墓標となる勿れ

奈良ひさぎ

墓標となる勿れ

 汗が滴り、皺のついた原稿用紙を濡らす。美しいと感じる文章が上手く出てこない時にぎりりと歯ぎしりをする癖は、鼻を垂らしていた幼少の頃からまるで変わっていない。


「どうだ、進んだか」

「……幾ページかは」

わしにはかの芥川のような小説はまるで理解できんが、それで金が出るということは、価値のあるものなのだろうな」

「……ええ」


 小説とは、人間の為す芸術活動の極致と言ってよい。絵画は直感に訴えてくるぶん、大衆に訴える力は強いが、小説はまず読み込まねばならない。そこに描かれている情緒や文脈を理解するだけの頭がなくてはならない。悠長に構えている時間のないこの時世において不利かもしれないが、私はその崇高さに敬服しているのだ。


「今日は浅草の方から疎開してきた女だ。懇ろにしておるし、悪くないと思うが」

「はあ」

「儂の目の黒いうちに、な。頼んだぞ」


 私が定職に就かず、この歳になって小説なぞと戯れて暮らすことが許されているのは、田舎の大地主の長男ゆえであろう。帝国大学を出ていることも相まって、その気になれば教鞭をとってそれなりの金を稼ぐこともやぶさかではない。が、そのような当たり障りのない生活よりも、私は小説にうつつを抜かすことを選んだ。大学を出たがゆえに招集の対象からも外れ、私はいよいよこの成せるかどうかも分からぬ文筆業に日がな一日向き合っているのだ。

 そんな私の身の上を憂いて、父は事あるごとに若い女を連れてきては私に縁談を持ってくる。私も父の気遣いを無碍むげにするのは気が引けるが、こうも毎日日にち違う女をあてがわれては気分も沈むというものだ。私の何かしらに惹かれているのであればまだ救いはあるが、誰も彼も私の家にしか興味がない。こんな片田舎の地主など、放っておけばいずれ没落するのは歴史を学べば分かりそうなものだが、どうも私と婚約すれば生涯安泰とでも思っているようだ。


「……母の言うことは、正しかったのだろうか」


 すでに父が去った後の私の部屋は、この後未だ顔も知らぬ女との密室になるのだろうが、今は私がぽつねんと居るだけだ。蒸し暑さで絶えず汗が噴き出すあまり、えた不快な臭いがし始めるといよいよ今夜のことを考えてしまい、鬱屈になる。しかし例えば縁側にでも行って、涼を取りながらに心動く文を私は紡げない。小説を書くにも敢えて苦を選ぶような私は、母の言う通り小説を書くには向いていないのではと、一寸ちょっと考える。

 母は常々、私が頭を活かした実入りのいい職に就かないことに愚痴を言う。父に聞かれては当然叱られるので、父のいない時か、明らかに聞こえない距離に父がいる時にしか言ってこない。勉学に励んできたものの、上手く境遇に恵まれなかった自身の女学校時代を思っているのだろう。反対に父は当然の如く好機に恵まれ続け、二高時代に青春を謳歌したひとであるから、吟遊詩人の如き私の生き方に共感しているし、恐らく母の心情を理解することもないだろう。こんなちぐはぐな境遇の男女が結ばれ、こうしてひとつ屋根の下で暮らしているのだから、結婚や縁談とは不思議なものだ。


「今晩は」

「ここは暑いでしょう、離れの方にでもいかがです」

「ええ、是非に」


 いざ夜を迎え、顔を見てみると、なるほど確かに私が好みそうな女だ。好み「そう」というだけで、実際に好くかどうかは分からないが。彼女は女学校を出て教師をしていたというから、それだけで幾分か私の方が劣っているように感じてしまう。仕事もろくにせず、夢を追うという名目にかまけているのは事実だから、堕落しているとそしられようと反駁はんばくはできない。


「この、温かみが……心地よい、ですね」


 私も一匹の男であるがゆえ、夜を共に過ごす婚約者候補がいることについて悪い気はしない。それを次から次へと、しかも父の斡旋で連れてこられるのは少々気恥ずかしい。何としてでも、私やその次に家を継がせたいのだろうという考えが透けて見える。長男が故、背負わねばならぬ家の責任は他の兄弟よりも多いのだ。


「ありがとうございました。こちらは……心ばかりのもの、ですが」


 父にでも言い含められているのか、あるいは私の家に何としてでも入りたいという心情の表れか。縁談を持ってきた女は必ず、私の懐に金を忍ばせてくる。それも、いったい如何にして用意したのだと即座に返したくなるほど。この家に居なくとも、夜ごとに女から貰う金だけで暮らしてゆけそうなほど。当初に抱いた信念に従い、小説を書き殴り続けることが本当に善なのか、近頃疑うようになったのはそのためでもある。女という、私とは似て非なる存在との交流を深めることで、私の小説にも何か良い変化があるのではないかと期待して、この生活を続けているが。堕落を受け入れ、小説を書くのをやめてしまってもよいのではないかと考える私が、確かにいる。


「東京の方で……大きな空襲が、あったようですね」

「東京、と言うと」

「ええ。父も母も足腰を悪くしていて、疎開しようにも難しく。生徒たちと一緒に、私だけこちらへ来ることになりまして」

「それは……お気の毒に」


 近頃、人の多いところを狙ってアメリカが空襲を仕掛けてくることが増えたようだ。大本営が妙に胡散臭く戦果を伝えるものだから、裏に隠したい事実があるのではないかと薄々思ってはいたが、いよいよ日本も米英に屈する時が近いのかもしれない。木箱から発せられる電波に耳を傾けている限り、どうも東京の人間は特にそのことを意識し始めているようだ。私も三つと五つ離れた二人の弟が東京で官僚をやっているので、心配になる。このまま我々民衆の命がむごくも奪われ続け、日本は終わりへ向かうのだという雰囲気がある。


「私も……伴侶を得たところで、いずれ日本とともに堕落する運命やもしれぬ」


 跡継ぎであることにかまけ、情熱を注ぐ先を失くしてしまうのも悪くはないだろう。文化的な人間であったのが、本能に従い生きる獣へと成り果てるだけである。しかし例えばこの僻地の空をB29がかすめ、爆弾を落とし私が只の塊炭かいたんになったとして、後に遺るものは何もない。大したことのない墓標ぼひょうはこさえてもらえるかもしれないが、それだけである。何か両親以外の人間の記憶に残るようなことを成さなかった人間は、必ずそうなると言っていい。私がその仲間入りをしたいかと問われれば、否だ。


 故に、小説を書く。私は墓標ではなく、道標みちしるべとなるべき人間であるのだから。

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墓標となる勿れ 奈良ひさぎ @RyotoNara

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