序章
大陸
バルティカ王国東部、グレンバー。そこにある東方軍司令部の
司令部を約一年ぶりに訪れたのは、体調の報告と今後の相談のためだった。
一呼吸おいてノックをすると、すぐに「入れ」という声。
「失礼します」
ドアを開けて中に入ると、大きな
「久しぶりだな、黒。相変わらず、何を考えているのかわからないツラだね」
「ご
黒と呼ばれた青年の
「けがの具合はどうだ? おまえがいないとやっぱり不便だよ。そろそろ復帰を願いたいところだが」
現在二十九歳のアレンが司令官として着任したのは、士官学校を卒業してすぐの九年前のこと。王族はお
リーズ半島はバルティカ王国東部にある小さな半島で、ずいぶん昔から
黒と呼ばれた青年がアレンの身代わりになって負傷したのが約一年前。生きているのが不思議なほどの大けがだった。その直後に両国は再び停戦の合意に至り、現在は
「その件ですが……。自分の
そう言いながら黒は、腰から下げていたサーベルを外すとアレンの机の上に置いた。
「なんのつもりだ?」
アレンが
「殿下から
「これをオレに返す意味がわかっているのか?」
「この一年、右腕の回復に努めてきましたが、残念ながらこれ以上は無理のようです。
工作員は、工作員になる時に死亡扱いになる。その代わり、軍は工作員の家族の生活を保障する。家族は人質だ。工作員が裏切らないための。そして工作員は自分から辞めることはできない。工作員が
「……。実は、フェルトンが
黒が置いたサーベルを眺めつつ、アレンが切り出す。
「フェルトンが?」
「よっぽどオレの決定が気に入らなかったんだな。例の試験薬のサンプルをいくつかと
アレンが
ジャン・フェルトンは、東方軍の軍事研究所にいる研究員の一人だ。リーズ半島で見つかった特殊な菌を利用した、新しいタイプの薬を開発中だったのだが、アレンが研究中止を言い
ただ、アレンも理由なく中止の指示を出したわけではない。
五年前、停戦協定を破って
この原因解明を任されたのがフェルトンだった。調査の結果、遺跡内部にびっしり生えているカビが作り出す毒素を
いろいろと問題が多い菌だが、人を操れるというのは
アレンの決定から数日内に
「フェルトンはもともと中央の研究
言いながら、かつて遺跡付近で
「まあな。だが、あれは
アレンが背もたれに体を預け、大きく息を
「これは完全にオレの落ち度だ。誰にも知られることなくフェルトンを確保したい。右腕が使えなくても、ネズミ
「最後?」
「これを最後に、おまえを内勤に切り
「お優しいですね。一生、
「だろう? オレ自身もそう思うよ。だからこの件を頼みたい。すでに何人かあとを追わせているが、フェルトンの足取りはさっぱりつかめない」
アレンがじっとこちらを見つめる。
「見つけたらどうしますか?」
追うだけなら、右腕を理由に断ることはできなそうだ。観念してアレンに次の句を
「すぐには殺すな。少し泳がせたい。……なあ黒、フェルトンは誰とつながりたいんだと思う?」
「アレン殿下を快く思っていませんから、ジェラール殿下でしょうか」
アレンと対立している異母兄の名を出す。
「うん。オレもそう思う。またとない機会だから二人を
何が「追うだけ」だ。あっさりととんでもないことを口にするアレンに、「この人はこういう人だった」ことを思い出した。
この国には二人の王子がいる。身分の低い
アレンが
「フェルトンを追うために、おまえに新しい名前をやるよ」
そのアレンが机の引き出しを開いて何かを取り出し、机の上に置いた。
目をやるとそれは一冊の軍人手帳だった。
自由に動く左手を
「ルイ・トレヴァー
「リーズ戦争で行方不明になっている男だ。部隊は橋の爆破で半島に取り残され、消息を絶っている。北部のトレヴァー
アレンから指令が出るたびに、実在する「誰か」になりすますことには慣れている。
今回は「ルイ・トレヴァー」になるらしい。
爆破された橋の向こうに取り残された人物と知り、黒は目を
「必要なものは用意してある。
アレンが机の上のサーベルを押してくる。
黒改めルイは、サーベルを手に取ると敬礼をし、司令官室をあとにした。
長い
だがこの任務が最後だという。どれくらい工作員をしていただろうかと
──今年で丸九年、だな……。
九年前のあの日、自分は第二王子
任務ごとに名前を変える。任務が終われば再び誰でもない「黒」に
貧困院で死にかけていた、異国出身の戦争難民である母と赤ん坊だった自分を引き取ってくれたのは、王国南東部エルスターのドワーズ家だ。母は祖国ではそこそこ
ドワーズ家はドワーズ
そして十五歳の冬。
十歳になったセシアが、
橋の手すりから身を乗り出したセシアが、足を
伸ばした手は
あの時のセシアの
セシアは仕えるべきドワーズ家の一人娘だが、自分にとっても大切な存在だ。生まれた時から知っていて、自分のことを兄のように
どれくらい下流にいっただろうか、
どうやって屋敷まで戻ったのかは覚えていない。
セシアはどうなっただろう。連れ帰った時、顔は真っ白で意識がなかった。このまま死んでしまうようなことになったらと思うと、
そしてその日の
また貧困院を
非情な仕打ちをしてきたドワーズ侯爵に対し、強い
いつか
貧困院にたどり着いて保護を求めた時の、「レストリア人か」と
もともと体が弱い母は貧困院の衛生的とはいえない
こんなところに長居はできない。出ていかなくては。そのためには金が必要だ。
仕事を探したが、異国から来た戦争難民に世間は甘くはなかった。
