ワンナイトカス
4kaえんぴつ
第1話
1
子供と大人の境界線を従妹から尋ねられた時、
今年で二十三歳になった桜は、晴れて大学を卒業した後に念願のデザイン会社に勤めることとなった。そんな自分が世間一般の尺度において『大人』に分類されることは分かる。だが、一年前の自分は、二年前の自分は――と少しずつ遡ったところ、首を傾げることとなる。
一体いつから、人は大人になったと言えるのだろうか。
十八歳を迎えて成人となれば法律的には大人なのだろうが、つい先日まで高校生だった者達が何の段階も踏まずに大人して扱われるべきかと聞かれると、そうではないだろうと思うし、そうであってほしくないとも桜は思う。そんな急に大人だと言われても。人は変われない。
そんな風に悩んで答えを出せなかった桜は、後日友人にその件を相談をした。返答は「相変わらず生真面目だね」との一笑だけ。結局、桜の中に『大人と子供の境界線とは』に関する答えが出ることはなく、漠然とした靄を抱え続けることとなる。
そんな悩みなどすぐ忘れればいいだろうとは桜自身も思っていたが、他でもない自分自身が、二十三歳にもなって果たして大人と呼ばれるに値する人間か分からなかったのだ。
「深海さん。この広告についてなんだけど」
東京都の一画に置かれた外面だけは良い小綺麗なオフィスの片隅。空っぽになった缶コーヒーを腕の内側に置きながら指が痛くなるほどの速度でキーボードを叩いていると、目の下に隈を作った直属の女性上司が重たい声で桜を呼んだ。
その手には、桜が社内説明用に作成した資料。
「……あ、はい。何か不備がありましたか?」
「不備は無かったんだけど、急遽の修正依頼が入った。明日の朝までに直せる?」
「明日ですか。……内容を見てもいいですか?」
寝不足で半開きの口から不明瞭な言葉を吐き出す上司と対話するよりは自分の目で見た方が早い。窓の外も既に真っ暗になった頃、桜は眠たい目を擦りながら修正内容を読んだ。
修正の依頼内容を読むにつれ表情が険しく歪んでいくのを自覚し、桜は鈍い頭痛を堪えるように額に手を当てた。上司が不安そうに訊いてくる。
「無理そう?」
「……この内容で明日までとなると、工数――というかシンプルに時間的に厳しいです。完全にやるなら二日は必要ですし、要所で誤魔化して作業を簡略化しても今日の残業は必須です。私……今月の残業四十五時間を超えます。あと、終電が無くなるかもしれません」
「残業は来月倍で付けていいからそれでお願い。交通費も別途で支給するから、悪いんだけど特急で帰って。じゃ、お願いね」
それだけ言い残すと、上司は返答も聞かずに死んだ顔で桜のデスクを離れていった。恨みがましく見送る最中、彼女は早々に退社した桜の同期のデスクに太ももをぶつけて倒れ込む。ギョッとした顔で様子を窺うと、間もなく立ち直った彼女は首をコキコキ鳴らして、リズムを刻むように歯をカチカチと鳴らしながらパソコンと向き合う。ホラー映画さながらの光景はあまりにも恐ろしく、桜は懸命に顔を合わせないようにした。そして――そのまま崩れ落ちそうになるのを懸命に堪えつつ、色濃く疲弊の滲む顔でパソコンと睨み合う。
ふと、デスクの上のスマートフォンが鳴動して着信を伝えてきた。
画面には大学生時代から交際している恋人の名前が表示されている。
同居をしている訳ではないが、ある程度の頻度で顔を合わせている女性の恋人だ。そんな彼女からの着信に、桜は慌てて席を離れて薄暗い廊下で応答した。
「もしもし」
「あ、もしもーし。あのさ、今から会えない? 久しぶりに飲もうよ」
着信に応じるや否や、彼女は単刀直入に本題を切り出してくる。二年も交際していると慣れたものだが、今日は――今日も少々都合が悪い。
桜は額に手を当て、見えないと理解しつつ腰を折って詫びる。
「……ごめん。今日、残業があって」
そう伝える口の中は嫌に乾いた。案の定、電話越しに深々とした露骨な嘆息が聞こえる。唸るような呼吸が数秒続いた後、「また?」と少し間延びした剣呑な声が上がった。
「ごめんなさい。どうしても仕事が躱せなくて――事前に言ってくれたら」
「え、なに、それ。急に電話した私が悪いって言いたいの?」
「や、そうじゃないんだけど……その、急だと、どうしても仕事を引き受けた後になっちゃうから。受けた仕事を投げて帰る訳にもいかないし……」
「桜、いつもそれじゃない? 仕事仕事、って。私達、付き合ってるんだよね?」
詰問するような恋人からの言葉に、桜は項垂れて謝罪するしかなかった。
「……ごめんなさい」
「いや、ごめんなさいじゃなくてさ。付き合ってるんだよね、って聞いてるの」
桜が絞り出すように「うん」と肯定すると、通話越しに鋭い舌打ちが返ってきた。
桜は肩を萎ませ、肩身の狭い思いをしながら彼女の苛立ちを静かに受け止め続ける。
「あの……事前に言ってくれたらどうにかして予定を合わせるから、それで許してほしい」
「許すって何? じゃあ、今私に悪いことしてるって自覚があるんだ?」
「……仕事ばかりで、申し訳ないとは思ってるよ」
「前からそう言ってるけど直してくれないじゃん。会いたい時に会ってよ」
彼女の要求は理解できるが、それでも飲み込むのは難しい。
桜は自らに非があることを自覚しつつも、苦渋の決断で食い下がる。
