真新しい靴がステップ

吉岡梅

小雨ステップ

 4月。街の通りにも建物の中にも次第に春の息吹が行きわたってゆく始まりの季節。小雨こさめは100均の棚で、真新しい靴を見つけた。その靴は浮きたつ店内の賑わいとは裏腹に、静かに棚の隅にちょこん、と佇んでいた。まるで小雨を待っていたかのようだ。ふと、そんな考えが頭によぎったが、軽く首を振った。


 シンプルなデザインの室内履きのサンダル。売れそびれの新古品というわけではなくで綺麗だ。だが、どこか違和感がある。なぜ一足だけこんな隅に置いてあるのだろう。少し離れた棚には、同じようなサンダルが賑やかに並んでいるのに。


 良くわからないが、この店ではそういうルールなのだろうか。店はもちろん、この街にも馴染んでいない小雨にはわからなかった。だが、その答えは目の前にぶらさがっていた。


 「わけあり品コーナー」。棚にはそう書かれた札が下がっていた。そう言われてみてみると、サンダルの左右の色味が、少々不揃いなようだ。


 わけあり。わけありか。ちょうどベランダで履くサンダルを買おうかどうか迷っていたところだ。後でホームセンターに寄ったときに探すつもりだったが、100均にあったのは正直言って助かる。それに、一緒だ。小雨はサンダルを手に取った。


 すると、どこか不思議な感覚に襲われた。なにか気を使っているような。私でいいんですか。そんな声が聞こえたような気がした。いいんですよ。よろしく。小雨は誰にも気づかれないように、ちょっとだけひざを折った。


##


 日が傾いたころに部屋に着くと、まだ何もない空間が小雨を出迎えた。壁は白く、床は硬く、妙に響く足音はどこかよそよそしい。靴をそっと床に置き、部屋の明かりをつけようとして、やめた。


 カーテンくらい買ってくれば良かったかな。これではちょっと、丸見えだ。暗がりの中、明かりのついた部屋はまるでスポットライトを浴びたステージのように目立ってしまうだろう。


 それだけなら、まだいい。いや、良くないがちょっと恥ずかしいだけだ。だが、布団も敷かず、何もない部屋の中で寝袋ひとつで寝ている姿を見られたら、恥ずかしいだけでは済まずに訝しがられるに違いない。あの引っ越してきた子、なんなの。ひょっとして刑事の張り込み? などと悪目立ちしてしまうかもしれない。なんにせよ、目立つのは嫌だ。


 でも、大丈夫。ここは3階だし周りは平屋の建物しかない。覗かれる心配はないだろう。たぶん。自分で自分を説得すると、ぽん、とひとつ寝袋を叩いた。


「最初の給料が出るまで節約しなくちゃね」


 わざと声に出してうんうんと頷く。雨風がしのげる屋根のついた場所で眠れさえすれば上出来。さらにここには電気も水道もある。贅沢だ。なにより、住所があるから仕事も探せる。


 持ち出せたお金は心もとなく、持ってこれたのは寝袋と着替えだけ。頼るよすがは無くて、あったとしても頼りたくはない。やっていくのだ。ひとりで。小雨はぐぐっとこぶしを握る。


「それにしてもなあ」


 寝袋にくるまり、ちらりと横を見るとサンダル。今日はあれしか買えなかった。いろいろ欲しいものはあったけれど、値段だとか、一人で運べる大きさだとか、そういうものが気になっておろおろしてしまって選べなかった。握ったこぶしも呆れてる。優柔不断さとは長い付き合いだけれども、いまだにうまくやっていけていない。


 そういえば以前、佐和さわに言われたことがある。「小雨って、ししおどしみたいにものごと決めるよね」と。普段はぼんやりしていて周りが何を言っても全然響かないのに、突然カコーンと音を立てて皆がザワつくような大胆な決断をするらしい。


 自分としては、突然、というつもりはないのだけど、言われてみると覚えがある。多分わたしの決断はゲージ制になっているのだ。迷うごとにししおどしに水が流れゆくがごとく、ちょっとずつ決断ポイントが溜まっていくのだ。そして1ゲージ溜まると一気に必殺技が出せるタイプなんだろう。今回の決断は、いっぺんに3ゲージくらい使ったようなものかもしれない。


 確かに、コップひとつを買うのに迷って迷って結局あきらめて帰って来たやつがする決断ではない。我ながら。


 落ち着いたら佐和に連絡しなくては。でも、どうやって。スマホは無いし、手紙? 手紙ってどうやって出すんだっけ。郵便局? どこだっけ。調べなくちゃなあ。できるかなあ、いやいやできるでしょそれくらい。というか、やらなくちゃ。他に誰もいないんだし、やるしかないんだ。自分で。できるのかな、でも、いやそんな事じゃ……


