鬼とみかん
湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)
🍊
冬、ばあちゃんちに行くと、いつもテーブルの上にみかんがあった。
俺はそれを、馬鹿みたいに食った。
「指がみかん色になってるねぇ」
ばあちゃんは俺を止めるでもなく、どんどんとみかん色になる指先を見て、微笑んだ。
ばあちゃんとは、仲が良かったと思う。
父さんも母さんも、仕事が忙しかった。だから俺はよくばあちゃんに預けられていた。ばあちゃんは第二の母と言ってよく、母さんとよくするように、ばあちゃんともよく言い合いをした。
ばあちゃんは、分かりやすい人だった。
喜ぶ時は、心の底から喜ぶし、怒る時は、鬼のように怒った。
ばあちゃんが鬼になった時は、声のトーンも表情も、何もかもが変わる。俺は、フィジカルではばあちゃんに負けない。年齢のこともそうだけど、身長も体重も、筋力も違う。例えば、殴り合いになれば絶対勝てる。
でも、鬼を前にしてはそんなフィジカルは意味を成さない。圧倒的空間支配力。でかいからなんだ、重いからどうした。筋力なんて無力だ。ただ従うほかない。あのツノには、少なからず俺は勝てなかった。
時に愛に溢れた鬼と化すばあちゃんが死んでから、俺はしばらくみかんを食べられなくなった。
みかんが並ぶ、冬が嫌いになった。
触るのも、皮を剥くのも嫌だった。
大きくなりすぎた図体で、ばあちゃん、ばあちゃんと縋りたくなる自分に気づくのが嫌だった。
嫌いだ嫌だと言うくせに、スーパーでそれを見かけると、ついつい手を伸ばした。
供えてあげたい、と思った。
でも、あの懐かしい記憶が染みついた家は今はもう無いし、仏壇は遠い。
考えるのは無駄だ、と諦める。
諦めるからもう、指先は染まらない。
ある日、気象予報士が来週は雪だと言った。
俺のまわりの小さな世界は、「雪なんか降ったら困る」という文句で溢れていた。
この時、「降れ、たくさん降れ、積もれ」と願っていた大人は、もしかしたら俺ひとりだったのかもしれない。
俺は、雪が降ったら逃げていたものと向き合おうと、心に決めていた。心の枷が凍って、きっとその支配の終わりを感じられるのではないかと思っていた。
空からは、求めていた白い塊が降り注いだ。
子どものキラキラとした声が響き、大人のどんよりとした嘆きがそれを絡めて無に返した。
白い塊は、地面を覆い尽くした。
車がいつもとは違う音を立てながら走りゆく。走ったところにだけ、アスファルトが見える。ザクッ、ザクッと音を立てて、足跡が生み出されていく。誰かの足跡に、続く誰かが足を合わせる。ザクッ、ザクッと、音がしたかと思うと、子どもが舞い踊っていた。ズドン、と音が響いたなら、お尻の跡がひとつ。アハハと楽しげな声が、夏の縁側を彩る風鈴の音のように、優しく鼓膜を揺らす。
外と内とを隔てる自動ドアが泣いていた。
震える体で踏み入ったスーパーの中は、楽園のようにあたたかい。
凍える寒さの家に帰り、電気のスイッチにも、暖房のスイッチにも目もくれず、ベランダへ急ぐ。
よかった。ここにも雪は、積もっていた。
雪を集めて、丸めて、固めた。小さいのをひとつ、大きいのをひとつ。それを上下に重ねたら、雪だるまの出来上がり。
だけど、ここで、ばあちゃん直伝のひと工夫。
雪だるまのてっぺんに、買ったばかりのみかんを置いた。
まるで大きな鏡餅。これが俺の、懐かしの雪だるま。
「ばあちゃん、そっちも寒い?」
懐かしの家でなければ、仏壇の前でもなく、お墓の前でもない。自分の家のベランダで、白い独り言を吐く。
冷たさのあまり赤くなった指先で、みかんを剥いて、食べた。ネットの中が空になって、いよいよ凍えて部屋に入り、暖房のスイッチを入れるその時まで、ひたすらに食べた。
真っ赤になったはずの指の先が、みかん色に染まっている。
手を洗おうと、蛇口に手を伸ばすと、
『指がみかん色になってるねぇ』
ばあちゃんの声が聞こえた気がして、蛇口に力を込められなくなった。
洗えない指先を、じぃっと見る。
鬼になることがなくなった今も、ばあちゃんは俺の心の中の空間を支配し続けているのを、確かに感じた。
了
鬼とみかん 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya
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