「でも、やっぱり今の仕事だと、急に会おうって言われても予定を合わせられないよ」
「じゃあ辞めてよ。仕事」
率直だった。思考が白で上書きされ、言葉に詰まる。
それから桜は顔を歪めてじっくり十秒考え込んだ後――頷いた。
「……分かった」
以前から転職を考えていなかった訳ではないが、入社して一年にも満たない桜が即戦力として起用され、部署を移動した瞬間に部長が過労死しかねないこの職場を見捨てるのも憚られていたというのが本音だ。だが、恋人が強く望むなら合わせる努力もするべきだろう。
彼女は電話越しに鼻を鳴らすと、信用できないと言わん声色で訊いてくる。
「いつ辞めるの?」
「転職先を見つけるまで、短くても一か月は見てほしい。次の仕事を確保してから退職を伝えるから、その時から民法に則って最短で二週間、引継ぎとかその時のプロジェクト次第で多少の増減があることを考えると――今から動き出して、二か月は見てほしい」
桜は可能な限り誠実に応えたつもりだった。
だが、彼女にとっては納得のいかない返答だったらしい。結果が出るまでの期間が期待よりずっと長かったのか、それとも転職しろという要求がただの嫌味で、実際には彼女の中で気持ちが固まっていたのか。実際のところは分からなかったが、彼女は桜の返答から間もなく、呆れと苛立ちを含んだ声で吐き捨てる。
「……もういいよ、どうせ私より仕事の方が大事なんでしょ?」
「そんなこと――」
桜は反射的に否定しようとするが、言い切る前に口を閉じて考え込む。
断じてそんなことはないつもりだが、気持ちはどうあれ行動は彼女を最優先に出来ているとは言えないだろう。だから、微かに首を振って神妙に答えた。
「――客観的にはそう見えるかもしれないけど、優劣を付けるつもりはないよ」
それが最後の引き金を引いたらしい。彼女は苛立ちを隠さず舌打ちした。
「別れよう。金輪際、私に連絡しないで」
瞠目して桜が引き留めようとするも、言葉が出るよりも早く悪態が続いて飛んできた。
「死んでしまえ。妖怪クソ真面目」
言ったきり、彼女は返答も待たずに通話を打ち切った。ツー、と電子音が鼓膜に響く。
何かの間違いで彼女の声が聞こえるのではないかと、十秒ほどスマートフォンを耳に当て続けるが、暫くすると電子音すら聞こえなくなり、いつの間にかホーム画面が表示されていた。桜は腕を落とすようにスマートフォンを下ろす。
そして、乾いた笑い声を上げながら半分だけ点いた蛍光灯を仰ぎ見る。
「死んでしまえ、って」
あまりの言い草に笑ってしまいながらデスクへ戻ろうとする最中、桜は廊下の窓に映る自分の顔を見た。高校、大学の頃とほとんど変わらないような面立ちには社会の激流に揉まれた者特有の疲弊の色が滲んでおり、今はそこに苦々しい悲壮が降りていた。
大学生の頃は色気づいて髪に様々なアレンジをしたものだが、今はセミロングをそのまま流しっぱなしだ。背丈は平均的だろう。身に纏う服は動きやすさを重視したカジュアルファッション。最近は食事の時間も確保できず、身体は痩せていく一方だ。顔立ちは良い方だと言われているが――同性愛者故に気になった相手と交際できる可能性は低く、加えて遊びが無いせいで出会いも無い。運よく巡り合えた大学時代の恋人も、今しがた悪態と共に消え去った。
溜息が出る。溜息を出すと、自分が大人なんだということを痛感させられる。『嫌なこと』を『諦めて受け入れるようになった頃』から大人なのだとしたら、従妹にそんなことは教えられないだろう。そうして先月に訊かれた質問の答えを未だに考えながら、桜は重い足取りでデスクへと戻っていった。
2
友人知人から『真面目』『生真面目』『堅物』と評されることが多い桜だが、本人にそんなつもりは毛頭なかった。どれだけ親しい相手でも待ち合わせの十分前に着くのは、万が一の事故があっても余裕を持って連絡できるようにするため。自動車運転で制限速度のプラスマイナス5km/hを遵守し続けるのは法律を守って事故の可能性を減らすと同時に、万が一にも身内がその手の事故に遭った時、自らの怒りを正当なものにするため。後続車が詰まる度に道を譲るのは望まぬ諍いを回避するため。
『真面目に生きたい』から真面目に生きるのではなく、『そうしないと困る人間が居る』から、そうするのだ。だというのに、自らの行動の一切を真面目であるというただ一言で区別されるのは、桜にとって本意ではない。本質は『他者に迷惑を掛けないこと』であり、その為の手段が『ルールを守って真面目に生きる事』というだけ。だからこそ、他人に迷惑を掛けずに生きてきた自分が今、こうして誰かに嫌われ、誰かが嫌がる仕事を引き受けている現状には言い得ぬ感情を宿す他にはない。
――そんな鬱屈とした不満と不安を抱きながら眠っていた桜は、カシュ、という缶のプルタブが引っ張られた音に目を覚ます。天井の中央に端から端まで長い照明が走る特急列車の車内は、通路を挟んで左右に二席ずつ、合計四席が十五列分の座席で構成されていた。スクリーンが半分ほど降りた窓の外には夜景が広がっており、明かりの灯らない民家の数々が、もう一時間もすれば日付が変わるという事実を桜に再認識させた。
