番外編 音楽室のミナミ

 坂田第一中学校の音楽室は、物語のオープニングに似ている。

 窓から望める日本海の水平線は、まるで物語の始まりを告げているようで、今すぐここから飛び出して、その光に向かって走り出したくなる。

 遮光と防音を兼ね備えた厚手のカーテンはあまり好きになれないが、そのカーテンを開け放った晴れた日の音楽室は、美術館に飾られている絵画のように綺麗だ。

「美波のピアノの発表会、確か来月だったよね?」

 先輩の愚痴を一通り言い終え、朗らかな表情をしている青木琴音が突然話題を変えた。誰からも口を挟まれずに五分間も話し続けたのだ。すっきりもするだろう。

 琴音は同じ楽器を担当している先輩とのコミュニケーションが上手くいっていないようで、機会があればその先輩の愚痴ばかりこぼしている。

 琴音の話を聞く限りでは、どちらかが極端に悪いとは思えず、どちらにも問題がありそうなのだが、琴音は先輩の方に百パーセント非があると思い込んでいる。私は琴音にも悪いところがあるとはっきり言わないものの、ときどき薬にも毒にもならない遠回しなアドバイスをしながら彼女の話を聞いている。

「来月じゃないよ。九月十四日」

 私は水平線を眺めながら、琴音の言葉を訂正した。

 小学生のときに、水平線の上を平均台の上を歩くみたいに渡ってみたい、と幼馴染みの水沢晴太に話したことがある。そのとき晴太は『おれは水平線の上で寝てみたい』と言っていた。何の前触れもなく、ふとそのことを思い出した。

「あれ? そうだっけ? 毎年、初夏だった記憶なんだけどなあ……」

 琴音が、おかしいなあ、と呟きながら首を傾げた。

「今年はいつもの時期に希望ホールの予約が取れなくて、スケジュールが違うのよ」

「そうなんだ。それで、今年も水沢に声を掛けるの?」

 琴音は気を取り直したように表情を和らげた。琴音の口から晴太の名前が出てきて、胸の内を見透かされたような気がしてどきりとした。

「うん。そのつもり」

 心の中で深呼吸をして、平常心を装って答える。こういうことは、恥ずかしがったり、誤魔化そうとせず、堂々と答えた方がいいことは経験上知っている。

「相変わらず仲がいいわね」

 微笑む琴音の隣で、長いこと黙り込んでいた佐藤奏が、学生鞄からガムを一粒取り出して噛み始めた。

 放課後とはいえ、お菓子を食べるのは校則違反だが、奏に限らず、みんなこうやってこっそり食べている。あと数時間で家に帰れるのだから我慢すればいいのにと思うのだが、おそらく奏は我慢ができないほどガムを噛みたいわけではなく、それを格好いいと思ってやっているのだろう。

「晴太とは幼馴染みなだけ」

 お決まりの台詞が、脊髄反射で口から飛び出る。奏が私の声に被せるように、くちゃ、くちゃと音を鳴らした。多分、いや絶対にわざと音を立てている。奏は私の話に興味がないのだ。

 月曜日の今日は、週に一度の部活が休みの日なのだが、自主練習のために一年生全員が音楽室に集まっていた。

 坂田第一中学校の吹奏楽部は部員数が少ないため、一年生でも多くの生徒が大会に出場できる。今年を例に挙げると、出場できない生徒はたったの二人である。

 自主練習という名目のとおり、あくまでも自主参加制なのだが、そのプレッシャーのせいで一年生は全員参加している。おまけに管理上、顧問の先生が参加メンバーを把握することもあり、参加しなかったら減点されるかもしれないという考えが頭を掠めるのだろう、誰もが牽制し合った結果、全員が参加している。

 大会に出場できない生徒は、一年生の中から選ばれるのが我が吹奏楽部の方針だった。オーディションは一年生に対してだけ行われる。そのため、自主練習には二年生以上の先輩たちは誰も参加しない。

 大会に出場するメンバーを実力主義ではなく、年功序列で決める方針は、過去に生徒間でトラブルがあったためだという噂だ。

 あくまでも部活動。たかが部活動。そういう考えが根本にあるから、坂田第一中学校の吹奏楽部は、六年連続で銅賞なのだろう。

 去年大会に出場できなかった一年生は、出場メンバーの発表があった翌日から部活に来なくなったという。とはいえ、我が中学校は、生徒は何かしらの部活動に参加することが校則で決まっている。その生徒は今も吹奏楽部を退部しておらず、書類上は在籍している形になっており、幽霊部員の状態が続いているそうだ。

