序章

 大陸れき一八九七年、五月じゆん

 バルティカ王国東部、グレンバー。そこにある東方軍司令部のうすぐらろうけ、司令官室の前で立ち止まる。軍服姿のくろかみの青年のことを気に留める者はいない。

 司令部を約一年ぶりに訪れたのは、体調の報告と今後の相談のためだった。

 一呼吸おいてノックをすると、すぐに「入れ」という声。

「失礼します」

 ドアを開けて中に入ると、大きなしつ机の向こう側、奥の椅子いすこしをかけて新聞をながめていた軍服姿の司令官が、青年に気付いて視線を上げる。

「久しぶりだな、黒。相変わらず、何を考えているのかわからないツラだね」

「ごしております、アレン殿でん

 黒と呼ばれた青年のあいさつに、アレンは新聞を雑にたたんで机に置き、向き直る。

「けがの具合はどうだ? おまえがいないとやっぱり不便だよ。そろそろ復帰を願いたいところだが」

 ぬれいろの髪の毛に真紅のひとみ、整った中性的な顔立ち。だまっているとせいこうな作りの人形のようにも見える彼の名はアレン・デイ・クレーメル。ここバルティカ王国の第二王子にして東方軍司令部の司令官だ。

 現在二十九歳のアレンが司令官として着任したのは、士官学校を卒業してすぐの九年前のこと。王族はおかざりのことも多いが、アレンは五年前に停戦協定を破ってしんこうしてきたロディニアていこくからリーズ半島をだつかんした、本物の若き司令官である。

 リーズ半島はバルティカ王国東部にある小さな半島で、ずいぶん昔からとなりのロディニア帝国と領有権をめぐって争ってきた場所だ。

 黒と呼ばれた青年がアレンの身代わりになって負傷したのが約一年前。生きているのが不思議なほどの大けがだった。その直後に両国は再び停戦の合意に至り、現在はへいおんを取りもどしつつある。

「その件ですが……。自分のみぎうではもう使い物になりません」

 そう言いながら黒は、腰から下げていたサーベルを外すとアレンの机の上に置いた。

「なんのつもりだ?」

 アレンがげんそうに黒を見る。

「殿下からたまわっていたものです。お返しします」

「これをオレに返す意味がわかっているのか?」

「この一年、右腕の回復に努めてきましたが、残念ながらこれ以上は無理のようです。あくりよくが弱く、細かい作業もできない。武器が使えない人間に工作員は務まりません。自分はどういうあつかいになっても構わないので、母のことはよろしくたのみます」

 工作員は、工作員になる時に死亡扱いになる。その代わり、軍は工作員の家族の生活を保障する。家族は人質だ。工作員が裏切らないための。そして工作員は自分から辞めることはできない。工作員がとくしゆ任務から解放されるのは、軍に使い物にならなくなったと判断された時のみだ。

「……。実は、フェルトンがげた。研究所につけていた見張りがのきみやられて病院送りになった」

 黒が置いたサーベルを眺めつつ、アレンが切り出す。

「フェルトンが?」

「よっぽどオレの決定が気に入らなかったんだな。例の試験薬のサンプルをいくつかときんを持って、行方ゆくえをくらましやがった」

 アレンがま忌ましげに言う。

 ジャン・フェルトンは、東方軍の軍事研究所にいる研究員の一人だ。リーズ半島で見つかった特殊な菌を利用した、新しいタイプの薬を開発中だったのだが、アレンが研究中止を言いわたしたことに相当な不満をいだいている、とは聞いていた。

 ただ、アレンも理由なく中止の指示を出したわけではない。

 五年前、停戦協定を破ってめ入ってきたロディニア帝国からリーズ半島をうばい返す作戦中、半島のうつそうとした森の中で未知のせきが見つかった。そしてこの遺跡付近で部隊の人間の様子がおかしくなる報告が次々と上がってきたのだ。いわく、「このあたりに近づくと、そのあと最初に聞いた人間の指示に従ってしまう」。

