つながる

佐倉活彦

第1話

         つながる

                        佐倉活彦


         1


 2022年4月4日、月曜日。京都は桜花巡覧の季節を迎えた。しかし新型コロナウイルスの渦中にあるので出控えている人が多い。新聞報道によると日本の一日当たりの感染者数は47,340人、死者数は34人、となっている。京都府でも感染者数919人、死者数2人となっている。住民は往来を断ち屋内に閉塞し、見えない敵に対峙しているのが現状だ。けれど仕事をしなければ生きていけない。マスクしてギュウギュウ詰めの電車に乗り出勤する。今では死語になった悲壮な企業戦士の復活を見る思いだ。

 果たして人類は滅亡するのか打ち勝つのか、先行きの見えない息苦しさが漂うなか新年度がスターとした。京都府の南部を営業エリアとする老舗住宅設備会社の高尾設備㈱に5名の新人が入社した。京都市内の理工系私立大卒男子1名、文系私立大卒の女子1名、それに地元の府立高校普通科卒男子3名である。

 朝礼でリクルートスーツに身を固め、白いマスクをした初々しい5人は、恥ずかしそうな挙動で従業員の前に横一列に並んだ。紹介したのは、背が低くて前頭部が禿げあがり、絶えず目をきょろきょろ動かして社員の挙動を窺っている営業部長の栗田三郎であった。風貌から想像すると仕事一途の印象を与えがちだが、休日には社員を誘って趣味の釣りに出かけ上下関係の融和を図る気遣いも見せる。社内では仕事には厳しいが情に厚い人として通っている。

 その栗田部長がやや顎を上げ従業員を見渡すように左から真ん中右にと眼差しを配り、ひとり、ひとり名前と出身校を読み上げた。

 営業一課に属する古参の田沼浩治は自分の席で背筋を伸ばし新入社員を歓迎するように相好を崩し聞き入っていた。

 顔付きと心は水と油の如く離反していた。

 コロナ禍で仕事が減っているし、新たな分野に進出する計画も聞いていないし、ひとりも辞めてへんので補充する必要はないし、何で5人も採用したんや。

 新人は期待感も相まって、一時的にせよ職場に波風を立てる。勤続30年に達し、平社員でありながらも一定の役割を担っている田沼浩治にとってはそれが身辺に及ぶことを警戒しているのだ。                                                                                                                          

 新人の紹介に引き続いて昇進人事の発表に移った。社長以下90人の中小企業であっても、年度初めには大企業の縮小版のような式事を慣例として行っている。

 田沼浩治の挙動がそわそわして動悸が高く波打った。昇進には事前に知らせがある、なかったということは自分の昇進はない、と分かっている。しかし落ち着かない。

 田沼浩治が籍を置いている営業一課からの昇進はなく、二課と三課から1名ずつ2人が主任に昇進した。いずれも途中入社であり新人の頃は手取り足取り取り教えた後輩である。業務経験からみると勤続30年にも及ぶ田沼浩治の足元にも及ばない。

 栗田部長は落ち着いた声でおもむろに昇進を告示した。

「サービスセールスマンとして10年のキャリアを積んでいる。日常業務で若手を良く指導し、販売成績も優秀である」

 田沼浩治は、チェッと舌打ちした。隣の席の富山高雄が聞こえたのかそれとも単に様子を窺っただけなのか、こちらに顔を向けたのを眼差しの端っこで捉えた。

 指導性についてはいろいろな見方があると思う。しかしキャリアも販売成績も俺の方が上回っているではないか、この二人を仕込んだのは俺だぞ。俺の指導性は認めないのか、不服で相好が歪になった。

 次いで係長昇進者を発表した。

「勤続年数15年になり機器施工管理士として貢献してきた実績を高く評価する」、

 昇進は当然と言わんばかりに栗田営業部長の顔面が紅潮した。

 こいつも俺が仕込んだのだ、もう15年前になるのか。畑違いの会社から転職してきたので何にも知りよらへんかった、工具の名前すら知りよらへんかったのにな、とまた舌打ちした。隣の席の富山高雄が再び顔を捩じってこちらを窺った。癪に障るのでわざと反対方向に顔を逸らした。

 田沼浩治は今年も昇進できなかった。心底穏やかではない。後輩がどんどん追い越していく。営業成績だけ見ればこいつらよりはるかに上だ、こんなことでは将来に希望が持てず、仕事に張り合いをなくす。と憤って細い目を尖がらせた。そのとき天の声が諭した。上に立つには営業成績が良いだけでは、駄目なんだ。ご褒美で貰うボーナスとは違うんだ。部下を掌握し引っ張っていく手腕に長け、部下に慕われる人望が必要なんだ、それに上司に忖度もしなければ、ならないのだ、と。

「うるさい!」天の声に返事するように心を震わせた。漏らした声が大きかったのか富山高雄がビクッと体を震わせ顔を捩じってこちらを窺った。

「なあ、富山君よ、見ての通り会社の人事方針を現認するしかないのだ。現認するしかないのだ」と言葉にはせず片目を瞑り目配せした。富山高雄は通じたのか、頷いた。自分に同調し味方する子分をを得た気分になって栗田営業部長を睨み付け、目を据え、反感の態度を表した。それから一呼吸置いて頭をブルブルと振わせ煮えたぎる心の溶鉱炉に蓋をした。

 田沼浩二の年齢は48歳、地元の府立高校卒の叩き上げ社員である。本日入社した3人の大先輩にあたる。設備機器の修繕や点検を業務にしているが、それは表向きの職種で会って、営業一課所属であることを裏付けるかのように販売活動に重きを置いている。機器の買い替えを促したり、設備の増設を提案したり、して売り上げを伸ばし会社の業績に貢献してきた。給湯器の修繕に訪問して、浴室改装工事に結び付けたことは何度もある。レンジの修理に訪問して台所のリフォームを成約した実績も数多い。月に500万円以上売り上げるのはざらであった。しかし社内での評価は一言で表すなら、物足りない、に尽きた。〈田沼さんは持てる力を100パーセント出し切っていない。独自の営業スタイルに固執して適当に仕事をこなす一匹狼や。後輩を統率し指導していかなければならないリーダーとして推挙するには、一皮むけてほしい。〉と誰もが願っていた。

 そのような声は本人の耳に届いていた。それでも自己改革をしようとはせず、上司に忖度することもせず、社内一の売上高を誇る独り善がり営業マンに陥っていた。

          *

 田沼浩治は朝礼を終えると、顔面を引き攣らせて専用の軽ワゴン車に乗り込んだ。今日は指名の仕事が3件入っている。2件は長年のお得意さんである。もう1件は記憶になかった。

 行きつけの喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら朝刊紙を読む。

〈ロシア軍が撤退したウクライナの首都キーウ近郊で住民の遺体が多数発見された。後ろ手に縛られ頭部を銃撃されていた。埋葬せず犬猫と同じ扱いで空き地や路上に放置されていた。遺体の惨たらしさに世界の人々は戦慄している。〉

 額の縦皺の溝を深くして顔を曇らせた。戦争体験はないがさぞかし惨たらしいものなのだろう。へそ曲がりだが嗜虐性のない性格なのでロシア兵の残虐な行為に憤った。

〈日本は西側陣営の一員としてウクライナ避難民20人を受け入れる。これは第一陣であり希望があれば追加する、と発表した。〉

 こうやってだんだんと深入りしていくんだろうなあ、と先行きを思いやり憂いだ。

〈新型ウイルス感染者の増加について専門家は第7波に突入したと表明。〉

 音もなく見えもせず、浸透してくるウイルスは弾丸より恐ろしい。だからといって職種が営業なんだから、お客さんから要請があるないに関係なく、各家々を訪問しないわけにはいかない。この家にウイルスは居ないだろう、と何の根拠もなく決め込んで訪問するわけだから無謀といえばそうなる。

 会社では一日の仕事を終え、帰社すると洗面室に入り、専用バケツの蓋を開け、マスクと手袋を投棄する。両手をエタノール液で消毒する。水道水で洗顔し付着したかもしれない菌を洗い流す、そのようにするよう指導されている。この程度の対策で今日まで罹患しなかったのは幸運だったとするしかないだろ。

 この喫茶店でもカウンターと客のテーブルを透明遮蔽版で隔離分離している。ウェイターは通常の制服の上に防御用割烹着つけている。此処迄せんでもマスクと手の消毒だけでええと思うけどなあ。まあ客に対して感染対策しています安心してお越しください、とアピールしているんだろう。

〈東証、新市場始動。東京証券取引所がプライム、スタンダード、グロース、と3つに再編した市場が本日始動した。〉

 30年前に就職先を巡って仲違をした級友の会社名を探した。高卒で大会社に就職したら、一生平社員で扱き使われ、下手すれば定年前に人員整理で切り捨てられる、中小企業にしとけ、と意見したのにあいつは大きい会社の方が安心や、と言って耳を傾けよらへんかった。今では現場の係長になってるらしい。出世が早と想って中小企業を選んだ俺はいまだに平社員や。彼は家族連れの海外旅行もしてるらしい。俺は国内の温泉宿泊旅行すらしてない。彼は自社株をコツコツ買って配当金を得ているらしい。俺んとこの会社は同族企業なので非公開や、株を手にすることなんて社長一族以外にはできひん。さてさて、どの市場区分に登録しているのか、値はいくらになっているのか、なんと、なんと、 プライム市場に登録してある。株価は5,630円。これは、たまげた。半導体関連の会社なので業績が良いのだろう。俺の見通しが甘かったんや。級友に従って一緒に入社していたら今頃⋯⋯いや過ぎたことは考えんようにしよう。

 カップの底に溜まったコーヒーを、口のあたりまで持ち上げ、掬うように咽に流し込み喫茶店を出た。

 1件目の訪問先に到着した。閑静な住宅街の古びた一軒家だ。今時珍しい黒塀の上から見越しの松が覗いていて目印になっている。ここは10年来の大切な顧客である。

「風呂が使えませんね、見てくれますか」と、頭髪が真っ白でヒョロヒョロとした品の良い御主人が眼鏡の奥で眼をしょぼしょぼさせながら頼んだ。

「風呂場をリフォームしてもう10年になります。きれいにお使いなってるので年月を感じませんね」と、お世辞を言いながら給湯器の前カバーを外し、点検スイッチを押した。点滅信号を数えたら故障個所が分かるようになっている。空焚き防止装置の故障と分かった。大袈裟に首をかしげて、「ちょっと困ったことになりましたなあ」と、後ろに立って肩越しに覘きこんでいる御主人を振り返り顔色を窺った。不安そうな顔付をしたのでシメシメとほくそ笑んだ。

「歳とると毎日の風呂が楽しみでねえ、今日中に何とか修理できませんか」

「うちにも風呂好きな母がおりますのでお気持ちはよく分かるんですけど、安全装置の故障ですので、部品取り寄せに1週間かかります。なにしろ10年間ご使用になっていますのであちこち傷んでくる頃です」

 と、探りを入れた。本当は部品庫に常時保管している部品なので、取りに帰れば今日中に直せる。御主人の望み通り今夜には風呂に入れる。しかしその通りにすれば修理代の僅かな儲けにしかならない。社内一の営業魂がむくむくと立ち上がった。

 御主人は10年間使い続けた給湯機に、ご苦労さんでした、と礼を言うように優しい眼差しを送っていた。挙動を観察している浩治は買い替えを思案中だと判断した。

「こんなことを言ってなんですけど、もう古いですから効率の良い新品と取り換えませんか、近頃の給湯器は省エネタイプですのでガス代も電気代も安くなります」

 年寄りに、安くなる、は覿面に効く。此処で決断を促す。

「製品は会社の倉庫にありますので、直ちに取りに帰って付け替えるようにします。そうすれば今夜お風呂に入れます」

 ためらいを払拭させるため、少し声を大きくした。

 一呼吸間があった。

「おいっ、そうしてもらおうか、一週間も風呂に入れへんのは辛い、体を温めんとぐっすり眠られへん」

 おいっ、と呼ばれた優しそうな夫人は目尻にしわを寄せ、我が息子を見るような信頼しきった目つきで浩治を覗き込み頷いた。

 一度客先と信頼関係を構築してしまうと営業はスムーズに流れる。信頼関係とは会社に利益をもたらすことを意味する。他社との見積り比較もなく、この人に任せておけば、という培った信頼関係で取り換え商談が成立した。時間にしてわずか30分間の取引だった。

 浩治が職場の好意的な進言を抹殺して、自己改革を拒み、自分の殻に閉じこもるのは、このような培った営業環境を失いたくないからだ。労せず販売ができるような得意先を持つまで、いかほどの歳月と努力を要したか。当初は自分の給料分も稼げず、上司から理不尽な嫌みを幾度も浴びた。そこでどうしたらノルマを達成できるか考えた。自分の容姿は人を引き付けるほど優れているわけではないし、流暢な言葉使いで巧みに売り込む営業口舌も備わっていない。人の好さを売りにしても世知辛い世の中では頼りない人になってしまう。いろいろ考えあぐねて到達したのは〈気持ちを届ける〉だった。設備器具を買ってもらった家に後日、使い具合を尋ねて訪問し、「これ家で取れたもんやけど食べてんか、ちょっとしかないけど」とさりげなく果物や野菜を届けた。母が老後の楽しみに家庭菜園をしているので収穫期になるとキュウリやナスやプチトマトは一家で食べきれないほど実った。それをおすそ分けすることを思いついたのだ。下心あってのことなのだが、わずかな数量であっても気持ちが嬉しい。キュウリ2本、茄子2個、プチトマト5個、さやえんどう一掴み、をビニール袋に入れて配って歩き、がっちり主婦の心を捕まえた。

 浩治はすぐさま取って返し倉庫から給湯器と交換用の接続部材を持ち出した。作業は2時間あれば十分と踏んでいた。午前中に終了するつもりだ。

 お昼を少し回ってしまったが、取り換え工事を完了させた。

「ご苦労さんでした。お昼時間まで働いてもらって、ありがとうございました。おうどん用意してますので食べていってくださいな」

 浩二は汗を拭きながら汚れた手で老夫婦と一緒に物価高騰の世間話をしながらおいしそうに頂いた。仕事ぶりを見せつけるために、汚れた手や衣服は手でパッパッパと大袈裟に払っただけ。どんぶり鉢の底に残った汁まで吸って満腹したようにお腹をさすった。

 請求書を渡して帰ろうとした。

「これぐらいでしたら用意してます。お支払いしときます」

 しめた、と胸が小躍りした。

「そうですか、ありがとうございます。今日は急でしたのでお支払いしていただけると思っていませんでした。会社の領収証持ってきてません。仮の領収証になりますけどよろしいか」

「ええ、それで結構です。本当はそんなものいりませんけどね」

 浩治は密かに持ち歩いている市販の領収証に164,500円と記入し、社印の代わりに田沼の三文判を押した。

 しめしめパチンコの元手をまんまと手にすることができた。ほくそ笑み、この日2件目の訪問先を訪れた。全く記憶にない棟続きの木造三階建て極小間口住宅である。真新しい家の表札を見て首傾げた。

 玄関先に段ボールのケースが折りたたんで積み重ねてある。発泡スチロールのケースも積み重ねてある。多分若い夫婦の共働き家庭だと察した。

 玄関チャイム押した。

 浩治の、息子の年代に匹敵する若者が眼差しを尖らせて凄んだ。

「洗面台から水漏れしてるで、まだ3年しかたってない、新品と取り換えてんか!」

「ご迷惑かけて申し訳ございません。点検させてもらいます」

 うちの会社で設置した製品ではないと思ったが、確認しないで判断するわけにはいかなかった。

 玄関が狭いので踏み台を渡って入ろうとしたところ、

「入るな。さっさと新品に取り換える段取りをしろ! 今日中にしろよ!」

「はあ⋯⋯しかし」剣幕に押されてたじろいだ。

「馬鹿野郎! さっさとせんか!」

 図に乗ってつけあがってきたが踏ん張った。

「ちょっと待ってください、設備会社はたくさんあります。私どもの会社で設置した器具か調べてみます。他社で設置したものであれば修理は有料になります。問い合わせますので少々待ってください」

 ケータイを取り出したところ、

「勝手にせー」

 バタンと勢いよくドアを閉じて追い出した。

 カマかけやがった。こんな手にやすやすと乗る俺ではないわ。

 次の訪問先に向かうため、十分ほど自動車を走らせていたら、ケータイの着信音が鳴った。

「さっき行かれたお宅にもう一度行ってください。奥さんが戻られました」

 会社からの指示なのでしぶしぶ再訪問した。茶髪の奇麗な若妻がにこにこしながら迎えてくれた。

 洗面台の下に水が漏れた跡があった。止水栓を閉じてあったので左に回したところポトポトと水がしたたり落ちてきた。観察すると水道配管と洗面台に接続する配管のナットが歪になっている。素人が締め直そうとして加減がわからず強く締めすぎて壊してしまう手口だ。

「どなたか修理しようとされたようですね」

「主人です、夜勤明けなのでやってみたのですが、上手くいかなかったようです」

 費用が掛かります。出張料含めて一万五千円になりますがよろしいか」

「仕方ありません、お願いします。ご近所の方から、親切な方がおられる、と言ってお宅を紹介していただきました」

 儲けのない面倒な仕事だがその言葉を聞いて嬉しかった。

 気持ちを切り替えてナットとパッキンを交換した。1時間弱で修理を終えた。次の仕事を期待して5千円値引きして、ちょうど1万円にして会社の正式な領収証を発行した。この値引きの仕方も手の内だ。

 3軒目の訪問先は大きな仕事を受注したことはないが、度々設備の補修を依頼してくるお宅だ。家は古いが広い庭があって花壇があり腰高に設えた棚に植木鉢が整然と並んでいる。今回は屋外に水道の蛇口を増設してくれ、だった。

「植木の水やりが大変なんや、此処迄心魂傾けて育てた皐が枯れたら子供を失ったようなもんや、その気持ちあんた解るか。今は風呂場の蛇口からホースで水を引いているけど、繋いだり外したりするのがこの歳になると辛いね。外に蛇口があったら繋放しにしておいて手元の水栓で開け閉めできるやんか、そのようにしてんか。これから暑くなるので水やりに追われるからな」

 この夫婦は年金で生活していることでは先程風呂給湯器を取り換えたお宅と同じである。しかし客質が違う。対応に納得いかなければ直ちに会社に苦情を言ってくる質だ。言動に神経を張って応対しなければならない。自慢の盆栽はざっと見て50鉢は越えている。盆栽には素人だがそれなりの誉め言葉は知っている。主人の顔がほころぶまで褒め捲くった。

 主人が指示した風呂場の外側に分岐する水道管があるかないか、営業車に積み込んであるスコップを使って掘ってみた。地下30センチぐらい掘り下げたところに口径20ミリの塩ビ管が表れた。此処で分岐して水栓柱を取り付ければよいのだ。簡単な工事であるが水受けを置いて排水工事もしなければならない。市の上下水道指定業者なので、届けを出し、法を順守する必要がある。下水道法でそういう決まりになっている。説明したところ、水栓だけ取り付けてくればよい、水受けは必要ない、と頑強に言い張った。

「私どもの会社が違反したことになって処罰されます」

「検査に来よったら、どこの業者がしたのかわからない、と言って突っぱねたる。迷惑掛けんようにするから俺の言うとおりしろ」

 正規を説明して押し通せば癇を立てて逆上し言い掛かりをつけてくる恐れが高くなった。結局目を瞑って4万5000円で引き受けた。しかしキッチリと念押しはした。

「水質汚濁防止法に違反しますので、内緒ですよ。絶対に明かさないでくださいよ。もぐりの工事をした私は職を失うことになりますのでね。自分でホームセンターで材料買ってきて作ったことにしてくださいよ」

「うるさい! 何度も言わんでもわかっている」

 顔面が紅潮してきた。ここらが潮時だと判断した。断るのが正当であるが浩治は断ることができない性質だ。邪道に進んだ。

 まだ日が高いものの午前中に風呂給湯機交換の重労働をしているので二度にわたる肉体労働は辛かった。それでも会社まで水栓柱を取りに行って一時間半ほどで立ち上げた。此処でも正式な領収証を発行した。主人は領収証の金額に記入間違いがないか、人差し指でなぞりながら目ん玉を据えて確認した。こういう人なんだ、おうどんを食べた家の人とは違うんだ。違反に目を瞑ってした仕事なので終えた後は気分が塞いだ。

 へとへとになって本日指名の3件の仕事をこなした。

 まだ陽は高い。定時までの残り時間を、住宅地図に従って飛び込み営業をした。会社では新規顧客の開拓になるので奨励している。飛び込み営業は先方の要請で訪問するわけではないので冷たく扱われるのを覚悟しておかなければならない。

「今、忙しいね、またにしてんか」

「来てくれて頼んでへんで」

「用事ありません」

「今から幼稚園に子供を迎えに行くね」

 4軒玄関チャイム押したところ、姿を現して応対してくれたのは1軒もなかった。玄関チャイムを通して物乞いを追い払わるように門前払いされた。ここで挫けず諦めないのが社内一の売上高を誇る強かな根性だった。なにくそと奮い立って伺った5軒目で手応えがあった。

「ちょうどよいところに来ゃはった。工務店に連絡しょうかと思っていたところです。雨漏りがしますね。もうすぐ梅雨に入りますので直しておかんとね、見てくれますか」五十代と思しき、でっぷり太った夫人が愛想よく迎えてくれた。

 営業車の屋根に積んでいる伸縮脚を下ろして大屋根に上った。上質の青釉薬瓦を使って葺いてあるが、長期間風雨に晒されて罅が入っている。さらに瓦全体がずれている。こんなことは下から見ている限りでは分からない。雨漏りの原因を探り当て、再び営業車に戻ってカメラを取ってきた。ポラロイドなので十秒でプリントできる。

「イヤー、こんなことになってますの、お父さんが帰ってきたらみせます。葺き替えなあきませんやろね。見積してください。後日お返事します」

 ここで、しめた、と舌なめずりして強引に営業を始めないところが浩治の長年に亘る経験上から得たみそだ。このお宅は高尾設備㈱という社名を知っていたが、取引はないのだ。屋根瓦のパンフレットに名刺を張り付け見積書を添えて帰った。

 会社の業務終了は17時である。総務や倉庫管理など内勤の者はこの時間に仕事を終え退社する。しかし浩治ら外回りの者はそうはいかない。現場から引き揚げるのがこの時間になる。遠隔地で仕事を終えたものは1時間かけて古びた高尾設備㈱の3階の事務所に戻ってくる。

 まず日報を書く。

(訪問件数8軒。A宅で風呂給湯器販売、取り付け完了、164,500円、月末集金掛け売り。T宅で洗面台排水管の水漏れ手直し、手数料10,000円、集金済み売り上げ。S宅で水栓柱の取り付け45,000円、集金済み売り上げ。M宅で屋根の吹き替え見積り提出。連絡待ち。)