 私は、その生徒の名前だけ知っている。

 オリエンテーションのときに、部員全員が自己紹介をしたのだが、配られた名簿に名前はあるのに自己紹介をしていない生徒がいた。そのときは風邪でも引いて欠席をしたのだろうぐらいにしか思っていなかったのだが、後日、幽霊部員になっていることを他の一年生部員から教えてもらった。

 顧問の先生や先輩たちが参加しないこの練習会は、この時間に、この場にいることだけに意味がある。一、二回目は真面目に練習をしていたが、三回目からはすっかりお喋りの場になってしまっていた。本日もパート毎に分かれて集まっているが、どのグループも楽器にさえ触れないまま話に花が咲いている。

「水沢って、小学生のときから全然変わらないよね」

 琴音が鞄からコンパクトミラーを取り出しながら言うと、

「へえ、そうなんだ。でも琴音の言いたいことはよくわかる。水沢、下ネタとか全然通じなそうだもん。今どき、あんな男は絶滅危惧種だよね」

 奏が口をガバっと開き、笑いながら言った。

 私や晴太と同じ小学校だった琴音はまだしも、奏は中学校に入ってから同じクラスになったばかりだ。晴太の何を知っているつもりなんだろうと思いながら、私は二人の話に適当に相槌を打つ。

 晴太は二人が想像しているよりは普通の男子と変わらない。異性にあまり興味を示さないだけで、受け流してしまうだけで。でも全く興味がないというわけではない。そう言いたい気持ちを押し殺して、唇をぎゅっと噛んだ。私の方がよほどガムを噛みたい気分なのに、奏はくちゃくちゃとガムを噛み続ける。

「美波は、水沢と付き合わないの?」

 小指で前髪を直しながら、琴音がまた訊ねてきた。琴音の前髪の毛先には、ふんわりと柔らかそうなカールがかかっている。彼女はどんなに寝坊をしても、毎朝カールアイロンで前髪を整えてくる。

 もう何回目だろうか、この質問。

 琴音が満足そうに鏡に向かって目を細めてから、パタンと音を立ててコンパクトを閉じた。私にはどこが変わったのかわからないが、彼女なりのこだわりがあるのだろう。

 晴太にも、遅かれ早かれ、いつか彼女ができるだろう。私ではない、誰かと付き合う日が来るのだろう。

 私にはわかっている。晴太が決して私のことは好きにならない、と。

 今さら後悔しても遅いけど、晴太とは距離が近すぎた。それが幼馴染みなのかもしれないけれど、姉弟のように同じ時間を過ごしてきてしまった。

 もし晴太に彼女ができたら、私は影で面白おかしく『負けヒロイン』とか囁かれるんだろうな。私が晴太のことを好きかどうかなんて、この人たちには全く関係がないのに。私の気持ちとか全部都合よく脇に置いて、エンターテイメントのコンテンツみたいに消費されるんだろうな。でも私が晴太のことを好きなのは事実だから間違ってはいない。

 間違ってはいないけど何か悔しいなあ、と思っていると、

「そう言えば、砂越海斗! 先週の金曜日に、三年生から告白されたらしいよ!」

 思い出したように、奏が叫んだ。

 奏の言葉に、部室にいたみんなの耳がいっせいに痙攣した。

「それ、本当!?」

 琴音が奏の方に身を乗り出した。せっかく整えた前髪が楽しげに跳ねた。

 心なしか、みんなの喋る声が小さくなっている。みんなこの話に興味があって、自分たちの会話に集中できなくなっているのだろう。

「私のお姉ちゃんから聞いた話だから本当だよ。お姉ちゃんに、海斗のことを色々聞かれたし!」

 奏は自分が注目されていることが嬉しいのか、声に抑揚がついている。

「年上かあ……。海斗って、やっぱりモテるんだね」

 琴音が感心したように何度も何度も頷いた。

 小学校を卒業したばかりの私たち一年生にとって三年生は大人だ。クラスメイトたちが三年生の先輩に次々と恋していくのも正直納得できる。そんな大人の女性から告白されるなんて、さすが海斗だ。

