を無視してセシアが叫ぶと、

「へえ。僕が、父上にサインを要求したというしようは?」

 ジョスランが冷めた声で言い返す。

「……証拠?」

「証拠だよ。セシア、おまえは今、おくそくで話をしているんだよ。わかるかい? 証拠がなければ、何も事実だとは証明できないんだよ。おまえは何を証拠に、僕が父上にサインを求めたと?」

 ジョスランがセシアを睨んだまま立ち上がる。

「わ、私が見たわ……」

「見たという証拠は?」

 震えながら答えたセシアに、ジョスランが強い口調で問う。

「……っ。私が見たことは証拠にならないの!?」

 思わずセシアは叫び返した。

「客観的に、誰が見ても納得できる証拠なのか? 気のせいなのでは? それとも僕を犯人にしたいだけのきよげんである可能性は?」

「どうしてそんなこと……っ」

 ジョスランの言い草に、セシアが目つきを険しくする。

「まあいい、では客観的に証明してやろう。おまえはお茶に毒物が入っていると疑っているんだったな。蜂蜜があやしいと。僕のティーカップにも蜂蜜を入れたのは見たな? 父上は蜂蜜入りのお茶を飲んですぐに具合が悪くなった」

 そう言うと叔父は、自分自身のカップを持つと、ぐい、と飲み干した。

 空になったカップをわざわざセシアに見せたあとテーブルにもどし、ジョスランがかたをすくめる。

「……私のも飲んでみてください。口はつけてないわ」

 セシアが震える声で言うと、ジョスランはセシアのカップに手をばし、とっくに冷めたお茶を一気にあおった。

「見たか? 蜂蜜にもお茶にも問題がない。僕は無実だ。めったなことを言うな」

 カップを逆さまにしてって見せたあと、ジョスランがかくするように低い声で告げる。

「だいたい、僕が父上を殺すわけがない。借金へきのあるほうとう息子むすこを訪ねたら、その場で父親が亡くなりました? 明らかに僕が疑わしいじゃないか。中央広場のしば小屋ですらもう少しまともな筋書きを考えると思うね」

 うぐ、とセシアは返事にまる。

 だが、お茶を飲んでから祖父の様子がおかしくなったのはちがいないのだ。

 絶対に何かある。

 その場にいたのは、祖父、ジョスラン、セシアの三人。ジョスランとセシアの証言が食い違っているが、客観的に証明してくれる人はいない。

 何を証拠として出せば、祖父が叔父に殺されたかもしれないと証明できるのだろう。

 祖父は間違いなく飲んだお茶に反応して倒れた。けれど、それは蜂蜜でもお茶でもない。となると、カップだ。それは祖父のカップにのみ入れられていたのではないか?

 ジョスランが使用人を呼びつけ、部屋の片づけを指示する。

 ──おじい様のカップ!

 セシアはテーブルの上のカップに手を伸ばした。

 だが食器類はセシアが手に取る前に、ジョスランが回収してワゴンにせ、応接間に入ってきた使用人に引きわたす。

「カップを返して! しよういんめつを図ったわね」

 セシアはジョスランを睨んで叫んだ。

「証拠隠滅だと? さっき、すべてのお茶を飲んでみせた。この通り僕はなんともない」

 ジョスランが睨み返してくる。

「蜂蜜でもお茶でもなければカップに毒を入れたのよ! そうとしか思えないわ」

「仮にそうだとしても、こんなあからさまな方法で自分の父親を殺害するわけがないだろうが! おまえのもうげんに付き合っているひまはない」

 ジョスランがき捨てるように言い、背を向けて使用人たちに追加の指示を出す。部屋が片付けられ、祖父が運ばれる。

 確かにジョスランの言う通りだ。でもジョスランが何かしたのは間違いない。

 気持ちはあせるがどうすることもできず、セシアはきれいに片付けられていく部屋をただ見つめることしかできなかった。やがてやってきた医師が祖父の死を認め、ジョスランが祖父を運ぶための手配を始める。

