だって君は優しいから

Renon

だって君は優しいから

 とうに乾いた涙を真依は丁寧に拭った。それが彼女自身の決意を意味した行為だと、僕は理解できてしまったんだ。今だけはバカなフリをしていたかった。きっと君にはバレてしまうんだろうけれど、それでもこんな情けない顔を見せるよりはずっと良い。せめてもう少し僕が器用な人間だったら、彼女は涙が乾く前に拭えただろう。

 申し訳なさから視線は顔を避け胸ほどの真依の髪を伝う。そうして僕の視界に、汗で少し張り付いたシャツの袖が映った。日焼けするからと早々に長袖へと変えていた彼女なのに、残暑のせいかまだ半袖を着ている。全然気が付かなかった。

……いや、それで良いのか。彼女はもう僕が気付くことを望んでないはずだ。

“この関係に終止符を“

 それが彼女のくれる優しさであり、僕が受け取らなきゃいけない優しさだから。微かに靡いたスカートにさえ憂いていれば、真依はいつもの聞き慣れた声色で僕に言った。

「奏多は優しいね。」

 その声に顔を上げると、彼女の視界には緑葉の生い茂る木々が映っているようだった。決して揺らぐことなく、ただ真っ直ぐ見つめている。その言葉は本当に僕に向けて言われたものだろうか。そう不安になるほど、彼女の視界に僕は映っていなかった。

 心が枯れていく音がする。クシュっと縮んで、乾燥して、簡単に壊れてしまいそうな心。隙間だらけの心が出来た時、僕は無性に喉の渇きを感じた。まだジメジメした空気をかき集めて唾を飲み込む。

 そして、合うことの無い彼女の目を見ながら、「真依ほどじゃないよ。」と少し明るく返した。自分の中の身勝手な心が彼女の目を追う。彼女は何に対してか分からないふふっという笑みを零した。

「そういうところが本当に優しいんだよ。」

 彼女が本当は何を伝えたいのか、僕はわからなかった。乾いた涙を拭う意味も、制服が半袖のままな事も分かったのに、彼女の言いたい事は分からない。ただの静寂を埋めるための雑談かもしれない。本当は深い意味なんてないのかもしれない。それでも僕は、そこに言葉にされない何かがあると感じていた。

 彼女はただ木々を見つめる。ずっしりと構えた木々は、肩を丸める僕の情けなさをより強調させた。そのまま時間だけが過ぎていく。生徒の声は減っていき、裏庭から人の気配が消える。

 彼女の影が長く伸び、僕の影と重なった頃、ローファーのコツコツという足音だけが響いた。彼女の影が僕から離れていく。

「もう、行くの?」

 出来る限りの時間稼ぎを、と口にしなかったその言葉。僕には彼女を止める権利も勇気もないから、「行かないで」とは言えない。だから、これがせめてもの足掻きなんだ。

「うん。時間だからね。」

 真依が言ったのはそれだけだった。別れの挨拶も、手を振ることもなく、ただそれだけを言って、僕の視界から姿を消した。

 結局、真依は最後まで僕を視界に入れることはなかった。まるで声しか聞こえていないかのような完璧な振る舞いだった。

 ふと彼女が見ていた木々と目が合う。緑葉の生き生きとした姿に、なんだか彼女が見ていた理由がわかった気がした。僕らはもう少し自分勝手に成長しても良かったのかも知れない。

「やっぱり真依の方が優しいよ。」

 もう届くことのない独り言を吐いて、彼女の優しさを受け取ろう。彼女が行った反対側を向くと、この季節には少し早い枯れ葉が落ちていた。

 その枯れ葉を僕は右足で強く踏み潰した。彼女が壊し切れなかった僕の心を壊すように。僕らが諦め切れなかった羨望を踏み躙るように。恋人というこの関係を終わらせるように。

 出会いと別れの季節は春まで待ってはくれなかった。




「皆さんはどこ住みなんですか?」

「私は電車で一本のとこです。」

「私徒歩圏内ですよ。」

「えぇ! 良いなぁ、ってことはやっぱり一人暮らしとか?」

「そうですそうです。あ、じゃあ今度私の家で鍋パとかしません?」

「良いですね! 絶対行きます!」

 サークルの新歓コンパの主役である女の子達が親睦を深める中、僕達はその傍らでまだ少し慣れない酒を片手に大人ぶっていた。

「翔太、もう少し桜とかも見てやったらどうだ?」

 目の前の男は左手に酒を持ち、右手にはまだ誰も手をつけていない団子を持っていた。ずっと横を向いていたその顔がやっとこちらを向く。

「お前わかってねぇなぁ。若い女の子がいて、酒があって、タダ飯も食えて、桜なんて見てる場合じゃないんだよ。」

 そんな彼の物言いに賛同するでも批判するでもなく「お前声でけぇって。」と周りの奴らはヤジを飛ばしていた。案の定その言葉は彼女達の耳にまで届いていたようで、数人がこちらを見てはクスクスと笑っている。