 栗田営業部長に提出した。小柄な人なので下からギョロッと見あげた。怖い目付きが柔和に変わった。

「ご苦労さん、よう頑張ったな。明日もこの調子で頼むで」

 誉め言葉を胸に抱いて揚々と席に戻った。10,000円と45,000円の入金を経理で済ませた。受け取ったのは新入りの上月摩耶であった。

 浩治はマイカー通勤している。朝の出社時は渋滞するので会社まで30分、下手すれば40分掛かる。帰りは15分ぐらいで帰れる。しかしすんなり帰るわけではない。これから1日を締めくくる楽しみに参上する。

 〈パチンコ・東京CLUB〉の屋内ガレージに車を止めた。

 浩治の車はトヨタカムリG、年式は二〇〇六年車である。今時十七年前の、走行距離16万3900㎞に達した車に乗っている者は車マニアか旧車にこだわりを持っている者に限られる。出入りする客がチラッと射すくめて通り過ぎる。何のことはない金がないので買い替えをずるずると引き延ばしてきただけだ。若者が乗り回している斬新でかっこよい軽自動車に乗り換える気はなかった。普通車のセダン型に拘っているのでどうしても300か400万円ほど工面しなければならない。ローン支払いは性に合わない。

 お気に入りの四番の台が空いていたので座った。近頃はスロットの〈北斗の拳〉に嵌まっている。ボタンを右手で操作し左手でスロットを回転させた。単純な繰り返しである。目と手と頭脳が連動して段々と周囲が見えなくなり偏狭に嵌まっていった。時間が経過して視界が小刻みに震えてきた。疲れを覚えて両手を放し目を擦った。1時間ほど熱中して10万円の投資が13万円になって戻ってきた。仕事の成績もよかったし今日はツイてる。パチンコ台を勝ちやすいナナシ―に席替えした。15万円投資して19万円になって戻ってきた。手元資金が豊富だったから勝てたようなものだ。あの、うどんを食べた家で仮領収証発行して会社に収めず、着服してつぎ込んだ金がなかったらこうはいかなかっただろうなあ。7万円も儲ける日はざらにはない、せいぜい1万円である。損をして帰る日もあるのでトータルすれば若干損している。

 今日は此処で打ち止め、と自らに断じて自家用車に戻った。運転席の座席を倒して煙草を一服吸って今日の疲れを癒やした。脳裏には仕事上の場面は浮かばず、北斗の拳やナナシ―のキラキラ画面が残像していた。パチンコで稼いでぼんやりできる時間がたまらなく気持ちよい。麻薬を吸って現実を忘却するとはこんな気分に浸ることなんだろうか、うっとり目の筋肉を緩め半眼になって車内に流れる紫煙を見ていた。

 家にお土産を買って帰るため和菓子店に立ち寄った。

 家族は敷地内で家庭菜園をしている77歳の老母と、近所の惣菜店でアルバイトしている43歳の妻と、高一と高三の男の子ふたりである。高三の長男は来年大学生になる予定。

 焼き肉の夕食が始まった。食べ盛りのふたりの息子は野菜に見向きもせず肉に箸を伸ばし胃袋にしまい込む。

「これ! お父さんに残しとき」、と、妻の晴代が制しても効き目はない。

 浩治は息子たちの食いっぷりをニコニコしながら眺めていた。それだけで肉をたっぷり食った気になるのだ。目を細めて隣に座っている老母を見遣った。

「お母ん、肉を食べや、長生きできひんで」

 母親思いなので気遣った。

「もう十分頂いた、食べ盛りの孫の様にはいかん」

 目を細めて御箸をおいた。

 浩治はごそごそと半身のけぞらして古びた通勤カバンを探った。

「これ食うか」

 隠していた手土産の包みを取り出した。

 目をキラッと発光させて、猿が餌を見付けた時のようにサッと手を伸ばしてきたのはふたりの息子だ。

「こらっ! これはお祖母ちゃんのお土産や」手の甲をピシッと叩いて制した。

「甘いもんは頭にええらしいわ。勉強をしっかりして通知簿の点数でお返しするがな」と、自信ありげに言う長男。

「ええお父んや。僕ら幸せもんや。他所の親とは違うな」と、次男は平気で見え透いた弁チャラを発した。

 ふたりの息子はどら焼きと今川焼を手にした。前かがみになって座っている老母は目を細めて、「これ貰う」と言ってくずもちを確保した。妻はピンク色のねりきりを確保した。浩治は残った栗饅頭を確保した。一家五人で二個ずつ分け合った。

「お父さんな、パチンコで勝たはったんやわ。今度の日曜日に一家でどっか遊びに行こうか」と、妻の晴代が色白のポッチャリした顔面を崩して笑み浮かべた。夫が和菓子を買ってきたことからして大勝ちしたと推測したのだろう。

「俺、ビアンキのロードバイク欲しいね。十一万円程や、しれたる」

 と、次男も父親の懐具合を察して目を輝かせて強請った。

「アホ、そんな高い自転車買えるか」

「学校の成績が、お兄ちゃんとどっこいどっこいになったら、お母さんが買ってあげるわ。アハハハ」

 そんなことはめったに起こらないとみて妻の晴代は顔面を崩し白い歯をのぞかせた。

 次男はロードバイクのカタログを編み笠に見立て頭に乗せ、立ち上がり、あらえっさっさ、と即興の阿波踊りを始めた。

 長男はそれを見て、

「そこまでアピールしたら、買ってやろうかという気になるなあ、お父さん?」

「共同戦線張っても、こっちはお母さんと手を組んで対抗するからな」

 祖母が食い込んできた。

「お祖母ちゃんが年金で買ったげる。その代わり私も使うで」

「うへー」

「面白いな、ロードバイクに乗ってる腰の曲がった年寄りの姿をYouTubeに投稿したら受けるやろな」

「アハハハ」

 夕食後の団欒は和気あいあいとしていて和やかであった。家族の仲の良さが室内照明をより明るく輝かせていた。


          2


「あいつ、すれっからし、やで」

 新入りの上月摩耶の評判が浩治の耳に入った。五十人いるサービスセールスマンは朝礼が済んで会社を出で行ったら夕方まで帰ってこない、新入りの動静などほとんど分からない。

 今年入社した四人の男子は給湯器具製造メーカーの研修施設に入所して技術の研修に励んでいる。上月摩耶だけは総務課で経理の見習い業務に従事していた。浩治らセールスマンが集金してきた現金や手形を受け取り、領収証の金額と合致しているか確認して経理課長に渡す。領収証の管理も新米の務めだ。

 パソコン操作が手早い、とは聞いていたが、すれっからし、とはなあ。そういえば言葉使いがなれなれしくてとてもや社会人一年生とは思えない。先輩にため口使って注意されているとも聞いた。服装は派手である。首の抉りが広くて白い胸が丸見えの真っ赤なTシャツ着て、太股丸出しの真っ白な短パンで出社してくることもあれば、黒っぽいシックなドレスズボン穿いて、体形をぴちっと表すトップスを身に着けてくるときもある。背が高くスタイルはモデル並みだ。大卒の新人とは思ないほど衣装持ちである。それにしても、すれっからしとはなあ。

 浩治は手持ちの領収証の枚数が残り少なくなったので、上月摩耶に新しく一冊出してもらった。受け取るとき指の爪にネイルしているのに気付いた。

 日報を提出し一日の仕事を終え退社しょうとしたら、栗田営業部長が話しがあがるのでちょっとこっちにきてくれ、と額をテカテカ光らせながら呼び止めた。

「浩ちゃん、新入りが講習から戻ってきたら一人預けるので仕込んでくれへんか」

 またか。過去に何十人も面倒見てひとり立ちさせてきた。その功績を全く認めないでまた面倒見ろというのか、うんざりした。理由はそれだけではない、浩治流の営業をするには足手まといになる。仮領収証を発行して一時的にパチンコの手元資金として流用する操作はできない。しかし直属上司の命令となれば独り立ちする1年間ほどを辛抱しなければならない。

「浩ちゃんは、ちょっとした工事もできるし、お客さんの心を掴むのも上手い、他の者に頼むより良いと思ってな。それに、そろそろやしな」と、昇進を匂わせた。

「はい」と、だけ小さな声で俯いて答えた。

 心情を見抜いた栗田部長は「琵琶湖にバス釣りに行こや」と機嫌をとった。

 今年入社した男子の新人四人のうち高卒ふたりは工事を希望しているので工事課に配属し、大卒は技術者として育てるために他のメーカーにもう三か月派遣することにしたと聞いた。残りの高卒一人は営業課に配属になるので浩治が仕込むことになった。

 まだ半年先とはいえ、うっとうしいことに変わりない。心にもやもやを抱えたまま〈パチンコ・東京CLUB〉に向かった。

 この日はツキがなく昨日勝った元手資金をすべて注ぎ込んで十万円負けた。

 沈んで帰宅した。

「お父さん、今日は無いの?」

 高一の倅がスナップ菓子をポリポリ食べながら馬鹿面丸出しで仰ぎ見た。

 マウンテンバイクのカタログが目に付くように卓上に置いてあった。今日の稼ぎ具合によっては再び強請ろうとしていた魂胆がバレバレだ。

「今度の日曜日はどっこにも行けへんかもしれんぞ」

「負けたんか、しゃあないな。明日頑張りな。みんな期待してるで。お母さんがあの歳でUSJに行きたいと言うてた。顔にメーキャップキッド張り付けて記念写真撮るねんて」

 浩治は父親としての存在感と威厳を表すにはどうしても日曜日に家族をUSJに連れて行かなければならなくなった。遊行費の獲得目指してプレッシャーが掛かった。

 翌日は何とかとんとん、十万円の損は取り戻せなかった。憂鬱である。月末が近付いてきたので流用資金の決済もしなければならない。会社には月末集金と届けてある。どうしても、着服している156,000円を会社に収めなければならない。その上遊行費も捻出しなければならない

 ええぃ、イチかバチかやってみるか。追いたてられて〈パチンコ・東京CLUB〉に向かった。

 勢い込んだ時に限って負ける。それも大損である。六万円の足を出した。負け額は合計十六万円になった。クレカはリボ払いにしているので残高がマイナスになっても一時的には使える。しょんぼりして帰宅した。

 夕食後の一家の団欒で三日後の日曜日にUSJに行くことが正式に決まった。久しぶりの一家の遠出に大はしゃぎして沸いた。もう中止するわけにはいかなくなった。ますますプレッシャーが掛かって心臓がパクパクした。

 翌日、浩治は屋根葺き替えの見積書を提出してそのままになっている家を、おずおずとその一方で微かな期待を膨らませて訪れた。

「ちょうどよかったですわ。お父さんがこの見積りでええさかい頼んどいてくれと言うてました。手付金も十パーセントと書いてましたので二十五万円用意しています。持って帰ってもらいます」

 助かった、安堵して心の中で神に合掌した。手付金なので仮領収証で済ませる。この金を支払いに回して残りをUSJ で使おう。 

 その足で風呂給湯器を付け替えた老夫婦の家に向かった。156,000円の正式な領収証を発行し、手書きの仮領収証を回収した。帰社して経理の上月摩耶に渡した。現金を収める際は硬貨もあるので紛失しないようにチャック付きの納金袋に入れることになっている。これで明日は楽しめる、思いっきり遊んでくるぞ、と満面に笑み浮かべ帰宅した。家族はすでに用意万端、食卓を囲んで夜遅くまでアトラクションの話で弾んだ。

 一家5人で繰り出したUSJは天気に恵まれ楽しかった。高三の長男がアトラクションを予約していたのでそんなに待たずに次々と入場できた。妻の晴代も望んでいた通り、頬にメーキャップキット張り付けてVサインし記念撮影に治まった。老母もしわくちゃの顔を弾けさせ、入れ歯が外れ飛び出すのではないかと心配になるほど大きく口を開け孫相手に笑い声をほとばらせた。浩治は自身が体験して楽しむよりも楽しんでいる母や妻、ふたりの倅の爛漫な姿を見ているだけで満足だった。

 はしゃいだ一日を締めくくるため、レストランで食事した。その時アトラクションから出てきたアベックに目が留まった。黒いズボンに白っぽいブレザーを羽織り首に渋い紅色のネッカチーフを巻いた中年の男の腕にしなだれかかって若い女が歩いている。目の覚めるようなオレンジ色のウエアは丈が短くてウエストの肌が露出している。真っ白なレディースパンタロンの裾はフレアーになっているので歩くたびにひらひら翻っている。いかにも愛人カップルといったところだ。

「あいつの髪あんなに茶色かったかなあ」と呟きながら、目で追っているところを妻が、「あの娘、店に出来合いの総菜買いに来るで」と、言った。

「今年入社した上月摩耶や、一人暮らしなんやろ。男は知らん」

「あの男は遊び人やな、女は楽しそうに振舞っているけど所詮パパ活の相手にヨイショしているだけや」と妻の晴代は目を鋭くして遠ざかるふたりの姿を追っていた。

 すれっからし、ふっと言葉が浮かんだ。

       *

 週の始まりは誰もが新鮮な気持ちになって業務に励もうと気合を入れる。

 浩治は家族サービスでリフレッシュして、すがすがしい気分で専用の軽ワゴン車に乗り込もうとしたところ、背から上月摩耶の声が飛んできた。

「田沼さん、田沼さん、これなんですか。土曜日の納金袋の中に入ってました」

 仮発行した市販の手書きの領収証を見せられた。田沼の三文判が押してある。

 浩治の顔から血の気が引き一瞬にして顔面蒼白になった。

 上月摩耶は浩治が動揺しているのをみてニヤッと唇の両端を釣り上げた。

「えへへへ」と、低くて気味の悪い声を喉から絞り出した。

「返せ! それはメモや」

 浩治は慌てふためき、取り戻そうと手を伸ばした。

「これ預かっとくからね」と、言ってサッと胸のポケットにしまい込んだ。身をひるがえし後ろを顧みることなく、事務所の階段をトントンと軽やかな足取りで上っていった。

 その日は仕事が手につかず身体が空中に浮遊しているようだった。

 俺としたことが何と大きなミスを犯したのだ。正式な領収証を発行した段階でビリビリと破いておくべきだった。これまではそのようにしていた。

 あの日は、着服していた売上金の返済も、一家でUSJに出かける金策も、目処をつけたので浮ついて心配りが緩んでいたのだ。他の経理係の者に見つかっていたら、こんなことしたらあかんで、と長年同じ釜の飯を食っている仲間として、そっと耳打ちし破いて済ましてくれただろう。相手が悪かった、何しろ今年入社したばかりで、良くも悪くも同僚を庇い合う意識が希薄な新人だった。

 当たり前だが、売り上げた代金はその日のうちに入金しなければならない。会社の決まり事になっている。市販の仮領収証を発行して一時着服することは以ての外だ。発覚したら懲戒処分受けることは必至だ。ひょっとしたら首になるかもしれない。48歳になっているので再就職するのは厳しい。路頭に迷う姿がよぎった。

 その日以降正常な心持で仕事ができなくなった。上月摩耶が上司に密告しないかとびくびくして過ごしていた。

 自ら正直に悪事をぶちまけて返済し、救済を求めれば、30年間会社に貢献した経歴に免じて、訓告程度の処罰で免れるのではないか、と考えた。しかしそれができなかった。自分の柄に閉じこもる小心者なので体面を気にし告白を拒んだ。

「おい、田沼!」

「はいっ」

 栗田営業部長の鋭い呼びかけに、ビクッと体を硬直させ全神経を張り詰めた。

「日報をきちっと書け、訪問先が抜けたる。ボーとしてたらあかんぞ」部長に注意された。

 そのうちそれどころではなくなった。

「おい、田沼! このところ売上がちょっともないやんか。好調やったのにどうしたんや。ベテランがこんなことでは困る」

 営業成績の低下を叱咤された。

 今日は久しぶりに売り上げを計上して、ホッと胸なでおろし、帰宅するため洗面室で顔や手を洗っていたところに、上月摩耶が他に誰もいないのを確認するような素振りで、ソーと忍者のように忍び込んできて横に並んだ。甘ったるい化粧の匂いが鼻孔をくすぐった。

「浩ちゃん、今度の土曜日に友達の誕生日パーティがあるね。着ていく服を買うお金を出してくれへんか」

 単刀直入にせがんだ。弱みに付け込んで強請ってきたのは明白だった。

 浩治はたじろいで気持ちが後ずさりした。

「返すんやろな」と強請りに屈してしまった。

「返さんでもええやろ。しれてるやんか」

「いくらいるね」

「十万円あったら足りると思う」

「そんな大金ないわ」

「へー」、と大げさなゼスチャーで首竦めた。そして、「今日の売り上げも月末売掛になったる。その分を私に回してくれたら済むやんか。明日必ずお金持ってきて、解ってるな」

 笑顔を消し厳しい目付きで脅して側を離れた。

 翌日、約束通り十万円を洗面室で渡した。

 その後、会う機会を作らないようにしていた。しかし入金する段階になって他の経理担当者に渡そうとしたら、私がします、と言って上月摩耶が納金袋をふんだくった。

 朝起きて会社に行くのがおっくうになってきた。また強請られると懸念して事務所に入ると冷や汗が出るようになった。

「浩ちゃん、パンプス買いたいね、五万円用意しといて」

「飲み会があるね、十万円用意してんか」

「金曜日の夜大阪のライブハウスに行くことになってん」

 こんな調子で再三にわたり強請られた。家にも会社にも相談できないので必死になって仕事をして、代金すべてを仮領収証発行して得た売り上げ金を上月摩耶に渡した。穴を開けた代金は、後日得た代金で賄った。これを繰り返した。自転車操業しているようなもので回転が止まったら一巻の終わりである。

 栗田営業部長が溜飲を下げ、わざわざ浩治の机の傍に足を運んできた。

「よう頑張るな。ボーナス近いしな」と、にこにこして肩を叩いた。

 ボーナスなど、もうどうでもいいんだ。俺は必死なんだ。顔が引き攣っていた。もう三百万円以上貢いでいる。

 社内で田沼浩二の変容ぶりが話題に上るようになった。

「人が変わったように仕事をしゃはるようになった。これまでマイペースやったのにな」

「昇進を意識たはるんや」

「目が落ち込んで痩せてきたんと違う」

「あんまり無理せん方がいいんと違う。体を壊しら何にもならへん」

 当然上月摩耶の耳に入る。強請りがピタッと止まった。

 潮時を考えたのかな、と思って反撃した。

「おい、USJ で見かけたぞ。あの男だれや」

「お父さんや」

 顔色変えずにシラーと答えた。

「同棲してるんか」

 今度は何も答えず、胸ポケットから手書きの156,000円の仮領収証をちらっと見せた。

「それ、返せ!」

「いくらで買い取る」

「金はたっぷり貢いだ。これ以上つけあがってきたら警察に相談するぞ」

「かまへんで。奥さんや子供さんのことを考えんとあかんで。父親が犯罪者になったら妻子はどうして生きていくんや。町内にいられんようになるわ。可哀そうに」

「俺を見縊るな! このままやったら破綻や。その際は道連れにしたるからな」

 凄んでみたが様になっていなかった。

 それから二週間ほど平穏に過ぎた。

 反撃が効いたように見えたが警察に訴えるかどうかの様子見だったようだ。一度味占めた強請りが再開した。これまでの尻拭いもしなければならないので、とにかく闇雲に売りまくり仮領収証の発行を重ねた。自転車を漕いでないと人生が破綻するのだ。

          *

 七月に入って、まだ梅雨明けしていないうっとうしい日々が続いていたある日、社内で騒ぎが持ち上がった。

 経理で厳重に保管していた領収証が一冊不明になっているのだ。会社の受領印が捺してあるので悪用すれば一大事である。例えば営業マンが注文を受けて内緒で他所から安く仕入れ、お客さんに売却し、高尾設備㈱の領収書を発行すれば商売が成り立つ。代金をまんまと手に入れられる。

 管理者の上月摩耶に尋ねても知らないと言いはった。どこかに紛れ込んだのだと思って経理課全員五人で書類保管庫を家探ししたが見つからなかった。結局発見できず一冊紛失で経理課長が始末書を書いたので、この騒ぎはこれで落着したと誰もが思った。しかし業務上汚点を残した経理課長は引き下がらなかった。社長の親族であることもあり面目を掛けて不審者を洗い出し始めた。線上に浮かびあがったのは田沼浩治である。これまで月末に代金の付けの回収を確実に行っていたのにここにきて月をまたいでの入金が多くなっている。しかも当日入金は一切なくすべてが掛売りになっている。紛失した領収書と関連付けはできなかったがなんか胡散臭かった。

 金額の大きい売掛先に電話した。

「高尾設備㈱です。いつも御贔屓にしていただいてありがとうございます、付かぬことをお訊ねしますが、工事させてもらった代金のお支払予定はいつ頃になるのでしょうか」

「えっ、工事が終わった当日にお支払いしましたけど」

「お宅の担当は田沼浩治なのですが、田沼にお渡しいただいたのでしょうか」

「そうです。今日は会社の領収証を持ち合わせていないので後日持ってきます、とおっしゃって市販の仮領主証を置いていかれました。正式なものはまだ頂いておりません」

 領収書が不明になっていることに関連する不正をしているのではないか、と思った狙いは当たった。それからさらに数件同じような電話を掛けた。いずれも仮領収証で集金済であった。不審感を抱かれると会社の信用問題になるので1時間後には、「お金を頂いていました、こちらの処理間違いでした、失礼しました」と打消しの電話を掛けた。

 田沼浩治が不正をしている。そこまでは判明した。これは思ってもいなかった領収書紛失の副産物であった。追求すればそこに突き当たる気がして詮索の手を緩めなかった。

 浩治は1日の仕事を終え心身ともに疲れ果てクタクタになって帰ってきた。机に業務カバンを置いたところで栗田営業部長に、「田沼こっちに来い!」と怖い目つきで呼び出され別室に入った。経理課長も入ってきた。

 浩治はこの時点で悪事がバレたと観念した。

 自ら俯いて、白状した。

「一時流用してパチンコにつぎ込んでいました」

 もう自転車を漕ぐのに疲れて、身も心もへとへとになって倒れる寸前だった。

「いくらごまかした」

 営業部長はあっけにとられて、声に力をなくし問うた。

「調べてみないと分かりません」

 今度は天井見上げて、開き直りともとれる答え方をした。

 根っからの悪人ではなかったので、うそぶくとか言い逃れはできなかった。一切合財ぶちあけて処分を受け早く楽になりたかった。

 経理課長が付け台帳に基づいて浩治が着服した金額を算出したところ358万余円に上った。

「これだけの金を着服してパチンコにつぎ込んでいたのか」

「はい」

 浩治は憔悴して、蚊の鳴くような声で認めた。上月摩耶に脅迫されて貢いでいたとは男の意地でどうしても言えなかった。

「返せるのか」

「⋯⋯」

 家族の顔が次々に浮かんだ。家庭菜園で野菜を育てているお母ん、惣菜店でアルバイトして家計を助けている妻、大学受験に備えて塾に通い勉強している高三の長男、バイクに凝っているやんちゃな高一の次男。