どうやら帰りの車内で居眠りをしてしまったらしい。桜は靄を帯びた視界と脳で車内の案内板を読み、到着まではもう少し時間を要することを理解する。もう少し仮眠を取ろうかと背もたれに背中を預けた矢先、自分の頬が濡れていることに気付く。少し顔が熱を帯びるのを知覚しながら、周囲の目を窺うようにポケットからハンカチを取り出そうとして――
「やあ、随分と魘されていたね。悪い夢でも見た?」
そんな声を聞いた。それは、通路を挟んだ反対側の座席で缶ビールを開けている女性のものだった。年齢は二十代半ば頃だろうか。外見そのものの年齢は桜と大差ないように見えるが、落ち着いた雰囲気が実年齢を誤認させる。
無造作な印象を受けるロングボブを適当に背中に流しており、人目に対してどこか無頓着な印象を受けた。推論を裏付けるように、ビッグシルエットの黒い襟付きシャツを袖捲りし、その細く綺麗な腕で窓枠に肘を突いて缶ビールを揺らしている。近くには空き缶が無数に置かれているが、顔色から察するにまだ酔っているようには見えない。
恐ろしく整った中性的――やや女性的なその顔に含み笑いのような飄々とした表情を浮かべ、桜はそれらに『格好いい』と『美しい』と『変な人』という印象を一気に植え付けられた。
ちらりと周囲を見回すも、どうやらこの時間の特急列車に乗る者は多くないようで、乗客は桜とその女性だけだった。――必然、その言葉は桜に向けられたものになる。
「ああ、いえ……その、お見苦しいものを」
「見たところ随分と落ち込んでいるようだね、お嬢さん。何か悩み事があるならお姉さんに話してごらんよ。酒の肴にするからさ」
慇懃に会話を打ち切ろうとした桜だったが、女性は足を組んで缶ビールを一口。軽薄な表情でそんな外道のようなことを言い放った。思わず唖然として半眼を向けてしまった後、「面白い話ではないので」と固辞しようとするが、彼女は「他人の不幸は蜜の味がするんだ」と胡散臭く笑う。桜に言わせれば、今宵、この席を買ってしまったことこそが不幸だった。
無視をして狸寝入りに耽っても良かったが――思い留まる。列車の中で平然とアルコールを大量に摂取し、酔ってもいないのだろうに泣いている他人からその苦労話を聞き出そうとして、あまつさえそれを酒の肴にしようとする女性の自由奔放さを、桜は羨ましく思い始める。
彼女のように自由な人間なら、もう少し要領よく生きられるのだろう。そんなことを考えると自然と口が開いて、愚痴のような言葉がそこから飛び出てきた。
「……先ほど、恋人に振られました」
自分の顔が羞恥に熱くなっていくのを感じ、桜はそれを隠すように俯いた。
話を聞いていた女性は、先ほどまで漂わせるように薄っすらと浮かべていた笑みを今、明確に濃くして犬歯を覗かせた。「へえ?」と呟く声には喜色が。他人の不幸を喜ぶとは何とも酷い人だとは思うが、不思議と不快感は薄い。いっそ笑い飛ばしてくれた方が気楽でもあった。
「彼氏? 彼女?」
「女性です。彼女」
「それはまた随分と、文字通りに不幸話だね。浮気でもした?」
「しませんよ。交際してから二年、不貞行為なんて一度もしませんでした」
「じゃあどうして」
女は組んだ膝に肘を付けてこちらを覗き込むように見る。桜は顔を逸らした。
「私、少々忙しい職場で働いているのですが」
「ああ――なるほど、退勤途中だったか。こんな時間までご苦労だね」
「ありがとうございます。それで、彼女はしっかりと予定を立てて会うのが好きではないようで、突発的に、気が向いた時に会いに来てと。でも私はそんな職場で働いているものですから、急に会おうと言われても予定が合わせられず、そんな日を繰り返す内に……」
「愛想を尽かされたんだ」
愉快そうにビールを煽る女がそう言葉を引き継いで、桜は徐に頷いた。
「最後に彼女とした会話は、『仕事を辞めてくれ』というものでした。私も、過労で身体を壊す前に仕事を変えようと思っていたので、良い機会だと了承をしたんです。大学を卒業して、入社は今年。一年足らずで辞めた人をどれだけの企業が中途採用してくれるか――転職先を見つけるまでに一か月、それから退職の件を話して、追加で一か月。二か月もあれば仕事を変えられるだろうと伝えたところ、『妖怪クソ真面目』と罵られ、振られました」
感情の波を露にしないよう努めて淡々と語ると、そんな桜とは正反対に、女は「妖怪クソ真面目⁉」と、信じられない単語を聞いたとばかりにケタケタ笑い声を上げる。
「そりゃまた、随分な言い草だね。その子とは美味しいお酒が飲めそうだ」
「ふふ、お会いする機会があれば是非誘ってあげてください。彼女もお酒が好きなので」
「君は? 嫌い?」
女性は未開封の缶ビールを取り出すと、見せびらかすように片手でそれを揺らす。桜は微かに頬を綻ばせると、慎ましく辞退するべく手の平を向けた。「下戸でして」――「もったいない」と女性は笑って、手持ちの缶の中に残るビールを一気に口に突っ込んだ。見ていて心地よくなるほどの一気飲みを披露した後、空き缶を窓辺に並べた。
「それで――失恋のショックで泣いていたんだ?」
訊かれた桜は頷こうとして、寸前で「……どうなんでしょうね」と首を傾げた。
「失望をしていたのかもしれません」
「自分に? その子に?」
「強いて対象を挙げるなら、世の中に、でしょうか」
気化したアルコールで酔ったのか、桜は自分でも不思議なほど口が回った。