大陸の北で戦争が起きて難民が流れ込んだこの国では、そのせいで治安が悪くなったり、自国民が不利益をこうむったりした過去がある。そのために異国人や難民への風当たりは強い。そんな自分ができる仕事となると、低賃金の肉体労働しかなかった。
まずは駅で荷物運びをやった。大の男でも
ヤバイ荷物を運ばされるようになり、やがてその荷物を運ぶ人間を見張る側になり……、落ちるのはあっという間だった。
仕事の内容が変わるタイミングで、ナイフや
そうして手に入れたお金で母を貧困院から連れ出し、小さな部屋を借りた。清潔で、暖かい部屋だ。通いの家政婦も
生活の質は向上したが、それに反比例するように心は
ドワーズ侯爵への復讐心は胸の内にくすぶってはいたが、目の前のことに精いっぱいで将来のことなんて考えられない日々を過ごすうち、最終的には金さえもらえれば何でもやるゴロツキになり果てていた。
そんな自分の前に、今まで見たこともない金額の仕事が
しかも「仕事に出ている間、母親の
だが、作戦当日、仲間は自分を見捨てた。
どうやら初めから、アレン暗殺計画の「時間
自分の知る情報で
「このままだとおまえ、死んじゃうよ?」
ある日、様子を見に来たアレンがボロ
うるさい……、と、答えたかったが、もう声も出なかった。
「なあ、おまえ、本当の
外見で判断されるのが
「オレを殺そうとした連中、たぶんおまえの直接の雇い主だろうな、あいつらのもとにいた銀髪の女性をこちらで保護した。彼女、ものすごい美人だね。レストリア人ならいなくなっても
「このまま彼女を保護してやるよ。おまえの口の
にっこりとアレンが笑う。血液と
「そのかわり……、わかっているよな?」
オレを裏切ったら彼女の命はない。
言葉にしなくても、アレンの言いたいことは十分伝わった。
アレンの言葉に
母には、一人息子は死亡したとだけ伝えられたらしい。遺体を見ていないから信じないと言い切った母は現在、アレンがグレンバー
アレンへの忠誠心や思い入れは一切ない。それでもアレンに従うのは、母を守るためだ。
ドアを開けると、自分と同じ軍服姿の中肉中背の中年男性が、親しげな笑みを浮かべて
「やあ久しぶり。体の具合はどうだ?」
「元気ではありますが、
「そうか。残念だな」
「俺は今日からルイ・トレヴァー
「少尉とは。出世したもんだね」
スコットが感心したように頷く。彼のコードネームは「青」。ルイ同様、アレンの下にいる工作員の一人だ。もちろんスコットというのは
「身分証はアレン
スコットが机の引き出しを開けていろいろと机の上に並べる。
「殿下から聞いたと思うが、おまえに出された指示は『ジャン・フェルトンを追う』だ。つかまえる必要はない。できれば、フェルトンが誰かに試験薬を売り込むところまで見届けてくれ。その誰か……は、わかるな? だが、無理はするな」
灰色の
「これが終われば一生困らない金額の手当がもらえる。楽しい余生のためにも早まるなよ」
机の上に並べられたものを手に取りながら、ルイは笑った。
「そういやこの任務が終わったら、俺は内勤に切り
「おお、おれの仲間が増えるのか。
「知っていますよ。ところで、フェルトンの足取りはまったくわからないんですか?」
「今は社交シーズンだから、王都に営業に行ったんじゃないかと思うんだよ。フェルトン
スコットが
「では、王都に行ってみます」
ルイはそう言うとスコットに敬礼し、背を向けた。
部屋を出て、再び司令部の
しばらくはこのグレンバーともお別れだ。
***
東の果てのグレンバーから王都までは、十二時間の旅である。夜行列車を利用し、ルイは
今回の任務とは関係がないし、そこに行って何をするというわけでもない。セシアがいないことも知っている。現在、ドワーズ家のタウンハウスはセシアの
それでもタウンハウスを眺めに来るのは、エルスターにいた
最後こそひどい目に
今でもたまに、泣きたくなるほどの
あの事故がなければ、
だが、セシアとの関係は同じではいられなかっただろう。
セシアは侯爵家の一人娘で、自分はただの使用人。
時間がたったせいか、大人になったせいか、今は以前ほどドワーズ侯爵への
セシアが生まれた時から知っているのだ。その後が気にならないわけがない。
一命を取り留めたことはわかっている。近づくなと言われたが、一度だけエルスターを訪れ、顔見知りの使用人にセシアの現状を教えてもらったからだ。セシアに会うかと聞かれたが断ってすぐに帰った。すでにセシアに顔向けできないような仕事に手を染めており、
今も、会いたいとは思わない。幸せに暮らしている様子を感じ取れたらそれでいい。
あの事故から十二年。十五歳だった自分は二十七歳になった。十歳だったセシアは二十二歳になっている。貴族の娘の二十二歳は、まさに
そろそろ降りる停留所が近いな、と思いながら何気なく通りを眺めていた時だった。
見覚えのある人物が、行き交う人混みの中にいることに気付く。
ルイは
──あいつは……!
ひょろりとした
どこにいるかわからないと言われた標的があっさり見つかって
ルイは慌てて下車のベルを鳴らして路面電車を止め、停留所に飛び降りた。鞄を
──いない。どこだ?
あいつはさっき、路面電車の進行方向とは反対に向かって歩いていた。なら、こっちか。
あたりをつけて再び走り出す。
ルイは目を見開いた。
屋敷には見覚えがある。あるどころではない。念のためにと通用門に近づき、そこに
「どういうことだ……?」
ルイは、思わず
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