 琴音の言う通り、海斗は小学生のときからモテていた。海斗はこの田舎町では珍しい、転校生だった。だが海斗がモテていたのは、決してそれが理由ではない。

 海斗が私と琴音の通っていた小学校に転校してきたのは、三年生の二学期だった。海斗の転校は、ど田舎に住んでいる女子小学生にとって、地球に隕石が落ちてくるニュースよりも大事件だった。実際、海斗が転校してきたことによって、色んな事件が勃発した。女子の間でいざこざも増えた。

「……それで、海斗はその先輩と付き合うことにしたの?」

 琴音がこの場にいる誰もが一番気になっているであろう質問を口にした。奏は待ってましたとばかりに、口元をだらしなく緩めた。少し黄ばんでいる歯の隙間からガムが覗いていた。

「それがさ、海斗のヤツ、その先輩のこと振ったらしいよ。好きな人がいる、とか何とか言って」

 好きな人。

 そのパワーワードに、今度はみんなの心がざわついたのがわかった。その音は、皮肉なことに楽器よりもうるさい。

「あのサッカーバカにも好きな人がいるんだ。意外だな」

 琴音がさらりと言った。

 小学生のときから付き合っている人がいる琴音にとっては、海斗に好きな人がいることは興味こそあれど、他人事でしかないのだろう。無邪気に楽しんでいる様子だった。

「ねぇねぇ。美波って、砂越くんと仲がいいんでしょう?」

 別パートの新条京歌が会話に混じってきた。

「私じゃなくて、晴太がね。それに、今はそうでもないみたいだし……」

 晴太と海斗は小学六年生を境に、急に距離を取るようになった。二人の間にどんな事情があったのかは知らない。それぞれに話を聞いてみたが、二人とも何も答えてくれなかった。

「今度海斗くんを誘って、みんなでイオンに行こうよ」

 お願い、と言葉を付け加えながら、京歌が顔の前で手を合わせた。海斗が三年生の先輩からの告白を断ったという事実が彼女を少し大胆に、好きな人がいるという事実が彼女から余裕を奪ったのだろう。何であれ、海斗の言動には人を動かす力がある。

 他のみんなの視線が痛い。フルートは、まだケースの中にあるというのに。

「海斗はサッカーで忙しいから、それは難しいんじゃないかな」

 私が誰の目とも合わせないように伏せながら答えると、京歌がええー、と残念そうに眉を下げた。他のみんなは、ほっとしたように視線を散らした。

 話が一段落しても、誰も「練習しようよ」と言い出す人はいない。出場メンバーに選ばれない確率の方が低い。みんな心のどこかでは、自分は大丈夫だろうという楽観的な気持ちがあるのだろう。

 家に帰ってからでも練習ができる私にとっては、この窓から水平線を眺めることができれば、この時間に練習をしようがしまいがどちらでもよかった。

 それに。

 私は楽器ケースを撫でた。

 念願だったフルートの奏者に選ばれた翌日の土曜日。私は今まで溜め込んでいたお小遣いでフルートを買った。

 姉も吹奏楽部に所属していた。母と一緒に、定期演奏会を聴きに行ったときに、フルートの音色に一目惚れならぬ一聴惚れをした。

 それからだ。絶対にフルートを吹きたいという思いで、吹奏楽部に入部した。気持ちの強さが功を奏したのか、他にも希望者がいる中でフルートの奏者に選ばれた。

 顧問の先生と相談し、部活のときにも自分の楽器を使うことにした。

 新品の楽器は目に眩しいくらいに輝いていて、ときどき音色を響かせなくても、うっとり見惚れてしまうぐらいだった。

 そんな私の宝物を初めて部室に持ち込んだ日、みんなの目が鋭かったことに、私は気づかずにはいられなかった。

 私の気持ちは簡単に萎んだ。

 この音楽室でフルートをケースから取り出すとき、不必要な緊張を強いられるようになった。他人の目が気になって仕方がない。晴太にこんな話をしたら、自意識過剰だと笑われるかもしれないけれど。

 だからこの音楽室では、フルートを吹くよりも日本海の地平線を眺めることに価値を見出すようになっていた。



 一つ、二つしか歳が違わないのに、妙に偉そうな先輩たちへの気の遣い方や扱い方に慣れた頃、地区大会に出場するメンバーが発表された。入学した当初はあんなに大人に見えていたというのに、慣れというものは何とも不思議だ。

