第一章 祖父の遺言①
大陸
窓の外を初夏の風景が飛ぶように過ぎていく。どこまでも続く穏やかな田園風景の中に、時々、農作業をしている人の姿が見える。空は
「そう
はす向かいに座る祖父がセシアに声をかける。
バルティカ王国の主要な都市を結ぶ急行列車内にて。一等客だけが利用できるラウンジに、ドワーズ侯爵と
早朝に始発駅を出た急行が大陸南東部にあるエルスターの駅で二人を乗せたのは、十時過ぎのこと。領地であるエルスターから王都キルスまでは約八時間の長旅である。
「おじい様、私が社交界を苦手に思っていることをお忘れなのですか?」
セシアは
「忘れてはおらんが、おまえももう二十二歳になる。今年こそは結婚相手を見つけてもらうぞ」
「もう二十二歳になるんだもの、今さら見つからないんじゃないかしら」
ふう、とセシアは
「ジョスランのことか。
祖父の言葉に、ピンときた。
この国では十八歳になる年の春に社交界デビューする。セシアも慣例通り十八歳で社交界にデビューしたが、最初のシーズンは叔父ジョスランのせいでさんざんだった。以来、一度も社交シーズンの王都に足を運んでいないし、事情を知る祖父も無理にセシアを王都に連れて行こうとはしなかった。
だが今年は去年までの言い分が通じず、「わしが選んだ男と結婚するのがいいか、自分で選んだ男と結婚するのがいいのか、決めなさい」と
養われている身である。貴族の娘は当主の決定に逆らえない。
そこでしぶしぶ、実に四年ぶりに社交シーズンの王都へと
「そう。要するに、私がこれから王都でお会いする方々は、おじい様のお眼鏡にかなっているというわけなのね。それは楽しみですこと」
祖父の言葉からすでに何人かお相手が選定されているらしいと知り、セシアは
「わしも七十を
セシアの祖父、ドワーズ侯爵であるモーリス・ラング・ドワーズは七十をいくつか越えて、
「人間、いつ何が起きるかは
祖父の
今から十三年前、セシアの両親は馬車の事故で亡くなっている。
「それなんだけれどね、おじい様。実は、結婚については考えていることがあるのよ……」
セシアは車窓から祖父に視線を
「
いい機会だから伝えようと意気込んだのだが、祖父はセシアの視線を
おそらく祖父も気が付いてはいるのだ。セシアに結婚する意思がないことを。けれど祖父はセシアを
「おじい様、私、結婚は……」
「この話は以上だ。おまえはドワーズ家の
言い
セシアは言葉を続けられず、ひとつ溜息をつくと再び窓の外に目を戻した。
今まで結婚の話を持ち出されるたびにのらりくらりとかわしてきたが、今回ばかりは難しそうだ。
──結婚なんてしたくないのに……。
セシアは、夏用のドレスの下に
おぞましい傷痕だ。セシア自身も目を背けたくなる、この傷は己の罪の
許される日など来ない。おまえだけ幸せになるな。この傷はそう語りかけている気がするのだ。だから、結婚なんて無理。
そして十八歳の春、セシアは慣例通り王都の社交界にデビューした。
王都キルスでは春から夏の終わりまでが社交シーズンだ。この間、国内の貴族たちは王都に集まり茶会や
結婚したいという気持ちはなかったが、将来のために交友関係は広げたい。そう思って臨んだ社交界デビューだったが、デビュタントとして過ごしたあの夏は本当にさんざんだった。
まず舞踏会に招待されない。これにはセシアだけでなく祖父も
わけがわからなくて落ち込んでいたところに、さる親切な令嬢がそっと近づいてきてその理由を教えてくれた。いわく、「ドワーズ家のジョスラン様は、人のお金を
父の弟であるジョスラン・イル・ドワーズは、祖父に
セシアにとってのジョスランは「血はつながっているが、ほぼ他人」という認識だった。
そのジョスランに関心を持たなかった自分も悪いかもしれないが、