 流石に相手にバレては続けるわけないだろう、そう思っていたが、僕は翔太のことを甘く見ていたらしい。彼と目が合えば、閃いたと言わんばかりに目を見開いて「今言ってたのコイツなんだよ。奏多って言うんだけど、女の子達可愛いってもううるさくって、ごめんねぇ?」なんて僕を指差し弁明を始めた。しょうがないから「いやぁ、僕じゃないって、お前あんだけ女の子達可愛い可愛い言っといて無自覚なのかよ。」なんて茶化しておく。その様子を見た女の子達は「絶対奏多先輩じゃないですよね!」なんて笑っていた。

「奏多、ドンマイ。」なんて風評被害を受けそうになった僕に憐れむ言葉が聞こえてくる。

はぁ……

 浮かれた若者達をただ静かに見守る桜に、僕はそっと同情した。空気の読み合いの末に、全然手のつけられていない軽食を開けて、その中のサンドイッチを齧る。

 丁度挟まれていた卵が反対側からはみ出しそうになった時、「奏多先輩。」と一人の女の子が僕の顔を覗き込んだ。

「どした?」

「ちょっとしたご挨拶と言いますか、私、香奈美って言います。私達、なんだか名前似てますよね。」

 丁寧に巻かれた髪を耳に掛け直して彼女はえへへっと笑った。少し高めのヒールを脱いで「お隣失礼します。」とチュールスカートの裾を整えて座る。ただのジンジャーエールが入ったプラスチックのコップを持って「とりあえず乾杯しましょ!」と言うので、僕ははみ出た卵のことも忘れてサンドイッチを置き、酒を持ち直した。

「乾杯。」とプラスチックと缶を合わせ、一口飲むと、後ろから声がかかる。

「奏多ー。ちょ、お前買い出し行ってきてくんね?」

 声の主は一つ上の先輩。僕らの様子を見るや否や、「あぁ、香奈美ちゃん、だっけ? 二人一緒に行ってきても良いからさ。」と付け加えた。その彼女はというとまんざらでもなさそうに「何買いに行けば良いんですかー?」と聞いている。先輩の曖昧な買い物リストを小耳に挟んで、僕は買い替えたばかりのスニーカーに足を入れた。

「あ、ちょっと先輩待ってくださいよー!」

 そう言って慌てて立ちあがろうとする彼女。

「大丈夫だよ。僕一人で運べる量だし、それに、そのヒールで行くにはちょっと遠いからさ。」

 まさか断られるとは思っていなかったのか、きょとんとこちらを見ると、「え〜〜! 先輩と買い出し行きたかったのに、残念です。」と悲しい表情へと変わった。

「すぐ戻ってくるから、桜でも見て待ってて。」

 歩くには暑い上着を彼女の膝にかけて、「わかりましたよ。いってらっしゃい!」と言いながら振られた手に、僕は後ろ手ではあるものの振り返した。


 昼間から酔っ払っているサラリーマンや、和気藹々とした家族連れなんかを見ながら歩く。桜のトンネルを潜り抜けると現れた唐突な静けさは、別世界に来たかのような感覚を与えた。それでもしばらく歩くと、休日特有の交通量が耳に馴染んでくる。

 とりあえず行き先は全てが揃っていそうなスーパー。紙皿と紙コップと、炭酸飲料。アバウトな最後のオーダーに頭を悩ませながら進んでいくと、自然と小さくなる歩幅に俯き顔。

 コーラは苦手な人もいたはずだし、強炭酸は飲めない人もいそうだし、というかそもそもみんな炭酸を飲めるんだろうか。もしかしたら炭酸を飲めない人が飲めるのってお茶だけしか残ってないんじゃないか?

 あぁ、そうだ。炭酸は一番安かったものにしよう。それでもう一つ炭酸以外も買えば難癖をつけられたりはしないだろう。

 悩みの種を一つ解消して歩幅が戻り、大きな一歩と共に顔を上げた。

 上げるんじゃなかった。もっと悩んでいれば良かった。大通りの反対側の歩道。偶然にも視界に入ったのは、真依の姿だった。たった数年。それでも随分と大人びた彼女は現実以上の距離を感じさせた。

 あぁ、まずい。足は止まり、ただ真依の方を見ては立ち尽くしてしまった。

 今ここで名前を呼べば声は届くだろう。そして真依はきっとこちらを見るはずだ。あの時合わなかった視線も、今なら合うはず。

 そっと深呼吸をして身勝手な心を制御する。そうして、僕は何事も無かったかのようにまた歩きだした。真依の視界に入らないように、先ほどよりも早歩きで。あの時枯れ葉を踏んだ感情が蘇っては、僕を前へ、前へと急かす。足は重く、心は晴れていく。

 そうだ、香奈美が待ってる。靴づれは痛そうだったし、早く絆創膏も買って戻らないと。

 大丈夫。これがきっと真依のくれた優しさの最後。僕は真依を、真依は僕を、優しい人として記憶に残せたんだ。それで良かったんだ。

 綺麗事の優しさで僕らなりのエンドロールを。

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