テレパス

鳶田夜凪

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テレパス

鳶田夜凪


「どう言えばいいんだろうか、雪化粧みたいな」俺は宙に焦点を合わせて口にする。

「んー、さっきから何言ってるの」俺の必死の説明にも、ソファに転がっているサキは首を横に振った。

「時々、胸の細胞が消えていくような感じがするんだ」

「寂しさ? それを言いたかったのね」ようやくわかってくれた。俺は相変わらずサキから目を逸らしながら「そう言えばいいんだろうか」とぼそぼそ呟いた。

「小さな塩の瓶が溢れているみたいで」なんだか、リビングの白い壁が崩れてしまう気がした。



 俺は数ヶ月前からサキと一緒に暮らしている。俗に言う同棲というやつだ。サキは俺のことが好きらしいが、そんなことはどうでもいい。俺のことを書こう。

 俺はサキに出会うまで愛を知らなかった。

 俺は両親に愛されなかった。溺愛するのはいつも勉強にスポーツ、なんでも出来る兄貴の方だった。

「お兄ちゃんは偉いわね、それにしてもあんたは……」

 じゃあ産むなよ。と何度思ったことか。それでも幼い頃の俺はそれが当たり前だと思っていたので、言葉の暴力に耐えて生きていた。

 直接の暴行は受けなかったため行政の介入も期待できないし、俺はトイレに閉じ込められて冷め切った不味い飯を齧り続けた。毎夜、母と父と兄、リビングで三人が談笑しているのが聞こえて頭が真っ白になった。虫が俺の代わりに泣いた。

 家に居てもちっぽけなのに空っぽな心は満たされないので、小学校に上がる頃から、外に出る事を学んだ。家の外では、俺は自由だ。学校にも居場所はできやしないが、暴言を吐かれるより百倍マシだ。それに俺には、俺には図書館があった。

 図書館は良いところだ。日がな一日居ても文句は言われないし、静かだし。最初は単に自由に出入りできる避難場所として使っていたが、いつの日からか座って本を読むようになった。

 低学年の頃は、絵本や児童文学を読み漁った。だんだん文字の多いものが読めるようになってきて、小学校三年生に上がる頃には辞書を片手に大人向けの本を開いていた。

 俺は物語に入り込んだ。少年の冒険物語ではページを繰るごとに剣を振るったかのような興奮を覚え、恋愛小説ではまだ経験したことのない熱い感情を目の当たりにして胸を高鳴らせた。とにかく、本の匂い、重み、時間を忘れて文字を追っていると西陽がページを照らすこと、棚の高いところにある本が取れないこと、全てが大好きだった。

 朝、学校へ行く前に本を借りて、授業中に読んだ。教師にバレたら没収されたが、図書館の本だとわかると僕が何も言わずとも学校帰りには返してくれた。

 放課後はランドセルのまま俺の城へ直行し、返却して新しい文庫本や新書を棚から取り出した。

 小学生の間に二、三千冊は読んだと思う。本の世界に夢中になっている時は無性に楽しかった。特に好きだったのは宮沢賢治の作品だ。『やまなし』なんかは表現が可愛らしく、美しい水底の情景がぷかぷかと浮かんでのめり込んだ。

 俺は鼻つまみ者扱いされながらも無事小学校を卒業した。家庭での待遇は相変わらずだったが、図書館も変わらず俺の居場所だった。中学生、高校生と成長していくにつれ、俺は難しい小説を読み始めた。

 村上春樹を読んだ。村上龍を読んだ。ヘミングウェイもドストエフスキーも、カフカも手当たり次第に濫読した。活字中毒の俺の頭の中はと美しく臨場感のある文字たちで一杯だった。高校生になり、バイトを始めると図書館に入り浸る時間は少なくなったが、それでも文学には向き合い続けていた。

 一方家の状況は日に日にひどくなっていた。俺の力がないのをいいことに、両親は反撃してこないと踏んで言葉の暴力を激化させた。そのくせしてエゴがあると見えて高校に行くための最低限の金は出すものだから意地の悪い奴らだった。ボンクラ兄貴は大学生になったが、実家暮らしでまだまだ親の寵愛を受けていた。くそマザコンが、と罵ってやりたかったが、そうすれば(時にはそうしなくても)苦労して貯めたバイト代が消えてなくなることも知っていた。多分兄の合コン代に溶けるのだろう。

 俺はますます、図書館に通い詰めた。

 そして高校二年の春に、ついに図書館の蔵書を読み尽くそうとしている自分がいた。この間、背が伸びてようやく届くようになった一番高い本棚にある数冊でおそらく、終わりだった。今思えば読み尽くすなんてそんなわけはないのだが、当時はそんな気がしていた。

 寂しかった。どうしようもなく。俺の図書館の全てを、読み切ってしまう。それは俺の十年間の全てが露と消えてしまうことを意味した。これから読書をこの建物で楽しめないとはそういうことだ。

 眉間に皺を寄せながら、できるだけゆっくりと、最後のトルストイの著作を読んだ。彼は偉大な作家だったなあ、などと冗長に考えを巡らせながら一ページ一ページ刻みつけるように読んだ。

 それでも、一週間も経てば物語は終盤へ近づいていく。高校二年の七月、梅雨が明けたというのに俺は憂鬱だった。もうすぐ読み終えてしまうのだから。

 そんな時、サキがやってきた。


 彼女は新人の図書館職員で、七月のある土曜日からここで働き始めたそうだった。

 彼女は一日中図書館にいる高校生の俺を心配したのか、ある日突然控えめに声をかけてきたのだ。

「あの、すみません、ずっとここにいらっしゃいますよね」人と話すのなんて久しぶりだったから俺はしどろもどろになりながら、

「は、はい、それがどうか」と答えた。なるべく親切に答えたつもりではあるのだが、ぶっきらぼうに映ったらしく彼女は少したじろいで、

「いえ、高校生とお見受けしましたから、お勉強とかは——」と痛いところを突いてきた。

「あ、」そこを言われると言葉も出ない。実際俺は成績はすこぶる悪く、進級が危ういほどだった。

「図書館は勉強する場所でもありますから、今度来た時にはどうぞ、お勉強道具を持ってきていただいて、少し心配でしたので」それだけ腰を低く言って、彼女はカウンターへ去っていってしまった。