 浩治は水分を抜かれて萎れた大根のようにうなだれかろうじて立っていた。

「社長と相談して処分を決めることにする、今日のところは机や私物庫の整理をきちんとして帰ってくれ。明日から出社しなくてよい」

 営業部長は自分の首に手のひらを水平に当て、ちょんとあてがった。

 浩治は顔面蒼白で席に戻ったところに待ち構えていたように上月摩耶が寄ってきた。

「領収証、私に渡して」

「経理課長に渡した」

 上月摩耶の顔色が変わった。そそくさと帰り支度して更衣室で化粧も直さず帰宅してしまった。

 経理課長が気付いたのはその後だった。

「あれっ、この領収証、紛失した領収証や。なんで浩ちゃんが持ってたんや。それにしてもおかしいなあ、入金時はこれを使わないで正規に登録しているものでなされている。誰か付け替えてたんや」

 上月摩耶の机の引き出しをかき回した。浩治が本来持っていなければならない領収証が出てきた。

「浩ちゃんが入金する都度手元に隠し持っていたこの領収証に書き直してたんや、浩ちゃんが持っている領収書はあの娘が使用者登録していなかったので紛失になっていたんや。浩ちゃんは書き直されているのも知らんと使ってたんや。あれっ、入金日がずれたる。さらに一時着服してたんや。まだ入社して間がないのに、浩ちゃんのやり方を真似てこんな悪いことをしてたんや。浩ちゃんはあんな小娘に振り回されて、一生を台無しにしてしまったわ」

 怒りと虚しさで声が震えていた。

 2日後の七夕の日に、上月摩耶から退社願が郵送されてきた。一身上の都合により、となっていた。

 田沼浩治は、懲戒解雇になった。本来なら退職金は出ない。しかし30年間勤務していた功労に報いるため慰労金が支払われた。

 社内の噂によると、慰労金を支払うように強く社長に進言したのは営業部長の栗田三郎であったらしい。長年勤務した功績に報いるべきだと迫ったらしい。そんな温情がなされていたことについて田沼浩治は知る由もなかった。銀行口座に振り込んであったので気づいたのだが名目が(退職保険金支払い)となっていたので深く考えないで受け取った。


        3


 田沼浩二は高卒後30年間務めた高尾設備㈱会社を退職した。はっきり言えば解雇になった。再就職先として選んだのは京都市下京区の大手清掃会社であった。職種は特殊清掃である。正式な社員ではなくフリーランスの契約社員となっていた。特殊清掃の主たる業務は、自殺や病気で誰にも看取られることなく孤独死した部屋を清掃する仕事である。腐敗し異臭の漂う遺体を警察が検視するため運び出した後に遺族や家主の要請によって清掃する。衛生観念が行き渡っていなかった一昔前は遺族の手で行われていた。最近では業者が行うことが多くなっている。世間になじみの薄い隠れた仕事を選んだのは不始末による退職を迫られた身を隠したかったのかもしれない。

 今日は契約している清掃会社の軽トラを運転して出かけた。京都市東山区五条坂鐘鋳町の一角をカーナビに導かれて辿り着いた。近くに著名な陶芸家河井寛次郎の記念館があった。通りに面した部屋を弁柄格子で隠した、見ようによってはしゃれた、平屋の一軒家が今日の仕事場だった。ついこの間まで掛かっていたのだろう日焼けしていない表札の跡がクッキリ残っていた。

 軽トラの助手席で用意してきたつなぎの防御服に着替えた。フードを被ってサージカルマスクと防塵マスクを重ねゴーグルを掛け、上履きの靴に履き替えた。肘まで覆うゴム手袋を嵌めて念のために首にタオルを巻き肌が露出している部分を完璧に覆った。依頼主が会社に預けていた鍵を玄関戸に差し込んで中に入った。三和土に立つとブーンと腐敗臭が鼻孔を突いた。陶器の傘立てと天然木のロータイプ引き戸下駄箱が置いてあった。傘立てには女物の和傘と男物の蛇の目傘が絡ませるように立てかけてあった。下駄箱の上に歌舞伎役者の色紙が額に入れて飾ってあった。

 框を上がったところに三畳間の和室があって備え付けの違い棚が設えてあった。値打ちのありそうな伊万里焼き風の花柄壺が置いてあった。その横に虎猫の写真が飾ってあった。部屋の天井も壁も畳もくすんでいた。次の間は八畳の和室だった。居間として使っていたらしく彫刻を施した座机が一脚と周りに揃いの無地の座布団が乱雑に配してあった。壁際には桐の和箪笥が二竿、と洋箪笥が一棹壁の隙間をなくすように配置してあった。引き出しを開けてみた。ナフタリンの匂いが鼻を突いた。たとう紙に収納した着物がびっしり詰まっていた。隣の箪笥にも着物と帯がびっしり、その下段には襦袢とハンドバックや帯締め紐等の和装小物で占められていた。箪笥の上に小さな仏壇が置いてあった。仏像も位牌もなく緞子の法妙軸に男性の俗名が手書きしてあった。その前に小さな骨壺が置いてあった。黒真珠のタイピンがひっそり入っていた。形見らしい。祀られている人との関係が正式な夫婦ではなかったと察した。

 この部屋も天井を含めて全体がくすんでいた。壁に掲げてある半年前のカレンダーが新鮮だった。次の間も和室で六畳の真ん中にリクライニング式ベッドが置いてあった。木製の椅子もリクライニング式だった。住人はこの部屋で寝起きしていたのだろう。ベッドの蒲団を捲ってみた。汚物の臭がかすかにしたがシーツに滲みはなかった。壁際に塩ビの化粧ケースが三列になって計十二個重ねてあった。いずれもパンツや肌着の類で紙おむつは封を切らない状態で多数積み重ねてあった。貴重品は一切なかった。印鑑も通帳もなかった。死期が迫り市の福祉の世話で入院したと聞いていたのでその時持ち出したのだろう。台所と洗面室や風呂場とトイレをざっと見て回った。いずれも最近は使用していなかったらしくゴミはなく出窓に胡椒の小さな瓶が残っていただけであった。居間に戻って果てと首を傾げた。

 ケータイで清掃会社の社長に問い合わせた。

「家の中を見ましたが別段私が清掃しなければならない箇所はありませんが」

「そうか。亡くなったのは病院と訊いていたけど、自宅で長い間臥していたと聞いていたので、特殊清掃しなければならないだろうと判断して頼んだんや。遺品整理は娘さんに立ち会ってもらわないとできひん。うちの社員使ってやるわ。ご苦労さん、引き上げてんか。日当は払うからな」

「なんか悪いですね」

「たまにはええやんか。この前みたいに汚物にまみれて死んでいてウジ虫が蒲団の上を這っていた家もあったし」

「あの家は特にひどかったです。目に浮かんで食物が喉を通りませんでした。この仕事は長く続けられませんわ」

「そんなこと言わんと。酒でも飲んで忘れてんか。それではな」

 浩治は軽トラの助手席で家を出てきたときのラフな普段着に着替えて帰途に着いた。パチンコ屋の前で手が勝手にハンドルを切った。帰るには早すぎるので時間潰しのため運転席で煙草を燻らしていた。眼つきの鋭い兄ちゃんが近付いてきた。目が合うと「なんや、お前か」と一瞥した。自動車が軽トラに変わっているので新参者と見たらしい。この兄ちゃんの仕事は駐車場の管理だが、金を持ち合わせない者や負けてスッテンテンになった者を嗅ぎ付けては少額の金を貸すもぐりの貸金業をしている。返せなかったら闇のサラ金業者を紹介して都合つけさせる。金利は異常に高くてもそうするしかないように言葉巧みに仕向ける。小遣い稼ぎのつもりで嵌まった主婦が狙い目だと聞いたことがある。若い主婦なら売春を強要するらしい。とにかくこの手の者に嵌まったら家庭が崩壊する。

 兄ちゃんが目ん玉をプイッと端に寄せる目付きをしたので軽トラを駐車場から出した。会社に戻って軽トラを返却し、おんぼろ自家用車に乗り換え、妻の晴代が帰ってくる時間に合わせて帰宅した。今日のように仕事が早く終わっても先に帰るには気が引けた。妻はパートで働いていた惣菜店を辞めてスーパーの鮮魚店に常勤で勤め始めて一ヶ月になる。まだ下働きの段階で調理場の清掃と魚のおろし身を取った後に残る粗や屑を始末するのが主な仕事である。魚の匂いを体に沁み込ませて帰ってくる。匂いを嗅ぐ度に迷惑をかけているので気が落ち込んだ。

 妻の晴代が明るい声で、「国民健康保険と国民年金に切り替えた」と言った。

 いっそのこと「辞めたんやからしゃあないやろ」とか悪たれ口を叩いてくれた方が受け入れやすいのだが気遣うので重荷が倍になった。

「今の仕事は社会保障がないのでサラリーマンに戻った方が良いな。実入りが良いので飛びついたけど、いろんな面を考えてなかった。職安に行けば見つかるやろ」

「無理せんでもええで。何とかやっていけるのでしばらく休養したら。30年間無欠勤で頑張ってきたんや。ご苦労さん」

 いたわりの言葉が皮肉に聞こえた。30年間も在籍していて何の役職にもつけなかった無能者、と蔑まされたようだった。

 妻は台所立って夕飯の拵えに取り掛かった。包丁がトントントンと軽やかな音を立て始めた。その音を聞いているとわざとらしく作ったように聞こえた。

 やんちゃの高一の次男が帰ってきた。

「おっ、お父んもう帰ってる、早かったな」

「早く帰ってきたら悪いんか」

「えっ」

 びっくりして、きょとんとしたが直ぐに持ち直した。

「あんな友達がロードバイク乗り換えよんね、古い方を貰えることになった。これや」

 と、言ってスマホを取り出して見せた。

 買ってもらえなくなったので友達のお古で我慢するのだ。気立ての良い高三の長男は妻に大学進学を諦めて専門学校に行くと言ったそうだ。思いとどまらせたら涙を浮かべていたと言った。子供にまで気遣いさせていることが一層の重荷になった。

 翌日、清掃会社から電話が掛かってきた。

「あんな昨日入ってくれた家に、娘さん立ち合いで後片付けに行っているんやけど、箪笥の引き出しに現金一千万円ほど入れてあったけど無くなっていると言ってきた。まさかと思うけどあの家に入ったんはあんただけや」

「箪笥は開けましたけど着物ばかりでそんなものなかったです。絶対に盗んでいません。警察に届けてください。言い掛かりつけるにもほどがあります」

「俺もおかしいと思うけど、一応聞いてみんとな。なんでそれほどの大金を死後一か月間も経っている家の箪笥に放っておいたんか気が知れん。普通は入院するときに持ち出すもんや。嫌な気分にさせたと思うけど堪忍してや。明日は次の仕事が入っているので頼むわ」

 浩治は電話を叩きつけるように置いて天井を仰いだ。むらむらしてきて動悸が高く波打った。義憤に駆られて片付けに入っているという昨日の現場に行ってみた。

 立会人に会って仰天した。

「お前か⋯⋯」と言ったきり次の言葉が出てこなかった。派手な形をした上月摩耶も目を大きく見開いて見詰めているだけだった。突然だったのでどう対応すべきか脳が麻痺して五体の動きを止めた。

 気を持ち直したのは上月摩耶の方が早かった。

「ちょっとコーヒー飲みにいって来ます。何か問題が起こったら携帯に連絡入れてください。直ぐに戻りますので」

 清掃作業員に言い残して出て行った。背中が姿が私について来いと言っていた。

 近くのカフェに入って奥まった二人掛けの席を選んで座った。

 摩耶は浩治の瞳を覗き込むようにして言った。

「私の思い違いだったことにしとく、それでええやろ」と。

「お前の思いつきそうなことや、悪いことはできんな、世間は狭い。今どうしてるね」

「次の仕事に就いてる。そんなことより私をどつきまわして刺し殺したいか? かまへんで」

「お前みたいな屑を殺して刑務所に入るのは名折れでしかない。屑は所詮屑や。どこかに消え失せろ! 人間らしく生きていけるとは思うな! この屑!」

 浩治は心の奥底で渦を巻いている憤りをぶちまけた。

 上月摩耶はキッと眉を立てた。

「ああ、私は屑や。生まれて直ぐに養護施設に預けられたんや。父親と母親に捨てられてな。施設を十八歳で退所するとき所長が母親が預けに来た、と打ち明けてくれた。まだ目も明いていない乳児やったらしい。預ける時、母親の姓名を明らかにしないという約束やったらしい、けどちゃんと育ってこの施設を出ていくんやから知らせておく、事情があったんやから決して恨んだらあかんで、と諭した。聞いたからには穏便に済ませるかいな。全身の血液が怒涛逆巻いて心臓が飛び出るほど猛り狂った。どんな気持ちで施設で過ごしていたか分かっているのか、と叫んで机や壁を蹴りまくった。同居している子が私に抱き着いて一緒に泣いてくれた。所長がギューと抱きしめてくれた。涙が枯れるまで泣いたことを覚えている。育てられない子を産んだ無責任な母親を断じて許せなかった。金輪際会うものかと決意した。けど心の隅に常に母が静かに座って私を見ていた。施設を出てアパートで一人ぼっちの生活を始めたら無償に会いたくなった。伝手を頼って捜し歩いた。住んでいたのは浩ちゃんが清掃に来てくれたあの家や。愛人として囲われていた。囲っていたのは私が就職したあの高尾設備㈱の会長やった。私の父親をこの時初めて知ったんや。すでに亡くなって仏壇に祀られていたけどな。月々のお手当てをなくした母は生活保護を受けていた。肺癌が進行して余命いくばくもない状態やった。神様なんて信じてへんけど死に際に合わせてくれたと思った。ガリガリに痩せた手で私の手を握り、捨て子にした過去の行いを詫びた。そんな母をシラーと見詰めていた。会いたい一途で探し当ててもいざ会ってみたら抱きしめて不遇を慰め合うどころか涙も出ず、何の感情も沸いてこなかった。見ず知らずの他人と対面しているようやった。親に育てられなかった子は情の具合が一般人と違うね。どこかが欠落したるね。そこんとこを一般の人はなかなか分かってくれへん。小学6年生の時初めて補導された。繁華街で前を歩いていた4つか5つぐらいの女の子の背中を蹴ったんや。可愛らしい子やった。白いフリルで縁取りした赤い服着てキャラクターポーチたすき掛けして髪に大きなピンクのリボンつけていた。両親に手を繋がれてスキップしながら歩いとった。その姿見たらムラムラして足が勝手に蹴った。その子の父親に捻じ伏せられて警察に突き出された。警官が「なんであんなことしたんや」と訊ねたけど衝動やったので理由なんてない、黙っていた。それからも度々問題起こした。中学生になって私は普通と違うと気づいたけど修正はできひんかった。学習能力は高かったので府内の公立進学校に入学した。しかしそこで終わりや。いくら成績優秀でも大学には進めへんね。入学したらアルバイトと奨学金でやっていけたかもしれんけど、入学金を用立てられへんね。高卒で就職した先でお金をごまかして首になりまた次の就職先でも誤魔化しては辞め、また次を探すパターを繰り返した。何とかして大学に入るための資金を得ようと手っ取り早い方法に走ったんや。一般人には思いつかない方法やと思うけど私にとってはそれが学費調達方やった。あの高尾設備㈱では会長の実子だという事情を汲んでくれるかと思って、面接で母は元会長を知っています、と言ってみたけどその場では無視された。しかし採用してくれたのは会長の娘という境遇を汲んでくれたのかもしれへん。大学卒としていた履歴書は嘘やで。私にとっては偽装するのは普通なんや。聞いてびっくりしたか? 屑には屑のやり方と生き方があるね」

「お前、べらべらしゃべっているけど、気い確かか。なんで隠しとかなあかんことを俺に打ち明けるね」

「浩ちゃんと久しぶりに会って、胸にしこりとなって残っていたあの件で、私の育ちを明らかにしたら分かってくれると思った」

「お前の育ちを知って同情し許すと思ったんか。施設で育った子を売り物にして甘えるな! 施設で育った人は大勢いる。大概の人は真面目に過ごし社会の一員として解け込み生活している」

「甘えてへん。利用しているんや。どうせ私は半端者や。世間からズレて生きていくしかないんや」

「それを甘えというんや」

「浩ちゃんもおんなじや。集金したお金を一時流用してパチンコに注ぎ込んでいたのと違うの。古顔なんで大目に見てくれるやろ、販売成績も良いし、と高くっていたんや。それも甘えや。図に乗って続けていたら責任取らんとあかん状況になってたんやで。私を悪者にして、みんなの同情集めて、退職できたので、有難かったとお礼言ってほしいぐらいや」

「身勝手な屁理屈もほどほどにしとけ。お前が俺に付け込んでこなかったら、あの高尾設備㈱で定年まで過ごせたんや」

 摩耶はニヤッとニヒルに口元歪めた。

「浩ちゃんは恵まれてんね。昇進できひんので拗ねていたけど、家に帰ったら一家の主として迎えてくれる家族が居たんや。奥さんや子供さんに相手してもらって、嫌なことを紛らわせることができたので自分を向上させる気が沸かなかったんや。そんなぬるま湯につかってのんびりしているところを私が厳しい世間に引き摺り出して晒しものにした。パチンコ源にしていた悪行を暴かれてパニックになったんか、体面があって正直に認められなかったのか知らんけど、浩ちゃんみたいに脅したらいくらでもお金を都合つけてくる人に会ったのは初めてや。大概の人は警察に相談しに行くか、逆上して殴りかかってくるか、刃物振りかざして取り下げさせようと図ってくる。世の中にはこんな甘い人もいるんや、と笑えてきて面白くなり、ズルズルと続けてしまった」

 浩治は摩耶の渾身の告白を聞いた。裏に潜んでいる真を探り当てることはなかった。

「そのとおり、俺は甘い人間や。摩耶のペースに嵌まって、ズルズルと深い穴に滑り込んでしまった、頭が面食らって清浄に働かなくなり金を貢いでしまった。体面に拘らなかったらよかったんやけどな。今となっては後の祭りや。特殊詐欺に引っかかる人の心理がよう解った。こんな話はもうええ、俺は俺なりのやり方で生きていかんとしゃあない。今更変革はできない」

 自分の柄から抜け出ようとはしなかった。

 摩耶は自分の言い分を通したので、納め時と判断したのか、もう一度浩治の心に飛び込んで打ち解け合おうとはしなかった。

 ポケットに手を突っ込んで携帯を取り出し耳に当てた。

「なんでしょうか。はい、直ちにそちらに戻ります」

 摩耶は浩治を喫茶店に置き去りにして現場に取って返した。携帯の着信音は鳴らなかったので消音にしていたのかもしれない、と思ったが、そうではなくこれが摩耶のやり方だと気づいた。改めて自分とそりの合わない人間だと解釈した。

          *

 翌日、浩治は気を取り直して特殊清掃の仕事に出かけた。

 そこは戦前に建った塗り壁造りの古びた民家だった。身寄りがなく一人暮らしだった老婦人は異臭を発する方法で死んだことを近所に知らせた。

 防御服ですっぽり身を覆いゴーグルを掛け、サージカルマスクの上から防塵マスクで二重にガードした。「よしっ」と気合を入れゴム手袋を嵌めた。

 遺体があった奥の間に入った。

 敷きっぱなしになっていた部屋の隅でやせ細った黒猫が死んでいた。精魂尽きてたのだろうか右前足を生きる糧を探して精一杯伸ばしていた。障子は引掻かれてボロボロ、壁にも腰板にも、冷蔵庫にも命を懸けて足掻いた痕跡を残していた。飼い主が死んでもしばく生きていたものとみえる。黒猫の無念さに心根が深く抉られて、合掌してから段ボールケースに入れて玄関の三和土に出した。遺体が放出した水分で湿っぽい蒲団をグルグルっと撒いて紐をかけビニール袋に収納し軽トラの荷台に運んだ。畳の上にカーペットが敷いてあったので折りたたんで同じようにして運び出した。それから湿気でぶかぶかになった畳を上げて立てかけた。床板は一部抜けていた。鼠の糞とゴキブリの死骸がつくなっていた。箒で掃いてゴミ袋に収納した。消臭スプレー一本使い切って腐敗臭が漂う部屋の空気を清めた。

 一段落したので新鮮な空気を嗅ぐため表に出た。

 隣の玄関引き戸がガラガラと開いた。此方を向いた白髪の初老の婦人の目線と合った。前掛けで両手をもみながら声を掛けてきた。

「ご苦労さんです。お掃除もう終わりましたんか。この家のお婆さんは、独り住まいを長く続けてきゃはりました。ご主人は大きな会社のえらいさんでしたから高額の遺族年金を貰ったはりました。派手な生活したはりませんので小金溜めたはると近所でもっぱらの噂でした。子供さんは、やはりません。甥っ子が名古屋から出てきてお葬式出さはりました。町内の者はそのとき初めて親族の方と顔合わせたんどす。初七日をその日に終えて、弔ってもらったお寺に遺骨を預けて、さっさと名古屋に帰ってしまわれました。近所には一切挨拶ありませんでした。遺産配分は遺言状か法律にのっとって分配されるように聞いています。けど、私とこはお隣の誼でいろいろとお世話してきました。生前のお話では、あんたとこにはいろいろ迷惑かけているので、考えるように書いといたとおっしゃっていました。なんぞ書付ありませんでしたか?」

 その老婦人は白髪を血管の浮き出た細い手で揉み上げるように撫で、濁った眼をしょぼしょぼさせて返事を求めた。世間とはこんなものなんだろうか。無言を返事に代えるしかなかった。

 特殊清掃の仕事を長く続けていこうとすれば世間に横たわる不偏な精神を一時ロックするか麻痺させる必要がある。関わりたくないもの、頭を突っ込みたくないもの、を目や耳に蓋をして乗り切るしかない。吐きだす場のない鬱積が日々蓄積していった。

       *

 夏のじりじりと肌を焦がす熱源の太陽が陰りを見せ始めた。1週間後にはお盆休みになる。浩治一家は、コロナ禍で外出を控えるようになる3年前までは、妻の里である兵庫県赤穂市に帰省するのを恒例としていた。近くにある県民丸山サンビーチへキャンプに出掛けてバーベキューを楽しんでいた。今年は外出が出来るようになったので久しぶりに80歳を越えた祖父母を連れ出して、海の匂いを嗅ぎに行く予定になっていた。しかし家族はいつ行くとも言いださない。準備も始めない。お盆休みはエアコンを利かせた家の中でごろごろしているつもりなのか、いや違う。言いだせない雰囲気が一家を支配しているのだ。誰か言い出しっぺにならないか、と様子見している。家族の心理を思うと居たたまれず、さらに鬱積を溜め込んだ。

 携帯が鳴った。

「浩ちゃんか? 俺や。元気か。釣りに行かへんか?」

 耳に胼胝ができるほどこびりついている人の誘いだった。釣りは趣味だったが会社から追い出した者をなぜ誘う気になったのか、声を掛けなければならない現役組がいくらでも居るではないか、合点がいかなかった。浩治の方はすでに縁を切っていた。しかし誘われたら悪感情を抱いていても断れなかった。これが人柄だ。