 この原因解明を任されたのがフェルトンだった。調査の結果、遺跡内部にびっしり生えているカビが作り出す毒素をせつしゆすると「最初に聞いた人間の指示に従う」が「摂取した人間はほぼちがいなく死亡する」、「効果の出方は人による」ことがわかった。だがこのカビは遺跡内部にしか存在せず、遺跡の外でばいようすると無毒化する。また、熱にも弱い。人を言いなりにする成分を作り出すには、いくつもの条件があるらしい。

 いろいろと問題が多い菌だが、人を操れるというのはりよく的だ。これを兵器として研究開発したいというしんせいが上がってきたのが、菌が見つかって半年後の二年ほど前のこと。一度は申請を認めたアレンだが、薬が完成に近づくにつれてねんふくらんできたらしく、四か月ほど前の今年の初め、フェルトンに対し薬の開発中止の決定を下した。その理由は二つ。一つは、特定の人物の指示ではなく「摂取後、最初に聞いた指示に従う」ということは、だれにでも悪用が可能であること。もう一つは、現在リーズ半島の領有権はバルティカ王国にあるが、今後、遺跡がロディニア帝国に奪われる可能性も否定できないことである。

 アレンの決定から数日内にくだんの遺跡はばくされ、フェルトンにも保有する研究材料をすべてする指示が下ったのだが……。

「フェルトンはもともと中央の研究せつに入りたがっていました。それがかなわずに東方軍に配属され、たいぐうの不満や中央へのあこがれを口にして周囲からけむたがられていた。そこにこの薬の開発を任され、うまくいけば中央にいけるかもと期待していたようです。完成間近で開発中止なんて、フェルトンでなくてもキレるでしょう」

 言いながら、かつて遺跡付近でりよにしたロディニア人兵士にとして人体実験をり返していたフェルトンを思い出す。あれは本当にむなくそが悪かった。

「まあな。だが、あれはあくの薬だ。もっと早くに中止の決定をするべきだった。フェルトンの逃げ足のあざやかさから、以前からとうそうを検討していたんだろう。……めんどうなことになったなあ」

 アレンが背もたれに体を預け、大きく息をく。

「これは完全にオレの落ち度だ。誰にも知られることなくフェルトンを確保したい。右腕が使えなくても、ネズミいつぴき追うくらいはできるだろう? これが最後の任務だ」

「最後?」

 いぶかしげに聞き返す黒にアレンがうなずく。

「これを最後に、おまえを内勤に切りえる。青が喜ぶぞ」

「お優しいですね。一生、かげいずり回ることになるのかと思っていたのに」

「だろう? オレ自身もそう思うよ。だからこの件を頼みたい。すでに何人かあとを追わせているが、フェルトンの足取りはさっぱりつかめない」

 アレンがじっとこちらを見つめる。

「見つけたらどうしますか?」

 追うだけなら、右腕を理由に断ることはできなそうだ。観念してアレンに次の句をうながす。

「すぐには殺すな。少し泳がせたい。……なあ黒、フェルトンは誰とつながりたいんだと思う?」

「アレン殿下を快く思っていませんから、ジェラール殿下でしょうか」

 アレンと対立している異母兄の名を出す。

「うん。オレもそう思う。またとない機会だから二人をけつたくさせてまとめて消そう。おまえはフェルトンを追い、兄上に近づけさせろ。そこまでが任務だ」

 何が「追うだけ」だ。あっさりととんでもないことを口にするアレンに、「この人はこういう人だった」ことを思い出した。

 うるわしい見た目とは裏腹に、アレンの性格はえげつないのだ。

 この国には二人の王子がいる。身分の低いちようから生まれた第一王子ジェラールと、身分が高いせいから生まれた第二王子アレン。王宮内にはこの二人のそれぞれにばつが作られている。そして派閥の対立をより激しくしているのが、「次期国王にふさわしい実績を作ったものに王位をゆずる」という国王の宣言だ。どちらを指名してもめるから自分たちで決めろ、というわけである。