翌年からセシアはジョスランを理由に、社交シーズンになっても王都に行かなかった。祖父も、ジョスランの行いが改められない限りは、セシアが社交界で誰からも相手にされないことはわかっていたのだろう。十九歳から二十一歳までの三年間は引きこもりを許してくれた。だが、今年はそれが許されなかった。
理由は、ジョスランが祖父から管理を任されている土地を、勝手に売ろうとしたからだ。土地の管理は叔父だが所有者は祖父であるため、売買
これを見た祖父は
元気とはいえ祖父も七十を越えている。憂いを
まず、セシアの下腹部に残っている大きな傷痕の存在だ。傷は深く、長く歩いたり、何曲もダンスをしたりと少し体を使うとズキズキと傷口が痛むのだ。
それでなくてもこのけがは、大切な人の人生を
社交界での一件をきっかけに、セシアは本格的に
その準備として始めたのが、去年から祖父に協力してもらいつつもセシア主導でエルスターに工場を
現在このバルティカ王国には、
セシアの生家、ドワーズ家が領主を務めているエルスターでも、難民流入や戦争の
その解決方法として手っ取り早いのは、
王都の社交界に顔を出さなかった三年間、セシアは領地をくまなく見てまわり、集まりには顔を出し、領民の声を聞いてきた。収入がほしいのは領民たちも同じだ。セシアが目をつけたのは、
機械の登場で
ゆくゆくはその事業の収益で暮らしていけたらいいと思っている。そうすれば結婚しなくても生きていける。
いずれ祖父がジョスランにドワーズ家の
そうなる前に事業を
──困ったわね……。
窓の外は初夏の光にあふれて
十八時過ぎ、セシアたちを乗せた列車はほぼ定刻通りに、王都にあるキルス中央駅へと
「ホテルに行く前にジョスランのところへ行くぞ」
「今からですか? この時間なら、タウンハウスにはいないのでは?」
社交シーズンだからどこかの夜会に顔を出しているのではと暗に聞くと、
「今日到着することも、夕方のうちに顔を出すことも伝えてある。とにかくこれについて、ジョスランから話を聞かねばならん」
祖父は手にしたアタッシェケースを
なるほど、そういうことならしかたがない。駅前に手配してあった馬車に乗り、セシアたちはタウンハウスへと向かった。
ドワーズ家のタウンハウスはセシアが生まれるより前にジョスランに譲られているため、セシアは一度も訪れたことがない。ジョスランがドワーズ家の人々の
祖父は王都を訪れるたびにジョスランに会っているが、セシアがジョスランと会うのは何年ぶりだろうか。考えてみればジョスランとは祖父に金の無心にきた折にばったり出くわす程度で、きちんと話をするのは初めてのような気がする。
夕方の王都を馬車が走る。窓から外を見ていると、王都がいかに
あれは、六歳か、七歳か、その頃の出来事だったと思う。
「つまらないと思わない?」
夏になると祖父と両親は社交のために王都に出かける。その間、セシアはエルスターでお留守番だ。
「わたしだけ仲間外れなの」
一人ぼっちが
クロードはいつも優しくて、セシアのわがままにも根気よく付き合ってくれたからだ。
今夜だって、こうして付き合ってくれている。本当は、ベッドに入ってからクロードを呼びつけることは禁止されており、大人にバレるとクロードが
「大人になったら仲間に入れてもらえるよ。セシアはドワーズ家の
「本当? じゃあ、早く大人になりたい! そうしたらクロードと
ベッドに横になり、クロードに布団をかけてもらう。
「知ってるよ。でも僕は貴族じゃないから、セシアと一緒に舞踏会へは行けないよ。それに大人になったら、こうしておしゃべりもできなくなる。立派な
「えー!? そんなのいや! じゃあ、大人にならないわ。だからクロード、どこにも行かないでね」
「僕はどこにも行かないよ。セシアのそばにいる。セシアこそ、僕を追い出さないでね。僕には行くあてがないから」
「もちろんよ。当たり前でしょう? わたし、あなたを追い出したりなんてしないわ」
