エピローグ

 ワイパーで泡を拭うと、色の濃い硝子が太陽をまともに反射した。ぼくは顎に滴る汗を手の甲で拭ってからワイヤーを手繰り、ひとつ下の窓に自分の身体を降ろす。

 ぼくはいつもよりゆっくりと、次の窓に泡を塗りつける。いつもならそんな風に仕事はしない。暑いし、そもそもさっさと降りてしまいたい。こんな高さでは、何が起きるかわからないのだから。

 だが、今日ばかりはできるだけ高いところに留まっていたいと思う理由があった。

 風が止み、時おり人々のざわめきが聞こえてくる。みんな、海岸や道路沿いで見物しているのだ。上に落ちてきたらどうするつもりなのだろうか、と他人事のように思ってから、苦笑する。どう考えても一番危険なところにいるのは、ぼくだ。

 これから、海辺の発射場から発射されるのだ。犯罪者たちが汗水たらして部品を加工した宇宙船が。

 ここからじゃ宇宙船はタバコくらいの大きさにしか見えない。でも、近くから見たんじゃ大きすぎてなにもわからないだろう。飛んでいくところを横から眺めたかったのだ。このビルはこのあたりでいっとう高い建物だ。テレビの撮影クルーが屋上につめかけているので、眺めは折り紙付きのはずだった。

 機体を固定していたワイヤーが外れて数分後。宇宙船は轟音とともに飛んでいった。窓がびりびりと震え、ワイヤーも不安定に揺れたが、タバコが煙を撒き散らす小さな点になるころには静かになった。

 歓声が上がる。ラジオも何も持っていないのでわからないが、うまく軌道に乗ったのだろう。

 

 あのあと、ぼくは何事もなく出所した。

 空き巣稼業に戻ろうかとも思ったが、一回試したきりあきらめた。すっかり錠前恐怖症になってしまったのだ。

 だって、知らないドアを開けてみて、そこが「あそこ」につながってたらどうする?

 それですっかりやる気をなくしてしまった。もちろん、空き巣をやめたところで鍵の開け閉めをせずに生きることはできないわけだが。

 幸いにも、先に出所したやつの斡旋で現地の更生支援団体を紹介されて、そこでビル清掃の仕事をもらって、なんとか暮らしている。

 窓はいい。中に何があるかがわかるから。

 異変を感じたのは、アパートを借りたあとからだった。

 最初に思ったのは、やけにオレンジの減りが早い、ということだった。こんなに食べたっけ? と買い物にいくたびに首を傾げていた。試しに何個買って何個食べたかを数えてみたら、明らかになくなっている。原因は窓際に置いていたことくらいしか思いつかないが、ここは四階だ。

 試しに、と思って林檎を買って窓際に置いてみたら、凄まじいペースで無くなっていった。

 それからは気付なかったふりをして、林檎をちょっと多めに用意するようにした。林檎にも好みがあるらしく、大きくて甘いやつじゃなくて、シードルでも作れそうなくらい酸っぱいやつがいいらしかった。減り方でわかる。選り好みしてんなよ、と思った。

 読みかけのペーパーバックを取られたときはちょっとムカついた。本屋でやれよ、と思ったが、店で物がなくなるところはあまり見なかった。終身囚のくせに万引きは気が咎めるらしい。

 でも一度だけ、売り物がなくなるのを見たことがある。

 ぼくはそのとき、家具の屋外見本市でカウチを探していた。これだ、と思うものを見つけた。よく鞣した皮が張ってあって、バネも丈夫そうだ。一晩寝ても腰が痛くならなさそうな幅もある。

 いいじゃないか、と値札をめくってみたら当然とても手が出る値段じゃなかった。前科持ちの安月給じゃとてもね、と嘆息していたら、眼の前でカウチが消えた。

 しばらくの間、ぼくはそのまま硬直していた。おそるおそる周りを見渡してみたが、誰もこちらに気づいている奴はいないようだった。不審に見えないよう展示会を出て、そのまま帰った。いまのところサツに呼び止められたりはしていない。

 不思議だったのは、そのとき周りには窓も水たまりもなかったことだ。ハリーは一体、どこから見ていたのか。しばらく考えて、あそこにあった窓らしきものは、ひとつしかないと思った。

 ぼくの眼だ。

 まあつまり、ハリーは例のがらくたの国で自由に暮らしているのだろう。

 もしかしたら、それを見越して日用品を集めていたのかもしれない。

 あの手紙は思い付きなのだと思ったが、実は周到に準備をしていたのではないかと思いはじめている。話し方のトロさに引きずられ、奇術師の能力までも舐めていたと言わざるを得ない。あいつには公演を段取りをする力があった。自分が危険であることを分かっていて刑務所に入る理性もあった。そのくせ、奇術と言い張って窃盗を繰り返す厚顔さも持ち合わせていた。

 そして、いざというときの最終手段もきちんと残していた。自分自身を盗むという、一世一代のイリュージョン。

 最初は、ぼくのせいでそれを使わせてしまったのだと思っていた。

 でも、消えていく林檎を見ているうちに、次第にこう思うようになったのだ――ハリーはいつかぼくを盗むつもりなのかもしれない。

 この疑念は、カウチの一件で諦めに変わった。目にすら宿るものならば、何をしたって無駄だろう。自分の見えないところでぼくが死ぬくらいなら、いつでも盗めるようにしたかっただけなのかもしれない。何をしたって最後はあの青髭公の城に幽閉される運命だった。ぼくはそう天を仰いだ。

 よくよく思い出してみれば、確かにハリーは自分を消して見せたけれど、「さようなら」とは一言も言っていない。

 それならそれでいい。早くしてくれ、と思う。べつに今世で全うしたいことがあるわけでもなし。いつでも盗んでくれて結構だった。

 それとも、住環境を気にしているのだろうか。ご両親のご遺体やあのテントとはなるべく遠くで過ごしたいのは確かだけど、家については別にそこまでのこだわりはない。

 カウチなんか別によかったのに。あんなところじゃもっと必要なものがあるだろう……ピンボールマシンとか。映画館とか。

 

 日が沈み、夜になった。集まっていた見物客は帰ったり、そのままそこで音楽を掛けて踊ったりしている。バーベキューのにおいまで漂ってきて、ぼくは苦笑する。

 何がそんなにめでたいんだろう。月に行って、月から帰ってくるだけなのに。

 ふと、ヒッピーたちが踊るのをやめて、夜空の一点を指さしはじめる。ぼくもつられてその指先を見上げると、星のように明るいものがゆっくりと動いているのが見えた。宇宙船がいまそこを飛んでいるのかもしれない、と思った。流れ星みたいに尾を引いたりするわけでもない。ただ、すこしずつ月に向かっているのが見えるだけだ。


 ハリー。見ているか、ハリー。

 それとも、あんたは今ごろ宇宙船の窓から、こっちを見下ろしてるのか。

 もしそうなら、世界を丸ごと盗んでくれたっていいんだ。

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奇術師の窓、がらくたの国 暴力と破滅の運び手 @violence_ruin

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