今夜は愛妻カレー
犬坊ふみ
【読み切り短編】今夜は愛妻カレー
「ただいま」
玄関のドアを開けると、キッチンからただよってくる香り。
「おかえりなさい、あなた」
妻は、キッチンで優しい微笑みを返した。
「ただいま、今夜はカレーかな?」
妻は手作りのカレーが得意だ。市販のルーを使わず、スパイスや香辛料を独自の配合で調合するほどのこだわりだ。
「夏菜子のカレーはいつもすごく美味しいよ」
「カレーには隠し味があるの、何度食べても飽きない味になるわ」
……ふーん。
料理などできない僕は、そんなふうに軽い返事をした。確かに、妻のカレーは飽きが来ない。カレーライスの翌日は、カレーにチキンを乗せ、オーブンでこんがり焼きめをつけた焼きカレーに、そのまた翌日は、カレーにだし汁をまぜたカレーうどんにと、連続でカレーメニューが続くことがあるが、何日続いてもちっとも気にならないうまさだ。
夕飯の支度ができるのを待つため、僕は自室へ入った。
カバンを置き、着替えをすませ、部屋のドアにかぎがかかっていることを確かめてSNSを開き、ユミカとのトークルームにメッセージを打ち込む。
『ユミちゃんただいま、今家についたよ。次に会える日をたのしみにしているね』
次に僕は、鍵付きのアルバムに入っているユミカの写真にうっとりと見とれる。なんて可憐な少女なんだ。次に会ったときにはあんなことをしようか、こんなことをしようかと、頭の中で妄想を膨らませる。僕の至福の時間だ。
「あなた」
とんとん、と控えめなノックの音。僕は現実に引き戻された。
「どうしたの?」
「あのねっ」
ドア越しに、夏菜子のすこし焦った声。
「私、コンデンスミルクを買うのを忘れてしまって……今から買いに行って来るわ」
コンデンスミルク? なんだそれは、僕にはよくわからない。
「カレーに入れたかったのに忘れちゃって。スーパーまですぐ行ってくるわ」
そんなの一つくらい入っていなくても味なんか変わるもんじゃないのに、と言いかけてやめた。隠し味がどうとかっていっていたし、彼女なりのこだわりがあるのかもしれない。
スリッパの音も慌ただしく、夏菜子は玄関を飛び出していった。
―――それっきり彼女は何時間も帰ってこなかった。
なぜならスーパーまでの数分の道のりで交通事故に遭い、病院に搬送され、僕にその連絡がはいったのはその数時間後だったからだ。
夏菜子は頭を強く打ち、一日たっても二日たっても目覚めることはなかった。僕は仕事を休み、入院の手続きをしたり、着替えをもっていったりと、自宅と病院を往復することになった。
「保険証」
僕は妻の保険証がどこにあるのか全く知らなかった。リビングの棚、引き出し、書類ケース、こんなふうに自宅を家探しするなんて思ってもみなかった。これまであらゆる公的手続きをすべて妻まかせにしていたツケがこんなところで回ってくるとは。
「でもこんなところには、まさかしまわないようなあ」
念の為、キッチンも調べる。調理台の上には中身がカラになったライターと爪切りが、ぽつんと置いてあった。きちんと整頓されたキッチンにそれだけ置いてあるのが、不思議といえば不思議だ。夏菜子がタバコを吸うはずはないし、僕の家のキッチンはIHで火は必要ないはずなのに。しかし次に、キッチンのシンク下を開け……そこで僕は動けなくなってしまう。
シンクの下には、ナイフのようなものでボロボロになるまで切り刻まれた紙が出てきたのだ。よく見ると、その紙には赤文字でなにかが書いてある。
「なんで?」
僕はぞっと鳥肌がたった。かろうじて読める「ユミカ」という文字。
「あいつ」
なぜユミカの名前を知っているのだろう? ふと見ると、そのすぐ横にホウ酸ダンゴが置いてあった。
「ねずみ…………」
はっと言葉が途切れ、数日前に妻と交わした会話が僕の脳裏に蘇る。