 8月14日、日曜日。お盆を迎えたとはいえ暑さは厳しい。

 パールホワイトのセダン型トヨタカローラを運転して浩治を迎えに来た栗田部長は時候の挨拶もせず、解雇した時の言い訳もせず、「やあっ、行こか」と現在も社員であるかのように軽く呼び掛けた。

 ハエ釣りで名の通った近くの川の堤防を30分走って河川敷に下りた。すでに50台ほど乗用車が駐車していた。近頃は車種の好みが多様化して、セダンタイプ一辺倒ではなくなった。ランドクルーザーやライトバン、ワンボックス型まで、ボディスタイルの異なる、色もとりどりの自動車が好き勝手に頭を向け停まっていた。

 バーベキュウを楽しんでいる家族や若者グループを横目に麦わら帽子を冠って、クーラーボックスを肩に掛け、竿と、たも網を担ぎ、釣り道具を入れた生成りのトートバックを両手で持って釣り場を求めて遡った。

「浩ちゃん此処にしようか」

「はい、栗田部長」

 もう職場の上下関係はないので、さん付けでよかったのだが名前の下に役職を付けて返事してしまった。

 持ち込んだ釣り道具を石ころだらけの河原に下ろした。仕掛けはすでにセットしてあるので竿に繋ぐだけである。長靴を履いて流れの中に入った。

 二人は十メートルほど離れて疑似餌で試してみた。アタリがないのでミミズに替えた。

 栗田部長はウキが波間に浮き沈みしながら流れ下るのを目で追いながら、さりげなく「上月摩耶と親しいか」と訊ねた。

「あれきり会っていません」と浩治は嘘ついた。

「あんなことされたんやから腹立っていると思う。その話は置いといて、あいつが社長を脅しに来とるね。腹違いの妹やから何とかせよと言ってきたたらしい。俺も亡くなった会長に隠し子がいる噂を聞いたことがあるね。上月摩耶がその噂の子やったんや」

「そんな話は聞いたことありません。びっくりしています」

「上月摩耶がな、田沼さんは知ったはります、と答えたそうや」

 浩治はシラを切ることができなくなった。あいつは会社を脅迫するため俺を引きずり込むつもりなのだ、自分の利益に繋がるものものなら相手に迷惑掛かるのをいとわずに利用する。屑には屑の生き方がある。と、のたまいていたことを忘れてはいない。

「実は特殊清掃の仕事をしておりますので、偶然上月摩耶の母親の死去の後始末をすることになりました。上月摩耶が立会人となっていましたので言葉を交わしました。その際身の上話になり会長が父親だと言っていました。会長と上月摩耶の母親との間柄については愛人関係であったとしか語りませんでした。場所は五条坂でした」

「噂話の中で出てきた場所と合っているな。五条坂あたりに囲われていると聞いた。その女は祇園の花街にいたそうでそこで亡くなった会長と知り合ったらしい」

「家の調度品が粋でしたのでそのような方だったと思います」

「上月摩耶は、認知しないのであれば、出るところに出てケリ付けたる、と社長にすごんだらしい。社長もその話は知っていたらしく金で解決つけられるものなら、と言うてた」

 栗田部長の浮きが、ぴくっと沈んで横に引っ張られた。話しながらでも手先の神経は張りつめていた。合わせたら銀色の魚の腹が流れの中でくねって手元に引き寄せられてきた。浩治はタモを伸ばして引き上げた。

「いい形してますね。ハエの雌ですね。腹を出しましょうか」

「自分でやるから構わんと釣ってたらよいわ」

 手早く腹の処理を済ませてクーラーボックスに収めた。

 再び並んで釣りを始めた。

 今度は浩治の浮きがぴくぴくと浮き沈みした。釣り上げたのは婚姻色が美しい雄のハエだった。1時間ほどで10匹釣った。

「浩ちゃんに頼みたいことあるね。上月摩耶の真意を探ってほしいね。単なる金目当ての脅しなのか、会長の娘として要職に就きたいのか、そこのところを社長は判断しかねているらしい。会長はすでに亡くなっているから現社長に訴えるしかないわな。上月摩耶から見たら義兄になる人が頼りや。経営者の女性関係の醜聞が広まってガタガタになった会社は数多くある。表ざたにしないで解決したい社長の気持ちはよくわかる」

「私はあの会社を追われた人間です。悪いことをしていたのですから別段恨みを持っているわけではありません。理由がどうであれ去った人間ですので会社に関与することは控えます」

「今の特殊清掃の仕事で一生終えるつもりなんか」

 ちょっと間ができて二人は浮きの流れを追っていた。衰えてきたとはいえ熱量の豊かな夏の太陽が川面に照り返して顔面がヒリヒリ熱を帯びてきた。

「浩ちゃん、復職せえへんか。あれだけの技量を埋もれるのは勿体ない。再度迎える時は課長の椅子を用意する」

 栗田部長が思ってもみなかったことを提案した。どういうつもりで言ったのか解せなかった。会話が途切れてせせらぎの音を耳にするだけになった。

 ふたりは釣れなくなってきたので場所を変えようとして少し上流の瀬に移動して釣り糸を流してみたが釣果は芳しくなかった。

「やめようか、この時間になると釣れんわ」

 栗田部長は手をかざして恨めしそうに太陽を見上げ、さっさと自分の道具を仕舞い始めた。浩治も応じるわけにはいかなくなってごそごそ帰り支度を始めた。

 帰りの自動車の中で心中を探った。

「部長、何か考えているのですか。会長の個人的な醜聞ですので放っとけばよいのと違いますの」

「俺の気持ちを分かってくれ。あいつが役員にでもなって入り込んで来ょったら俺はどうなる。会社がどうなると言っているのではないぞ。社長は摩耶を取り込んでしまえば金を払わずに済むと考えている節があるからな、ケチなのでその可能性は十分あるのだ」

 ギョッとした。

「まさか上月摩耶が役員になって乗り込んでくることはないと思いますけどね」

「脅しは金目当てであるかもしれんけど、その方が高いと思うけど、要求する金額によっては、会社に迎え入れて、抱き込んでしまえば安く形をつけられる。そうなったら会長の娘であることは間違いないので本人の技量がどうであれ会社としてそれなりの役職で迎えないわけにはいかんだろう。そこでだ、上月の真の考えが知りたいのだ。浩ちゃんが探ってくれたら俺は生き残る対策を立てられる。 部長という役職に就いていても、雇用されていることに変わりないのだ。不安定な点では平社員とおんなじなんだ」

 栗田部長は心底を吐露させた。

 今日、会いに来た目的を知って心が動いた。「復帰しないか、課長の椅子を用意している」とも言ったので尚更だった。それでは部長の探偵になって、上月摩耶の動静を探ります、とは言えなくて踏みとどまった。この人に30年間利用され続けてポイッと捨てられたのだ。その恨みは心に焼き付いていた。

 家の前まで送ってもらった。釣り上げた魚を全部貰って玄関戸開けた。魚は唐揚げになってその日の夕食の一品になった。

 浩治は就寝する床に入って妻に今日の出来事を打ち明けた。

「お父さん、あの女は会長の娘として会社に乗り込む気はないと思うわ。お父さんに罪を着せた悪事の記憶はまだ社内の人達に鮮明に残っているはずや。冷淡な目にさらされるのが分かっている会社に戻って上司として仕事できるか。私はあくまでお金目当てやと思う。お金で解決するわ。ところがそれでは面白うない、利用したろ、と考えている人がいるんや。栗田さんは狡いで。自分の地位の安定のため対策を講じたいからや、と言っているけど、それは嘘や。お父さんに、あの女を探らせて動きを把握し、それを基にして事態収拾の提案を社長に進言すれば信頼を得られると考えているんや。それがあの人の生き残り策や。私はお父さんに解雇を告げたあの人が憎いんや。責任の一端があったのに頬被りして罪を押し付け逃れたんやで。本来なら上司として何らかの責を負うべきやった。社外に放り捨てた人間を厚かましくも利用しようとしている栗田さんの思惑に嵌まったらあかんで。課長の椅子を用意しているとしても、あんな事件を起こした者がシャアシャアと復帰できるか。あんたはそんな神経の太い人ではないやろ。その場しのぎの誘い文句や。まあ利用されて終わるだけやな。私には見えている」

 妻の晴代の鬱憤に一理あると思った。在職していた時は便利屋として栗田部長に重宝されてきた。販売成績が優秀でありながら、昇進に向け自己主張をしないところを付け込まれて30年間不当な待遇を受けてきたのだ。社外に追放しておいても、必要とあれば引っ張り出して使う気なんだ。

 在職していた過去をほじくり返していると、自身に苛立ってきた。「仕返しをしてやるか」。横で寝ている妻にそう漏らして寝返りを打った。

          *

 お盆休みが明けた。浩治は特殊清掃の仕事を終えた夕方〈パチンコ・東京CLUB〉に出かけた。自家用車のトヨタカムリの運転席の座席を倒して煙草を燻らしながらあいつが現れるのを待った。

「おい! パチンコせえへんのか。せえへんねやったら出ていってくれ。不法駐車で罰金執るぞ」

「ちょっと助手席に座って俺の話を聞けや」

 怪訝な顔して乗り込んできた兄ちゃんにいきなり

「おいしい情報を手に入れた。介入して稼ぐ気はないか」と話しを持ちかけた。

 兄ちゃんは裏の道を歩んでいるだけにこういう情報にはあざとく反応した。一通り話を聞いて、

「おいしい話やな。何処で手に入れたんや」とニヒルな顔つきになってゴクンと喉を鳴らし話を唾を飲み込んだ。

「その会社の幹部の人間からや」

「ちょっと当たってみる。この話は預かっておく。ところでお前はどういう腹つもりでこんなこと俺にバラすんや。なんか当てがあるのか」

「何んの当てもなくこんなこと頼まへん」

「聞かんことにしとく。いずれ解ることや」

 ぎょろりと睨まれて、小心な浩治は単に仕返しでは済まないような大それたことを依頼したように思って震えた。パチンコ屋の兄ちゃんには用心のため携帯電話番号を報せていなかった。どうなったのか進捗具合を知りたいなのだが、知るには足を運ばなくてはならない。しかし悪いことを仕掛けたので怖くなりあのパチンコ屋に向かう勇気は出なかった。つんぼ桟敷に置かれて悶々と過ごすしかなかった。その後栗田部長から何の連絡もなかったのは幸いだった。

 数日経って、日曜日の昼下がり、かつての同僚富山高男がフラッと訪ねて来た。浩治と机を並べていた2歳年下の彼は営業成績が振るわなくて下積み生活を長く続けていた。互いに愚痴を溢し合っていた仲だったので顔を見るなり懐かしさがこみ上げ迎え入れた。

「まだ暑さが厳しいですね。どうしたはるのか気になって訪れました。社内では田沼さんに同情している人が結構いますよ。私らに相談してくれたらよかったんやけどなあ。がむしゃらに仕事するようになった時点で異変に気づかなあかんかった、反省点やな。と言っています」

「同情されると俺の不甲斐なさが身に沁みるな。次の仕事に就いて頑張っている。影の仕事なので公にできないけどな。会社は順調か。辞めても気になるもんや」と探った。

「それがですね⋯⋯」と富山は顔を曇らせた。

「ごたごたしていますね。総務部長が営業部長に売り上げが伸びないと言って僕らの前で詰るようになりました。栗田営業部長は初めのうちは、頑張ります、とか言って聞き流していたんですけど、社長から叱咤されたのならわかるが総務部長がなんで口出しするんや、権限外の仕事に口出しすんな、と言って目を剥いて怒るようになりました。例のあのギョロッした鬼のような目ですよ。新形ウイルス禍ですから、うちの会社だけではなく何処も業績が伸び悩んで四苦八苦しています。社長は糖尿病が悪化して出社するのは月曜日だけになっています。総務部長が社長に成り代わって決済を代行しているのが現状です。この頃は社長席に座って営業課長や係長を呼びつけ直接意見を聞くことが多くなりました。まあ事実上の社長ですよ。栗田部長にとってはそれも癇に障っていると思います。俺を出し抜いて社長になるつもりか、と妬むしかありません。しかし、いくら妬んだところで会社の筋道とすれば総務部長が次期社長になるのは既定路線です。栗田部長もわかっていると思います。居残るなら総務部長に頭を垂れて服従するしかありません。もう一つは社外に飛び出して会社を立ち上げることです。社員は固唾をのんで成り行きを見守っています。総務部長にとっても敏腕の部長を社内に踏みとどませることができるのか試練を迎えているのです」

 浩治は営業部長栗田三郎の不安定な立場を社内の人間から知らされた。会社から追い出されそうな危機に立っているらしい。魚釣りに行った時のことを思い出した。不安定な立場にあることは薄々感じ取っていた。しかし上月摩耶の動きが知りたいとは栄進する策を講じるためだ、と妻の晴代から指摘されてムカつき、報復しようとパチンコ屋の兄ちゃんに餌を与えた後だ。浩治も足を引っ張って追い落とそうとしているのだ。弱い立場に立たされている人に追い打ちをかけるようなことはできない性格なので気が沈んだ。

「俺が首になって2か月ほどなるけど、内紛になっているとは知らなかった。しかしもう去ったのだから関係ないことだ」と、突き放して様子を窺った。

「もし、栗田営業部長が追い詰められて退社し、新規に会社を立ち上げたなら参加する気はありませんか?」

「去った人間だと言っただろう。俺はあの会社で便利屋としていいように使われた。新しい会社に迎えられても同じような役割をこなすことになるだろう。見え透いている。そうでなければ不始末を犯した者を呼び出そうとはしないはずだ。拾ってやったと言わんばかりの待遇が待っていると思う。違うか?」

「今の話は私の勝手な想像ですからね。田沼さんが抜けて分かったことがあると栗田営業部長は言っていました」

「便利屋がいなくなれば不便だろうな。栗田さんはそのことを言っているんだろう。

「ところでね、上月摩耶という人がいましたね。あの人についてですが総務部長が復帰さすようなことを言っているんです。辞め方が尋常ではなかったですからその始末を付けてからになるらしいです。あの事件は上月摩耶が主導したのではなく田沼に巻き込まれたのだ。田沼が一番悪い。上月摩耶は被害者であった。と言っています。巻き添えを食っただけだとすれば復帰に支障はありません」

「そんな馬鹿な。俺は悪いことをしてたよ。しかし上月摩耶もそこに付け入って悪いことをしていたんだ。総務部長が工作して俺に全責任があったようにでっちあげるつもりなんだ。実際を知っている人はそんな逃げ口上に騙されへん」

「会社という組織はトップが白と言えば黒であっても白になるんです。そんなことぐらいわかっているでしよう。総務部長の腹次第です。田沼さんは会社を去った人ですから罪を着せやすいですよ。何でもかんでも擦り付けたらよいわけです。真意は兎も角として社員は従うしかありません。売上金を一時着服してパチンコに使っていた事実は明白なんですし、上月摩耶さんが嗅ぎつけて脅迫しお金を巻き上げていたのも事実です。しかし田沼さんの着服行為がなければこの件は起こらなかったとも言えます。田沼さんに押し付けて上月摩耶さんを復帰さすことは可能です。総務部長は次期社長です。現社長の病状次第では明日にでも交代があっておかしくないのです。その人が言っているのです」

 かつての同僚が突然このように話をしに来る目的は一つしかない。

「君は会社に愛想尽きて辞めるのか?」

「もしか、の話しになりますが、栗田営業部長が会社を立ち上げることになれば移るつもりです」

「俺は何度も言うけど高尾設備㈱を去った人間だから会社の人事がどうなろうが関係ない。確かに君が指摘したように俺は売上金の一時着服をしていた罪は拭えない。しかしそこに付け込んで恥の上前を重ねるようなことはしてほしくない。上月摩耶は俺のとばっちりを受けた被害者だとして救済復帰さすのは常軌を失している。それほど彼女が必要なんか」

「必要かどうかは先ほども言いましたように会社の事情でどうにでもなります。総務部長は彼女を復帰させて会社の安定を図りたいのです」

 かつての同僚は会社の内部事情をあからさまにして、だから私はそんな会社を退職するのだと言いたいのかもしれない。それにしてももう一つ来訪の目的に合点いかなかった。迂闊な話はできなかった。

         *

 一週間ほど経った。上月摩耶が浩治のケータイに連絡してきた。

「浩ちゃん、頼みがあるね。私の身元保証人になってほしいね」

「お前の保証人になったら痛い目に合う、断る」

「もう保証人欄に書き込んで提出したので、あんたとこに問い合わせがいくと思うね、〈なりました〉と言ってくれたら済むことや。それじゃあな」

「おい、ちょっと待て。どこの会社か知らんけど問い合わせてきたら知らんというとく」

「私の頼みごとを断ったらどうなるか考えてみて。浩ちゃんが会社のお金をちょろまかして首になった事実を知っているのはあの会社の人間だけであって浩ちゃんの家の近所にはバレてへん。今勤めている清掃会社の社長も知らんと思う。私が浩ちゃんの近所や勤め先て、バラしたらどうなる。噂に追われて引っ越しを繰り返すか一生仕事を転々としなければならなくなるで、保証人の件は心配せんでも迷惑かけへんから」

「お前は厚顔な女や。そのネタで俺を退職に追い込んでおいてまだ追いかけてきてむしゃぶりつくす気か!」

 と憤ってみたが、いかんせん性格が軟弱なので強い態度を取って関係を遮断できなかった。

 文面で問い合わせてきた会社に驚いた。高尾設備㈱会社と同業のエトワール・ソシエテSAだった。フランス語で星を意味し、設立して数年しか経っていなくて従業員数は20人ほどだと聞いていた。設立発起人の社長は元某電機メーカーの優秀な技術課長でまだ30歳そこそこの若さである。新興企業特有のバイタリティがあり特にリフォームで斬新な設計に基づく施工を行い、世間の評判が高かった。

 文面は問合せではなく、〈身元保証人になっていただきありがとうございました〉と過去形になっていた。上月摩耶の採用が決定したのだ。しかし納得できなかった。疑念がむくむくと頭をもたげた。かつての同僚富山高雄がもたらした社内の様子と相反した行動だ。上月摩耶を在籍中の悪事を都合よく解釈し直して再び復帰さすというものだった。社内工作がうまくいかなくなって上月摩耶の復活は無くなったとみるべきなのか。あいつが義兄にあたる社長を揺すっていたのは単なる金目当てであったとすれば、手を引いたのは金をせしめたので去ったことになる。落着したのなら栗田部長や富山高男の安否が気になる。

 折よく富山高男が回答のような情報を持ってやってきた。

「総務部長が副社長に昇進なさいました。総務部長兼務です。経理課長が営業課長に所属替えになりました。空いた経理課長の席に営業課長が横滑りしました」

「そんなすり替え人事で大丈夫なんか。営業も経理もずぶの素人だろう」

「総務部長が副社長に昇格して実権を握られたわけです。人事について社員は口には出しませんけど今度の営業課長は新任の副社長の息子さんですので営業部長の栗田さんを追い出す人事だと噂しています」

「そんな仕打ちされて栗田営業部長はどうするんだろう。居座っているわけにはいかなくなるな」

「栗田部長は入社して以降営業一途でやってこられましたので経理面が疎いです。独立するには経理を担う強力な助っ人を必要とします。また設備資格を何も持っておられませんので、有資格者を集めに奔走しなければなりません。さてどうなりますかね」

 この段階になって浩治は独立に際し課長の椅子を用意して勧誘されたと判断しなければならなくなった。富山が二度も様子を見に来たのは、そこらあたりの返事を聞きに来たのだと思った。立ち上げる新会社の設立準備が進行しているのだ。浩治は腹の中で腕を組んで考えた。ついこの間まで携わっていた仕事なので意を決すれば即戦力として復職は可能だ。特殊清掃の仕事に嫌気がさしているときだ。栗田部長に悪意を抱いてパチンコ屋の兄ちゃんを唆して、仕返しするよう企てておきながら、お呼びがかかることを期待した。

 富山高雄は突っ込んだ意見も話し合いもしないで、単なる報告で帰ってしまった。

 もし、の話が本格化すればどう対処していけばよいのか、自分の行動に矛盾があるので頭を抱えていた折、上月摩耶が電話してきた。

「浩ちゃん、今の会社辞めてうちの会社においでな」

「断る」

「私の誘いを断ってばかりやな。警戒しているのか。浩ちゃんの欠点は意固地になって自分の殻に閉じこもることや」

「それがどうしてん。自分のことは自分が一番よく知っている」

「うちの会社は高尾設備㈱より小さいけどそのうち追い越してリフォーム会社として関西一円に根を張るからな。みんな若いから活気に満ち満ちている。仕事、楽しいで」

「俺みたいな爺が出る幕ないな」

「社長が言うてた。経験豊富なベテランが欲しいて。ウヒヒ」

 気味の悪い誘いだった。

 浩治は電話を切ってから考えた。俺は特段の技量を持ち合わせているわけではない、と思っていた。しかし栗田部長にも上月摩耶にも誘われるのは何でもこなせる技量を持っているわけだ。そこに自分の将来を想い描いて両手の拳に力を込めて握り締め立ち上がった。

        *

 浩治は勇気を奮って〈パチンコ・東京CLUB〉の駐車場に自家用車を止めた。

 駐車場を根城にしている半端者の兄ちゃんが姿を現した。才田健司という立派な名前を持っている。ただ堂々と名乗れないところに難がある。

「進捗具合を聞きに来た」と単刀直入に訊ねた。

「あの会社な、人事異動を巡って悶着しているように見えるけど総務部長が副社長に昇格してがっちりと社内組織をまとめた。付け入るスキはない。お前は何か期待していたようやけどしっかりした会社や」

「副社長に昇格した総務部長と、営業部長が対立しているように聞いたけど」

「一時的にはそうだったかもしれんけど社長一族の総務部長が副社長に就いて一歩抜けた時点で勝負ありや。営業部長は観念したとみるべきや。社員は人事に関心を持つので噂が飛び交ったのだろう。もうすんなり治まっている。営業部長が飛び出すのを避けて留まったのは懸命だったんと違う。この時世で独立するのは余程資金が豊かで、ついてくる人材に恵まれていないと成功せえへん。あの会社は歴史のある会社だけに今回のような経験を搔い潜ってきたと思う、隙がなかった。もう俺がかかわることはない」

「そうか、俺は元社員だったので会社の動静が知りたかっただけや」

 と、依頼した理由を誤魔化そうとした

「会社の金をちょろまかして首になったそうやな。悪いことをしても未練は尽きないもんやな」

 鋭い眼つきをさらに鋭くして睨み付けた。一時の自噴に駆られて俺を使いやがったと言いたげだった。取り組んでみたものの結果として空振りだったのだ。しかし、もうかかわることはないと納得顔で言ったので少々の解決手切れ金は得たと思われる。

