ハングリー
祐里
来し方行く末
午後六時半、仕事帰りのおとなしめの服装で駅前の牛丼屋に入り、席に着いてスマートフォンをバッグから出すと夫に『わかった』とだけメッセージを送信する。来月二日と三日は北海道のマラソン大会に参加するからいない、その間に椅子とうさぎを取りに来い、だなんて。間もなく離婚する予定とはいえ、ずいぶん身勝手だと思う。
「牛丼の並ください」
「はい、かしこまりました」
しかし、夫に言われなくてもうさぎはなるべく早く迎えに行ってあげたい。夫もきちんと面倒を見てくれているとは思うが、真っ白でふわふわの長毛と真っ赤な目を持つかわいいうさぎは私に懐いているから、いないと寂しい。離婚することになり、不本意ながらも経済的な理由で実家に一旦引っ込んだ私にとって、唯一の癒やしになるはずだ。
「お待たせしました」
さすが、牛丼屋は注文したものが出てくるのが早い。ええと、これは……ああ、そうそう、着丼っていうんだよね、一分三十秒で着丼ってブログに書いたりするんだよね、などと考えながら割り箸をぱきりと二つに割る。縦にきれいに割れたのが気持ちいい。
「ううん、ちがうぅ。スパムはぁ、おにくじゃなくてぇ」
「Canned food, right?」(缶詰だよね?)
「缶? ううん、缶じゃないよぉ」
空席が少ない時間帯だというのに、この牛丼屋には私と店員以外に日本人が一名しかいない。他の客は全員、おそらく米軍基地に勤めているであろう米兵か米軍基地関係者だ。何だか噛み合っていそうでいない会話がおもしろくて、つい聞き入ってしまう。
「Hmm……you like a meat dish?」(んー、肉料理が好き?)
「ミート? 好きだけどぉ?」
体格の良い白人男性が、日本人女性に簡単な英語を使って話しかけている。よほど今夜の餌にしたいのだろう。この街は相変わらずだ。十年前、結婚と同時に出ていくまで暮らしていた、あの頃と同じ。人間の様々な欲を巻き込んだ黒い渦が暗黙のうちに許容され、経済を動かしている。
牛丼の味も変わらない。全国チェーン店だから同じにして然るべきなのだろうが、この茶色く煮込まれた具が、不動の安心感を私に与えてくれる。たまねぎが入っているから野菜も摂れるかな、さすがにそれは無理があるか、と考えていると、新たにお客さんが入ってきた。やはり白人男性だ。当然、店員は英語での注文にも慣れている。すんなりオーダーを通すと、また忙しく動き始めた。その
『いいよねぇ、
突然、同じ派遣社員として働いている女性に投げつけられた言葉を思い出す。本人は投げつけたつもりはないだろうが、私にとっては嫌な言葉だ。
『あたし、説明されてもわからないの。もう年なのね』
彼女の方が二歳年上というだけなのに、そんなことを言われても返答に困る。それに、たとえ年齢が障害になって与えられた資料や説明だけで仕事を覚えられなかったとしても、そこで努力しなければ給料を得られくなる可能性が高い。私たちの給料になるお金については『賃金』ではなく、消耗品の文房具購入と同じ出金伝票に記載されるものらしい。しかも、ハケンなどと蔑称に近い呼び方をされているのだから、いつ首を切られてもおかしくないのだ。私たちはハングリーにならざるを得ないはずなのに。
『伊坂さんはぁ、この仕事向いてると思う! がんばってね!』
無意味なレッテル貼りと無責任な励ましに、その時の私はうまく笑えていただろうか。ふと、箸が止まって口元がゆるんでいることに気付き、今笑っても仕方ないのにと、自嘲の歪みに変わる。
『でも、実家にいるんだもんね。やめても平気っていいよねぇ』
そんなわけあるかと、今度は内心で憤慨する。私が結婚して出ていった時に、いかにもせいせいしたという顔で見送った両親の元など、一刻も早く出ていきたいのだ。それに、離婚届にも必要事項を書き込んであるためもう会うことはないと思うが、夫に一泡吹かせたいという気持ちもある。常に私を見下していた性格の悪い男を、充実した優雅な一人暮らしを手に入れたうえでこちらから見下してやりたい。なんて性格が悪いのだろう。
半分ほど牛丼を食べ進めたところで、噛み合わない会話をしていた日本人女性と白人男性がいちゃいちゃしながら店を出ていった。これからどうするのだろう、このあたりのラブホテルは古いのが一軒しかないんだけど、と余計な心配をしてしまう。