 アレンがに司令官の仕事をしているのはそのためだ。もっとも、アレンが東方軍の司令官になったのは、兄ジェラールとその一派によるいやがらせ以外の何物でもない。

「フェルトンを追うために、おまえに新しい名前をやるよ」

 そのアレンが机の引き出しを開いて何かを取り出し、机の上に置いた。

 目をやるとそれは一冊の軍人手帳だった。

 自由に動く左手をばし、中を開くと、自分の写真。

「ルイ・トレヴァーしよう?」

「リーズ戦争で行方不明になっている男だ。部隊は橋の爆破で半島に取り残され、消息を絶っている。北部のトレヴァーしやくこんがい……まあ、愛人の子だよ。残っている記録を見る限りは、真面目な男だったようだ」

 アレンから指令が出るたびに、実在する「誰か」になりすますことには慣れている。

 今回は「ルイ・トレヴァー」になるらしい。

 爆破された橋の向こうに取り残された人物と知り、黒は目をせた。

 ゆいいつの退路だったかいきようの橋を爆破し、大勢のバルティカ人兵士を半島に置き去りにしてきたのはほかならぬ自分だ。アレンを逃がすために。

「必要なものは用意してある。くわしいことは青に聞いてくれ。……これは持っていけ。以上だ」

 アレンが机の上のサーベルを押してくる。

 黒改めルイは、サーベルを手に取ると敬礼をし、司令官室をあとにした。

 長いろうを歩きながら、ルイは「面倒なことになったな」と思った。手にんだサーベルですら持っていられないほど握力が落ちている。武器なんてもってのほか。この状態でフェルトンを追い、ジェラールにせつしよくさせなければならないとは。

 だがこの任務が最後だという。どれくらい工作員をしていただろうかとおくをたどってみる。

 ──今年で丸九年、だな……。

 九年前のあの日、自分は第二王子しゆうげき犯としてつかまり、「黒」というコードネームで呼ばれる「どこにも存在しない人間」になった。

 任務ごとに名前を変える。任務が終われば再び誰でもない「黒」にもどる。その繰り返し。


 あかぼうの時に引き取られたしきを追い出されたのは、十五歳の時。

 貧困院で死にかけていた、異国出身の戦争難民である母と赤ん坊だった自分を引き取ってくれたのは、王国南東部エルスターのドワーズ家だ。母は祖国ではそこそこゆうふくな家の生まれで、父は自分が生まれるより前に戦争で死んだと聞かされている。

 ドワーズ家はドワーズこうしやく、次期侯爵夫妻、その夫妻の一人ひとりむすめセシアの四人家族だった。そこで母は使用人として働き始め、自分も物心ついてからは屋敷の雑用のほかに、セシアの子守をしながら十五歳まで過ごした。

 そして十五歳の冬。

 十歳になったセシアが、あらしで増水した川を見に行こうと言い出したことがあった。増水した川は危ない。大人たちには近づくなと言われていた。でも、セシアはどうしても見たいと言う。セシアはだめと言っても聞いてくれる性格ではない。はなれて見るくらいならだいじようだろう、と見に行ってしまったのがよくなかった。

 橋の手すりから身を乗り出したセシアが、足をすべらせてしまったのだ。

 伸ばした手はかんいつぱつ間に合ったが、その手が滑ってしまい、セシアはだくりゆうに飲み込まれていった。

 あの時のセシアのすみれいろひとみが、今でもまぶたに焼きついている。

 セシアは仕えるべきドワーズ家の一人娘だが、自分にとっても大切な存在だ。生まれた時から知っていて、自分のことを兄のようにしたってくれる。だから必死でさがした。生きていてくれと願いながら。

 どれくらい下流にいっただろうか、まった流木にはさまれるようにしていているセシアを見つける否や、ためらうことなく冬の濁流に飛び込んだ。水をかきわけ、流木で傷だらけになりながら引き上げたセシアの腹部は真っ赤に染まり、大量の血が流れ出ていた。

 どうやって屋敷まで戻ったのかは覚えていない。

 セシアはどうなっただろう。連れ帰った時、顔は真っ白で意識がなかった。このまま死んでしまうようなことになったらと思うと、こわくてたまらなかった。どうして手を離してしまったのか。もっと強くつかんでいれば、セシアは川に落ちなくて済んだのに。どうして。