 才田健司は俺に垂れ込んだ理由を「いずれ解ることや」と言っていた。そこで念押しはした。

「おい、他人にばらすなよ」

「心配するな。じやぁな」

 懸案だった才田健司との関係は「じゃあな」で決着した。

 冷静に考えてみれば浩治が腹いせで才田健司を使って、栗田三郎営業部長に一泡吹かせてやろうとした魂胆は、一時的な鬱憤晴らしだったので大事に至らずそれでよかったのだ。部長が会社に留まることがはっきりしたのでもう復職は無くなった。小さな落胆で治まったのは幸いとすべきだろう。

       *

 数日後かつての同僚富山高男が訪ねてきた。浩治は30年間務めて故あって退職を余儀なくされた。富山は26年間勤めていまだ平社員で在籍している。この前来たときは相当足掻いていた。栗田部長が新会社を立ち上げるなら移ると言っていた。才田健司の情報で判断するなら、その線はなくなったことになるのだが、果たして。

「栗田営業部長が取締役になられました。みんなは慰留工作だと噂しております」

「優遇されたのだから本人は喜んでいるのと違うか」

「さて、どうでしょうか、役と権限は別ですからね。営業課長は近々部長に昇格すると噂が立っています。そのために現部長を祭り上げたと言えなくもないですからね。黙っておられるかどうか」

「なるほどね、実権を奪われたのか」

「営業課長は部長会議に出席して、営業方針を説明したり意見を述べたりしているようです。すでに部長に昇格したつもりです。栗田営業部長は聞いているだけのようです」

「それでは営業部長として存在感はすでにないということだな。社内の噂通り取締役は飾りの役と言えるな」

「どうだかわかりませんけどね、手足を捥がれて飼い殺しになるか、飛び出して会社を立ち上げるか、二者択一を迫られていたのは事実です。しかしどうやら腹を据えられたように思います」

 才田健司はこの取締役昇進の情報はもたらさなかった。すでに既定の事実となっていたのかもしれない。両者の意見を聞いて栗田部長が社に留まることがはっきりした。一抹の望みを抱いていたが富山高雄の野心も浩治の復帰も水の泡となって消えていくことになった。

「君はどうするんだ」と確認するように訊ねた。

「事態が変わりましたので身の振り方を考えてみました。おとなしくしているしか仕様がないという結論に達しました。栗田部長が出ていかれるなら一緒に、と会社立ち上げメンバーとして権力をふるう淡い夢を見ましたが所詮夢でした。冷静に考えましたら部長に可愛がってもらっていたわけではありませんし、恩義はありません。私が勝手に夢膨らませているだけでした。長年くすぶっている者は勇躍する機会を狙っているのです。身の程知らずでしたかね」

「俺はあの会社で持っている能力を全開にして働いたとは思っていない。拗ねて意固地になって自分の殻の中に閉じこもっていた。それというのも役職に就いて活躍する場所を与えてくれなかったからだ、とネガティブな考え方に沈んでいた。頭角を現すことができなかった訳を自己改革をしなかった所為だとどうしても思いたくなかったのだ。出世ができない不平不満をパチンコで慰めていた。全身全霊で以って仕事に打ち込んでいたなら、会社にとってはなくてはならない人材になっていただろう。しかし、もう過ぎたことだ。泡沫の過去を振り返ってもしようがない」

 自己憐憫で涙ぐんだ。

「田沼さん、会社の情報を届けに来るのは今日限りになると思います。長い間机を並べていろいろ不平不満を曝け出して慰めあっていましたので話を聞いてもらいたかったのです。そんな相手をしてくれる人は居ませんのでね。私は先ほど言いましたように一時心が浮つきました。期待するものがあったからです。こんなことを繰り返しながら定年を迎える気がします」

「同じ会社で平社員で定年を迎えるのは悪いことではない。不平不満が昂じても俺の二の舞になるような馬鹿げたことはするなよ。ところで、上月摩耶の件で何も聞いていないか」

「この前来たときにお話しました通り、一時会社に迎えるような話が副社長周辺から飛び交っていましたが今は静かです。とんと噂に上りません。解決したのではないですか」

 富山高男は高尾設備㈱の内部の人間だ。外部から手繰った才田健司は上月摩耶について何の情報ももたらさなかった。醜聞なので会社が喋らなかったのか。健司が隠したのかわからなかった。

        *

 9月に入っても最高気温が連日30度を超える。ヒマワリが太陽を向いて立ち、蝉が鳴き、太陽の光量で熱せられた空気が熱中症患者を生む有様に変わりなかった。

 田沼浩二は市の特定検診を受けた。採血の結果LDLコレステロール値が135を示していた。60~119が正常値である。血圧は140~90を示していた。130~85が正常値である。その他の項目は正常だった。医師の判断は〈降圧薬を服用し食事に注意して適度な運動してください〉となっていた。毎朝薬を飲み、休日の午後に1時間ほど早足で散歩している。連日35度を超える暑さの中であっても欠かさない。何のために健康維持を図っているのか疑問に思うときがある。

 特殊清掃の仕事は順調に経緯していたのだがトラブルに巻き込まれた。

 マンションでの仕事は管理会社にエレベーターの使用を届けなければならない。籠の内壁を損傷しないようにウレタン製の壁保護板を三方に張りめぐらして養生してから作業に入る。台車の角にも防御材を張る。荷物を段ボールケースに収納して、用心ぶかく目を配り運び出したつもりだったが管理会社からクレームがついた。

 確認しに行ったところ、深くて細い傷が縦に1メータほど切り下げる様に付いていた。カッターナイフで切りつけた傷だと一目でわかる。大人の肩当たりの高さから、になるので子供の仕業だ。作業を終えた時は傷はなかったと確信している。

「子供のいたずらです」、と社長に報告した。

「浩ちゃん、こんなことがあるから作業に入る前と後に写真を撮っとかなあかんね」とチクリと小言たれた。管理会社との話し合いで塗装し直すことになった。浩治がその費用を請求されることはなかったが会社に損失を与えたので腹立たしさが肝に残った。この件は浩治が罪を被ったところで落着しとけばよかったのだが余計な動きをして傷口を広げてしまった。

 直ちに、エレベーター会社に防犯カメラをなぜ設置しておかなかったのだ、と子供のいたずらの件を上げて抗議した。商機と見たエレベーター設置会社がマンション管理会社に防犯カメラの設置をしつこく進めた。その際セクハラや子供のいたずらを特定できると説明したそうだ。管理会社としては居住者の安全もさることながら良からぬ噂が立つのを恐れる傾向が強い。エレベーター内で何かあったとなれば、無いことが有ったように尾鰭がついて居住者に不安感を抱かせる。管理会社が苛立って、余計なことを言うな、と清掃会社に抗議してきた。

 清掃会社の社長が浩治を呼び出して角ばった口調で身の処し方を説いた。

「決して自分の行いを立証しようとして動いたらあかんで。それに合わせて相手も動くから今回のような騒ぎになる。相手より下に位置したら角立たへん。自分が悪くなくても立場上しゃあないやろ。しかし上辺だけでええねんで、気持ちまで卑屈になったらあかんで、表向きへーこら、へーこら、して頭下げてたらええね。立場を考えて堪えてんか」

 浩治は社長の言い分は理解できた。しかし得心はできなかった。

 その日の夕食後の団欒時、妻の晴代がそーと三万円卓上に置いた。「足りんかもしれんけどパチンコに行っといで。次男の提言や、アルバイトして稼いだ中から5千円足してくれた」

 次男は照れ隠しであっち向いていた。長男はポポンと次男の頭を叩いた。

 浩治は気持ちを顔に表すことが多い。普段と違う険相を見て察してくれたのだと思った。家族の愛情をもろに感じて差し出された三万円をじっと見ていた。このお金は受け取るべきなんだ。父親の体面を気にして突っ返してはならないお金なんだ。と手を伸ばし懐に収めた。

        *

 その頃上月摩耶は会社の設立記念日に出席していた。全従業員は定時に仕事を終え京都駅近くのホテルに集合した。ディナ―とカラオケパーティを家族同伴で楽しむことになっている。

 勤務を終えた後の平服なので装いに華やぎはない。摩耶の衣装もブルーのワンピースのオンリーワンであった。家族持ちの社員は妻や子供を、独身者は父母を招待していた。

 社長は短い挨拶をした。

「今日は社員の方々に感謝する集いです。設立当初は給料の遅延がありました。それでも誰も辞めることなくついて来てくれました。ご家族やご両親にいろいろとご心配かけました。何と言って感謝したらよいのか良い言葉が見つかりません。これからも不束者の私を支えて叱咤してくださるよう社員とご家族御一同にお願いします」

 万雷の拍手の中着席した。

 女性社員は5人しかいない。そのうちの1人は社長夫人である。30歳を超えたばかりで、つつましい言葉使いと母親のような親身ある包容力で社員に人気があった。ワインレッドのスーツ姿で社長の挨拶の後に壇上に立ち社員に向かってうなじが見えるほど深々とお辞儀した。

「このような立派なホテルで会社の設立を祝うことができるようになるまで成長したのは皆様のおかげです、感謝の一言に尽きます。社員の方々に一言申し上げておきます。学歴だけがすべではありません。うちの社員で大卒は社長を除いたら一級建築士のAさん1人だけです。しかも全員途中入社です。どこかで蹴躓いて再興を期す人の集団です。目先の利益にとらわれなくてもいいです。人には持って生まれた能力が備わっています。それ以上頑張らなくてもいいです。社員一人一人が個性を持ち寄って助け合い仕事を完成さすようにと願っています。これからもよろしくお願いします」

 挨拶を終えてまたうなじが見えるほど深々とお辞儀した。

 和洋折衷のデナーが終わってカラオケ大会が始まった。ビール、ワイン、ウイスキーに日本酒も提供された。子供用にジュースやカルビス、コーラも用意してあった。スナック菓子やクッキーも用意してあった。会場は華やいだ。ソロありデュエットあり、ちびちゃんの即興ダンスあり。ホテル側と掛け合って時間を延長して楽しんだ。

 上月摩耶は社長夫人の隣に座り世間話に興じていた。仕事を通じて社長夫人に接し、習得したのは内面から滲み出ている逞しい包容力であった。物腰や発する言葉に社員を信頼する気持ちが湧出し、人柄になっていた。いくら外面を良くしてもこれにはかなわない、と深く心に刻んだ。

 思い切って出自や過去の行状を涙ながらに打ちあけた。身寄りのない孤独な摩耶は社長夫人が母だ、とこの時は思った。しかしそんな一時の触れ合いで長年培ってきた行状を改心できるものではないと後日知ることになる。


 くしくも同じホテルで部屋も時間も違ったが高尾設備㈱の新社長就任パーティが開かれていた。

 赤絨毯に金屏風。老舗の会社は威厳を示す設定をしていた。

 新社長の言葉。

「我が社は前社長の曽祖父が炭や薪を販売する一介の燃料店を始められたことが起源になっております。大正、昭和、平成、令和と時代は移り、取り扱う商品も練炭、灯油、プロパンガスと移ってきました。店は丁稚、手代、番頭、の組織から株式会社となり、高尾商店が高尾設備㈱と社名を変えました。病気のためやむなく引退され、会長に就任なさいました前社長が台所、洗面、風呂等の器具販売と施工改装を主業務とするリフォーム会社に衣替えされて大発展を遂げました。営業エリアも拡大し今や近在で我社の存在を知らぬ人は居りません。私は総務部長としてまた副社長として社長を補佐してまいりましたが会社を大躍進させた前社長の後を引き継ぎ社長に就任することになりました。この機会に会社を増々発展させていくことが私に与えられた使命であると考えています。これからは浮き沈みの激しい時代になります。厳しい発言をすると思いますが一致努力して会社発展に協力していただきたい」

 社長一族の業績を称え、引き継いだからにはさらなる業績向上を図りたいと決意のほどを述べた。社員に感謝する言葉は一切含まれていなかった。

 新社長就任パーティと言っても立食なのでビールとおつまみだけで早々に引けた。

       *

 9月23日、金曜日。秋分の日という休日。小雨が降っている。浩治は冷やした麦茶を飲みながら京都新聞の朝刊を読んでいた。高三の長男は塾の夏期口座へ、高一の次男はバイトに出かけた。老母は縁側に出て畑の滋養になる雨を目を細めて見ていた。菜園にとっては待ちに待った天からの恵みだ。妻は近くのスーパーへ買い物に出かけた。

〈支持率低下にあえぐ岸田首相はGOTOトラベルに代わる観光支援策として《全国旅行割》を10月11日から始めると表明した。〉

 結局、赤穂のサンビーチ丸山に今年も行かなかったのでこの機会にどこかに出かけたくてうずうずした。

〈台風14号は18日に鹿児島に上陸、宮崎県に大雨をもたらした。死者3人の被害が出た。〉

 中学生の頃に一度水害で家の中に泥水が入ってきたことを思い出した。床下だったので大きな被害はなかったが引いても悪臭はなかなか消えなかった。水捌けの悪い低地に住んでいる者が抱え込んでいるトラウマに怯えた。

〈新型コロナの1日の感染者数7万7383人、死者102人。京都府に限れば感染者数1622人、死者4人。〉

 隣の家までウイルスが侵入してきた。8人家族の中で不思議なことに予防接種を受けていなかった男子中学1年生だけが感染しなかった。

 麦茶を一口二口飲んで喉を潤した。

「リンリンリン、リンリンリン」

 あまり使用しない固定電話が鳴った。家族それぞれケータイを所持しているので外部の人からの連絡である。休日に多い勧誘電話かな、と思って受話器を握った。

「田沼さんのお宅ですか。ご主人様でいらっしゃいますか。此方は万有病院です。ただいま奥さんが救急車で搬送されてまいりました。脳挫傷の疑いが出ています。諸手続きをしてもらわなければなりませんので直ぐに当病院まで来ていただけませんか」

 仰天した。一瞬だったが脳の神経が凝結して声も出せず手足も動かなくなった。

 菜園を潤す雨をのんびり見遣っていた母親に事の次第を告げたら、「何かの間違いと違う」、と信じなかった。妻の晴代は病気知らず、寝込んだことは一度もなかった。しかし怪我は別だ。

 万有病院にあたふたと駆け付けた。

 玄関前の駐車場にやたらと人が集まっていて騒々しかった。新型コロナワクチンの臨時接種会場の立て看板が立ててあった。看護婦さんが順々に非接触型体温計を蟀谷に向けてピッと照射して測り、発熱していないことを確かめてから受付の番号札を手渡していた。

 この病院は初めてではない。子供が小さかった頃は度々受診していた。大体の勝手は知っている。玄関ホールの北側に回り救急センターの受付を訪れた。受付の看護婦さんに運転免許証を提示して本人証明を済ませた。症状を窺ったところ、「検査が終わりましたら医師が説明します」と、にっこり大きな目の容貌を崩して微笑んだ。多分浩治の言葉使いがひっ迫していたので宥めたのだろう。

 救急治療室の入り口前の廊下に置いてある長椅子に座って、一時間ほど待った。妻の晴代が看護婦さんに車椅子を押してもらって廊下の奥の方から現れた。右手で点滴スタンドを押していた。左顔面が打撲で赤黒く変色していた。私を見て笑顔を繕おうとしたようだが筋肉が強張ってギクギク痙攣したように動いただけだった。口を開くのは大義の様だった。

「少々お待ちください」

 立ち上がったところを看護婦さんに制止されて長椅子の端っこに座り直した。

 しばらくして、「どうぞお入りください」と付き添っていた看護婦さんが緊急処置室内に招いた。

 三十そこそこで細身の年若い先生は一心にモニター画面を見ていたが回転椅子を九十度腰を振って回転させて正対した。

「CTレントゲンと血液検査を行いました。 CT画像が一番わかりやすいと思いますので一緒に見ながら説明します。ご本人はその時の状況を覚えていないとおっしゃっていますが、怪我の症状から判断しまして、蹴躓づいて道路に倒れ込まれたんだと思います。腕を伸ばして防御する暇がなかったようで顔面を激しく打たれています。症状で言いますと左眼窩周囲腫脹です。明日になればもっと腫れて青黒く変色します。これは日にち薬で治すしかないです。足腰の骨と靭帯に異常みられません。膝は打撲で張れていますが骨に異常はありません。問題は頭部にあります。見慣れていない方にはわかりにくいですがこの部分がぼんやりしています。と、ボールペンの先で異常を示している箇所を示した。急性硬膜下血腫です。この程度なら安静にしておれば消えると思います。現時点の状態ですので出血が続くようでしたら緊急手術をして止血しなければなりません。転倒時の一過性であればよいのですがね。止血剤を点滴で投与しました。今日は休日ですので当院の脳外科医は休んでいます。緊急手術となった場合対応ができません。他の病院に移っていただくのがベストだと思います。それでよろしいですか?」きっちり私の眼を見て症状の説明を終え、対応策を提案した。

 適切な判断だと思い頷いたところ、「提携している病院に連絡しますので少々待ってください」と応えた。

 30分ほど待機していた。妻の晴代は動揺しているのか落ち着こうとしているのか、茫然と外の風景を見ていた。私も突然の出来事にどう対応していったらよいのか皆目見当つかなかった。大丈夫だ、とか、直ぐに治るとか、慰める言葉も安心させる言葉も出てこなかった。普段口にしたことがなかったからだろう。

 この万有病院から自動車で20分ほどかけて京都市南部の中核病院に連れて行った。救急病院としての存在は誰でも知っている白亜の砦のような5階建ての大きな病院だった。この病院でもCTレントゲンと血液検査を受けた。容姿がベテランの部に入る髭の濃い脳外科医の説明を受けた。

「1時間ほど前になりますかね、万有病院で撮られたレントゲン撮影のフイルムと見比べてみました。容態は同じです。出血は止まっています。嘔吐もされていませんので大丈夫だと思いますが、出血の痕跡が消えるまで、入院されて様子を見られた方がよいと思います」

 その意見に従った。

 エレベーターで3階の外科病棟に上がった。ナースセンターで一寸待って、まっすぐ伸びている廊下のどん詰まりの4人部屋に案内された。部屋に入って指定された廊下側のベッドに晴代は腰かけた。

 やっと気を持ち直したと見えて、倒れた時の状況を記憶から引っ張り出した。

「男の人に声掛けられて振り返ったら、背中を強く押されてバランスを崩し前に倒れた。そこまでは覚えている。その際、路面で顔面を激しく打ったので気を失ったと思う。飛んでいた意識を取り戻したときアスファルトの路面が目に飛び込んできた。『どうしたんや』と体を揺すぶっている女の人の声が聞こえてきた。『救急車呼んだ』、『もうすぐ来るのでじっとしとり』と、私を取り巻いて騒いでいる人の声が聞こえた。大変なことになったと思ったがどうしょうもできひんので道路に伸びていた。いつも持っている赤いショルダーバッグがない、盗られた。財布の中に五万円ほど入っていた。クレカも入っていた。ポイントカードも入っていた。みんな無くした」

 いつものスムーズな喋くりではなかったが状況を伝えることはできた。

 入院手続きとなる数枚の書類に住所氏名電話番号を記入しサインした。必要な身の回りのものとして、コップや吸い飲み、御箸、スプーン、歯磨きセットを売店で購入した。お茶と水のペットボトルも購入した。病衣はレンタルした。突然のことで勝手がわからず、頭に浮かんだ順々に買いに走った。入院案内書に用意すべきものが記してあったが繙く気が回らなかった。ベッドに座り動き回る私を見ていた妻の晴代は、「帰ってもええで、看護婦さんに手伝ってもらって着替えるし、先生の話では3、4日で帰れると思うわ。ちょっと派手に転んだだけや」と強がりを言ってギクシャク作り笑いした。別に付き添っている意味はなさそうだし、しなければならない確認事項もあるので、看護婦さんに後を頼みます、とお願いして帰宅した。

 消防署に電話して出動してもらったお礼を述べてからその時の状況を質した。

「現場に到着した際は、道路の端っこに俯せた状態で待っておられました。周りに4、5人ほど集まって見守っていました。屈み込んで声をかけていた人もいました。転倒して怪我されるのはよくあります。事件性はなかったように思います。どなたもそのようなことを言いませんでした」

 警察に被害届けを出してから、クレジット会社に電話した。

「もし強奪被害に遭われて現金が引き落としされても被害額は保証します。ご安心ください」

 妻がいつも持ち歩いている赤い人工革のショルダーバックはタスキ掛けにしている。転倒のはずみで外れて体から離れることは考えられない。外れたとしても残っているはずだ。押し倒されて強奪された、としか言いようがない。しかし。目撃情報はなく、証明するのは困難だ。クレジット会社に紛失のためとして使用禁止の処置を求め再発行を依頼した。

 その日の夕食はレトルトカレーにした。長男が炊飯器に温めてある御飯を皿に盛り、次男が湯煎していた袋を切って、アチチッチと火傷した時のような大仰な声を張り上げ絞り出した。トッピング迄思いつかなかった。食べ始めてから次男が思い出したように野菜収納ケースからブロッコリーを出してきた。長男はラッキョウを瓶ごと持ち出してきた。福神漬けも出してきた。食べ終わっても何か物足りない。長男が野菜サラダがないんや、次男が蕎麦もない、と言い出して、じろっと祖母を見た。

「急なことやから何にも用意してへんがな。カレーがあっただけでも助かったんや。明日からわてが御飯作ったげる。文句言うたらあかんで」

 浩治はこの時とばかり二人の息子に説教した。

「これでお母さんのありがたみがよう解ったやろ。日頃、焼き肉にしてくれ、ハンバーグ作ってくれ、草ばっかりの羊の餌食わすな、とか文句言っているけど、明日からおばあちゃんが魚の煮付けと菜っ葉の煮物、ほうれん草のおひたし、蒲鉾の味噌汁、お新香を用意してくれるからな」

「明日退院してくるんやろ」次男が期待を込めて問うた。

「阿保、一か月ほど病院で過ごす」と浩治は勿体をつけて突き放した。

「うへー、そんなにかかるのか。おばあちゃんのレシピで一ヶ月も過ごしたらガリガリになる」

 傍で聞いていた祖母が眼を向いて嚙みついた。

「無理して食べんでもええで。文句あったら自分で作りな。ついこの間までオムツ変えさせといて、一丁前の口きくのはまだ早いわ」

 やりこめられた次男は放心して、「あーあ、地獄の始まりや」と、天井仰いだ。

 長男が眉間に皺を寄せ深刻な表情で言った。

「僕、明日、学校の帰りに寄ってくるわ。家族に会いたいやろ。お父さんは仕事やし」

 長男らしい気遣いに浩治は目を細めた。

 慌ただしかった一日が暮れようとしている。浩治は風呂から上がるとこそこそと自分の部屋に引っ込んだ。エアコンを作動させて汗がひいてくるまでパンツ一丁で椅子に座りテレビのバラティ番組を見ていた。楽しくはなかった。