 セシアはここにいても邪魔だからと、祖父とまるはずだったホテルに追いはらわれた。


 翌朝、セシアは荷ほどきをしていない荷物を持って、はんそう用のひつぎに納められた祖父、そして叔父夫妻とともにエルスター行きの列車に乗り込み、十八時過ぎ、定刻通りにエルスターの駅に降り立った。

 鉄道に乗る前に電報で知らせを入れておいたから、悲痛な面持ちのしつが何人かの男性使用人を引き連れてむかえてくれる。二人そろって出発したのは昨日のことなのに、こんなことになるなんてだれが予想しただろうか。

 二台の馬車に分かれて乗り込み、見慣れたエルスターの風景をぼんやりと見つめながらしきに向かう。

 屋敷に着くと、メイド頭のリンがセシアをきしめてくれた。リンはセシアが生まれるより前からいるメイドで、母親を早くに亡くしているセシアにとっては母親のような存在だ。そのリンの顔を見たたんにセシアは心のせきが切れてしまい、声を上げて泣き始めた。

 しつけは厳しく、時にはじんと思う指示も受けたものだが、祖父が早くに亡くした両親に代わりセシアをいつくしんでくれたことは間違いない。それがわかっているから、悲しくてしかたがない。

 屋敷の居間に入ると、ジョスランからのれんらくを受けて、祖父がこんにしていた弁護士に加え司祭の姿がすでにあった。そこにセシア、叔父夫婦、執事のトーマが加わる。

そうの流れですが、本日は屋敷でだん様にお別れをしたあと、明日、旦那様の棺を教会へ運んで一日安置し、いつぱんちようもんを受け付けます。明後日、礼拝を行い、ドワーズ家の墓地にまいそういたします。旦那様の遺言はその時に。埋葬後は再び屋敷に戻り近親者で会食を……」

「ちょっと待て。父上はすでに遺言を書いていたのか? そんなことは聞いていない!」

 トーマの説明をさえぎり、ジョスランが声を上げる。

「はい。少し前に。実は旦那様の心臓は年々弱ってきておりまして。もしもの時のことを考えていらっしゃったようです」

 トーマが悲しそうに言う。祖父の心臓が弱っていたなんて初耳だ。

「父上は心臓が悪かったのか? そう聞くと納得がいくな。うちでとつぜんたおれた時に、セシアには毒を飲ませたのだろうと言い切られたが、実際は興奮しすぎた父上の心臓がえ切れなかったんだろう。身内でなければじよく罪で警察にき出してやるところだ」

 ジョスランのするどい視線に、セシアは縮こまった。

 確かに毒を飲ませたと決めつけて、ジョスランをなじってしまった。決めつけるのは早計だったと思う。

 ──そういえばおじい様は、健康には気を付けているつもりだけれど、いつまでもそばにいてやれるわけではないとおっしゃっていたわ。私にけつこんを急がせたのも、心臓のことがあったからなのね。

 そしてセシアのとつぎ先を具体的につくろっている気配もあった。

 きっと遺言には、ドワーズ家をジョスランにゆずり、セシアにはいくらかの財産をぶんしてしかるべき人物と結婚させるようにとでも記されているのだろう。

 ──工場ゆうの話はどうなるのかしら。

 ジョスランが引きいだとしても、セシアを関わらせてはくれない気がする。彼はごうよくだから、利益になると思えばひとめするはずだし、利益にならないと判断すればこの話はなかったことになる。どちらにしても、セシアに許されているのは誰かの妻になる未来だけ。

 ズキリ、と右下腹部の傷口が痛む。この傷の存在は、誰にも知られたくない。


    ***


 その日から葬儀の日まで、セシアはトーマと二人で葬儀のための準備にほんそうした。新聞にほうせ、身内に手紙を書き、葬儀に必要なものをそろえる。その間、ジョスランは「この屋敷のルールには慣れていないのでね」と客人を決め込み、何もしなかった。