「うちネズミが出るようになっちゃたみたいなの。ねえ、お隣の田中さんの奥さんに聞いたんだけど、殺鼠剤にはヒ素がいいらしいのよ。ヒ素をホウ酸団子みたいに作って置いとくだけでネズミを駆除できるんだって」
「ヒ素なんてそんなに簡単に手に入るわけないだろう?」
「そうよね。今度、田中さんに聞いてみようかな」
このホウ酸団子のようなものがそれなのか、そうじゃないのか僕にはよくわからないが、なんだかざわざわと胸騒ぎを感じた。
キッチンは、妻が出ていったあのときのまま時間が止まっている。
作りかけのカレー。蓋を開けると、ぷん……と香辛料の香りが漂ってくる。僕がお玉でかき混ぜると、まだ生煮えの野菜が鍋の中でゴロゴロするのがわかった。いつだったかの有名な事件が脳裏に思い浮かぶ。
「まさかね、まさか。まさかだよ。そんなわけないよ」
僕は怖くなって、わざと声に出して独り言をいった。ガランとしたキッチンに、自分の声が予想以上によく響いた。
夏菜子は依然として眠り続けていた。彼女は、いったいなにを考えていたのだろうか。何を考えながら僕のために手作りカレーを作っていたのだろうか。眠り続ける安らかな寝顔を眺め、知りたいような知りたくないようなジレンマに苛まれている。
保険証は、あのあとすぐに出てきた。彼女のカバンの中に普通にしまってあった。
「僕はきみに謝らなきゃいけないことがあるんだ。本当に僕が悪かった」
のしかかる静寂の圧力に耐えきれず、とうとう僕は贖罪を口にした。
「ユミカのことを君が知っているなんて思いもよらなかった。ごめん……傷つけて。でもこれだけは信じてほしい。肉体関係はないんだ」
僕が一方的に思いを寄せていたユミカは、画面の中のだけ存在する『VTuber』。彼女は僕たち下僕の愛を糧にして存在する結晶。その手に掴んだとたん消えてしまう、脆く可憐な妖精……その化身である『YUMIKA』。夏菜子はユミカをそこらへんの女だと勘違いして、僕の浮気を疑ったにちがいなかった。しかし肉体関係はない。あろうハズがない。
「だから許してなんていえないけど」
しかし他の女に心を奪われていたのは事実だ。結婚しているのに他の誰かに恋をするなんて夏菜子は許せるだろうか。あるいは、むしろ単純に肉体関係だけであるほうが後腐れなかったかもしれないのに。
「でも僕は夏菜子も愛しているんだ」
ゆるして…………、そう夏菜子の手を握ろうとしたとき、枕元に置いてある夏菜子の携帯電話がピロンと鳴った。そうだ、そろそろスマホも充電してやらないと電池がなくなりかけている。そう思い、彼女のスマホを手にとったとき画面に浮かび上がった通知に目が行った。
★恋の黒魔術★あなただけに教えるより強くお相手の心を縛る秘術…………
黒魔術ってどういうことだ?
僕はほとんど無意識で夏菜子の携帯を開き、そのメールを開いた。スクロールしていくとフラグがついたメールがある。それには驚くべきことが書いてあった。
かな910さん
こんにちは! いつもメルマガのご購読ありがとうございます。
今回は、お相手の心をガッチリ掴む、恋のお
1,あなたの左手の薬指の爪を切り、それをライターの火で黒焼きにします。(炭になるまでシッカリ焼いてくださいね♡)
2,その爪をすり鉢でよーくすりつぶして……
3,手作りのお料理にまぜ、彼に食べさせましょう☆
爪はよーくすりつぶして粉末状にしてくださいね。
よりなめらかな口あたりになりますよ♡
この魔法で、彼の心は必ずあなたに手の中へ……。
僕は最後まで読むことができなかった。メールボックスを閉じ、スマホを戻した。夏菜子は依然として眠っている。
彼女は、僕の知らない女の顔をしていた。
今夜は愛妻カレー 犬坊ふみ @fumi0000
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