 敷布団を敷いてゴロンと横になった。部屋の空気が冷えて汗は引いた、しかし頭脳は明日からのことを考えて冴えていた。

 翌朝、食パン、バナナ、牛乳の朝食を済ませた。御飯にみそ汁、スクランブルエッグ、焼き魚ではない。食った気がしない。

 洗濯機の回転音が止まってチャイムが鳴るのを待っている。蝉が気ぜわしく鳴いている。祖母が気を回して「干しとくので仕事に行っといで」と言ってくれた。昼食は各自が摂ることになっている。今夜の夕食は祖母が作ってくれるが、毎日拵えてもらうのは負担になる。明日はコンビニ弁当を買ってくることに決めた。嫁が入院していて、母迄倒れたら大変だ。

 妻の晴代の入院は思っていたより長くなった。頭部の出血痕はレントゲン検査で3日で消えた。内臓の血液検査でも問題なかった。ただ腰の痛みがなかなか回復せず、ベッド横たわって2週間経った。入院した際は腰の痛みはなかったのだが。

        *

 10月7日、金曜日。雨音で目が覚めた。窓の戸を開けたらザーザー降っていた。

 晴代が退院するので仕事を休んで迎えに行った。二週間の入院だったが荷物がキャリーバックに入り切らないほど増えていた。階下の事務所で入院費用を清算して11時ごろ、よろよろと腰をさすりながら退院した。14日間に渡った入院生活にピリオドを打った。キャッシュカードは直ぐに止めたので被害はなかった。ポイントカードは再発行してもらった。五万円ほどの現金はどこかに消えた。人工皮革の赤いショルダーバックは新品の本革ブラックに変わった。

 ファミリーレストランで退院祝いをする段取りしていたが晴代が腰が痛いので出かけるのは気が進まないと渋った。そこで店屋物を取ることにした。

 晴代は握り寿司とハマグリの吸い物、祖母は散らし寿司にお味噌汁、長男は幕の内に茶碗蒸しをプラス、次男はピザを種類を変えて二枚。浩治は牛丼に赤だしと漬物。注文の電話を掛けながらふっと思った。バラバラだ。以前はこんな風ではなかった。子供は親に妥協し親は子供に妥協して一種類にまとまった。子供が大きくなり大人は年を取り、それぞれ自己主張をするようになった。それは一家の進む方向がバラバラになってまとまりを欠いてきたともいえた。

 食後のコーヒーを飲みながら晴代の入院生活の独演会が終わった。

 寝室に引き上げてこそこそと布団にもぐりこんだ晴代が浩治の左腕を抱きかかえた。

「あー、この腕がないとぐっすり眠られへん。隣の人が毎晩ごそごそしているな、と言ってた。無意識に腕を探してたんやと思う。みんないろいろな問題を抱えてベッドに横たわっているわ。夫婦仲がこじれているので一度もお見舞いに来てもらえない人。離婚後養育費が滞って、子供の学費の工面に難儀している人。独り身なのでお金は潤沢だが、退院しても支えてくれる人がいいひん、と嘆いている人。七十過ぎて年金暮らしなので、入院費の工面を福祉の人を呼んで相談している人。私はただ腰の痛みに耐えていたらよかった。先生は腰痛は怪我が原因と違う、腰部脊椎管狭窄症やと言っていた。これぐらいやったらじっとして寝てたら治るわ。立ち仕事はせん方が良いな。まあ歳やなと笑ってた。スーパ―の調理場の仕事はやめるわ。それからな、長男がお見舞いに来てくれた時、大学進学先を変更すると言うた。医学系に進みたいらしい。先生に相談したら一浪する気やったら国公立は難しいけど私学やったらいけると言うたらしい。目指していた理系からの変更理由やけど、歯科医の一人娘と二人三脚で将来を賭けたい、と言うたので歯科医院の後を継ぐようやで。次男は遊び友達が多いので、将来を相談できる子は居ると思っていたけど、長男にも居ることが分かってなんかホッとした半面、親を頼りにせんとやっていけるようになったとわかって、もう親はいらんと突き放されたような、寂しい気分やった。私等から羽ばたいていく日が段々近づいているんや。子供が独立して、お父さんと二人きりの生活になると思う。この腕がある限り寂しいことないわ。あんな、次男が友達のお古のロードバイクを貰たと言っていたやろ。あれ嘘や。アルバイトして貯めたお金で中古を買ったんや。自分のお金で買ったので遠慮せんでもよいんやけど、お父さんに気兼ねして、家に持って来んと友達の家に預けとんね。そういう気遣いができるようになったんや。二人ともよい子に育ってるわ。なあ、よい子になぁ⋯⋯」

 晴代は夫の浩治の左腕をしっかり抱いて眠りに落ちた。

           *

 日常を取り戻して一週間ほど経った頃、上月摩耶がケータイに連絡してきた。これまでのような高慢な語調ではなかった。

「浩ちゃん元気か、真面目に仕事してるか。私なぁ、もうあかんわ。また会社のお金をちょろまかしてん。今度はちゃんと返したから会社に実質的な被害を与えてないねんけど、盗んだものを返したら済むという問題ではないやんか。保証人が浩ちゃんになっているからそのことを思い出して電話してみたんや。会社から何の連絡もなかったか?」

 戦慄して蒼褪めた。心臓の動悸が自動車のエンジンのように高鳴った。摩耶の尻拭いをするのはもう御免にしてもらいたい。

「なんやて、もっと詳しく説明しろ!」

「電話では長くなるので喫茶店で話すわ。浩ちゃんと話しがしたい」

 甘ったれた言いぐさだったので怪しいと思ったが乗ってしまった。

 上月摩耶は京都駅新幹線乗り場の南側にある商業施設アバンティ内のタリーズコーヒーショップを指定した。JR奈良線に乗ったら十五分程で行ける」

 コーヒーショップの自動ドアが開いて足を踏み入れた。きょときょと、と見まわしたら窓際の席で軽く手を上げる女性が目に付いた。摩耶は服装が地味だった所為か照明に溶け込んでいた。

「此処のエスプレッソ美味しいで。心配せんでも今日は私が会計持つからな」

「そんなこと心配してへん。勤め先で何をしてん」

「そんなにセカセカせんとき。美味しいコーヒー飲みながら話を聞いて」

 摩耶はコーヒーカップを手に取り、唇に近づけ、ニヤッと誘惑するよう笑み浮かべた。浩治を引き付け事の顛末を話し始めた。

「その時、事務所にいたのは二人だけやった。支払日だったので普段は出していない手提げ金庫を机の端っこに蓋を開けた状態で置いてあった。社長の奥さんがスーと椅子引いて黙って手洗いに立たはってん。それを見たとき視覚がピッピッと脳に指令を出したんや。気が付いたら100万円ほどの札束を握っていた。どこに隠そうか躊躇してキョトキョトしていたら廊下に足音がしたんや。戻ってきゃはったと思って、さっと私の机の引き出しを開けて状袋に隠した。その後何食わぬ顔で平然と仕事を続けていた。終業時間が迫ってきて、外回りに出ていた人が帰ってきて事務所内がざわざわしてきた。工事の注文とってきた人がCADで図面拵えてくれと言ったので、場所を移動してその仕事に取りかかったんや。以前やったらせしめたお金をどうやって持ち出そうか、そのタイミングばっかり測っていたと思う。ところが今回は如何して元に戻そうか、そればっかり考えていた。そのうちに奥さんは手提げ金庫から現金をだして大金庫に収めて社長と一緒に帰ってしまはった。以前の私やったら小躍りし状袋をハンドバックにいれ帰宅したと思う。今回はそれができずに引き出しに入れたままで重い心を抱えて帰宅した。100万円無くなっていることに気づいていないはずない。犯人は私だとわかっている。マンションに帰ってきてコンビニ弁当食べようとしたんやけど胸が詰まって苦しくて食べられへんかった。翌朝、常より早く出勤して朝の早い社長の奥さんを待ち構えて詫びた。奥さんは『そのまんま金庫に戻しときな。大金庫は開けとく。朝一番に社長と一緒に銀行へ融資の相談に行くから事務所はあんたに任せとく』と言って慈愛の眼差しを向け、平然と出ていかはった。事務所から姿が消えてしまうと罪悪感で心に矢が刺さったように苦しかった。こんな心境に落ちたのは初めてやと思いながら何事もなかったようにして働いていたけど、またやってしまうかもわからんと思ったらオチオチしてられへん。これは病気や、発作でまたやってしまう可能性がある。こそっと精神病院を訪れて診察受けた。『思考や認知感情等の精神機能が自分自身で纏められなくなっている状態かもしれませんね。悪いことだとわかったら、抑制する機能が働くのが普通です。人はそうやって悪事を未然に防ぐようになっているのです。あなたはそこのところに問題を抱えているのだと思います。しかし今回は抑止できました。症状としては軽い方です。疲れるとその病気に襲われることが多いです。鬱症状が出る人もいます。適度な運動と充分睡眠をとるように心がけて精神の安定を図ってください』と言われた。何回も言っていると思うけど、私は幼児期に親の愛情を受けないで育った。正常な精神が形成されないで大人になった。しかしこのことを両親の所為にして憎んでいたら何時まで経っても同じことを繰り返し、何時まで経っても世の中に居場所を見つけられへん。過去に逃げんと未来に生きなあかんね。私なぁ、マンションに帰っても誰もいいひんね。壁に貼ったる芸能人のプロマイドに話しかけて慰めているけどな。悩みがあるない別にして相談に乗ってくれる人が欲しいね」

 浩治はこの女のために人生の前半を棒に振ったのだ。それでも、切迫した心境を打ち明けられたら情がウロウロした。

「結婚したら気持ちが安定するわ。容姿は一品や、相手いいひんのか」

「マッチングアプリで相手を探したことあるねんけど、会って交際するところまで発展せえへんかった。出会いはピリピリと心を刺激するもんがあって、ときめくもんやと思うけど、文字が先だと、小説読んでその中の登場人物に恋慕しているようで空想の恋愛で終わってしまう。それに出生に問題あるので結婚話が具体的になってきたら私生児で施設で育ったことがバレてしまう。精神欠陥もあるので私の血を引く子供を世に送り出すと思えば耐えられへん。結婚は私にとって恐ろしい難題や」

「すべてを受け入れて一生を共にしてくれる男性がいると思うで」

「そういう人と出会うまで待つしかないわ」

 二人とも2杯目のコーヒーを頼んだ。街路を行き交う人々が窓枠に切り取られて次々現れては消えた。年配の白人夫婦がTシャツに短パン姿で手を繋いで通り過ぎる、若いアジア人のアベックがキョロキョロ風景を見ながら通り過ぎる。  

「あんなぁ浩ちゃん。高尾設備㈱の顧問弁護士やと言う五十絡みの身なりの良い男が訪ねてきた。あの件で解決する条件を示してくれと言ったので、私を亡くなった会長の子供だと認知して、それなりの保証をしてくれと言ってやった。認知についてはDNA検査や関係した人の具体的な証言を基にして調査したら可能や、その調査結果を見て保証金を支払うことになる。と言って帰ったままで、その後何の連絡もしてきいひん」

 浩治はおやっと首傾げた。

「もう解決しているのと違うの」

 才田健司の報告や、かつての同僚富山高雄から聞いた諸情勢から判断してそのように思っていたがそうではないらしい。

「済んだと思っていたけどなあ。そうでないのなら、あの会社としては放置しておくわけにはいかんので弁護士立てて交渉する気になったのだと思う。連絡がないのはのらりくらり要求をかわして諦めるのをまっているのかもしれん。素人で立ち向かうのは無理やと思う。摩耶も弁護士立てて交渉したらよいね」

「私もそのように思うけど公にしたくない気持ちもあるね。世間に私の生い立ちを晒したくないね。会社も亡くなった会長の醜聞を晒したくないと思うのでその点は合致している。こんなスキャンダルは内密にして解決図りたいもんや。浩ちゃん、中に立って交渉してくれへんか」

「阿保いえ。お前のために、ひどい目に遭ったんや。叩きだされた会社に乗り込んで、話をつけることなどできるか、断る」

「浩ちゃんとは何か分からんけど繋がってるね。保証人としての関係はまだ続いているねんで。私の面倒を見ないわけにはいかんのと違う」と鋭い眼つきで食らいついてきた。

 また脅しか。もうその手には乗らんぞ。腹を立てて席を立った。摩耶はニヤッと笑み浮かべ、ちらっと腕時計を見た。

 間もなく摩耶の席の前に座った男がいた。パチンコ屋の駐車場で怪しげな仕事を展開している才田健司である。

「田沼は今帰りよったな。ホールの入り口で週刊誌を立ち読みして時間を潰していた。俺に気付かないで前を通り過ぎよった。なんか顔赤くして、プリプリしとったぜ」

「弁護士が訪ねてきたことを話してあの会社との仲に立ってくれと頼んだけど断わられた。いろんな経緯があるからしゃあないわ。あんたと二人で事に当たっていくしかなくなった、公になってもいいから弁護士に頼むか、秘密裏に私等の力で解決していくか、どちらかにせんとしゃあない」

「俺に良い考えがあるね。おまえ、この問題で社長と相当親しくなったやろ」

「何回も話し合いをしたので気心は知れている」

「会社で会うのは人目が気になるのでホテルで話をつけたいと言って誘いだせ。入室してからでいいから場所をスマホで連絡してくれ。出てきたところをデジカメで密会の証拠写真として撮ったる。そこまでしてくれたらあとは俺が揺すって金を巻き上げたる。社内のごたごたには付け入るスキなかったけど、若い女とのスキャンダルは老舗会社の社長としての体面を踏みにじられるので大金をはたいてもみ消したいはずや。今度は成功するぞ」

「面白うなってきたなあ。ワクワクするわ。こんな計画立てたら血が騒ぐのはあんたと一緒や。どうせ私らはまともなことはできひんね。今勤めている会社では常にビクビクして過ごしている。窮屈で性に合ってない、もっとワクワクする仕事について躍動したいわ」

 まやの顔が弾けたようにパッと輝いた。

 才田健司は正面から摩耶の瞳を覗き込んだ。

「摩耶?」

「なに」

「いやなんでもない」

「気持ち悪いなあ、なんか私に言いたいことあるの?」

「ちょっとな⋯⋯」

「あんたがもじもじしているのは似合わんわ」

「思い切っていうわ。結婚してくれへんか」

 一瞬だがふたりの間にきょとんとした無風の空間ができた。

 摩耶は吹っ切るように生い立ちから現在までの数々の醜聞を打ち明けた。

「俺も似たような育ち方をしてきた。母親の再婚相手に暴力振るわれて逃げ出し公園のベンチで何度も夜を明かした。寒い時は共同便所の中がねぐらになった。腹減ってスーパーでパンをかっぱらって警察に突き出された。呼び出しを喰った母親は相手の男を庇って、俺に盗癖があると言い逃げした。邪魔だったので家を出て行ってほしかったんやと思う。子供でもそんなことは察しつくもんや。それからは不良グループに目をつけられて、パシリして何とか食いつないだ。中学は一度も登校してへん。けど卒業扱いになった。その後は御覧の通りや、パチンコ屋の駐車場を管理しながら恐喝まがいで稼いで生きてきた。もう、25や。いつまでもこんなことしてられへん。近頃はまともな職に就くことを考えるようになった。摩耶はまともな仕事から足を洗いたいようやけど、それは間違っている。まともが本道だから苦しかっても逃げたらあかん。今の勤め先が窮屈でワクワクしないと言うてるけど、心が荒んでいるので眩しくて目が眩み浸透していけへんのや、まともな社会になじむ努力をせんとあかん」

 才田健司が摩耶と会ったのは今回で確か五度目である。社長と接触して社内のごたごたに付け入り一儲けしようと企んでいた時に社長が摩耶の存在をほのめかしたのだ。厄介な人物(摩耶の事)が名乗り出てきたので頭が痛いと漏らした。そいつにあたってみて仲を取り持てば解決金を得られると考えた。ところが会ってみて摩耶の才気走った妖気に魅せられ虜になってしまった。一目ぼれである。付け込むどころか所帯を持つことを夢見るようになった。

「俺な夢があるね。キッチンカー買って露天商したいね。お祭りや、イベント会場に繰り出して、焼きそば、ホットドッグ、を拵えて売るね。コーラやジュースも並べるね。子供が大勢やってきて、お兄ちゃん一つとかいうて近くに置いた長椅子に座って食べている姿を想像するだけで感激して涙が出てくる。お金を持ってへんので恨めしそうに眺めている子にはタダで食わしたる。嬉しそうにがつがつ食べる子を見てたら、幼い頃を思い出して張り合いがでる。ひもじい思いして育ったからな。一緒にキッチンカ―に乗って助けてれへんか」

 上月摩耶の瞳がみるみる涙で溢れた。これまでいろんな男が容姿に魅せられて口説いてきた。マンションを買ってやるとか、外車を買ってやるとか。しかし才田健司のような接触の仕方は初めてだった。心持が慟哭して言葉が震えた。

「ありがとう。嬉しい。開業にこぎつけるまでいろいろと難題出てくると思うけど頑張る」

 才田健司はパチンコ屋から居を移し上月摩耶のワンルームマンションで寝泊まりするようになった。

 上月摩耶は私生児で施設育ちであったがちゃんと学校で教育を受けた。施設を出てから両親を確定することができた。育ちが不幸と言えなくもないが不平言い出したら切がない。若干の精神障害を有しているものの本人が卑下するほど半端な人間ではなく思いすぎに過ぎない。過去に囚われてその穴倉に逃げ混む癖を持っている点が難といえばそうなる。住んでいるマンションで住民登録しているし、税金も給与所得者なので源泉徴収されている。歴とした市民である。

 才田健司は実の母親に冷たくされ家を飛び出すしかなかった。不良仲間の手で育ったので彼らの掟が教えの全てだった。学校教育は全く受けていない。読み書きも不十分である。実の父親の記憶は全くなくて探す当てもなかった。母親との再会はまだできていない。居住の定まらない住所不定者である。不当な金で生活してきたので税金など納めたことがない。本人は消費税を納めていると胸張っているが。将来を望めない生活に不安を抱いている折に摩耶と知り合った。生育が似た者同士と勝手に思い込んでそこに居場所を見出そうと必死になっていた。

 摩耶が台所に立って毎日朝食と夕食を作った。今日の夕食はオムライスだった。コーンスープとほうれん草のおひたしが添えてあった。

 流し台に立っている後姿を見ていて女性が料理を作る姿はこんなに美しいものかと惚れ惚れして見遣っていた。摩耶も背中に突き刺さる愛のこもった視線を感じて嬉しかった。小さな食卓に向かい合っていただきますと合掌した時、二人で食事を共にする理想に憧れていたので食道が慟哭してなかなか胃に落ちていかなかった。

 摩耶は朝早く仕事に出かけるが健司は遅い。帰りは健司が極端に遅い。それでも折を見つけ、キッチンカーのカタログを広げて車種の選定をした。主導しているのは言い出した健司である。

「軽では狭い。1tトラックしよう」

「幾らや」

「中古のトヨタのタウンエースをベースに「キッチンボックス1000」を乗せた場合で451万円。走行距離は300キロ。車体はレッド、テーブルは冷蔵、冷蔵、冷凍、のスリードアになっている。タンク容量は200リットルになっている。この車種に決めよう」

「即断すれば後で後悔することが多いで、もうちょっと検討しよう。この商売で一生食っていく気やったら初期投資にお金かけてもよいけど時代の変転でどうなるかわからん」

 摩耶は床に寝転んでスマホで検索始めた。

「保険所に届けに行ったとき古い車種やったら不合格になるて。それにな12ヶ月点検の際に改造した部分を元に戻さんならんねて」

「そうかー、保険所に届けて営業許可を受けんとあかんのか」

「営業する地域の保険所すべてで許可を取らんとあかんて。許可書は営業の際は目立つところに掲げておくんやて。申請の際キッチンカーの構造と設備を示す図面が2通いるて。食品衛生責任者が必要やて。素人でも養成講習会に参加したら資格が習得できるて。費用は1万2千円かかるて、講習時間は資格収得試験入れて6時間やて。扱う品種は給排水タンクの容量で決まるらしい、200リッターなら水分の多い麺類や丼ぶりものを提供できるけど、40リッタータンクなら単一品目だけで使い捨て容器を使う、となっている。いろいろな点をクリヤーしていかんと開業できひんな」

「そこまで考えてなかった。店だしとるやつらちゃんと手順踏んで商売しとるんか」

「道路の端っこでシート広げてバッタもん並べる商いとは違うで。ちゃんと届けて許可受けて始めんと。健ちゃん申請して講習受けにいってんか」

「摩耶が行ってくれ。俺、満足に学校行ってないので漢字読めへんし書けへん」

「えっ? 自動車の運転免許証どうして取ったん」

「無免許や、事故起こさなかったらバレへん」

「それではキッチンカーの運転も私がするのか?」

「そういうことになる」

 摩耶の表情に暗澹たる影が差すのを健司は見た。そこで懸命に口説いた。

「俺は自分の将来を摩耶に託してんね。丸投げしているわけではないけど摩耶がノーと返事をしたら俺の将来はその時点で霧散する。元の半端もんの社会に戻らんとしゃあない。これまで自分だけを優先して他人のために働く気持などこれっぽちもなかった。そんな人間が改心しようとしているや。理解して力を授けてほしい」

 健司は摩耶の両手を握って自分の胸に押し当てた。ドクドクと打つ激しい心音が摩耶に伝わった。

「健ちゃん、こんな私でよかったならすべてを投げ出す。受けてくれるか」

「ありがとう。ありがとう」

 健司の両眼から熱い涙が溢れた。摩耶は唇で吸った。

       *

 二人の前途は多難だった。

 キッチンカーを購入する資金は高尾設備㈱の元会長の慰謝料である。健司はその件で手っ取り早く形つけようとして摩耶に入れ知恵した。ホテルで話し合いたいと誘い出し、出てきたところをカメラに収めて、スキャンダルとしてでっちあげる算段していた。摩耶はこういう類の話になったら浮き浮きするきらいがあった。この話に一旦乗ったが、そんな危なかしい話に乗らなくても、会社の顧問弁護士が話し合いで解決したい、と言ってきているので、合法的に獲得することに切り替え、弁護士を通じて交渉にあたった。養育費の請求は母親が養育していたのではなく施設で十八歳まで育ったので法律的には請求できない。が、長年私生児として放っておかれた精神的苦痛は認められる。と言った。提示されたのは300万円であった。妥当な金額かどうか判らないが算定の背景には摩耶を元会長の子供であると認知したことが大きかった。弁護士が仲立ちしたが、これは法律によってではなく、あくまで現社長個人の申し出による解決金となっていた。

 摩耶と健司はこの弁護士の提案を受け入れた。早く開業して生活の基盤を作りたかった。

 300万円では大型のキッチンカー購入を諦めざるを得ない。軽のバンかトラックに変更するしかない。夢が萎んでいくようだったが儲けて自力で大型カーを購入すればよいのだ、と前向きに考え直した。