「我ながら子供じみているとは思いますが――正しく、真っ当に生きていれば真っ当な人生を歩めると思っていました。生まれてこの方信号無視はしたことありませんし、エスカレーターは必ず立ち止まっています。高校時代、スカートの丈を折ったこともありません。でも、」
桜が厭世を語っている間の女性の表情は、どこか浮世離れた印象を受けるものだった。笑みなのか、無表情なのか、神妙なのか。判断するのも難しい顔だ。
「気付けば残業時間を誤魔化して、恋人には見捨てられています。誘惑に駆られることはあっても、自分なりに真面目に生きてきたつもりですが……存外、ままならないものですね」
言葉にすると驚くほどの脱力感が身体を襲った。乾いた笑みをこぼす。
「……すみません、初対面の人にこんな話を――」
そう謝罪をしようと女性の方を向いた桜は、面食らって口を噤む。
先ほどまで悠然と座席で酒を呷っていた彼女は、気付けば席を立って桜の脇に居た。
「あの」と疑問符を付けることもできないほど間抜けな声を上げると、女性は「隣、座るよ」と軽薄に笑いながら伝えてくる。だが、この特急は全席指定席だ。どれだけ列車が空いていたとしても勝手に他の席に座るのは好ましくない。
桜はそう注意をしようとしたが、口を開くよりも早く、女性が桜の脇に座った。
「この特急列車は次の駅が終点だからね。今から乗車する人は居ない。誰に迷惑もかけないよ」
「だとしても……良くはないと思います」
「固いことを言うねえ、新社会人。肩の力を抜いて、カスみたいに生きようぜ」
言うや否や、彼女は座席のレバーを引いて背もたれを勢いよく後方へと倒す。桜は眉根を寄せながら困惑の眼差しで彼女を見下ろすも、女性は平然とした様子で指をちょいちょいと下げる。『君も倒しなよ』とでも言うようだったが、桜は構わず苦言を呈そうとした。倒すのは一向に構わないが、それでも指定席以外に座るのは如何なものかと。
だが、その女は桜の胸中を見透かすように緩い笑みを浮かべる。
「――真面目に生きたところで、社会は君の味方をしてくれないよ」
桜は見張った目で、飄々とそんなことを抜かす眼下の女を見詰めた。
瞳が鼓動に合わせて微かに揺れる。『それでも』と言葉にしようとした口は空気だけを吐き出して、唇を巻き込むように引き結んで押し黙る。彼女の言葉に思い当たる節は多い。過去を想起する度、瞼が重くなる。じっくりと瞑目して熟考した桜は、顔を歪ませながら座席を倒した。
並んで天井を眺めていると、女がリラックスした様子で語りだす。
「お嬢さん」
「はい」
「仕事の引継ぎなんて一か月も掛からないでしょ?」
唐突な話題だったが、彼女が何を言いたいのかは分かった
「……労働基準法に、労働期間の定められていない正社員などは申告から最短二週間で退職ができると記載されていました。実際には後任を探したりなどの作業もあると思うので、申告から実際の退職希望日までは余裕を設ける必要があると考えました」
「会社は労基を守ってないのに。君は遵守するんだ?」
桜が鼻白んで横目に女性を見ると、彼女は寝返りを打つようにこちらへ身体を倒していた。真正面で見ると、心臓が鷲掴みにされそうなほどに顔立ちの優れた女性だった。
「労働基準法の三十六条で、残業時間の上限は原則四十五時間って定められている。それを平然と破って誤魔化す職場にどうして君が義理を通すの?」
「暴力に暴力を返していては殺し合いと変わらないでしょう」
「包丁を持った相手に無抵抗なのは自殺と同義でしょ」
どうやら弁舌では彼女が一枚上手なようだった。桜は反論できずに押し黙る。眉根を寄せ、まるで涙を我慢する子供のように顔を歪めた。如何に頑固で生真面目な桜でも、彼女の言わんとすることの意味やその本質は理解できる。しかし、理解できるからといって、平然と他者に迷惑を掛けられる訳ではない。桜は依然として首を左右に振った。
「でもやっぱり、私は――人に迷惑を掛けるべきじゃないと思います」
「お嬢さんの言う通り、大前提として他人に迷惑を掛けるのはよろしくないね。でも、不真面目で不誠実な人間ばかりが得をする世界だもの。だからさ――」
女性はなおも意固地な桜を、夜の海を思わせる瞳で見詰めた。
「人様に迷惑を掛けない場所でくらい、カスみたいな生き方をしてもいいじゃないか」
羞恥に昇っていた頭の血が、静かに降りていく。青褪めるのではなく、まるでリセットボタンでも押されたかのように、平常心に戻された。一際強い心臓の高鳴りの後、脈拍が正常に戻る。気分的には見開いていた瞳も、女性の瞳に宿る冬の夜の海には穏やかや様子で映っていた。「ああ」という得心の呟きが心の中のものだったのか口に出ていたのかは分からないが、腑に落ちた。頭の中で噛み合っていなかった歯車が、鈍い打撃で食い合ったような、そんな感覚。
話が噛み合っていなかった。
迷惑を掛けることの是非を問答していたのではない。
如何にして、上手に世を渡り歩くかの話をしていたのだ。
「退職についての『最短二週間』は原則だ。君がもしも過剰な残業による身心の不調を訴えれば短くする交渉はできた。一年目とはいえ有給休暇は残ってるだろうから、それを使えば更に一週間分くらい短く見積もることもできる。スカートを折っちゃいけないなら少し上の方で穿けばいい。点滅する青信号は『急いで渡れ』の合図なんだよ。お嬢さん――」