何を言い出すのだと聞き返すと、クロードが安心したように
「ありがとう、セシア」
「セシア、着いたぞ」
物思いにふけっていたセシアの意識を引き
はっとなって目を上げると、馬車はいつの間にか
祖父のエスコートで馬車を降り、
「やあ、父上。それにセシア。久しぶりだね。大きくなったなあ」
長く
「おまえは相変わらずのようだな、ジョスラン。そんなだらしない格好で人を
祖父の小言にジョスランは軽く
通されたのは応接間だ。三人そろって
「まずは遠路はるばるようこそ、キルスへ。すぐにお茶を用意させましょう」
「
祖父が手にしたアタッシェケースから一通の
マデリーは祖父がジョスランに貸している土地の名前だ。
「まさか。マデリーの管理者が僕だと知った業者が、勝手に作成して送り付けたのかもしれませんね。僕なら飛びつくとでも思ったのでしょう。中を見ても?」
断りを入れてから、ジョスランが封筒を手に取り中身を確認する。
「へえ、ずいぶんいい値段をつけていますね。あそこにはこれだけの価値があるのか」
「おまえの仕業ではないんだな?」
「僕はそこまで信用がありませんかね。確かに僕は
念を押して確認する祖父に笑って答えながら中身を戻すと、ジョスランは封筒をテーブルの上に置いた。
「それならいい。では、この封筒はこちらで処分するぞ」
「ええ、どうぞ。何かの
その時、応接間のドアが開いてワゴンを押したメイドと、ジョスランの妻カロリーナが姿を現した。
「気遣いは無用とのことですが、遠くから来た人間にお茶のひとつも出さないと思われるのも嫌なのでね。父上が
ジョスランに目で
「ああそうだ、父上のために貴重な
ジョスランの目配せでカロリーナが、ワゴンの上から小さな容器を取り上げてみせた。
「……そういうことなら、いただこうか」
祖父は甘いものが好きなのだ。
「セシアはどうする?」
「私は
「はは、一人前に体形を気にするようになったのか」
体形のことは言っていないのに、ジョスランに笑われて、セシアはむっとした。別に太ってはいないが、胸が大きいために太って見えることは気にしていた。
ジョスランが二つのカップに蜂蜜を注ぎ、ひとつを祖父の前に置く。セシアの前にはカロリーナがカップを置いてくれた。
給仕を終えると、カロリーナがメイドとともに部屋から出ていく。三人の
祖父がカップを手に取るので、セシアもそれに
ジョスランと祖父がほぼ同時に口をつける。
ジョスランがカップを置き、テーブルの上の封筒を手に取る。
「父上のために淹れたお茶ですから、遠慮せずどうぞ。カロリーナの淹れたお茶も悪くないでしょう?」
「そうだな」
ジョスランの言葉に頷き、祖父がぐいぐいとお茶を飲む。
セシアはその様子を不思議そうに見つめた。
このお茶は淹れたてで、ぐいぐい飲めるほど冷めているわけではない。確かに外は暑く、セシア自身は
そうこうしているうちに、祖父がソーサーにカップを戻し、そのままうつむいて
──何か、おかしいわ。
その姿に違和感を覚える。
先ほどまで祖父はジョスランに
セシアはカップを手にしたまま、じっとそんな祖父を見つめた。視界の
「ところでセシア、おまえは次のドワーズ
不意にジョスランが聞いてきたので、セシアは祖父から叔父へと視線を移した。
「いいえ」
この国では
「おまえの目に僕はどう映っているんだろうね? ただの
「……何かお考えがあるのだとは思っております」
「ふん、よく
ジョスランが言葉とは裏腹に、小ばかにしたように言う。
「金は、
ジョスランの散財ぶりは祖父や
「貴族にとっての財産とは、先祖から預かったもので、子孫にそのまま
「おまえは本当に、兄上にそっくりだな。見た目じゃない、考え方がな。……そういえばセシアはまだ独身だったな。相手が見つからないようなら、
「その必要はありません。自分の将来は自分で決めます」