 摩耶は食品衛生責任者の資格を取るために講習を受けに行っている。食事の用意、掃除洗濯、は健司か受け持っている。

 商売は扱う商品の質もさることながら、如何にして売り込むか、がカギになる。奇抜な装いも必要だし、そうでないなら、おやっと目を引くアイディアが必要だ。

 ユーチューブを見ていたら横浜で若い女の子が焼き芋を売って稼いでいる様子が紹介されていた。目を引くために赤いロードスターをキッチンカーとして使用していた。後部ハッチの上に窯を設置している。燃料は備長炭である。着火剤を使って火起こしする。四国から取り寄せた芋〈べにはるか〉を銀紙に一個づつ丁寧に包んで蒸し器の上に並べる。準備を終え芋に火が通るまで待機して水をかけ段ボールケースを被せて蓋をする。〈焼き芋〉と毛筆で太く記した行燈を風に靡かせて走る。時には横浜港辺りまで人の集積に合わせて出没する。売値は一個500円である。小柄な若い女子の焼き芋屋さんはしっかり稼いでいた。

 健司が拵えた夕飯を食べながらこの焼き芋屋さんの話で盛り上がった。

 摩耶は今まで人に信頼されるより警戒される中で生きてきた。自分を懐疑的な目でシラーと推察するのを意識しながらも、その間隙を縫ってお金をちょろまかす快感に無上の喜びを感じていた。本人が怯える病癖はいかんともしようがなくいつ発作を起こすのか想像つかなかった。警戒されていることに対する反発が引き金なので相手が一方的に信頼してくれたら解決する問題だった。健司には一欠けらの警戒心もなかった。このことが摩耶の日常を落ち着かせ病癖を封じ込めていた。

        *

 大坂の業者がキッチンカーを見せに来た。スマホでこちらの購入条件を知らせたら、近いところなので見せに行く、と連絡してきた。それはスズキのキャリィトラックの荷台にキッチンボックスを乗せた中古車だった。走行距離は5、5万キロ、一カ月間あるいは走行1000キロの保証付き、一年間の車検付き、ボディカラーはグレー。価格は220万円。一見してチャチ、夢だった代物ではなかった。購入予算三百万円でまとめてほしいと言ったのでその範囲ならこれぐらいになるのだろう。                             

 健司と摩耶はぐるっと車両を巡ってじろじろ見回してからバックのハッチを開けた。機材を入れ替えたらしくシンクも調理台も冷蔵庫もピカピカだった。タンク容量は給排水とも80リッターが備わっていた。設備だけを考えたら今からでも使用できそうだった。ただ狭い、両側面に設備機材が設置してあるので真ん中の通路スペースに横並びになって作業すれば奥に入った者は出られない。跳ね上げ式の大きな窓はお客さんと対面できるように高さを工夫して開口してある。反対側の窓は横開きで彩光と通気目的であるらしい。天井近くには換気扇がついていた。

 二人は逸る気持ちを抑えた。

「ちょっと考えさせてくれ。こんなに狭いとは思わなんだ」

 健司が顎を突き出して摩耶を見遣った。

「そうやな。何を販売するかによるけど狭いな。サンドイッチか、ホットドック、なら何とかやっていけるかもしれん。焼きそばは鉄板とガスボンベを持ち込まなければならないので難しいな」

 キッチンカーを持ち込んできた営業員と設備備品について話し合った。販売する商品に合わせて機材を選定するのが一番良いらしい。しかし保険所の検査をバスしなければならないので二層式のシンクや換気扇の設置、電源設備、タンク等は最低限整えなければならないと言った。そうなると狭苦しさは免れないことになる。

 二人は営業員が帰った後に夕食の準備を飛ばして開店準備を話し合った。

「頭で描いていたのはカッコよいキッチンカーやった。品目のイラストを描いた看板目当てに行列ができて、一段高い自動車の中からありがとうございます、とニコニコしながら商品を手渡しお金を貰う。テント張って椅子置いて、ワイワイ冗談言い合い食べる風景を想像していた。俺がキッチンカーを思い立った原点や」

「それでいいと思うけどな。漠然としていては実現せえへん。具体的に考えんとな。扱う品や設備について決めていこうな。何を販売するのか。ラーメン、うどん、そばなどの汁物やったら充実した設備が居るので大型のキッチンカーになる。給排水タンクも80リッターのものを設置せんと許可下りひん。プロパンガスボンベも積み込まなあかん。サンドイッチやホットドッグなら大した設備をせんでもよいから見せに来たあの程度のキッチンカーでやっていける。まず扱う品目を決めよう」

「同じ買うなら大型を買いたいもんや。店を出す場所によって品目を変えんとあかんので応用が利くものが必要や。大型にしとけばキッズのイベントでも、若者向けのミュージックイベントでも、はたまた話題にしていた焼き芋屋さんのように一品で勝負する際でも対応できる。まず自動車を決めてそれから扱う商品を決めよう」

「一理あるけど、大型車買うお金をどうするの、車体塗り直して店の名前も入れんとあかんで。手元には300万円しかないねで」

「お金かー。そうや、ローンで買おうか。俺はローン効かへんから、摩耶の名義で借りてくれ」

「またかいな。なんでも私になるねんな」

「実際に仕事するのは俺や。キャプ被って割烹着つけて手袋嵌めて頑張るがな。摩耶は表に立って、ハイセンスの洋服着て看板娘になって注文聞いてお金を受け取る役目をしてくれたらよいね」

「そんなわけにいくかいな。込み合ってきたら拵えるのを手伝わんとお客さんはイライラして隣の店に走るわ」

「その対策考えとかなあかんな。整理券渡そうか。『ハイ10番さんできました。ありがとうございます』とやったらよいね。整理券貰ったらキャンセルできひん」

「結局どうするねんな。扱う品目は後にしてローンで大型のキッチンカー買うのか。レンタルする手もあるで」

「レンタルは安易なので気が入らへん。借金抱えたら返さないかんので気合が入る」

「いつまでもこんな話しているようでは開業できひん。何度も火起こしして練習もしなあかんねんで。ぶっつけ本番はあかんで。お客さんに文句言われるで」

「文句が出るのは味や。出汁取りの勉強しなあかん」

「あー、頭こんがらかってきた。明日、この前見せに来てくれた店に行かへんか。ローンも組めるて言うてた」

「おう、行こう。こんな話をいつまでやっていても埒が明かへん。形を作っていけば何とかなるもんや」

 健司のお腹がグーと悲鳴上げた。

「あーもうこんな時間や。今日は摩耶がお手並み見せてくれ」

「健ちゃんがやって。さっと手早くできる賄い飯作ってんか」

 この頃になって遠慮が無くなって、ストレートに心の内をぶっつけるようになった。


         4


 上月摩耶はエトワール・ソシエテSAを円満退職した。夕礼で挨拶をした後、同僚から花束を貰った。胸に込み上げてくる感情を手の平で拭った。これまで何度も退社を繰り返していながら花束を貰って退職するのは初めての経験だった。

 社長の奥さんも涙を浮かべて門出を祝ってくれた。

「めげたらあかんで。始めのうちは労力掛るばかりで儲からへん。けど熱意の籠った美味しい商品を出していたらお客さんは気づいてついてくる。軌道に乗ったらキッチンカーとやらを見せに来てんか」

 才田健司もパチンコ屋の駐車場整理係を止めたので後を絶って新しい仕事の準備にいそしんだ。

 摩耶はピザ屋に、健司は中華店にアルバイトに行き始めた。

「おい、また火傷したんか」

「窯出しを何度もするし、トッピングの際も熱いままでやるからベテランの人でも火傷している。火傷はつきものや。ピザは高く売れるので習得しとかなあかん、 良い出しもんになる」

「中華もコクのある味を求めだしたらきりがないけど俺流の独特の味付けを考案して見せる。行列ができるようにせんとな」

「私な、もう少し経験したらアルバイト先を変えるわ。粉もんのレパートリーを増やしたいね、ナンも扱いたいし」

「俺は一般食堂に変える。飯屋か、弁当屋でもよいけどな。なんでもこなせるようにせんとな」

 二人はレパートリーを増やす模索して職を転々と渡り歩く算段していた。

 二人が修業している間に特注のキッチンカーが完成した。トヨタのタウンエースにキッチンボックス1000が乗っかっている。オレンジカラーの胴体にオフホワイトのラインが入っている。そこにはアルファベット表示で店名が記してあった。Kenji&maya shop 健司と摩耶はオーナーになって大満足であった。財産を築いたようで感激した。早速乗り込んで受け渡し窓を開けた。一段高いところから辺りの風景を見回して深く頷いた。そして抱き合い瞳を見た。

「頑張ろうな」

「うん、頑張ろう。稼いで家を建てよう」

 しばらく抱擁していた。


          5


 田沼浩治宅に一通の書面が送られてきた。「なんだこれ。俺は知らんぞ」仰天して目ん玉が飛び出した。ローン会社からの保証人に関する通達である。毎月の返済額4万5千円。飛び込んできた数字に面食らった。あいつ又勝手に俺を保証人にでっちあげよったか。怒りで指先をブルブル振るわせ電話した。

「おい、摩耶、また保証人の書類を偽装したんか」

「あの会社辞めたから私の身元保証人は外れた。その代わりとして今度はキッチンカーのローン保証人になってくれたらええね。絶対にこんなこと起こらへんけどな、万が一私らが払えんようになったらローン引き継いでキッチンカーのオーナーになったらよいやんか。全額キャッシュでケリつけるなら451万円や。浩ちゃんならしれたる」

「そんな金あるかローン会社に保証人の断り入れる」

「そんなことできるの? あんたが断るなら私は近所に真実をまき散らすわ。田沼さんは会社のお金使い込んで首にならはったんや、と。そうなったらどうなる、住み慣れた家に住んでられへんで。子供さんの修学や就職に影響するしな。そんなことがないように穏やかに暮らそうな」

 浩治はケータイを放り投げた。魔物が潜んでいるようで壊したかった。

 健司と摩耶の商売は順調に推移していた。粉もん担当の摩耶はナンとカレーのセット。あるいはチャパテイとカレーのセットに加えて高価格で販売できるピザを販売した。子供向けイベントのときは価格を抑えたホットドッグやフランクフルトやたこ焼に切り替えた。健司は確実に売れる焼きそばにうどん、ソバ、を扱かい飲み物も用意した。

 最初の内は無我夢中だった。原価計算をしっかりしていなかったので労力の割に儲けが出なかった。売れるだけで満足していたのだ。その時期が過ぎると利潤を追求するようになった。一単価を計算しやすいように500円に統一した。チュロスは揚げてシナモンかグラニュー糖を振りかけるだけで簡単に作れた。五本入りパックで500円で出してみたところ完売できた。Kenji&maya shopの看板商品になった。お好み焼きも一枚500円で売れた。原価は一五〇円位。ピザはトッピングにもよるが平均一枚1500円から2千円で売って原価は500円位。クレープは500円で売って原価は100円ぐらいだから仕事量を考えたら効率の良い商品だ。たこ焼は10個入りで500円で販売し原価は200円位になった。意外に売れたのは搾りたて生ジュースである。グレープフルーツと蜜柑がよく売れた。コーヒーは他店の方がおいしいらしくあまり売れなかった。

 出展料は立て続けにイベントに出店すると嵩んだ。売り上げの一〇パーセントを払う場合と規模が大きければ売り上げに関係なく一律で5千円、小さければ3千円を支払わなければならなかった。人気のキッチンカー店なら出展料なしで呼んでもらえるがKenji&maya shopは出展料を払って商売させてもらう立場だ。

 いったいどれぐらいの収入になったのか、1か月たって計算してみた。月の内ふたりが働いたのは20日間で稼ぎは35万円であった。この状態を続ければ年収420万円ということになる。余裕を持たせていたはずの営業準備金は底をついた。いろんな出費が重なった。発電機は3万9千円したし冷凍庫ストッカーは中古で2万3千円した。必需なので買うしかなかった。扱う商品のタペストリーは百均でラミネート加工の部材を買ってきて自作したが包装紙やドリンクカップやストーローは自作できない。規模の大きいイベントに出店するのは月に1、2回に抑制して、後はスーパーの店先を借りるか、人通りのある駅前広場か公園で店を開くことにした。

 健司は「儲からんな」と、言ってふてくされ機嫌を損ねる日が多くなった。キッチンカーを使った露天商で一旗揚げるつもりだったのだ。夢がぎゅっと濃縮されて頭に詰まっていたのだ。現実は厳しかった。

 摩耶は愚痴と反省と将来の入り混じった感想を語った。

「一生懸命働いたけど、この一カ月は骨折り損のくたぶれ儲けやった。実際に店を出して経験せんとこのようなことは分からへん。次のステップに移らんとじり貧になる。収入を安定させようと思ったら毎日一定の額が得られる弁当の販売をすることや。毎日昼時に売りに行くわ。ありきたりの弁当では後からの参入者は弾かれる。何か特色のあるお弁当を考えるわ。それからな、電子決済を導入する。paypay を導入してバーコード決済をできるようにする。手数料は1,98%や。価格に転嫁して帳消しになるようにする。午前中に日替わり弁当作って13時までに売り捌いて、それから催し会場に行って店だすわ。働き詰めになるけど働いた分返ってくるものがある」

「まあええけどな」健司は抑揚のない返事をした。

「健ちゃんは私が弁当作っている間に材料仕込みに行っといてや」

「ああ」

「朝、早いし寝よか」

 夫婦の会話がだんだんなくなってきた。深夜に放映されるテレビの洋画劇場を楽しんでいたがそれもなくなった。健司はパチンコ屋に居候していただけに時折弾きに行っていたがその時間は無くなった。摩耶はファッション雑誌を定期的に購入し楽しんでいたがそれもしなくなった。化粧もしなくなった。ただがつがつと利潤を追求する夫婦に変容していった。

 摩耶の和風弁当は完売できるようになった。衛生的に考えて油で揚げるのが普通だが摩耶は根野菜を中心に昆布出汁で時間をかけて徹底的に煮込んだ。焼き海苔の代わりに大葉を使った。生野菜も使った。御飯に鰹節を振りかけた。電子決済できるようにしたこと、摩耶のルックスの効果もあって1食400円で販売して50食売り上げた。掛け算したら2万円になる。少なくとも実利1万円は下らない。一ヶ月25日としたら実質で25万円の稼ぎになる。そこにキッチンカーでの売り上げが上積みされる。

「やっていけそうや。ローンの返済も問題ない」

「摩耶は元気やな俺は眠たくてしようがない」

「ぐっすり眠ってるやんか」

「寝足りん。頭がボーとしている。絶えず欠伸を嚙み殺している」

「仕事を休んでいるときの休息の仕方とちがう。私の眼を盗んでパチンコに行くようになったやろ。気晴らしのつもりかもしれんけどそんなことでは身体は休まらへん、家でごろ寝して神経休ませんと。健ちゃんは熱意が足りん」

「俺に説教するのか?」

「そんなつもりはないけど。サラリーマンは朝6時ごろまだ暗い時間に仕事に出かけるねんで、帰ってくるのも夜や。それに比べたら私らは恵まれている方や。健ちゃんはサラリーマンの経験ないねな」

「馬鹿にすんな!」

 大声を張り上げて怒鳴りつけてしまった。

 摩耶はぽロポロと大粒の涙を落としてしゃっくりあげた。疲労が蓄積して精神が高ぶっていたのだと分かっていても、挫けたのだと思って悔しかった。金切り声張り上げた。

「自動車の運転も到着してからの事務手続きも、店出しも一切私がやってるね! キッチンカーの購入資金になった弁護士との交渉は私がやったんや! 保険所の届けも、食品衛生の責任者資格も、私が取りに行ったんや! 私が居なかったらこの商売は成り立たへんね、解ってるか! 一言お礼を言ってもよさそうなもんや!」

 二人で生活を共にして始めて喧嘩した。

        *

 翌日摩耶は早起きして商品の弁当の下拵えをしていた。2時間ほど経って健司が起きてきた。ショボショボとパンと牛乳とトマトの朝食を済ませた。

「買い出しに行ってくるわ。メモしてくれへんか?」とぼそっと言った。

 摩耶はカーと頭に血が上った。

「何を仕込んだらええのか分からへんの? 人に頼ってるから気が回らへんね。自分で切り盛りしてたら必要なものは分かる。メモしたげるので早よ行っといで、自転車で行くんやで」

「自転車?」

「自動車免許証持ってへんかったら自転車で行くしかないやんか」

 ブスッとして部屋を出て行ったと思ったら共同ガレージの方角から耳慣れたエンジンのブルルンと空気を撹拌する音がした。

 摩耶は拵えた弁当をクーラーボックス二個に分けて台車を押し共同ガレージで健司が帰ってくるのを待っていた。

 正午直前に健司はタクシーで帰ってきた。

「どうしたん?」

「無免許で捕まった。キッチンカーは警察に没収された」

「阿保!」

 摩耶は突き飛ばすように鋭い眼つきで一瞥した。

 時間が迫っているので、タクシーでビジネス街の売り場に行った。すでに正午を十五分経過していた。クーラーボックスの上にそそくさと弁当を並べた。

「あれっ、如何したんや」

 常連のお客さんが声を掛けて買ってくれた。

「自動車故障して修理に出しています。今日中に直りますので明日は正午前に来ます」

 愛想の笑顔も忘れなかった。結局十三時までに十個も売れ残った。こんなことは初めてだ。タイミングだな、お客さんが希望する時間を逸らしたら惨めな結果を招くのだ。

 心の中でプリプリしながらクーラーボックス二個を肩に引っ提げて警察署へキッチンカーの引き取りに行った。その足で業務市場へ行って仕込んだ。そして健司を迎えにマンションに寄ったが留守だった。待っていたら午後の店だしが遅れるので一人で子供広場へ行った。すでに夕方になっていた。

 たこ焼とチョコバナナ、のタペストリーを掲げた。一人なので準備に時間が掛かった。幸いにも競争相手は焼きそばを売っている叔父さんだけだったので二品だけであってもよく売れた。夕方になってホットドッグを追加した。子供を迎えに来た親御さんたちの小腹を満たした。

 そろそろ店仕舞いかな、と思ったとたんにお腹が空いてきた。昼抜きでやっと食事にありついた。コミュニケーション取るため焼きそば屋さんに挨拶に行った。

「叔父さん、儲かるか」

「一段落したんか、若いのによう頑張るな。旦那は如何したんや」

「風邪引いて寝てる。知ってるの?」

「2、3度一緒になったやんか。あのキッチンカーは高かったやろ、元取るのに大変やな。精出しすぎて体を壊したらあかんで。商売は動いたら動いただけ儲かるけど、体壊したらそれまでの頑張りがパーや、何にもならへん」

「叔父さんはこの道何年くらい?」

「かれこれ二十年、やってるな。勤めていた会社が潰れたんや。露天商のモットーは元手を掛けんことや。このテントも10年使っている、鉄板は商売始めた時の物や。バーナーも修理しながら長いこと使っている。金を掛けてへんし酒もギャンブルにも手出さへん。毎年正月に嫁はんとガキ連れてハワイに行っている。骨休めしたらもうひと踏ん張りしようかと英気が漲ってくる」 

「ゆとりのある生活はええなあ、私らは始めたばっかりやしローン返さないといけないので、今のところはしゃにむに働くしかないね」

「そのうちコツがわかってくる。ゆるゆる歩むと時と身を張って一生懸命頑張る時と、要はメリハリ付けることやな。頑張るばかりやったら身体を壊す。さっきも言ったけどな。焼きそば焼いたげる。お金はいらんで」

 今日、頂いた焼きそばは人生の味が沁みていた。健ちゃんに話さんとあかん。と思って帰宅した。

 食卓に封書が置いてあった。

〈俺はしょうがっこうの二年生までしかがっこうにいってない。いえにいたらオヤジになぐられるのでこうえんでねとまりしていた。そのときとおりかかったテキヤのオヤカタにひろわれた。ねるとこないんやったら、うちにきたらええ。そのかわりしごとをてつだえよ、メシはくわしたる、がっこうにいかんでもよい、といわれてそのとおりにした。じを、ようかかんのはそのためや。だいじなしょうひんをあつかいそこねて、どなりつけられたときもあったけど、メシはちゃんとくわしてくれた。グリコのおかしやリンゴあめ、かってくれた。かっこいいティシャツもかってくれた。プーマのくつもかってくれた。おさなかったんでむちとあめでかいならされたんや。でいりの兄ちゃんがいえにかえって学校に行け、となんどもいってくれた。けど、いえにかえったらなぐられるというきょうふしんからぬけることはできひんかった。なんというんかいな、じゅばくというんかいな。大きくなっているのに、きょうふしんがこびりついてんね。はたちのときオヤカタのいえをでてパチンコ屋のようじんぼうになった。パチンコしにくるおちこぼれたやつとつきあっているあいだに、せけんがみえるようになった。いろんないきかたがあるけど、としとったらオレみたいなもんは、にしなりのふきだまりでゴミをあさって、のたれじにするしかないのだときづいた。そういうじんせいをおもったらお母ちゃんにむしょうにあいたくなった。オレをすてた母やけどな。どうしているかなとおもって、うまれた家をみにいったんや。たてかえられてべつじんのひょうさつがかかっていた。おれはかぞくのつながりをなくしたんや。ひとりでいきていかなしゃあないとさとった。それでも、ひとりでラーメンすすっていたらさみしくてなみだがこぼれた。たまたまパチンコやでしりあったやつが、じぶんをほうりだしたかいしゃのえいぎょうぶちょうに、かたきうちたいとうちあけよった。じんじのごたごたにつけいって、カネをまきあげるようにさずけよったので、のりこんで、しゃちょうをどうかつしていたとき、かいちょうのじっしであることをみとめさせようとせまっていたマヤのはなしをきいたんや。ひとりでのりこんでくるとはどきょうあるやつや、どんなやつかみてみたとおもってせっしょくしたんや。ひとめでぞっこんホレてしまった。いまおもうとマヤのマンションにころがりこんでキッチンカーのはなしでもりあがっているときがいちばんしあわせやった。いざしょうばいはじめたらオレはなんのやくにもたたへんかった。せめてよみかきができたらなんとかなったとおもう。こんなこといまさらいうてもしゃないけどな。マヤにこれいじょうめいわくかけるわけにはいかへん。ここをでていく。まっとうなしゃかいからちょっとはずれたところでいきていく。しんぱいするな、そこがオレにてきしたところや。マヤはこんじょうもあるし、りはつでべっぴんさんや。なにごとにつけひとりでじゅうぶんやっていける。ただし、うぬぼれたらあかんでせけんをなめたらあかんで。たんきだしたらあかんで。それじぁな。げんきでな。〉