##


 目が覚めると、遮るもののない窓からは月の明かりが差し込んでいた。うとうとしながらそのまま眠ってしまっていたらしい。しんと静まり返った部屋を月だけが満たしている。小雨がころんと寝返りを打つと、靴が目に入った。


 靴は心ゆくまで月を浴び、ゆっくりと目を覚ましたようだった。小雨は慌てて目を瞑る。靴がそろり、そろり、と小雨の様子をうかがう気配がする。しばしの沈黙。そして、おずおずと動き始めた気配がする。


 薄目を開けてみると、靴はこつん、と片方の足を踏み出して、そして戻した。しばらくその動きを繰り返すと、今度は逆の足。最初は小さく踏み出しては戻していたが、だんだんとその動きは大きくなる。遂には部屋の中をぎこちなく歩き回りだした。


 靴の動きは徐々に軽快になっていく。まるで音楽に合わせてステップを踏んでいるかのように、軽やかに動き始めた。左足がわけありなのか、ちょっと裏拍気味になっている。独特だけど、一定のリズム。


 棚から解放された靴は、ついに踊り出した。軽やかな、しかし、不器用なステップ。くるんと軽快な1回転。小雨入りの寝袋しかないステージなのに、まるで自分が世界で一番のダンサーであるかのように駆けている。堂々と、誰に見られるでもなく、一足で。


 すごい。踊ってる。小雨は驚きながらも靴の動きに魅了された。何もないのに、誰もいないのに。助走を付けてぴょんと飛び上がって足を広げ、打ち鳴らす。不揃いな模様が月の明かりに照らされてきらきらと輝く。なんて楽しそう。いつの間にか小雨は立ち上がっていた。


 靴は驚いたように動きを止めたが、かかとを揃えて小雨の方を向くと、少しだけ左足を後ろに下げた。小雨も、しわくちゃのワンピースの裾を軽く持ち上げて、膝を軽く折った。


 靴と小雨は一緒に踊る。寝袋と月明りだけが見ている舞台で。不格好で、たどたどしいけど止まらないステップ。右、左、左。軽快なリズムで、弾むように。


 時にを踏み、転びかけてそれでも踊る。踊るしか無くて、踊る、踊る。踊れている。他の人たちは見えなくて自分たちだけで、ひょっとしたら皆はもうずっと先まで行ってしまっているのかもしれない。けど、それでも踊る。テンポについて行くのが大変で、息がちょっと苦しい。待って、と言いたいけど曲はゆく川の流れのように流れ続ける。だから踊る。踊るしか無くて踊る。自分の足で。踊らされてるのか踊っているのかは定かでないけど、でも踊る。踊っているんだ。楽しい。楽しくて楽しくて、新しいステップはちょっと不安で難しくて、だけど踊る。そう、踊るのって、とどのつまり楽しいんだ。


 靴と小雨は並んで床を踏み鳴らし、くるりと1回転してぱっと大きく両手を広げる。そして向かい合って、軽く片足を引いた。


##


 目が覚めると小雨は寝袋の中だった。やってしまった。がばと起き上がって速攻でワンピースを脱いだ。手の中のそれはシワシワだ。あー……、と天を仰ぐ途中で窓越しの青空を目にし、慌てて死角にかけこんだ。と、何かを蹴飛ばした。


 あ。部屋の隅にはワンピースを抱えた小雨とサンダルの左足。失礼しました。頭を下げると、いえいえ、お構いなく、とサンダルの右足が微笑んだ気がした。左はどう思っているのだろう。小雨はサンダルをきちんと揃えると、速攻でスウェットとパーカーを着てワンピースを伸ばした。アイロン、そうか、アイロンもいるかもしれない。こんなんで、やっていけるだろうか。小雨は溜め息をついた。


 でも、そのため息がちょっと嬉しい。


 ふふ、と小雨は笑う。自分でサンダルを揃えたり、ワンピースを伸ばしたり、そんな単純な事が、なんだか楽しい。


 私、できるのでは。


 「よし」


 小雨は両手で自分の頬をぱちん、と鳴らしてぐっと拳を握った。


 「はじめますか」


 まずは、ご近所の偵察にでかけよう。まだまだ足りなくて、知らなくて、不安がみちみちしているけど、それはそれとして。


 小雨は立ち上がってドアへと向かう。軽くステップを踏みながら。


 いってきます、とつぶやく後姿。ようこそ。サンダルが静かに見送っていた。

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