 メンバー発表は、顧問の先生が行う。出場できないメンバーを発表した方が早く済むというのに、律儀にも出場するメンバーの名前を一人ずつ呼んだ。

 先輩たちは何も心配していないのだろう、誰もが飄々とした表情をしていた。対して私たち一年生は、みんなそわそわしており、自分の名前が呼ばれると、ほっとしたように小さく息を吐き出していた。

 まだ自分の名前が呼ばれていない一年生は、頭の中で人数をカウントしていたことだろう。私の隣に座っている琴音に至っては、指を折って数えていた。

 私は二十一人目に名前が呼ばれた。私のすぐ後に、琴音の名前も呼ばれた。

 読み上げが終わると、音楽室は校舎のどこよりも静かになった。

 出場メンバーから漏れた二人のうち、一人は奏だった。もう一人は、まだ楽譜が読めない、音楽経験がゼロの清水有里だった。

 奏は噂の先輩と同じく、翌日から部活に来なくなった。



 幽霊部員になった奏が、再び吹奏楽部に顔を出すようになったのは、二年生の一月だった。

 奏は吹奏楽部に戻ってきた理由を、誰に訊かれているわけでもないのに『少し頑張れば坂東を狙える成績だけど、部活に参加していないと内申点に響くかもしれない』と家庭教師から言われたのだと、自分からみんなに言いふらしていた。誰かから「どうして戻ってきたの?」と訊かれることを拒んでいるのか、予防線を張っているようであった。

 奏は高校受験に向けて、二年生の二学期から家庭教師を雇い出したとのことだった。

 突然部活に復帰した奏に、同学年である私たちはもちろん下級生も戸惑っていた。顧問の先生でさえ奏の扱いに困っている様子だったが、決してそれを口にはしなかった。

「今頃戻ってくるなんて、私は納得がいかない!」

 奏と同じく一年生のときに出場メンバーから外れた有里が、強い口調で言い放った。

 有里は出場メンバーに選ばれなかった後も腐ることなく部活に参加し、あのときの大会では雑務などでサポートをしてくれた。そんな音楽初心者だった彼女も、今ではすらすら楽譜が読めるまでに成長している。普段穏便である彼女にしては強い物言いだったが、自信の表れだろう。

 だが、いくら正論をかざして騒ぎ立てたところで、私たちには奏が部活に参加させない権利がないのも事実だった。

 最後の地区大会に奏が出場するかどうかは、四月に入ってくる新入部員たちと同じ扱いをし、恒例のオーディションで決めるという顧問の先生の一言で、私たち三年生は大人しく目を瞑ろうということになった。

「先生は、奏をどうするつもりでいるのかな?」

 琴音は機会があれば、いつもそのことを話題に上げた。琴音だけではない。吹奏楽部の誰もが、奏が最後の大会に出場できるのかを気にしていた。

 奏の部活復帰によって、吹奏楽部の雰囲気が少し変わり始めた、とある日の昼休み。次期生徒会長と噂されている橋口大輔から廊下に呼び出された。

 次期生徒会長と言われているのは、生徒会長に立候補している生徒は彼一人しかおらず、よほどのことがなければ当選が決まっているからであった。

「急に呼び出して悪いな」

 大輔は私と顔を合わせるなり謝ってきた。相変わらず腰が低い人である。大輔とは小学校は違うが、一年生のときに同じクラスだった。

 暖房の入っていない廊下は寒く、移動のために足早に歩く生徒がいるだけだ。自分たちのように、わざわざ廊下で立ち話をしている生徒は他にいない。

「単刀直入に言うけど、藤島さんに生徒会の書記をやって欲しいんだ」

 言い終えるのと同時に、大輔が頭を深く下げた。

 突然呼び出されたことよりもよほど急なお願いに、全く身構えていなかった私は面食らった。

「でも私、今まで生徒会の役に就いたことは一度もないし……」

 戸惑いが口をついた。

「そんなこと全く気にしなくていいよ! おれがフォローするし、他のメンバーももちろんフォローする! みんな藤島さんにやってもらえたら嬉しいなって話しているんだ」

 生徒会役員の選挙はこれから実施されるが、ほとんどの役職が出来レースだ。立候補者の中には一、二年生のときから生徒会に所属しているメンバーが多く、彼らが当選するというのが下馬評だ。