 腹が立ったが、祖父との最後の時間をジョスランとのいさかいであらてたくなかったため、セシアはを放置することにした。


 そして葬儀当日。

 セシアは母のしよう部屋から引っ張り出してきたふくで、葬儀に参列した。祖父は事故死した長男夫婦の部屋をそのまま残してくれており、母の衣装もそっくり残っていることは知っていた。喪服をどうしようか思案していたセシアに、「若奥様の喪服をお借りしてはいかがですか? おじようさまは、若奥様とそうサイズが変わらないように見えますから」と提案してきたのはリンだった。

 母の喪服にそでを通してみたところ、リンが言うようにサイズがぴったりだった。今はおくもおぼろげになってしまった母は、自分とほぼ同じ体形だったらしい。

「実は、わかだん様と結婚された時の婚礼衣装も残っているんですよ」

 そう言ってリンが見せてくれた純白のドレスはきちんと手入れがされており、こちらも着ようと思えば着られそうだ。

「これを着たお母様は、おきれいだったでしょうね」

「ええ。とても。若奥様も、お嬢様がこのドレスを着て嫁げばお喜びになるでしょう」

 使用人という立場だから、リンは強くセシアに結婚をすすめてくることはしないが、リンもまたセシアが結婚することを望んでいると知っている。

「……そうね」

 嫁ぐ気がないことを、セシアは誰にも打ち明けていない。

 絹でできたなめらかなドレスをでながら、セシアは、着ることがなくてもこの屋敷を出る時はこのドレスを持っていこうと決めた。

 母の喪服に身を包み、黒いベールをかぶって、祖父の葬儀に向かう。

 準備に奔走したものの、葬儀そのものは祖父がトーマに手順を指示していたこともあり、とどこおりなく進んでいった。まるで自分の死期をさとっていたかのような段取りのよさだ。

 それに、昨日一日は教会でいつぱんちようもんを受け付けたが、本当に多くの人が訪れてくれた。祖父が領民にしたわれていたことがわかる。それがほこらしい。だからこそ、とつぜんのお別れがとても悲しい。

 いつかはお別れの日が来ることはわかっていたけれど、こんなに早く、こんな形でお別れすることになるなんて思ってもみなかった。

 もう少しいつしよにいられると思っていた。

 もう少し、工場誘致のために力を貸してほしかった。

 きちんとどうに乗せて、自分には結婚以外の道がある、結婚しなくてもエルスターのために役立てるのだと祖父に示したかった。……祖父に認めてほしかった。

 祖父との日々が思い起こされる。両親亡きあと、さびしくないように祖父が気をつかってくれていたことを知っている。祖父にはゆうずうが利かない面もあるが、ちがいなくセシアを愛してくれていた。

 ──こんなことになるなんて……。

 祖父との思い出が次々と思い起こされ、セシアはベールの下で何度もなみだぬぐった。

 礼拝が終わり、棺が墓地へと運ばれる。棺とともに歩きながら、セシアはちらりと自分の前にいるジョスランを見た。彼は葬儀の準備をトーマとセシアに丸投げして、一切関わっていない。次のドワーズこうしやくはジョスランなのだから、祖父の葬儀を取り仕切るのはジョスランであるべきではないだろうか。しんみような顔をしているが、どうにもかんが拭えない。なんなのだろう……?

 たどり着いた墓地で最後のいのりをささげたあと、あらかじめってあった場所に棺を納め、参列者が花を供える。その上から土がかぶせられ、やがて祖父の棺は見えなくなった。

「では、ドワーズ侯爵モーリス様の遺言をここに発表します」

 埋葬が終わり、参列者が近親者のみになったところで、弁護士が祖父の遺言状を取り出しておもむろに広げた。


「次男ジョスランにたいしている財産はジョスランに相続させるものとし、それ以外のしやくふくめたドワーズ家のすべての財産は、まごむすめセシアに相続させるものとする。ただし自分の死後一か月以内にセシアが結婚している場合に限る」