 三月ほど生活を共にした才田健司は置手紙を残して去っていった。

 上月摩耶は、ほとんどひらがなで記された文章をたどっていって心境を理解した。別段淋しくも悲しくもなかった。ずーと一人で生きてきたのだ。家族と寄り添って生きた経験はなく常に一人で生きてきた。健ちゃんもおなじだったと思う。たまたま知り合って同棲して世間並みに生きようと頑張ってみたものの、過去の境遇を体の隅に残していたので、ひと踏ん張りしなあかんところで踏みとどまれず流されてどこかに行ってしまった。生育の途中で親の情愛を身に着けられなかった子は精神の一端を損傷して欠損のある人間に育つ。健ちゃんも私も単独行者なんだ。身に付いた創痍を気にしながら生きていかなければならない、と決意した。


        6


 摩耶は才田健司との愛の象徴だったキッチンカーを持て余すようになった。弁当屋としてやっていくつもりなのでキッチンカーはあった方がよいかもしれないが、なくてもやっていけると考えた。今でも自宅マンション内で弁当を拵えているし配達と販売時は軽の自家用ワゴン車を使っている。小回りが利くし何よりもキッチンカーはガソリン代、車検、駐車場等の維持費にお金がかかりすぎる。

 手放す決断して自動車を購入した会社に問い合わせたところ特殊カーなので買取価格は厳しかった。451万円で購入したのに査定額は150万円であった。ローンの未払いも指摘された。販売会社に 買い取ってもらうのは諦めて自分で買い手を探した。

 まず一番に田沼浩治の顔が頭に浮かんだ。

「浩ちゃん久しぶりやな、元気か、まだ掃除屋やってるの」

「生活していかんならんからなあ、またなんか頼み事か。お前が電話してきたら、ろくなことないわ」

「ローン払えんようになった。相棒がとんずらしたんや」

 浩治はゴクッと唾を飲み込んだ。

「そこでな、あのキッチンカーを浩ちゃんにプレゼントするわ。ローンついてるけど、その掃除屋辞めて浩ちゃんがオーナーになって露天商始めたらよいね。簡単に元取れるわ。浩ちゃんは営業の経験あるし人に好かれる性質やから成功するにきまってる。喫茶店で会って説明するので来てくれるか。京都駅前のこの前会った喫茶店で明日の17時に待ってる。それではな」

 一方的に電話切られた浩治はうろたえた。しかし今の特殊清掃業に嫌気がさしているときだったので摩耶の話が光明となって心に射した。

 その夜田沼家の淡々とした夕餉が終わった。魚臭い妻の晴代が浩治の蒲団の中にもぐりこんできて腕を手繰った。

 浩治は白髪が多く混じってる髪を指で梳くように撫でながら話し始めた。

「ちょっと話あるねんけどな。キッチンカーて知ってるやろ。スーパーや公園や、お祭り広場に繰り出して、焼きそばや、たこ焼や、カレー売ってる移動販売車や。摩耶がその自動車を買って商売始めたんやけど一緒にやっていた相棒に逃げられて持て余しているらしい。俺に買い取ってくれへんかと相談してきた。今の仕事そろそろ止めようと思っているときなので悪い話ではないとおもうねんけど」

 晴代は突然の話だったので直ぐには返事しなかった。じっと目を瞑って髪を撫でる夫の仕草に任せていたがその中から答えを見付けた。

「ええ話しやと思うわ。お父さんは営業を18の歳から30年間もやってきたんや経験を生かせると思う。思い切ったら」

「50に手が届きそうになって違う仕事に手を染めるのは不安やけど今の仕事で頑張っていても梲上がらへん。露天商やったら頑張った分だけ儲けられるので張り合いがある。子供にまだまだお金がいるからな」

「摩耶て、ずっこい子やから値段を吹っかけてくるのと違うか」

「あいつはローンの支払いに汲々しとる。キッチンカーに4万5千円、住んでいるマンションの家賃6万5千円、合わせたらそれだけで10万ちょっと超える。電気、ガス、水道等の光熱費、材料仕入れの元手もいる、若い子やから身の回りに使うお金も必要や。手放したい気持ちを考えたら吹っかけるわけにはいかんやろ」

「任せとくけど、我が家の沈滞ムードを吹き飛ばせる転機になるかもしれんな。この先考えたら生活立てていけるかもしれん。仕事先なくした私も手伝うわ」

 現状は摩耶が保証人になっている浩治に買い取らなければローン支払いを肩代わりしなければならなくなるぞ、と脅迫まがいの押し付けをしているのだ。妻の晴代にどうしても保証人になっているので仕方がないと白状できなかった。ただ摩耶が4万5千円支払っていると口を滑らせたとき晴代は反応しなかった。ローン残額がある自動車を買い取る際の知識を有していなかったとみえる。一家の主である浩治も引き続いて支払って行けばやがて自分の物になる、ぐらいしか思っていなかった。ちょっと疎い似たもの夫婦である。

 妻の晴代の承諾を得て、京都駅前のタリーズコーヒーショップに向かった。

 上月摩耶は水の入ったコップ内をストローでくるくる攪拌して時間を弄んでいた。

「家内と相談したんやけど、買い取ってもええ」

 いきなり言ってしまったので交渉など成立するはずない。

「そうか」

 摩耶の顔がパッと弾けて輝いた。

「この間の電話のとき、言い忘れたんやけどローン契約の詳細を話しとく。自動車の所有名義は信販会社になっている。売却しょうとすればローンを完済して私の名義に変更し浩ちゃんに売却することになるね。だからローンの全額を払える金額で買い取ってほしいね」

 抜け目なく条件を追加してきやがった。その手に乗るものか。

「そんな話聞いてへん。断る」

「かまへんで、高尾設備㈱の栗田三郎さんにも話しを持ち掛けてるね。ローンを解約して一括購入すると言っていたわ」

「栗田さんにも話しを持ち掛けてるのか」

「あの人、近々定年やんか。引退して家に閉じこもったらボケるで、小遣い稼ぎせえへんか、と話したら乗り気になって、近々会うことになってる」

「栗田さんは取締役や。役員に定年はない」

「それがな、取締役と言っても名ばかりの閑職なので居心地悪いそうやで、会社は営業課長を部長に立てるつもりしているから辞めていかんとしゃあない状況に立たされているらしいわ。キッチンカー購入に乗り気になるのもわかるな」

 冷静に考えたら、摩耶特有の出まかせの作り話だ、その公算が高い、と気づく筈なのだが、浩治は特殊清掃の仕事から足を洗って妻の晴代と二人で露天商を始める気になっていた。すでに晴代の承諾を得ているのだ。今さら覆せない。話を中断して構え直すことができなかった。蛇に睨まれた蛙になって摩耶に、好きなように飲み込まれてしまった。

「じゃあー、取引成立した。信販会社に名義変更の連絡するわ。金額の連絡あり次第電話するのですぐに振り込んでや」

 上月摩耶は交渉を終え長居は無用とばかりサッと席を立った。

 その夜の田沼家の一家団欒時は喧噪と呆けの渦が充満した。

「ローン残高全部支払わんと名義変更できひんの、そんな話聞いてへんで!」と晴代は金切り声開けた。

「せや、せや、同じ買うなら新車を買ったらええね。ローン付きの中古なんて買わんでもええ」と、次男は煽った。

「そんな商売せんでもええ。長い間サラリーマンで過ごしてきたんやから露天商なんて無理や」と、長男に至っては商売を始めることすら反対した。

「お前は心根がやさしいから摩耶という女に付け込まれたんやろ。その歳になって新しいことに手を出さんでもええのと違うか」と、祖母は我が子を庇いながらも怪しげな商売を始めようとする息子をやんわり制した。

 浩治は仕方なく仕舞っていた奥の手を出した。

「実はな、ローンの保証人になっているね。支払えんようになったと言うとるので断ったら肩代わりせんねらんね」

 家族は呆気に取られて茫然自失ものが言えなくなった。重苦しい沈黙の間を裂くように晴代がまとめた。

「お父さんは、こんな人や。貯金おろしてお金払わんとしゃあない。その自動車を買い取って露天商始めたらよいね。お父さんは営業を長い間やってきた人や。私も手伝うつもりしている。心機一転頑張ろう」

 浩治は上目遣いで家族の反応を確かめていた。「お父さんはこんな人や⋯⋯」を聞いた二人の息子と老いた母は転職をどのように受け入れたのだろう。

「今の仕事よりええで。働きがいはあると思う。俺、手伝うわ」と、次男は明るく振舞った。

「お父さんは前の仕事を辞めてから人前に出たがらなかったのにな。考えたら三十年間営業してきたので再び世間と接したくなったんやろ。積極的な行動なのでええんと違うか」と、反対していた長男は、前を向こうとしている父を励ました。

「お前はええ子に恵まれたな。親がボーとしていたら子はしっかりするわ。体に気をつけて頑張り」と、我が子の48年間の成長を顧みるように老いた母は目を細めた。

 晴代は涙ぐみながら黙って聞き入っていた。我が家の転機を乗り切った感慨に浸っていた。

 浩治はこれから先の生きていく指標を家族によって頭に穿たれた気がした。


        7


 季節は移りいく。人の営みも移りいく。

 11月の青い空はどこまでも高く澄み渡っている。児童公園のミズナラが紅葉しだした。その下にグリーンのキッチンカーがとまっている。タペストリーに(おかずの便利屋田沼)と書かれている。

 焼き魚の良い匂いがして、人だかりができていた。

「叔父さん、この鮭2つ頂戴」

「はい、2ツですね」横からきびきびした声で応じたのは妻の晴代である。

 浩治はポリ製の舟に乗せて袋に入れた。

「このポテトサラダ、おいしそうや、高野豆腐の卵とじと一緒に貰うわ」

「マカロニサラダと鮭の塩焼き貰うはわ」

「今日は、ひじきの煮物とかぼちゃの煮物にしとこ」

「餃子2人前貰う、ビールのつまみになる」

 集まったお客さんは杖を突いているか、手押し車を押している。

 年寄りは買い物に難儀している。目を付けたところは当たった。キッチンカーの既成のイメージを払拭し、焼き魚やお惣菜を販売した。妻の晴代がスーパーの魚屋に勤めていたので商品の仕入れや捌くノウハウを習得していたことも幸いした。毎日定時に定まった場所で店を開ける。をモットーにして働いた。休業は日曜日だけである。

 その日曜日も、大きなイベントがあれば会場に繰り出して露天商本来の店を出した。浩治が焼きそばを焼き、妻の晴代がピザを焼き、次男がたこ焼を焼いた。交代要員は大学受験勉強中の長男である。昼過ぎに客足が一段する頃のっそり現れて交代する決まりになっている。その間に父母と次男は順々に食事と休息をするのである。

 その長男が「この人、手伝ってくれるし」と言ってクラスメイトのような女性を連れてきた。

 黄色のパーカーを着て、黒っぽいパンツ。流行りのキャプ被って眼鏡掛けていた。

 晴代は思い当たる節があるので、一目で彼女を連れてきたなと分かった。

 長男は父の浩治と入れ替わってヘラを握った。その横に立ってじっと観察していた彼女は「くすっ」と笑った。後ろに引っ込んで丸椅子に腰かけ自分が拵えた焼きそばを食べていた浩治はなんと、どんくさいと苦笑いしていた。

 晴代は食べ終わった夫の浩治と入れ替わって長男が拵えた焼きそばを食べながら丸椅子に座りピッタリ寄り添っているふたりの後ろ姿を目を細めて観察していた。

 次男は、「交代、交代」と急かせて食べ終わった母の晴代と代わり、他の露店に食事に出かけた。カルビーポテトチップスの袋を片手にポリポリ食べながら帰ってきた。

「この人、手伝ってくれるし」と長男と同じような言い方で小柄な女の子を伴ってきた。

 白地に黒と青で竜を大きくプリントしたTシャツ着て、膝丈の黒のショートパンツ、短髪の髪にラメのネット被せていた。手首に刺繡糸のミサンガ嵌めていた。晴代は彼女を見て次男らしい好みだと思ってクスッと笑った。

 次男は晴代と後退してたこ焼を始めた。傍で見ていたその女の子が、「私がやる。見取り」と言って交代した。

 チャッキリの扱い方、ピックをシャッ、シャッと回転さすように動かす速さに仰天した。これはただ者ではない、次男よりはるかに上だ。刷毛で垂をかけ赤生姜をのせ、青のりをまぶし、舟に乗せるまでの手付きに見とれた。

 次から次へとお客さんが来て繁盛した忙しいイベントが終わった。打ち上げが二〇時だったのでくたくたに疲れた。晴代は帰って食事の用意する気力を失っていた。

「外食して帰ろうな」呼びかけたとき、次男の彼女が「うちは中華食堂やってる、食べに来いひんか」と誘った。

「此処かー」浩治は思わず素っ頓狂な声を発した。近在に名の通った〈青竜軒〉の娘さんだった。

 手伝ってくれた長男の彼女含めて六人が座敷に上がって中華円卓を囲んだ。一家にとっては久しぶりの外食になった。

 きのこスープ、海鮮八宝菜、酢豚、チャーハンをお腹に収めた。話題も尽きなかった。当然彼女との馴れ初めになる。店の外灯が落ちて暖簾が外された店を出て帰宅した。

 浩治は風呂に入り蒲団にもぐりこんだ。

 妻の晴代が「今日は楽しかった。それぞれに彼女ができて手伝いに来てくれた。若い女の子が入ると雰囲気が明るくなる。ええ日やった。ええ日やった」と、言いながら浩治の腕をたぐって抱きしめストンと眠りに落ちた。

 浩治は目が覚めて直ぐに眠りに落ちることはできなかった。晴代の髪を指で梳いながら考え事していた。

 なんだかんだ問題はあった末に妻や子供の理解を得てキッチンカーを買い取った。上月摩耶によってもたらされた偶然の産物であったが一家を纏める接着剤の役目をこなした。ということは上月摩耶が浩治の家族の融和に一躍買ったことになる。妻の晴代は夫の気持ちを長年連れ添ってきた感覚で読み取って支えてくれた。感謝しなければならない。まかり間違えれば俺は居場所をなくすところであった。

 そんなことを疲れた頭で考えていたらいつしか眠りに落ちた。

 明け方夢を見た。

 長男の結婚披露宴が中華店の〈青竜軒〉二階座敷で開かれていた。その席に高尾設備㈱の社長と取締役の栗田三郎さん、それに上月摩耶が列席していた。長男が新婦の両親に新婦が浩治夫婦に花束を渡して宴が始まった。

 次男が高校野球でよく歌われる〈栄冠は君に輝く〉をマイク片手に一人ダンスしながら歌って喝采を浴びている。社長と上月摩耶がデュエットで〈愛の軌跡〉を披露している。妻の晴代は憎んでいた栗田三郎と愛燦燦を仲良く歌っている。招かれた人たちは料理を口に運びグラスを傾けながら体を左右に揺すり手拍子で盛り上げ宴席を楽しんでいる。

 陽気な人たちの陰に隠れて浩治だけは浮かない顔してチビチビ飲めない酒を舌に浸している。

 長男は俺を捨ててどこかに行きよる。時を置いて次男も続くだろう。

 子供が成長して家を出ていくのは鳥の巣立ちと一緒なんだ。そんな摂理を理解していても俺を捨ていく子供が憎たらしい。此処迄決して平らな道を歩んできたのではなかったんだぞ。苦労して育てたのにあっさりと出ていくのか。

 妻の晴代がダンスに誘った。ステップ踏みながらやがて妻と二人きりの生活になることを覚悟した。難しいことを考えないで成り行き、成り行きに任せて道を歩めばよいのだ。それが取り残された者の生きる姿だ。

 夢の場面は一瞬で飛んだ。

 キッチンカーを運転しながら次男が鬼滅の刃のテーマ曲をハミングしている。助手席に青竜軒の娘が座って手拍子を入れている。

 今日は紅葉狩りの客目当てに川沿いの多目的広場に繰り出した。

 清流を紅葉した枯葉の舟に乗って秋の虫カンタンが悠然と下っていく。

 次男が〈青竜軒出店〉とタペストリーを立て掛けた。

「いらっしゃいませー、いらっしゃいませー、大盛りの中華ラーメンはいかがですかぁ」

 青竜軒のピチピチ娘が可愛らしい声を立てて呼び込みを始めた。

 また一瞬で場面は展開した。

 東京渋谷のスクランブル交差点を長男がお腹の大きくなった妻の手を引いて歩いている。

 浩治と晴代と祖母の三人が居間で長男に発送する新生児ベビー服やおもちゃを段ボールケースに詰めている。

「こんなちっちゃいもんでええのか?」

 と、浩治は不安気に覘いている。

「こんなサイズでよかった子があんなに大きくなったんや。信じられんな」と、妻の晴代が感慨深く肩を落とした。

「こんな手の込んだガラガラは孫のときはなかったな。散々梃摺らせて、散々食い潰して大きく成りよった」と祖母は目を瞬いていた。

 浩治は涙がこみあげてきてそーと家を出て一人とぼとぼと清流の岸辺を歩いている。毛躓いて川に転げ落ち冷たい水が顔に掛ったところで目が覚めた。妻の晴代の掌が顔に乗っかっていた。

「もう起きんとあかんで、寝すぎたらボケるわ」

          *

 11月4日、金曜日。新型コロナ禍に巻き込まれた状態が継続している。まだ脱出できていない。全国の1日当たりの感染者は3万2918人。死者は65人京都では404人、死者は2人となっている。慣れっこになったとはいえ社会の病巣を抱えて重苦しいことに変わりない。

 高尾設備㈱で年度の下半期がスタートした。上半期は新型コロナウイルス禍で景気は下り坂、買い控えが生じて、売り上げは芳しくなかった。社内の人事を巡ってごたごたしたことも社員のやる気を消失させた。

 取締役営業部長の栗田三郎が昇格人事を発表した。この時期に昇格させるのはまれであった。

「富山高男君を本日付けで営業一課の主任に任命する」

 会社は田沼浩治と同じ轍を踏むのを避けた。似たようなタイプだからあの忌まわしい混乱を二度と招きたくない意志の表れであった。

「十六年間にわたって営業一筋で頑張った事績を評価した」

 と栗田部長は推挙の理由を語った。そして自身の引退を表明した。「私の後は営業課長が昇格します」この日の2件の昇格人事発表が花道だった。

 エトワール、ソシエテSAでも上半期の会社業績が報告されていた。

 社長が顔面を紅潮させて、

「この不景気の中で皆様に努力していただいて、昨年同期の売上を倍近く上回ることができました。そこで銀行の融資を受けて新社屋を建設することにしました。この近くで土地を確保できましたので鉄筋構造の三階建ての自前の会社を建設します」

 一呼吸入れたところで、全社員からわーと雄叫びが上がった。拍手が巻き起こった。社長は鼓膜を叩く心地よい反響にまんざらでもない表情を浮かべて続けた。

「一階は倉庫と資材置き場になります。二階は事務所と応接室、更衣室とトイレ洗面室、三階は食堂と休憩室になります。スぺースがあるので卓球台でも置こうかと考えています。今の計画段階では場所に余裕がありますが将来手狭になって建て増しなければならなくなることを願っております」

 最後に一層の奮起を促して挨拶を終えた。

 社長は社員の顔が輝くのを見てこの会社はまだまだ成長すると確信した。

 田沼浩治は妻と二人でキッチンカーに乗り、平日は総菜の移動販売を休祭日にはイベント会場に繰り出して焼きそばやたこ焼などを販売している。

 ある日上月摩耶がケータイに連絡してきた。

「浩ちゃんか。私や、商売順調か?」

「何とかやっている」

「前に勤めていたエトワール、ソシエテSAに弁当納入することになってん。高尾設備㈱の社長に頼み込んであそこにも納入するね。一人では賄えないので同じマンションの人に時間給で手伝いに来てもらってる。外回りが逼迫してるね。助けに来てくれへんか」

 浩治はこの仕事は安全だと判断したわけでもないがあっさり引き受けた。翌日から弁当を配り始めた。10時から始めてどんなことがあっても12時には済ませなければならない。大雨も台風も関係なく配達を終え、前日の空弁当箱を回収しなければならない。2時間限りの仕事とはいえ稼ぎは5千円である。

 晴代はいそいそとキッチンカーを運転して出掛けていく姿を胡散臭そうな顔つきで眺めていた。しかし行くなと引き留めはしなかった。何となく夫の腹つもりが読めているのだ。

 浩治は最近生き生きしてきた。仕事が早く終わった日には自転車に乗ってこそこそと出掛けた。

 〈パチンコ・東京CLUB〉

 資金は摩耶の弁当配達で得た5千円が元手だ。コツコツ溜めてパチンコ屋でスロットを回すようになった。のめり込んで頭が痺れ嫌なこと一切を吹き飛ばした。精神の回復機会を得て家業の〈おかずの便利屋田沼〉も順調だ。

 才田健司は時折摩耶のもとに手紙を送ってくるようになった。差出先が大坂西成区鶴見橋のメダデ教会となっていた。文面に信仰、礼拝、賛美歌、等漢字が目に付くようになった。生き直し、とも書いてきた。摩耶は健治がこのマンションに戻ってくるのを確信して返信を出している。

                        完


 参考資料


 京都新聞社2022年4月4日版、7月31日版、11月4日版。週刊ニュースファイル。


 Epark(くすりのお役立つコンテンツ)監修者佐藤美柚。


 リンナイ、ガスコンロカタログ、2022年版。


 TOTO、洗面化粧台カタログ、2022年版。


 国交省、下水道法。水質汚濁防止法。


 トヨタ自動車ウエブサイト(中古車オンラインストア)。


 ユーチューブ-北斗の拳。(Janbaritv、ニコナナチャンネル、アルテマ北斗の拳、パチワ、パチスロ北斗の拳)

 和菓子の種類(Omiyadate.com)


 自転車(Cyclehank.Jp)


 ユニバーサルスタジオジャパン、公式ウェブサイト。


 特殊清掃(b―Clean/jp./owned/what-com.mentary)


 児童福祉施設法(H―9年改正版)


 遺言の効力(民法第985条


 赤穂市丸山県民サンビーチ(www.city.aco.lg.jp)


 キャドシステム(cadjob;co.jp/cad.course/know_how/p)(e_words.jp/w/cad.html)


 東京オリンピックパラリンピック組織委員会。

 (2020 games.metro.tokyo.lg.jp/speciai/watching/)

(nhk/news.-2020年11月9日版)


 ウィキペデア=急性硬膜下血腫。統合失調証。


 国立精神・神経医療センター。精神保健研究所

 (ncnp.go.jp/hospital)


 タリーズコーヒーショップ(tullys.co.jp)


 キッチンカー関連

(foodtruck.co.jp。tripmall.onlinegoo_net.com。bing.com/images.)

 ケータバンク㈱(caterbank.co.jp/company)


 福祉保健局健康安全部食品監視課。食品衛生責任者手帳に関するもの。康生労働省食品衛生法第48条(mhlw.go.jp)


 焼き芋屋(ELLOCO ROADIMO)

(japanese.in.japan)


 売値と原価。

(tonarinokakeibo.com)


 販売管理の基礎知識。

(www.freee.co.jp)(rakurakuhanbai.jp)


 移動販売研究所

(inuiyoko.com/streetsale_how_to_start/)


 メダデ教会

(hpps://www.ktv.jp/news/feature/20210317)


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