 図書館で人に面倒ごとをふっかけられるとは思いもしなかった。俺は両親の件があるから人は大体いじめてくるものだと思っていて、それがないから図書館に来たのに。

 渦巻いたのは猜疑、嫌悪、反感。しかし不思議なことに、俺はそこまでそれら負の感情に乗り気ではなかった。

 それは彼女の理知的で整った顔に、細くシュッとした目、それでいて明るい茶髪が印象に残っていたからだ。その姿はまるでカキツバタを思わせた。

 俺とは真逆の、幸福が周囲を公転しているような彼女に、俺は目を離すことができなかった。これがあれか、とふと考えが回る。随分前に出会った小説の、あのじんわりとしたカイロのような感情か。

 気の早い蝉が俺の代わりに鳴いた。


 それから先の話はあまり重要ではない。俺は勉強のために図書館に通うようになり、清閑な図書館でひそひそと彼女と会話を交わすようになった。やがて俺は返却したトルストイのページの隙間に電話番号を書いた紙を挟んだ。

 俺は彼女と喫茶店で会い、初めて自己紹介をした。彼女の名前はサキと言って、大学を出てすぐ図書館職員になったそうだった。

 夏休みに入れば、俺は勉強をしながらサキの仕事が終わるのを待ち、閉館後に歩きながら会話をした。

 秋口、サキに付き合おうと言われて、俺はあまりその言葉の意味にぴんとこなかったけれど、彼女が大事であることは確かだったからまあ君がそういうなら、と承諾した。手を繋ぐのも、キスも情事も彼女からだった。俺はあまり恋をしてはいなかった。ただ母性をくれ、大事にしてくれる世界で唯一の人間としてサキを捉えていた。気持ちがついていかないまま、サキに腕を引かれて日々の隙間を走り抜けていった。

 高校三年になった。俺はまだ、シャイな気分から逃れられない。彼女のアパートに泊めてもらったり、勉強を教えてもらったり。彼女との時間は日に日に増えていった。それでもサキの手が俺の腕を掴むと、決まって俺は顔を赤くするのだった。それに、彼女との会話には一つ問題があって、俺の日常会話の経験が少なすぎるせいで「普通の」喋り方ができないようなのだ。彼女は責めるふうでもなく「まどろっこしいよ、ケイくん」と言った。俺は「物心ついた時からまどろっこしい表現にばっかり触れてきたんだからしょうがないだろう」と口答えした。

「それもそうね」そうやって彼女はまた、新刊を貸してくれた。


 一年後、俺は何とか高校を卒業し、実家を出てサキのアパートに転がり込んだ。



「どう言えばいいんだろうか」俺はまた口にする。日曜日の午後十時、もう一週間が終わろうとしていた。静かなリビングルームに置き時計の音が鳴っている。

「今度はなに?」サキはいじっていたスマホを膝の上に置き、ソファの上で柔らかい笑みを返した。

「剥がれた壁のペンキなんだ。何度も塗り直した。」俺もわざと隠喩的な表現を使った。

 サキはエウレーカ、とばかりに、しかし静かに表情を明るくして、

「思い出? それを言いたかったのね」と俺に向けて言った。彼女の目は幸せそうにとろんとしていた。

 一緒に暮らし始めて三ヶ月が経った梅雨の真っ只中。外ではしとしとと霖雨が降っている。雨音にかき消される時計の音を聴きながら、俺は驚きを隠せないでいた。

「サキさ、俺の言ってることすぐわかるんだね」

「まあ、ずうっと一緒にいるから。以心伝心ってやつ?」

「なんだか、テレパシーみたいだ」

 そう、テレパシーみたいだ。彼女の想像力は世界を抱擁しているようだ。何でも見透かしている存在。もっと、もっとその目をその手を俺の方に向けて欲しい、そうわがままを心の中で言った。この胸の騒ぎ方は初めてだった。それを言ったらサキに「私たち付き合って二年にもなるのにね」と笑われるだろう。それでも、彼女に伝えたかった。今までの自分と、今の自分のことを。

 俺は何かを言おうと口をぱくぱくさせた。それを一瞥したサキは、クッションの上に片膝抱いて、「なに?なんか要る?」と訊いた。

 今度は全然、テレパシーできてないや。そう思いながら文章を考えるが、なぜか何も言葉が紡げなかった。どうにも声帯が震えない。心は震えているのに、横隔膜は運動しているのに。

 しばらくの沈黙。俺の心拍音。秒針の音。

 どれだけ経ったかわからない。サキはあまりに俺が何も言わないから、僕の座る椅子の方へ寄ってきて、僕の手を取った。

「こっちきて」ソファに座らされる俺。彼女の隣でその温もりを感じながら、俺は必死に声を出した。

「どう言えばいいんだろうか」この続きは考えていない。

 ふと、サキが俺の首に手を回し、唇に人差し指を当てた。

「ね? 言わなくたっていいの」

 刹那、世界中で鳴る病み上がりのような昏くて怠い音楽が消えてゆき、永遠に終わらない曲が響き始めた。俺はそっと、サキを抱きしめた。彼女の鼓動がリズムを取っている。


(楽曲『テレパス』の歌詞から。)

  

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テレパス 鳶田夜凪 @kumotobi_uta

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