 生徒会のメンバーたちとは特別仲がいいわけではないが、学級委員を三年間も務めると、関わる機会はそれなりにあった。いつの間にか信頼されていたらしい。

 とても断れる雰囲気ではないと悟り、

「そういうことなら……」

 口に出してしまった後に、言っちゃたな、とすぐに後悔したが、

「ありがとう! 本当に助かるよ!」

 大輔が満面の笑みを浮かべ、私の手を強く握った。廊下は震えるほど寒いというのに、大輔の手はじんわりと湿っていた。

 生徒会長に立候補するほど度胸のある彼が、私に対して緊張していたのかと思うと、引き受けてよかったと思った。

「あのさ、藤島から晴太に謝っておいてくれないか?」

 大輔が私と握手した手を頭の後ろに当てた。

「晴太がどうかしたの……?」

 突然の話の展開についていけず、私は思わず訊き返した。

「実は情けない話なんだが、藤島に直接頼む勇気がなくて、最初、晴太から藤島に頼んでもらえないかお願いしたんだ。そしたら晴太が『美波は、自分の言葉で伝えないヤツの頼みごとは引き受けない性分だ』って言われて断られて……」

 そのときにもちろん謝ったんだが、と大輔が苦笑いを浮かべた。

 



 その出来事から数日後。まだ立候補者の情報は開示されていないというのに、私が生徒会役員の書記に立候補するという噂が校舎に広まっていた。私の噂と絡まるように、奏も書記に立候補しているという噂まで立ち始めていた。

 それから間もなく、次期生徒会長の大輔が、私に書記に立候補するように頼んできた意味を知った。奏は大輔に好意を持っており、大輔に近づくために、書記に立候補したという噂も流れ始めていた。 

 それから、もう一つ。

 奏は例の家庭教師から『このまま頑張れば、問題なく坂東に合格できるだろうけど、生徒会の役員になって内申点を稼いでおくのも一つの手だよ』と吹き込まれたらしい。

 私は、あの日の大輔の手の強さを思い出していた。どちらの噂が彼の心を突き動かしたのかはわからないが、彼も切実だったのだろう。怒る気にはなれなかった。

 選挙運動期間に入ると、校内は少し浮足立った雰囲気になった。

 私は、顔も見たことのない奏の家庭教師に不信感を抱いていた。



 選挙の前日。その日の授業が全て終わり、SHRも終わって、担任の吹浦先生が足早に教室を後にすると、戸が閉まったタイミングで女鹿佳苗が声を出した。

「みんな、ちょっといい?」

 言いながら佳苗が教壇に上がった。佳苗の手には、小さく折りたたまれた手紙が握られていた。

 学生鞄を背負い、今にも教室から飛び出そうとしていた男子の一人が、停止画面みたいにぴたりと足を止めた。早速おしゃべりを始めていた女子たちも会話を止めていた。

 引き波のように教室の中が静かになり、みんなが佳苗に注目した頃を見計らい、彼女は手紙の中身を声に出して読み始めた。

「美波は吹奏楽部の部長で、学級委員長でもある。もし生徒会の書記もやることになったら、部活がおざなりになると思う。そうなったら吹部の人たちは困るでしょう。だからみんな、奏に投票して!」

 佳苗がふっくらとした唇を休めると、何人かの女子たちが深く俯いた。

「こういうダサいことは止めようよ」

 佳苗が手紙を真っ二つに破いた。それを迷うことなくごみ箱に捨てる。

「私が言いたかったのはそれだけ」

 そう言うと佳苗は、学生鞄を背負って教室から出ていった。

「何あれ……」

 奏と仲が良い矢口久美子が、ぼそっと呟いた。他のみんなは佳苗の行動に呆気にとられているようで黙ったままだった。

 私は少しざわつき始めた教室から飛び出し、佳苗を追いかけた。バスケットボール部の佳苗のことだから、行き先は体育館に違いないと決めつけ、階段を駆け降りる。

 二階に着くと、ようやく佳苗の後ろ姿が見えた。

「女鹿さん!」

 階段の手摺りに捕まり、身を乗り出して叫んだ。佳苗が階段の踊り場で足を止め、顔を上げた。私は佳苗からできるだけ目を離さないようにしながら階段を降りた。

 佳苗は壁に寄りかかって、私のことを待ってくれていた。

「ありがとう……」

 佳苗の前に立つなり、お礼を言った。情けないが、少し走っただけなのに息が切れていた。

「お礼なんて言わないでよ。あくまでも私の都合でああ言っただけ。だってあんなの、気持ちのいいものじゃないでしょう。これで奏が当選したら後味悪いなって思っただけ。でも、勘違いしないで。私はいい人なんかじゃない。もし藤島さんの好きな人が砂越くんだったら、今回みたいな行動を取れた自信がないし……」