言うと、女性は間抜けな顔を晒す桜に笑みを見せた。今までのような、どこか浮世離れて飄々と澄ました笑みではなく、心の奥底を見透かして微笑むような笑い方。
心臓が強く握り締められるような感覚を覚える。
「悪党なんて大袈裟なものにならなくていい。姑息な小悪党を目指そう」
桜は微かに唇を噛んだ後、両手で顔を覆って照明から双眸を守った。この女性が何かを喋る度、脳が掻き混ぜられるような感覚を抱き、頭がぐちゃぐちゃになる。桜は勇気を振り絞って女性の方に身体を向けると、途端に熱くなる顔を自覚しながらも震える口を開けた。
「あのっ、私――少し前に、従妹から」
初対面の相手に何を訊こうとしているのか。どこか達観した心の中の自分が自分を小馬鹿にするが、それでも目の前の女は決して茶化すことはしない。何もかもを適当に受け流して気楽に、堂々と生きていきそうな自由奔放の代名詞が、桜の散らかった言葉に耳を傾けていた。身体の芯が熱くなる。真横で添い寝しているのも良くない。心が奪われてしまいそうになった。
「その……大人と子供の境界線について訊かれて」
「境界線――『いつから大人か』ってこと? へえ、面白い題材だね」
「はい。ただ、私はその質問にしっかりと答えられなくて――」
法律的に人間を『成人』と呼ぶ年齢は分かる。また、老成している人間をそう呼称することも理解している。だが、子供が大人を仰ぎ見る時、また、大人が大人を同じような立場の相手だと認めて接し合う時、その基準がどこにあってどのように満たせるのかを桜は知らない。
「何をすればどのように大人になれるのか、いつから、どこからが大人なのかが分からなくて――分からないまま歳を重ねただけの私は、幼稚で、大人になり切れていないんじゃないかって。欺瞞を弄する人達を見る度、私の中の生真面目が幼稚なんじゃないかって、何度も」
纏まっていない話を静かな慟哭のように吐き出すと、女は「ふむ」と苦笑するように呟き、桜の頬に触れる。弾かれたように桜が女を見ると、彼女は親指で桜の唇を撫でた。
「そう難しく考える必要は無いんじゃない? 成人したら大人だよ」
桜は眉根を寄せる。
「誕生日を迎えたその瞬間に、ですか? 昨日まで少年少女だった子供が」
「そうだね。誕生日を迎えた瞬間に、だ。誕生日に時針と分針と秒針が午前零時を示したら、それはその子が大人になった証だと思うよ。それでいいじゃない」
食ったような笑みを浮かべるから、桜は自分がまともに相手されていないんじゃないかと不満に思う。だが、目の前の女性は顔にこそ笑みを浮かべているものの、視線はずっと桜を見詰め続けている。どんな不満でも受け止めてもらえそうな雰囲気があったから、甘えてしまった。
「でも、昨日まで子供だった人達に急に自立心が芽生える訳じゃありませんし、ただ歳を重ねただけで一人で上手に世の中を生きている訳でもないと思います。何か、基準が――」
「――持論だけども、良い歳をした大人がビールのラベルを下向きにして上司に注いだっていいと思うんだ。年端もいかない子供が弁舌を弄して上手に世渡りしてもいい。大人になってから得られる知識の集合体が大人を大人たらしめるのなら、それを持たない子供を大人たちは庇護して導かなければいけない。でも現実は、成人していれば大人として扱われる」
その通りだった。如何に自分が未熟で幼稚な人間だと思っていても、社会はそう扱わずに、月間四十五時間を超える残業時間を押し付けてきたし、好き勝手に退職を迫ってきた。
「だから君は大人だよ。それでも自分が幼稚だと不安に思うなら、これから学んでいけばいい」
女はそう言うと、桜の頬を優しく指で撫でる。くすぐったいが、心地よかった。
「君は何も悪くないよ」
その言葉が臓腑に沁みた。心臓もろとも心を掴まれるような感覚を覚える。
「君に要求ばかりして何も譲歩してくれない大人達からは、目を背けていいんだ」
不覚にも目頭が熱くなって、情けなくも泣いてしまいたくなる。瞼の隙間に溜まった涙を落とさないように唇を噛みながら、涙以上に熱くなる胸を大切に抱え込む。
「でも、もう少しだけ――自分の中の非常識と本能を許せたら、少しは楽に生きられるだろうね。だから、うん。自分に優しくしてあげなよ」
女の手が桜の頭を優しく撫でるから、桜は感極まって涙を落としてしまう。
それから数分、桜は揺れる特急列車で涙が収まるのを待ち続けた。ようやく涙が引っ込んだ時には、もう間もなく終点に着く頃だった。桜は涙でぼやけた視界で、目の前の女を見る。
「……あの、お姉さんはどういう方なんですか?」
思わず尋ねると、女は意外そうに自分を指さした。
「ん、私?」
「初対面でこんな相談に乗ってもらって……なんか、そういうカウンセラーとかのお仕事を?」
お礼をしなければいけないだろう。そう思って尋ねると、女は噴き出すように笑う。
「ああ! 違う違う、そういうんじゃないよ。単に女の子を口説くのが趣味なんだ」
桜は一瞬、何かの冗談か聞き間違いかと思った。
だが、面食らって硬直していると、そんな桜の目の前で女は犬歯を覗かせる。その唇が驚くほど柔らかそうで、覗き込むような眼差しは心まで吸い取っていくような吸引力を持っていたから、桜は固唾を飲んで身を縮こまらせる。