「え……」

「なんだと?」

 セシアとジョスランが同時に声を上げる。

「なんだ、その遺言は。本当に父上が残したものなのか!?」

 ひったくる勢いでジョスランが弁護士の手から遺言状をうばい、目を落とす。

「……こんなばかな遺言があるか。僕は認めない……!」

 しかし書いてあることは弁護士が読み上げた通りなのだろう、ジョスランが遺言状をぐしゃぐしゃに丸めると地面にたたきつけた。

「ジョスラン様。それは旦那様へのぼうとくこうですよ」

 トーマがたしなめる。

「なぜ僕ではなくセシアが!? おかしいだろう。ドワーズ侯爵の息子むすこは僕一人だぞ!? セシアは孫だし、それに女だ!」

「女性であっても遺言で指名されていれば、家を継ぐことはできます。セシア様にはご結婚という条件がついておりますが……」

 げきこうしてるジョスランに、弁護士が冷静な声で答える。

「そうだ、結婚だ! おまえは独身で相手もいないんだったな!? ひと月以内に適当な人物を連れてきてそうけつこんなんてしてみろ、罪でうつたえてやる」

「そんな……」

 ジョスランに指を差され、セシアはこんわくしたような声を上げる。

「これからついとう式までの一か月はに服す期間だからな、セシアはしきから一歩も出るなよ! おまえあての面会には僕も同席する」

「ジョスラン様、セシア様へのかんしようが行き過ぎますと、逆にジョスラン様のお立場が悪くなりますよ。欠格事由という言葉をご存じですか?」

「けっかく……?」

 弁護士の言葉に、ジョスランがきょとんとする。

相続人や他の相続人に対して詐欺やきようはくなどを用いたり、危害を加えたりすると、相続人としての権利を失うおそれがあるのです。セシア様の行動を制限するために部屋から出さない、人との面会を許さないというのは十分、脅迫に当たります」

「……っ」

 ジョスランがセシアをにらむ。視線で人を殺せるのなら、セシアはこの一睨みで絶命していただろう。そう思わせるほどにくしみのこもった視線だった。

 セシアはそのおそろしさに、身動きが取れなくなる。

 ──この人は、本当に……?

 ずっと違和感があった。ジョスランに対する違和感。それがはっきりした。

 ジョスランは、祖父の死をなげいていないのだ。と、いうことは。

 ──やはり、おじい様は……!

 体の底からふるえが込み上げる。もしそうなら、絶対に許せない。とにかくだれかに相談しなければ。でも誰に? まずは目の前にいるトーマに。きっと相談に乗ってくれる。

「もし一か月以内にセシアがけつこんしなければ、ドワーズ家はどうなる? セシアの取り分は?」

 ジョスランがいかりをこらえながら弁護士にたずねる。

「その場合は、法の定め通りジョスラン様が相続人になります。遺言書には指定してありません」

「ふん……。では、セシアが結婚してドワーズ家をいだ場合、次の相続人は誰になる?」

「財産はセシア様が受け継ぐことになりますから、セシア様が指定しなければ、くんではなくセシア様に一番近いけつえん者になります。お子様がいらっしゃれば、お子様に。お子様がいらっしゃらない場合は、ジョスラン様に」

「……なるほど」

 ジョスランの視線が再びセシアに向く。

 セシアは強いいきどおりを込めた目でジョスランを睨み返した。そんなセシアにジョスランがいつしゆんだけひるんだような気がしたが、すぐに怒りを込めた眼差しで睨んできた。

「この国の相続の仕組みはよくわかった。行くぞ、カロリーナ。もう用はない」

「相続の手続きはモーリス様の追悼式しゆうりように開始いたします」

 するどく言い放ってさっさときびすを返すジョスランと、そんなジョスランにあわてたようについていくカロリーナに向け、弁護士が声をかける。

 あまりの出来事に、セシアはもう何も考えられなかった。

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