ニヤニヤしながら提案するジョスランにかちんときて、セシアはややきつい口調で言い返した。
「はは、その口調、まさにドワーズ家の娘って感じだな。古い価値観にしがみついて生きていくのもいいだろう。僕は好きじゃないけどね。まあ、何をするにしても金はいる。そうだろ?」
同意を求められても、話の内容が見えないので答えようがない。
──結局この人が気になるのは、お金のことだけなのね……。
うんざりしたセシアに構うことなく、ジョスランは封筒から出した書類をさっと祖父の前に差し出す。
「ところで父上、これは、大切な書類です。父上のサインを、いただけませんか?」
ゆっくり区切るように言って、シャツの胸ポケットからペンを取り出し祖父の前に置く。
セシアはそんなジョスランを
だがセシアの予想に反して祖父がペンを手に取る。
「おじい様?」
「セシア、黙りなさい」
「父上、サインをください。ここですよ」
ジョスランが立ち上がって祖父の
祖父の手が
最初は小刻みだった震えがどんどん大きくなることに、セシアは不安を覚えた。
「さあ……父上の名前を書くだけです」
「待って、叔父様。おじい様の様子が……!」
「黙れと言ったのが聞こえなかったか、セシア!」
「でも!」
セシアは急いで立ち上がって祖父のそばに行くと
「……!」
うつむいたままの祖父の顔色が
「叔父様、おじい様がおかしいわ!」
「……くそ、早すぎる。
ジョスランも祖父の様子がおかしいことに気付いたらしく、
そうしている間にも祖父の顔色はどんどん悪くなり、やがて口から
ジョスランが支えようとするが支え切れず、祖父が
「おじい様! おじい様!!」
セシアは床に倒れた祖父の体を
「どういうことだ!」
ジョスランが
それからの数分間は、セシアにとって
タウンハウスの人間が早く医者を呼んでくれますようにと願いながら、セシアはジョスランとともに床に膝をつき、のたうち回る祖父を二人がかりで押さえ続けた。
どれくらいそうしていただろう。おそらく、五分か、十分……そんなに長い時間ではない。
「おじい様……?」
やがて痙攣は
「おじい様!?」
セシアの呼びかけに、祖父はもう答えなかった。紫色に変色した顔に、見開かれた目は真っ赤に染まり、口元には吹き出した泡が筋となって垂れている。呼吸が苦しかったのだろう、
信じられなかった。
思わず祖父の
まだ温かい。なのに、呼吸をしていない。
ついさっきまでセシアの
セシアの
「なんてこった……」
すぐ近くで床に座り込んだまま
ジョスランも驚きを
マデリーはもちろん、このタウンハウスもジョスランに「祖父が貸し
ジョスランは金に困っており、マデリーを売るつもりだったのだ。だから祖父にサインを求めた。祖父のもとに送られてきた売買契約書は本物。手違いは、ジョスランではなく祖父のもとに送られてきた点だろう。セシアはそう結論付けた。
「
セシアは祖父の体に手を置いたまま、涙に
「どうしてそうなる?」
ジョスランがぎろりとセシアを見返す。
「だって、おかしいもの! お茶を飲むまでおじい様はなんともなかったわ。このお茶に毒が入っているのよ! あの
セシアはテーブルに残されているティーカップを指さした。
「毒だと? 言いがかりはよせ。自分の父親に毒を飲ませるわけがないだろうが」
「売るつもりだったからでしょう、マデリーを。その契約書は本物で、おじい様が
言いながらセシアは、ジョスランの行動が
「ばかなことを言うな! 僕がそんなわかりやすい罪を犯すわけがないだろう? だいたい、待っていればドワーズ家の財産は僕のものになるんだぞ!?」
「だ、だったらどうして、今、おじい様にサインを求めたの! おかしいじゃない! それは何かの手違いと言ったくせに、おじい様にサインを求めたわ!」
矛盾を無視してセシアが叫ぶと、