女の手が、桜のスカートから伸びる脚に触れた。びくりと身を強張らせる桜。
そんな反応を綺麗な目で一挙手一投足見逃さずに眺めた後、その手がスカートの内側に滑る。ここ数か月ほど恋人との行為がご無沙汰だった桜は、脳が焼けるような刺激に呼吸を荒くした。
「女の子の恋人が居たんでしょ? ここまで相談に乗ってあげたら口説けるんじゃないかって」
「……恋人が居るので、その」
「過去形でしょ。操を立てる相手は居ないよ。今後できても、今日の夜は忘れればいい」
女の空いた手が熱い吐息を漏らす桜の唇に触れるから、おかしな熱が下腹部に蓄積する。桜はそれを知覚しながらも虚勢を張って睨む。「……悪い人」と呟くと、女は笑みを浮かべた。
「正解。だから悪いことをしよう。お嬢さんが大人か子供か、確かめてあげるよ」
女の手が内股を伝って下着に触れた。指がそこに押し込まれて水の音が鳴り、途端、発火するように桜は耳まで赤く染めて呻きながら顔を俯かせた。そして、そんな反応すら楽しむように、女は下着の中に指を入れようとした。その瞬間だった。
『間もなく終点――○○に到着いたします。お忘れ物のないよう、お仕度ください』
桜は熱が引かせて目を見開くと、慌てて女の手を剥がすようにスカートから引き抜いた。
女も少々驚いた様子でされるままに受け入れると、それから間もなく、興が削がれたような様子で溜息を吐いた。気分を害してしまったかと思い、桜は慌てて弁明の言葉を紡ごうとした。
だが、女は微かも不機嫌そうにはせず、それどころか愉快そうにひらひらと手を振った。
「間が悪かったね。半端に手を出してごめんよ」
そう言って桜のスカートのプリーツを直すと、座席を起こして自席へ戻っていく。桜は、女の手が抜けたスカートの内側に晩秋の肌寒さを感じつつ、それを言葉にできるだけの不真面目さを持ち合わせていなかったから、静かに座席を起こし、到着まで案内板を見詰め続けた。
特急列車を降りると、日付もそろそろ変わろうという時間帯だった。
人の気配も殆ど無いホームに降り立った桜は、スマートフォンで乗り換え案内を確かめながら、対岸を訪れる電車を待つことにした。それに乗って三駅移動すると自宅の最寄り駅だ。
女はどうやらこの駅の近くで一泊をするらしい。だが、見送りまではしてくれるようだ。飲み終えた缶をビニール袋から引っ張り出して片っ端からゴミ箱に突っ込んだ女は、最後にそのビニール袋を不燃物の箱に放り投げ、それを眺めていた桜に視線を向けた。
「それにしても、本当に終電ギリギリだね。酷い会社だよ」
「まあ……その分、お給料は貰ってますから」
女は胸ポケットからラクダが描かれた煙草の箱を取り出すと、抜き取った一本を咥えてオイルライターの蓋を開ける。微かなオイルの香りを漂わせながら顔を橙色に灯し、ライターをパチンと閉じる。紫煙が月光を浴びて妖しく輝いている。「ホームは禁煙ですよ」と桜がルールを訴えると、「ここには私と君しか居ないよ」と狡いことを言った。
言い負かすためにホームを見回したが、気付けば誰も居ない。
「吸殻は落としちゃ駄目ですからね」
女は何も言わずに携帯灰皿を揺らし、桜はそれを見て渋々と矛を収めることにした。
「会社、辞めるの?」
「どうでしょう。切っ掛けとなった人と絶縁してしまったので性急に退職することはありませんが――お姉さんの言う通り、少しだけでも自分に優しくしてみようかと」
「それがいい。人生、何だかんだ意外と生きていけるもんだからね」
彼女が太鼓判を捺してくれるのなら、少しはその選択に自信を持っていいのだろうと思えた。
電光掲示板が橙色の文字で電車の来訪を示し、アナウンスがそれを読み上げるように告げた。それから十数秒と経った頃、桜の家へと走る列車がホームに到着。緩やかに静止して空気圧が扉を開けたから、桜は躊躇いを孕んだ重い足取りで乗り込もうと踏み出した。
「それでは。お見送りとご相談、本当にありがとうございました」
丁寧に腰を折って謝意を示すと「いいよ、気にしないで」と女は笑う。反面、桜は少し顔を曇らせた。随分と穏やかに見送ってくれるものだから、別れを実感してしまったのだ。お互いに名前も知らない、特急列車で言葉を交わした程度の関係だが、心の根深い場所が彼女を求めてしまっている。しかし名前を付けるには、この関係は少しだけ軽すぎる。
悪い人間になりきれない桜は声を上げず、ただ、惜しんだ。
「寂しそうだね」
ふと、女がそう笑った。紫煙が列車の明かりを帯びながら揺れている。
桜は肩を跳ねさせ、唇を結んで女を見詰めた。見透かされた恥ずかしさよりも、感情を汲み取ってもらえた喜びが勝った。だが、こんな魔性の女に靡いた後の、自分のその行く末が怖かった。踏み出したら海に溺れてしまうような、そんな底の見えない恐怖が彼女の中にはある。
「おいで、お嬢さん。悪い大人の――夜の遊びを教えてあげるよ」
女はそう言ってこちらに手を差し伸べた。
桜は浅い呼吸を繰り返しながら彼女の顔と差し伸べられた手を順に見て、思考から逃げるように視線を逸らす。初めて出会った女性に、打算と下心の上で相談を聞いてもらって――少し気を許しただけで夜を過ごそうとするなど、悪いことだ。何があるか分かったものではない。