牛丼はあと二口か三口分くらい、さあラストスパートだと懸命に箸を動かしていると、『今日は外食するって言ってましたっけ?』と、二週間前に友人が飲み会に連れてきた男性からメッセージが入った。『うん、牛丼食べてる。家だと肉が出てこないから』と返信し、少し待つとまたその返信が入る。
『俺も昨日は牛丼でしたよ』
『そうなんだ。特盛?』
『いえ、大盛りです。特盛はさすがに無理ですね。高校生の頃はいけたけど』
『私にとっては特盛も大盛りも高校生も二十六歳も同じだよ』
『ひどい! あなたがそんなこと言う人だったなんて!』
『何それちょっとおもしろかったんだけど今牛丼屋で一人だからやめて』
一人なのにまた口元がゆるんでしまい、慌てて真顔に戻す。彼は十歳も年下なのに、何だか気が合うのだ。
『それはよかったですね。ご褒美に、今度そちらに行くんで、服買うの付き合ってくださいよ』
『いや、よくはないね。付き合うのはいいけどどうせチャラい服なんでしょ?』
『そうですよ。嫌いですか?』
『服なんて本人に似合ってれば何でもいいと思う』
『ですよね。俺も、
スマートフォンを操作する左手が止まる。どういう意味だろう。ひとまず適当にあしらっておけばいいと判断し、メッセージを打ち込む。
『アイスコーヒーにガムシロップ一個とミルク二個入れる女だけど?』
アイスコーヒーが好きで、外食時によく頼んでいた私がガムシロップ一個とポーションミルク二個を入れると夫が眉根を寄せていたのを思い出し、「チッ」と小さな舌打ちが漏れてしまった。自分から話題に出したのに、ひどい性格だ。ただ、今メッセージをやり取りしている相手はそんなことはどうでもいいようで、『へー、そうなんだ。覚えておきますよ』などと気の抜けた返信が入った。
『ありがと。で、いつ来るの?』
『都合のいい日が五月二日なんですけど、大丈夫ですか?』
まずい、二日は実家の車を借りてうさぎを迎えにいこうと思っていた日だ。どうしようと目の前の丼に視線を落とすが、ご飯粒一つない完食済みの丼は答えを返してくれない。
小さなレジで感じの良い店員を相手に会計を済ませてから牛丼屋を出ると、私はペデストリアンデッキに上がった。大きな交差点を横切り、タバコ屋の店先のスモーキングスタンドへと向かう。いつもはサラリーマンが数人いるそこには誰の姿もなく、スモーキングスタンドの隣を陣取ってバッグから出した細いメンソールに火を点けた。
『ごめん、二日はうさぎを迎えに行く日だから付き合えないんだ。残念だけど一人で行って』
『それなら別の日で。いつがいいですか? 俺は次の日の三日でもいいですよ』
『あ、その日は大丈夫』
服くらい一人で買いにいけばいいのにとは思う。でも、交通量の多い駅前の交差点に少し色がついたように見えるのはきっと、感情の変化のせいだ。私はそれを無視できない。
『そうですか、よかった。ところでもう離婚成立しましたか?』
『まだだけど、たぶん明後日成立するはず。夫がその日に実家に行って親にサインもらうって言ってたから』
『わかりました。じゃあ、待ち合わせは十時で、この間の飲み会の時と同じ場所でいいですか?』
『うん、大丈夫だよ』
離婚の成立について確認されたことで、更に私の視界が色付いた。街はもうすっかり夜の顔を見せていて、立ち並ぶ店の明るい看板の間にも黒い闇が漂っているというのに。
『楽しみですね』
『きっと楽しいとは思うけど、服なんて一人で買いにいってもいいんじゃない?』
闇の隙間を、私のタバコの仄白い煙がすり抜ける。
『相性がいいか確認したいんですよ』
『相性? それならけっこういいと思うよ』
『まあ、いろいろ。帰りが遅くなってもいいように車で行きますね』
『わかった』
そっけない返答をして、私は短くなったタバコをスモーキングスタンドに押し付けた。
こうして人は欲望を吐き出し、黒い渦に飲み込まれていくのだろうか。そうして社会が回る原動力になっていくのだろうか。静かに、でも確実に、色付いていくこの世界で。
来し方の、牛丼屋の看板の食欲をそそるというオレンジ色が、黒い闇を縫ってハングリーな私の目に明るく飛び込んできた。
ハングリー 祐里 @yukie_miumiu
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