「へえ。僕が、父上にサインを要求したという
ジョスランが冷めた声で言い返す。
「……証拠?」
「証拠だよ。セシア、おまえは今、
ジョスランがセシアを睨んだまま立ち上がる。
「わ、私が見たわ……」
「見たという証拠は?」
震えながら答えたセシアに、ジョスランが強い口調で問う。
「……っ。私が見たことは証拠にならないの!?」
思わずセシアは叫び返した。
「客観的に、誰が見ても納得できる証拠なのか? 気のせいなのでは? それとも僕を犯人にしたいだけの
「どうしてそんなこと……っ」
ジョスランの言い草に、セシアが目つきを険しくする。
「まあいい、では客観的に証明してやろう。おまえはお茶に毒物が入っていると疑っているんだったな。蜂蜜があやしいと。僕のティーカップにも蜂蜜を入れたのは見たな? 父上は蜂蜜入りのお茶を飲んですぐに具合が悪くなった」
そう言うと叔父は、自分自身のカップを持つと、ぐい、と飲み干した。
空になったカップをわざわざセシアに見せたあとテーブルに
「……私のも飲んでみてください。口はつけてないわ」
セシアが震える声で言うと、ジョスランはセシアのカップに手を
「見たか? 蜂蜜にもお茶にも問題がない。僕は無実だ。めったなことを言うな」
カップを逆さまにして
「だいたい、僕が父上を殺すわけがない。借金
うぐ、とセシアは返事に
だが、お茶を飲んでから祖父の様子がおかしくなったのは
絶対に何かある。
その場にいたのは、祖父、ジョスラン、セシアの三人。ジョスランとセシアの証言が食い違っているが、客観的に証明してくれる人はいない。
何を証拠として出せば、祖父が叔父に殺されたかもしれないと証明できるのだろう。
祖父は間違いなく飲んだお茶に反応して倒れた。けれど、それは蜂蜜でもお茶でもない。となると、カップだ。それは祖父のカップにのみ入れられていたのではないか?
ジョスランが使用人を呼びつけ、部屋の片づけを指示する。
──おじい様のカップ!
セシアはテーブルの上のカップに手を伸ばした。
だが食器類はセシアが手に取る前に、ジョスランが回収してワゴンに
「カップを返して!
セシアはジョスランを睨んで叫んだ。
「証拠隠滅だと? さっき、すべてのお茶を飲んでみせた。この通り僕はなんともない」
ジョスランが睨み返してくる。
「蜂蜜でもお茶でもなければカップに毒を入れたのよ! そうとしか思えないわ」
「仮にそうだとしても、こんなあからさまな方法で自分の父親を殺害するわけがないだろうが! おまえの
ジョスランが
確かにジョスランの言う通りだ。でもジョスランが何かしたのは間違いない。
気持ちは
セシアはここにいても邪魔だからと、祖父と
翌朝、セシアは荷ほどきをしていない荷物を持って、
鉄道に乗る前に電報で知らせを入れておいたから、悲痛な面持ちの
二台の馬車に分かれて乗り込み、見慣れたエルスターの風景をぼんやりと見つめながら
屋敷に着くと、メイド頭のリンがセシアを
屋敷の居間に入ると、ジョスランからの
「
「ちょっと待て。父上はすでに遺言を書いていたのか? そんなことは聞いていない!」
トーマの説明を
「はい。少し前に。実は旦那様の心臓は年々弱ってきておりまして。もしもの時のことを考えていらっしゃったようです」
トーマが悲しそうに言う。祖父の心臓が弱っていたなんて初耳だ。
「父上は心臓が悪かったのか? そう聞くと納得がいくな。うちで
ジョスランの
確かに毒を飲ませたと決めつけて、ジョスランをなじってしまった。決めつけるのは早計だったと思う。
──そういえばおじい様は、健康には気を付けているつもりだけれど、いつまでもそばにいてやれるわけではないとおっしゃっていたわ。私に
そしてセシアの
きっと遺言には、ドワーズ家をジョスランに
──工場
ジョスランが引き
ズキリ、と右下腹部の傷口が痛む。この傷の存在は、誰にも知られたくない。