 そしてその日のよるおそく、ドワーズ侯爵に母ともども呼び出され、「セシアにけがをさせたばつだ。今すぐこのエルスターから出ていけ。ここへは近づくな」と告げられた。それなりにけがをしている自分へのはいりよは、まったくなかった。

 しつに促され母と二人、大急ぎで荷物をまとめ、屋敷を出た。使用人の一人に荷馬車で駅まで連れていってもらい、一晩駅にまって翌朝に鉄道で貧困院のある町まで移動した。

 また貧困院をたよることになるなんてね、と母が力なく笑う。戦争で焼け出され、着の身着のままさまよった過去を思い出しているのだろう。くやしくてたまらなかった。自分はともかく、どうして事故とは無関係の母まで追い出されなくてはならない? 異国人だから? 戦争難民だから?

 非情な仕打ちをしてきたドワーズ侯爵に対し、強いうらみの気持ちが芽生える。

 いつかふくしゆうしてやる。

 貧困院にたどり着いて保護を求めた時の、「レストリア人か」とつぶやいた院長のさげすむような顔を見た時にそうちかった。

 もともと体が弱い母は貧困院の衛生的とはいえないかんきようと、そこで出される貧しい食事にみるみる体調をくずしてしまった。母が健康でいられたのは、エルスターの屋敷にいたからこそだったのだ。

 こんなところに長居はできない。出ていかなくては。そのためには金が必要だ。

 仕事を探したが、異国から来た戦争難民に世間は甘くはなかった。

 大陸の北で戦争が起きて難民が流れ込んだこの国では、そのせいで治安が悪くなったり、自国民が不利益をこうむったりした過去がある。そのために異国人や難民への風当たりは強い。そんな自分ができる仕事となると、低賃金の肉体労働しかなかった。

 まずは駅で荷物運びをやった。大の男でもげ出すきつい仕事だが、お金が必要だったから歯を食いしばった。そんな自分に見どころがあると、ちがう仕事を持ちかけてきた男がいた。今よりまともなたいぐうになるならと飛びついた。それが転落の始まり。

 ヤバイ荷物を運ばされるようになり、やがてその荷物を運ぶ人間を見張る側になり……、落ちるのはあっという間だった。

 仕事の内容が変わるタイミングで、ナイフやじゆうあつかい方も教えてもらった。戦争に従軍していたという元兵士が「おまえは見どころがあるな」という程度には、得物の扱いが上達した。重たい荷物を運ぶよりナイフを使って人を言いなりにするほうが楽だし、金になる。

 そうして手に入れたお金で母を貧困院から連れ出し、小さな部屋を借りた。清潔で、暖かい部屋だ。通いの家政婦もやとえるようになった。

 生活の質は向上したが、それに反比例するように心はすさんでいった。そんな息子むすこを母はずっと心配していたが、仕事を失うわけにはいかない。生きていくには金が必要だからだ。

 ドワーズ侯爵への復讐心は胸の内にくすぶってはいたが、目の前のことに精いっぱいで将来のことなんて考えられない日々を過ごすうち、最終的には金さえもらえれば何でもやるゴロツキになり果てていた。

 そんな自分の前に、今まで見たこともない金額の仕事がい込んできた。十八歳の時だ。

 しかも「仕事に出ている間、母親のめんどうを見る。生活費はこちらで持つ」という破格の条件つき。標的は、士官学校を卒業し東方軍司令部に着任してくる第二王子アレン。彼を複数人で襲撃する。打ち合わせは綿密で、こうとうけいではなかった。いけると思った。母が人質に取られたと気付かないほどけではないが、金に目がくらんだ。

 だが、作戦当日、仲間は自分を見捨てた。

 どうやら初めから、アレン暗殺計画の「時間かせぎ」として使われる予定だったらしい。そうとわかったのは、あっさりつかまり雇い主をけとごうもんを受けるようになってからだった。