発車を合図する軽快なメロディが真夜中のホームに鳴り響いた。晩秋の冷たい夜風が肌を撫でる中、桜は再び恐る恐る女を見る。彼女の目には相変わらず底の見えない海が宿っていた。深海桜などという姓名を持っている自分よりもずっと、彼女の方が深い海のようで――。
そんな海に溺れてしまいたかった。
扉が閉まる。気付けば、桜は電車を降りて女の手を握っていた。俯いたその顔は耳まで真っ赤に染まっており、それは蛍光灯が明滅するような薄暗いホームでもはっきりと分かった。
触れた手は熱かっただろうに、女は躊躇いなく手を握り締めると、「行こう」と笑いながら手を引いた。その胸の高鳴りが消えたのは、ホテルで肌を重ねてから暫く後の話だった。
3
煙草とシャンプーの香りに目を覚ますと、桜の目の前には綺麗な背中があった。
昨晩肌を重ねた女が、ベッドに座って煙草を吸いながらスマートフォンを弄っていた。注視するつもりはなかったが、ふと目に入ったそれはメッセージアプリのようで、本命の女の子が居るのだろうかと妄想をしてしまう。毛布の中、桜は裸の胸を優しく押さえて俯いた。
だが、桜は胸の痛みには気づかないフリをして徐に身を起こすことにした。
衣擦れの音で桜の起床に気付いた女は、「お」と眉を上げて振り返る。
「おはよう。早起きだね」
「おはようございます。お姉さんこそ、いつから起きてたんですか?」
「三十分くらい前だよ。煙草、臭かった? 悪いね」
「いえ、匂い自体は嫌いではないので」
枕元の時計を見ると時刻は六時半。昨晩――と言っていいのか分からないほど直近だが、昨晩の行為が二時頃まで続いたことを考えると、睡眠時間は実に四時間半。意識すると寝不足を感じ始め、小さな欠伸をしてしまう。すると、女は笑って煙草の火を消した。
「今日は仕事、休みなんでしょ? チェックアウトまでは時間がある。もう少し寝てなよ」
「いいんですか? ……あ、でも、お姉さんは予定とか――」
お言葉に甘えようとした桜は、寸前で思い留まり彼女の予定を確かめる。だが、要らぬ気遣いだとでも言うように笑った女は、桜の身体を倒して毛布を掛けた。
「大丈夫、融通が利く仕事でね。急ぎの用件も大抵は電話で片付く」
仕事があることは否定をしなかった。「そうですか」と納得の意を示しつつ、桜はふと、目の前の女性のことを何も知らないことに思い至る。顔と声と、性格と、それから体の相性だけ。どんな仕事をしているのか、どんな名前なのか、本命の相手は居ないのか、桜は何も知らない。――これが所謂ワンナイトラブと呼ばれる関係だということは桜にも分かる。素性を尋ねたりするのは野暮な話なのだろう。しかし、それが気になって目を瞑っても眠れないから、桜は覚悟を決めて固唾を飲み込んだ後、そっと彼女に尋ねた。
「あの……また、会えますか?」
よりにもよって直球過ぎる質問が己の口から出てきて、桜は頭を抱えそうになる。女は暫く唖然とした表情を見せた後、肩を竦めながら苦笑を見せる。
「こういうのは一晩だから後腐れが無くていいんだ。長引くと疲れるでしょ?」
同意を求めるようにこちらを見てくるものだから、桜は彼女の意思を察して、少々寂しく思いつつ「そうですね」と同意した。真っ当で、いつも通り『良い子』な返答だ。
だが、それを自覚すると同時に沸々と諦めきれない欲求が湧いてくる。
悪いことを教えてきたのは他でもない彼女なのに、こういう時ばかり良い子で居させようとするのは狡いのではないか。そう思うと止まれない。
「でも、」
気付けばそう口走っていた。
「私は小悪党なので」
女はしばらく呆然とした様子で桜を眺めた後、やがて、参ったと言うように目を瞑って溜息をこぼした。その表情には微かな呆れがあったが、それを覆い隠してしまうほどの笑みも浮かんでいる。彼女は心底愉快そうに考え込んだ後、毛布の中に片手を忍ばせた。
桜が目を白黒させる刹那、彼女の繊細な指先が桜の胸の先端を摘まんだ。甲高いような、どこか間の抜けた声で不意打ちの快感に喘ぐと、彼女の細めた瞳が桜を見下ろす。
「私の『愛』ってこういうのばかりだけど。それでも諦めない?」
少しだけ悩んだが、別に構わない。そうして始まった関係だ。
「突発的に会えない時、不機嫌にならないなら。他は何でも構いません」
女性は「やれやれ」と口に出して笑った後、立ち上がってハンガーの方に歩み寄る。そしてポケットの中から財布を取り出すと、そこから一枚の紙を引き抜いた。
それを見た桜は慌ててベッドに座って、それから胸の尖ってしまった部分を隠すように毛布を体に巻いた。戻ってきた彼女と相対する。
「これ、私の名刺」
期待通りの代物を渡された桜は、鳩が豆鉄砲を食ったように慌てふためいた後、社会人研修で習った通りに恭しくそれを受け取って読む。
名刺には名前と所属が書かれており、桜は驚きの目を彼女に向けた。
「――
真尋は深々とベッドに腰を落とし、天井を仰ぎながら横目に桜を見た。
「基本、ワンナイトの子に渡さないんだけどね――気まぐれだ。こんな短絡的な『愛』でも構わないと思えるなら、また会いにおいで。その時は食事の場を設けるから」
「……はい、大切にします」
そう言って桜はいそいそと己の財布に名刺をしまい込む。そんな桜の裸を無言で眺め続けていた真尋は、ふと思い出したように顔を挙げた。
「そういえば、お嬢さんの名前を聞いてなかったね」
