第10話 羊ヶ丘さんと怪人の筋トレ
玄関のドアを開けると、廊下のつきあたりにあるリビングのドアが開いていた。リビングの奥側にウルフガルムの姿が見え、私はいつものように声を張って帰宅を伝える。
「ただいまぁ」
ウルフガルムはベランダに面した窓の近くで、スクワットをしていた。彼は中断することなくリビングに入ってきた私を一瞥すると、テーブルの方を顎で示した。
「遅ぇよ。俺は先に喰ったからな」
テーブルの上には、豚肉のソテーがメインのワンプレートが準備されていた。
「うん。ご飯、ありがとう」
ウルフガルムは気が乗らないとき以外、こうして食事を作ってくれるようになった。相変わらず邪険に扱われるし、毛並みに触ることもなかなか許してもらえないけど、彼の不器用な優しさを垣間見られた気がして、嬉しい。
仕事で疲れた心は、それだけで簡単にほぐれてしまう。ほんと、ウルフガルムにちょろいなぁ、私。
隣の部屋で部屋着に着替えながら、今日の職場での出来事を思い出したら、自然とため息が出た。
「うちの上司、締め日ギリギリになって仕事回してくるんだもん。勘弁してほしいよぉ」
ぼやきながら戻ると、ウルフガルムが軽く嗤った。
「自分さえ間に合っていりゃ良いってクチなんだろ。猶予がある分、シャドウオーダーの幹部どもの方がマシかもな?」
その悪い笑みに内心きゅーんとしつつも、彼の言葉には少しだけ驚かされた。
まさか、ウルフガルムから身の上の鱗片を離してくれるなんて思わなかったから。
彼の言葉には、どこか懐かしさと皮肉が混じっているように感じられた。
「ふふ、そうかもね」
私の方から掘り下げるのはなんとなく気が引けて、軽いトーンで受け流す。
でも本当は、ウルフガルムのことをもっともっと知りたい。目の前に存在してくれているだけでもありがたいことなのに。人間の欲は深いなぁと思う。
彼の存在が私の日常に大きな意味を持たせてくれている……なんて、高尚なことを考えながら、私は着席して夕飯を食べ始めた。
ウルフガルムは筋トレを続けている。スクワットを終えた彼は、今度は床に横たわり、クランチを始めた。私は箸を動かしながら、自然と目が釘付けになってしまう。
彼の力強い動きに合わせて、黒い毛並みが揺れ動く。その下に隠れた筋肉が、動くたびに浮かび上がり、黒い毛を汗が伝う。
ご飯を持ち上げた箸を止めて、ほう、とため息が出てしまった。こんな近くで獣人の筋トレを見られるなんて。もう、幸せすぎてどうにかなりそう。ほんとに、ウルフガルムって私の理想を絵に描いたような獣人なんだもん。
あっ。いま、耳がぴるるって! カワイイ~~~っ!!
「おい。そのだらしねぇ顔を俺の視界に入れんな。集中できねぇだろうが」
「んんーー、ごめん。生理現象だから許して」
注意されたって、もちろん目を逸らさない。お茶碗の中に落下したご飯を箸で掴みなおしながら、私はもう一度うっとりとため息を吐いた。
「……ここに来てから、すっかり身体が鈍っちまった」
ふと、言い訳でもするかのように、彼が呟いた。
「前はどんなトレーニングしてたの?」
私の問いかけに、ウルフガルムは上半身をゆっくり2回上げ下げしてから答えてくれた。
「基地にトレーニングルームがあってな。派遣されるまでの時間潰しにはちょうど良い場所だったぜ」
彼の話に耳を傾けながら、私はその光景を想像してみた。大きな施設の中、怪人たちが汗を流しながらトレーニング機器を使って体を鍛えている姿だ。悪の組織らしからぬ健康的なイメージが出てきてしまって、危うく笑いそうになった。
関心の相槌を打つ私に、ウルフガルムはクランチをする合間に話を続けてくれる。
「集まるのはどいつもこいつも力自慢なヤツばっかりだったからな。毎日のように誰かが『最強なのは俺だ!』とか叫んで、取っ組み合いになってた。中にはトレーニングルームを半壊させて、上の奴らにしごかれた怪人もいた」
私はさらに想像する。大きさも容姿もさまざまな怪人たちが、壁はボロボロ、機具はグチャグチャのトレーニングルームを背景に、黒づくめの怪しい雰囲気を持ったボス(イメージ)にこっぴどく叱られている場面を。
「なに笑ってんだ」
こらえきれず吹き出してしまった私に、彼の呆れた視線が向けられる。
「ごめん、ごめん! その……それって本当に悪の組織なの? って思うような場面を想像しちゃって……なんか、賑やかなところだったんだなって」
ウルフガルムは一瞬だけ眉をひそめ、それから肩をすくめて皮肉を含んだ笑みを浮かべた。
「悪の組織、なぁ……? てめぇらが勝手に呼んでるだけだろ?」
「え……?」
「シャドウオーダーが
突然の告白に、私は目を瞬いた。
「それって……、」
どういう意味?