 自分の知る情報でらい主にたどり着くとは思わないが、口を割るわけにはいかない。母が人質に取られている。

「このままだとおまえ、死んじゃうよ?」

 ある日、様子を見に来たアレンがボロぞうきんのように転がっている自分に声をかけてきた。

 うるさい……、と、答えたかったが、もう声も出なかった。

「なあ、おまえ、本当のかみ色は銀色なんだな? 目も青い……レストリア人か?」

 外見で判断されるのがいやで、仕事を始めてからは髪の毛を黒色に染めていた。この国でぎんぱつめずらしいが、青い目は珍しくない。つかまっている間に髪の毛がびて、本来の色が現れてきたらしい。

「オレを殺そうとした連中、たぶんおまえの直接の雇い主だろうな、あいつらのもとにいた銀髪の女性をこちらで保護した。彼女、ものすごい美人だね。レストリア人ならいなくなってもだれも捜さないし、どんな扱いをしても誰からも文句は出ない。売られたらどうなっていたことか」

 ぼうぜんとする自分に対し、アレンが面白がるような視線を送ってくる。

「このまま彼女を保護してやるよ。おまえの口のかたさは素晴らしい武器だ。ナイフなんかよりずっとね。オレは、おまえみたいなやつを探してたんだ。おまえを切り捨てた連中に、おまえはもったいない。オレのために働けよ。そうすれば銀髪の彼女を助けてやる」

 にっこりとアレンが笑う。血液とぶつにまみれた犯罪者に見せるには、美しすぎる笑顔だった。

「そのかわり……、わかっているよな?」

 オレを裏切ったら彼女の命はない。

 言葉にしなくても、アレンの言いたいことは十分伝わった。

 アレンの言葉にうなずいたあの日からずっと、本名のクロードではなく「黒」というコードネームで呼ばれている。

 母には、一人息子は死亡したとだけ伝えられたらしい。遺体を見ていないから信じないと言い切った母は現在、アレンがグレンバーにんに際してこうにゆうしたしきの使用人として、住み込みで働いている。

 アレンへの忠誠心や思い入れは一切ない。それでもアレンに従うのは、母を守るためだ。


 ろうき当たりにある事務室のドアをノックすると、中から返事がある。

 ドアを開けると、自分と同じ軍服姿の中肉中背の中年男性が、親しげな笑みを浮かべてむかえてくれた。

「やあ久しぶり。体の具合はどうだ?」

「元気ではありますが、みぎうでだけはもどりませんでしたね」

「そうか。残念だな」

「俺は今日からルイ・トレヴァーしようだそうですよ、スコットたい

「少尉とは。出世したもんだね」

 スコットが感心したように頷く。彼のコードネームは「青」。ルイ同様、アレンの下にいる工作員の一人だ。もちろんスコットというのはめいである。本名は知らない。

「身分証はアレン殿でんからいただいたな? 階級章はこれ、あと経費せいきゆうの許可証。づかいはしないように」

 スコットが机の引き出しを開けていろいろと机の上に並べる。

「殿下から聞いたと思うが、おまえに出された指示は『ジャン・フェルトンを追う』だ。つかまえる必要はない。できれば、フェルトンが誰かに試験薬を売り込むところまで見届けてくれ。その誰か……は、わかるな? だが、無理はするな」

 灰色のひとみを向け、スコットが言う。

「これが終われば一生困らない金額の手当がもらえる。楽しい余生のためにも早まるなよ」

 机の上に並べられたものを手に取りながら、ルイは笑った。

「そういやこの任務が終わったら、俺は内勤に切りわるらしいですよ」

「おお、おれの仲間が増えるのか。かんげいするよ。アレン殿下の無茶りはキツイぞ」

「知っていますよ。ところで、フェルトンの足取りはまったくわからないんですか?」

「今は社交シーズンだから、王都に営業に行ったんじゃないかと思うんだよ。フェルトンだつそう直後に三人ほど追わせたんだが、今のところは誰からもなんのれんらくもない。王都も広いからね」