そう言われて初めて、桜は自らの無礼に気付いて狼狽える。彼女に名刺を渡し返そうかとも考えたが、そんなものはまだ用意していない。そもそも外部の人間とコミュニケーションを頻繁に取るような役職でもなく「――え、あっ、名刺。持ってないです」と喚いた。
「いいよ別に、君の会社に行くわけじゃないし。名前だけで」
真尋がそう笑うから、桜は少々恥ずかしくなりつつ、少し遅い自己紹介をした。
「
「ふーん」と少し間延びた相槌を打った真尋は笑みを覗かせる。
「綺麗な名前だ。似合ってる」
浮ついた心が薄桃色に弾んで舞い上がってしまいそうだった。桜は緩んだ頬を隠せずに笑う。それを眺めた真尋は「さて」とチェックアウトまで少し残っている時間を堪能するべく、ベッドに戻ろうとする桜へ己の膝の上を叩いて示す。互いに裸のままだ。その行為が何を意味するかは理解できないほど初心ではなく――桜は頬を紅潮させつつも、真尋の身体に跨った。
4
それから一か月と少しが経過し、無事に転職を済ませた桜は都内某所のキャバレークラブの前に立っていた。黒い大理石の外壁に白い文字の看板が備え付けられ、妖しい薄桃色のライトが当てられている、そんな外観のクラブだった。夜の二十時、繁華街を行き交う人々も増えた時間帯、連れも居ない女一人がキャバレークラブの前に居たら不審がられるだろう。
桜は手に持った名刺と看板の名前を何度も確かめた後、固唾を飲んで覚悟を決める。
意を決して扉を開けると、黒服の男性たちが大きな声を揃えて「いらっしゃいませ!」と桜を迎え入れた。この手の店に入ったことがなかった桜は思わず身を委縮させてしまう。
「いらっしゃいませ。お一人様でよろしいでしょうか?」
物腰の柔らかい男性がそう尋ねてくるから、桜は席に着く前に、と男性に尋ねた。
「あの、この人ってまだこちらで働いていますか? 式守さんという方なんですけど――」
そう言って名刺を渡すと、黒服の男性は不思議そうに名刺を受け取りながら、首を傾げた。
「――式守? いえ、ウチにそんなキャストは居ませんが……」
まさか、既に退職してしまったのだろうか。動き出しが遅すぎたか。そんな風に後悔の念を抱きかけた桜だったが、「あ」と名刺を覗き込んだ他の黒服が何かに気付いた様子で、受け答えしていた男性に名刺の一部を示す。それを受け、名刺を持っていた方の黒服は何かに気付いた様子で後ろ髪に触れながら声を上げた。
「あー……そういうことか。失礼しました……この人の名刺を外部の方が持って来られるのは初めてで。式守ですね、ただいまお呼びします」
どういうことだろうか。何が分かったのか。
桜が首を傾げていると、黒服がインカムに囁きかける。
「オーナー、ちょっといいですか」
『オーナー』――そのカタカナに桜が「んん?」と声を上げる中、店の奥から、客とは思えない誰かが悠然と歩いてくる。そちらを見た桜は、静かに目を剥いた。
「ここに居るよ。どうした?」
ロングボブの黒髪を編み込みつつ後ろで束ね、顔には薄く洗練された化粧。アイロンをかけた真っ白なシャツに金の柄が入った黒ネクタイを付け、グレーのベストを着てメンズスーツを肩に掛けた人物だった。左腕には値段と実用性を兼ね備えた無骨な腕時計が巻かれており、人差し指から薬指にかけて指輪を付けた右手にはボールアイスと琥珀色の液体が注がれたグラス。縦縞の入ったズボンから出た革靴が店の床を叩く度に上品な音が鳴り、その人の一挙手一投足に客とキャスト、黒服さえ。男女の区別なく誰もが目を奪われる――そんな女性だった。
特急列車で缶ビールを開けながら下心を持って桜に近づいてきた、どこか浮世離れた印象のある彼女を思い浮かべていた桜は、仕事モードに入った別人のような姿に面食らっていた。だが、顔立ちや細かい所作は、記憶に鮮烈に焼き付く一か月前の式守真尋と相違無かった。
「あ、あの。お久しぶりです」
自分のことなど忘れてしまったのではないだろうか。心の奥底でそんな不安を抱きつつも、会いに来たからには挨拶をしなければなるまいと、桜は慇懃に頭を下げる。
顔を上げて真尋の方を見ると、こちらに気付いた真尋は面食らった様子で口を横に結んでいた。「オーナー?」と黒服の中の一人が不思議そうに名を呼ぶから、「いや」と手の平を向けて大丈夫である意を示し、軽薄な笑みを桜に向けてきた。「一週間くらいで来ると思ってた」と言うから、「転職で忙しくて」と言い訳をする。実際、休む暇もないほどの日々で、心に余裕を持って真尋と会えるような時間が無かったのだ。彼女に酷い姿を見せたくなかった故の虚勢だ。
「これでも結構期待してたんだけど、随分焦らしてくれたね」
少しの嫌味を含んだ声で呟きつつ、真尋は桜に詰め寄った。肉薄すると十センチ以上の身長差が浮き彫りになり、桜は否応なく目の前の女に滅茶苦茶にされた一か月前を思い出す。
「こんな場所に一人で来るなんて、悪い子になっちゃったみたいだ」
白々しくそんなことを言うものだから、彼女のお高いスーツの裾を摘まんで上目に睨む。
「……貴女のせいですよ」
数秒ほど黙って見詰め合っていた二人は、やがて、静かに笑い合った。
ワンナイトカス 4kaえんぴつ @touka_yoru
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