「ま、俺にはもう関係のない話だ」
ウルフガルムはそう言って、私が続きを促す前に話を切り上げてしまった。それ以上を話す気は無いとでも言うかのように。
だから、私も「そっか」とだけ返して、問い詰めることはしなかった。彼についてもっと知りたいとは思うけれど、無理に引き出すのは違うと思うから。
「ごちそうさまでした」
夕食を終えた私は、プッシュアップ中のウルフガルムの方へ居直った。食事をしながら閃いた、彼とのコミュニケーション……もとい、合法的にさわさわさせてもらう方法を実行するためである。
「ウルフガルム、良かったら筋トレ後にマッサージでも」
「断る」
速攻で断られた……悲しい。
「え、遠慮しないで! ほら、筋トレの後はマッサージで筋肉をほぐした方が良いって言うじゃん?」
「んなもん、自分でやったほうが早ぇ」
「でも、ほら! 疲れた身体にフレドルカをあげることもできるしっ」
「てめぇの下心は分かってんだよ」
「ん゛ん゛……!」
完全に見透かされてるー!
「べ、べつに、下心とかじゃ、ないけどぉ……?」
「目ぇ泳がせてんじゃねぇ」
どうやら私の企みは、ウルフガルムにバレバレのようだ。
「むぅ」
仕方ない。別のコミュニケーションを考えよう。そう思った時だった。
「どうしても手伝いてぇンなら、上に跨って負荷になれ」
「……えっ?」
一瞬、思考が止まった。
私の脳がウルフガルムの言った『跨って』という単語を把握するのに、時間がかかったのだ。
「ちょ、ちょっと待って、どういう意味?」
「あ? そのまんまの意味だ。お前が俺の背中に跨って、俺が腕の筋トレをする。お前の体重が負荷になる」
「……い、いいの?」
「てめぇが手伝いたいっつったんだろーが」
それはそうなんだけど。
「そんな風に言ってくれるの、はじめてだから」
「……」
ウルフガルムの動きが止まった。少しイラっとしたような視線が私の方へ向けられる。
「あ、いや、そのっ……嬉しいなって、思っただけ」
「……つべこべ言ってんな。さっさとしろ」
「は、はーいっ」
腕立て伏せの姿勢になったウルフガルムの背中を跨ぎ、肩甲骨のあたりに手を置く。モフモフの毛並み越しに彼の体温がじわりと伝わってきた。
「えっと、じゃあ、乗るよ……?」
「ああ」
「お、重かったら言ってね?」
「てめぇの体重ごときで音を上げてたまるか」
覚悟を決めて、体重をかける。ウルフガルムの身体が、わずかに強張った気がした。
「お、重い? 重いよね? 大丈夫?」
「やかましい。無いよりマシなくらいだ」
「そう? ぅわっ」
返事をするや否や、ウルフガルムは息をひとつ吸い込むと、ゆっくりと腕を曲げ始めた。そして一定の高さまで降りた身体は、今度は私の体重をものともせずに持ち上がっていく。
ウルフガルムの背中は、まるで鋼のように硬く引き締まっていた。上下するたびに上腕二頭筋が力強く盛り上がり、その筋肉の束に引っ張られるようにして肩甲骨が開閉を繰り返す。
そうして着実に鍛え上げられていくウルフガルムの肉体を、こんな特等席で見ていられるなんて。なんたるご褒美!!
「はぁぁ……しゅごい……」
もはや他に言葉は無かった。このまま天に召されても構わないくらいの充実感に満たされている。私の脳内は今この瞬間、ドーパミンとセロトニンとオキシトシンが一気に分泌され、幸せ一色であった。
さて。そんな至福の時間はあっという間に過ぎ、ウルフガルムはプッシュアップを終えた。
「――ぃ。……おい」
「……」
「おい。いつまで乗ってやがる」
「はぇ?」
「間抜けな声出してんじゃねぇ。さっさと降りねぇと振り落とすぞコラ」
トリップから戻らない私へ、ウルフガルムが相変わらずなドスの効いた声で脅しをかけてきた。彼の尻尾が私の背中を鬱陶し気にぺしぺしと叩いている。
「あっ。ごめん」
名残惜しいけど仕方ない。私はしぶしぶその大きな背中から降りた。
ウルフガルムは軽くストレッチをし終えると、
「まぁ、こんなもんだろ」
と言って、リビングテーブルに置いてあったコップの水を一気に煽った。
「……ふぅ。おい、先に風呂場使うからな」
「はーい、どうぞ。……あっ」
お風呂に向かう彼の背中に、淡い期待を込めてもう一度聞いてみる。
「ねぇ、お風呂上がりにマッサージし」
「こ・と・わ・る!!」
「う゛ん゛……!!」
またも撃沈した。そんな被せて言われちゃったら、さすがに引き下がるしかない。私はすごすごと夕飯の食器を片付けることにした。
「おい」
背後から声を掛けられたので振り向くと、ウルフガルムはまだリビングの入り口に立っていた。どうしたの、と私が口を開きかけるよりも先に、彼は言った。
「風呂から出たら、フレドルカの補給だ。いいな?」
「!?」
思わず自分の耳を疑った。どういう風の吹き回しなんだろう。
「あっ、うん! はいっ!! もちろん!! ぜひ!!」
「……ふん」
それだけ言って、ウルフガルムはお風呂場へと消えていった。
私はというと、その後姿を呆然と見送ることしかできなかった。だって、まさかウルフガルムの方からフレドルカを催促される日が来るなんて思ってなかったから。
「やばぁ……」
私、今日だけで一生分の幸せを使い切ったかもしれない――そう思いながら、お皿を洗う手が自然と浮ついてしまうのを、止めることができなかった。
羊ヶ丘さんちのオオカミ怪人 あたるまひの @atrmhn
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