 佳苗が困ったように眉を顰めた。その表情があまりにも真面目だったので、照れ隠しの嘘ではないことがわかった。

「それ、言っちゃうんだ……」

 思わず笑い声が溢れた。

「うん、言っちゃう。誰かに取り繕うのって面倒だし」

 佳苗が舌を出して笑った。

「それでも、私は嬉しかった。だから、ありがとう」

 もう一度お礼を口にする。別に書記になりたかったわけではない。そういうわけではないが、奏に負けたら負けたで悔しいと感じるだろうと思ったのだ。

「あのさ、いつかダブルデートしたいよね。私と砂越くん、藤島さんと水沢くんの四人でさ」

 佳苗が楽しそうに目元を細めながら言った。

「それは止めておいた方がいいと思うけど」

 佳苗につられて思わず本音が溢れると、

「ええ? どうして?」

 佳苗が心底残念そうな声をあげた。

「晴太と海斗が一緒になったら、私たちなんて蚊帳の外になるのが目に見えてるんだもん。私たちのことなんて忘れて、サッカー論議を始めちゃうわよ」

 私の意見を聞いた佳苗は、

「確かに藤島さんの言う通りかも……」

 口元に手を当て、小さく頷いた。

「ダブルデートは期待できなさそうだけど、お互いそうなれればいいね」

 それじゃあ、と手を挙げて、佳苗は颯爽と階段を降りていった。佳苗のトレードマークであるポニーテールが軽やかに揺れていた。

 佳苗は、バスケットボール部の顧問の先生から髪の毛を短くするようにと何度注意されても従わなかったという。そのことを、素直に従って髪を切った他の部員たちはもちろん面白く思うはずがなく、先輩たちからも目をつけられていたという。だが佳苗は、実力で周りの人たちを黙らせたのだ。吹奏楽部と同じく弱小だったバスケットボール部が、県大会の常連校になれたのは佳苗の活躍のおかげらしい。

 佳苗は強い。

 私が海斗のことを好きにならないように、晴太も私のことを好きにならない。だけど海斗が佳苗のことを好きになる未来はあるのかもしれないし、ましてや晴太が佳苗のことを好きになる未来もあるかもしれない。だけどやっぱり、晴太が私のことを好きになる未来は絶対にない。

 私は学生鞄を取りに、今降りてきた階段を上り、教室へと引き返した。

 教室に着くと、まだ少しだけざわついた空気が残っていた。

 私はそれを振り払うように顎を引き、姿勢を伸ばして自分の席まで歩いた。鞄を背負うと、同じ階にある音楽室へと急いだ。



 放課後の音楽室は、物語のオープニングに似ている。

 窓から望める日本海の水平線は、まるで物語の始まりを告げているようで、今すぐここから飛び出して、その光に向かって走り出したくなる。

 私は生徒会の役員選挙に落選することよりも、晴太に振られることよりも、この窓から日本海の地平線が観られなくなることの方がずっと、ずっと怖かった。

 楽器ケースからフルートを取り出すと、それを照明の光に浴びせるように持ち上げた。購入してから三年経った今も、フルートは綺麗な光を弾き返している。

 やる気のない部員たちは今日もおしゃべりに花を咲かせている。顧問の先生が音楽室にやって来るまで、この時間はしばらく続く。

 最初は緊張感を持って真面目に練習をしていた下級生たちも、数ヶ月もいるうちに、先輩たちと同じようにおしゃべりに夢中になっていった。

 私は部長のくせに、それを注意できずに見逃してきた。きっと女鹿さんなら、自分を守るために言葉を飾る真似はせず、ただシンプルに「練習しようよ」と声を掛けるんだろうなと思った。

 私は背筋を伸ばすと、そのフルートに向かって、ゆっくり息を吐き出した。

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保健室のマリア コウ @OmuCurry

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