 スコットがかたをすくめる。

「では、王都に行ってみます」

 ルイはそう言うとスコットに敬礼し、背を向けた。

 部屋を出て、再び司令部のうすぐらい廊下にみ出す。

 しばらくはこのグレンバーともお別れだ。


    ***


 よくじつのキルス中央駅。

 東の果てのグレンバーから王都までは、十二時間の旅である。夜行列車を利用し、ルイはかばんひとつを持って朝の王都に降り立った。その足で王都をぐるりと一周している路面電車に乗る。ドワーズ家のタウンハウスを確認するためだ。

 今回の任務とは関係がないし、そこに行って何をするというわけでもない。セシアがいないことも知っている。現在、ドワーズ家のタウンハウスはセシアのが暮らしているため、ドワーズこうしやくとセシアが王都にたいざいする場合はホテルを利用する。タウンハウスをながめたところで、セシアを見かけることはまずない。

 それでもタウンハウスを眺めに来るのは、エルスターにいたころを思い出せるからだ。

 最後こそひどい目にったが、エルスターでの日々はおだやかで幸せだった。おてんばむすめだったセシアにせがまれ、よくいつしよに近所の森へ出かけたものだ。

 今でもたまに、泣きたくなるほどのきようしゆうられることがある。

 あの事故がなければ、きたない仕事に手を染めることもなく、名無しの誰かになることもなく、クロードとしてエルスターにいられたのだろうか。

 だが、セシアとの関係は同じではいられなかっただろう。

 セシアは侯爵家の一人娘で、自分はただの使用人。

 時間がたったせいか、大人になったせいか、今は以前ほどドワーズ侯爵へのにくしみは強くない。逆に心の中にとげのようにさり続けているのが、あの事故以来一度も会っていないセシアだ。

 セシアが生まれた時から知っているのだ。その後が気にならないわけがない。

 一命を取り留めたことはわかっている。近づくなと言われたが、一度だけエルスターを訪れ、顔見知りの使用人にセシアの現状を教えてもらったからだ。セシアに会うかと聞かれたが断ってすぐに帰った。すでにセシアに顔向けできないような仕事に手を染めており、よごれた自分を見られるのが嫌だったのだ。

 今も、会いたいとは思わない。幸せに暮らしている様子を感じ取れたらそれでいい。

 あの事故から十二年。十五歳だった自分は二十七歳になった。十歳だったセシアは二十二歳になっている。貴族の娘の二十二歳は、まさにけつこんてきれい。毎日のように新聞をチェックしてはセシアの婚約発表が出ていないか探しているが、今のところ、セシアの名前は見つけられていない。

 そろそろ降りる停留所が近いな、と思いながら何気なく通りを眺めていた時だった。

 見覚えのある人物が、行き交う人混みの中にいることに気付く。

 ルイはあわてて自分の前にいる乗客を押しのけ、窓の外をのぞいた。押された乗客が毒づくが、知ったことではない。

 ──あいつは……!

 ひょろりとしたたい、ぼさぼさの明るい茶色の髪の毛。病的なほど白いはだちがいない。何度か会ったことがあるから知っている。ジャン・フェルトン本人だ。

 どこにいるかわからないと言われた標的があっさり見つかっておどろいたが、とにかくあいつを追わなければ。

 ルイは慌てて下車のベルを鳴らして路面電車を止め、停留所に飛び降りた。鞄をかかえ直し、先ほどフェルトンを見かけたあたりまで戻る。

 ──いない。どこだ?

 あいつはさっき、路面電車の進行方向とは反対に向かって歩いていた。なら、こっちか。

 あたりをつけて再び走り出す。

 かんが当たり、見覚えのある背中が見えてきた。きよを保ってあとをつけていくと、やがていつけんの屋敷の前で立ち止まり、通用門のとびらを押し開く。

 ルイは目を見開いた。

 屋敷には見覚えがある。あるどころではない。念のためにと通用門に近づき、そこにかざられているレリーフを確認する。どうつたからまったもんしようは、ドワーズ家のもの。この建物は間違いなくドワーズ家のタウンハウスだ。

「どういうことだ……?」

 ルイは、思わずつぶやいた。

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