***
その日から葬儀の日まで、セシアはトーマと二人で葬儀のための準備に
腹が立ったが、祖父との最後の時間をジョスランとの
そして葬儀当日。
セシアは母の
母の喪服に
「実は、
そう言ってリンが見せてくれた純白のドレスはきちんと手入れがされており、こちらも着ようと思えば着られそうだ。
「これを着たお母様は、おきれいだったでしょうね」
「ええ。とても。若奥様も、お嬢様がこのドレスを着て嫁げばお喜びになるでしょう」
使用人という立場だから、リンは強くセシアに結婚をすすめてくることはしないが、リンもまたセシアが結婚することを望んでいると知っている。
「……そうね」
嫁ぐ気がないことを、セシアは誰にも打ち明けていない。
絹でできたなめらかなドレスを
母の喪服に身を包み、黒いベールをかぶって、祖父の葬儀に向かう。
準備に奔走したものの、葬儀そのものは祖父がトーマに手順を指示していたこともあり、
それに、昨日一日は教会で
いつかはお別れの日が来ることはわかっていたけれど、こんなに早く、こんな形でお別れすることになるなんて思ってもみなかった。
もう少し
もう少し、工場誘致のために力を貸してほしかった。
きちんと
祖父との日々が思い起こされる。両親亡きあと、
──こんなことになるなんて……。
祖父との思い出が次々と思い起こされ、セシアはベールの下で何度も
礼拝が終わり、棺が墓地へと運ばれる。棺とともに歩きながら、セシアはちらりと自分の前にいるジョスランを見た。彼は葬儀の準備をトーマとセシアに丸投げして、一切関わっていない。次のドワーズ
たどり着いた墓地で最後の
「では、ドワーズ侯爵モーリス様の遺言をここに発表します」
埋葬が終わり、参列者が近親者のみになったところで、弁護士が祖父の遺言状を取り出しておもむろに広げた。
「次男ジョスランに
「え……」
「なんだと?」
セシアとジョスランが同時に声を上げる。
「なんだ、その遺言は。本当に父上が残したものなのか!?」
ひったくる勢いでジョスランが弁護士の手から遺言状を
「……こんなばかな遺言があるか。僕は認めない……!」
しかし書いてあることは弁護士が読み上げた通りなのだろう、ジョスランが遺言状をぐしゃぐしゃに丸めると地面に
「ジョスラン様。それは旦那様への
トーマがたしなめる。
「なぜ僕ではなくセシアが!? おかしいだろう。ドワーズ侯爵の
「女性であっても遺言で指名されていれば、家を継ぐことはできます。セシア様にはご結婚という条件がついておりますが……」
「そうだ、結婚だ! おまえは独身で相手もいないんだったな!? ひと月以内に適当な人物を連れてきて
「そんな……」
ジョスランに指を差され、セシアは
「これから
「ジョスラン様、セシア様への
「けっかく……?」
弁護士の言葉に、ジョスランがきょとんとする。
「
「……っ」
ジョスランがセシアを
セシアはその
──この人は、本当に……?
ずっと違和感があった。ジョスランに対する違和感。それがはっきりした。
ジョスランは、祖父の死を
──やはり、おじい様は……!
体の底から
「もし一か月以内にセシアが
ジョスランが
「その場合は、法の定め通りジョスラン様が相続人になります。遺言書には指定してありません」
「ふん……。では、セシアが結婚してドワーズ家を
「財産はセシア様が受け継ぐことになりますから、セシア様が指定しなければ、
「……なるほど」
ジョスランの視線が再びセシアに向く。
セシアは強い
「この国の相続の仕組みはよくわかった。行くぞ、カロリーナ。もう用はない」
「相続の手続きはモーリス様の追悼式
あまりの出来事に、セシアはもう何も考えられなかった。
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