空木春宵『感傷ファンタスマゴリィ』(東京創元社、二◯二四年)――ふたたび夢を――

 初の広告収入が確定した。一円だった。

五百円分の広告収入ポイント(広告リワード)がないと換金できない。

しかし十二ヶ月すれば広告収入ポイントは消滅するのだから、「五百ヶ月かけて五百円を手に入れる」という作戦は取れない。


 つまり私の文章はのである。

それは困る。私は貧しいのだ。信じてくれ。実に私はここ数年間一度たりとも美味い飯を食わなかった。

焦った私はセル・アウト戦略を立てた。売れそうなものを書こうとしたのだ。

しかし驚いたことにを狙って書いた文章はこの「雑文集」ほども読まれなかった。


「炎上商法系WEBライター、鬼ヶ島へ行く」

https://kakuyomu.jp/works/16818093079718623406

これが私のセル・アウトだ。小説だ。


 カクヨムは小説中心である。

批評にいたっては「・評論」などというワケのわからぬカテゴリーに入れられてしまっている。

伸びている創作論はみんなファンタジーの書き方に関するものばかりだ。


 詩についてはもっと酷いカテゴリー分けがなされている。

「詩・童話・その他」というのである。「詩」と「童話」を一緒にするのみならず「その他」というよくわからぬ物がひっついている。なんだこれは。


 だいたいサイト名からおかしいのだ。

カクヨムのサイトは厳密には「カクヨム: 無料で小説を書ける、読める、伝えられる」というのである。

やはりを推しているのだ。

小説を書けば広告収入がガッポガッポ入るに違いない。

そう信じた私はイカニモ人気がありそうな「異世界ファンタジー」カテゴリーの小説を書いた。しかし人気が出なかった。


 私は未練があるからとりあえずここで宣伝しておく。

読者諸君、私の「鬼ヶ島」を読んでくれたまえ。いや、読まなくてもよいからPV数を増やしてくれ給え。

そしたら私はマクドナルドのハンバーガーくらいは食べられるであろう。頼む頼む。


 さて本題だ。

空木春宵うつぎしゅんしょうについては『感応グラン=ギニョル』の記事を既に書いている(https://kakuyomu.jp/works/16818093075862007986/episodes/16818093076713743888)。

だからこの雑文集で彼について書くのは二回目だ。


『グラン=ギニョル』はファースト単著で『ファンタスマゴリィ』はセカンド単著である。いずれも短編集でなおかつ東京創元社の「創元日本SF叢書」だ。


 前の記事では誉めたり貶したりした空木春宵だが、やはり無視できない魅力があるから二冊目も読んでしまった。ひょっとしたら私は空木春宵が好きなのかもしれない。


 先に言っておくと私の『ファンタスマゴリィ』評は

〈本全体を通して前作よりパワーアップしているものの表題作に限って言えば「ファンタスマゴリィ」より「グラン=ギニョル」の方が面白い〉

といったところだ。

本書唯一の「書き下ろし」作品であり、表題作であり、さらには「グラン=ギニョル」と対になる作品名を持つ「ファンタスマゴリィ」は完成度こそ高いものの少し物足りない

(ちなみに『グラン=ギニョル』では表題作ではなく「Rampo Sicks」が「書き下ろし」)。

特に「グラン=ギニョル」と比べると何かが足りないのである。


 これは空木春宵を叩いて自作に興味を持たせようとする一種のではない。

確かに私の「鬼ヶ島」はゴミ以外の何物でもなく、したがって私が「ファンタスマゴリィ」を攻撃するのは無謀だ。

しかし私には必殺の切り札カードがあるのだ。

その切り札にはこう書かれている。読者諸君は心して読んでいただきたい。

その切り札には「」とあるのだ。

ウ~ム金言だ。

そうだ。そうだ。もっともな批判であればたとえ死刑囚が書いたとしても意味がある。賢明な読者諸君はよく注意してその主張を知るべきだ。


「ファンタスマゴリィ」は「ファンタスコープ」という「タネ板」に描かれた図を強い光でスクリーンに映し出す装置の話である。

主人公は師匠に「ファンタスコープ」の秘術を教わったノアという人で、舞台は十九世紀末のパリだ。


 民衆は最初「ファンタスコープ」による見世物(ファンタスマゴリィ)を喜んで迎えた。

しかし技術の進歩によりその程度のでは人々をリアリティで圧倒できなくなってしまった。

家庭用の「ファンタスコープ」がデパートで売り出されている。映画という新技術もリュミエール兄弟によって発明されてしまった。


「ファンタスコープ」はもはや時代錯誤アナクロニズムなシロモノである。

しかしノアとその師匠は特別な「ファンタスコープ」の技術があった。


「ファンタスコープ」が「タネ板」に描かれた図像を影絵の原理で投影する技術であることは前述の通りだ。

したがって「ファンタスコープ」の創り出すイメージは飽くまで断続的だんぞくてきなのだ。

図像と図像の間には必ず間隙かんげきが存在する。

複数の絵を連続で見せれば脳はその間にの滑らかなの像を補完する。

パラパラ漫画の原理である。


 しかしノアが師から受け継いだ技術で「ファンタスコープ」を作ればイメージ間の間隙は

まるで人間が本当に動いているかのように真にな映像を生み出すことができる。


 しかしこの技術には欠点がある。

一つには故人の映像しか投影できないこと。

二つには技術者が死者の行動を徹底的に模倣しさせる必要があること。

三つにはクライアントの死者に対する悲しみが癒やされた時、「ファンタスコープ」に込められたが死に、もう再生できなくなることである。


 ノアの「ファンタスコープ」制作技術は色々謎が多い。

世紀末パリに関する緻密な時代考証、一般的な「ファンタスコープ」の原理の解説の緻密さに対してノアの特別な「ファンタスコープ」への解説は丁寧に避けられているようだ。

つまりなのである。

しかし小説の文章には説得力があり、いつの間にやら読者は幻惑されてしまう。


 マルグリットという依頼主を得たノアは彼女の家に滞在する。

〈妹であるシャルレーヌの霊を呼び出して欲しい〉というマルグリットの依頼を受けたノアはシャルレーヌの情報を集め、おのが身で彼女を再現しようとする。

しかしノアはシャルレーヌと同化し過ぎることへの不安に悩まされはじめる。


「鏡」や人物の入れ替わり、オカルト等のモチーフは魅力的だが、「グラン=ギニョル」と比べて致命的にスケールが不足している。

「グラン=ギニョル」のラストでは人類を滅亡させんばかりの壮大な破滅が描かれるというのに「ファンタスマゴリィ」の破滅は主要な登場人物にしか影響を及ぼさない。

マルグリットの怪しい館に滞在するという設定の通りが魅力的といえば魅力的だが、

それならもっとゆっくり館の不気味さを強調し小説に怪談の味を与えて欲しい。


 十九世紀末パリの街並みや風俗への言及は多く、よく調べられている。せっかくなのだから実在の有名人をもっとたくさん登場させても良かったのではないか。

ちなみに本作の序盤に出てくるェティエール=ガスパール・ロベール(ロベルトソン)という人物は実在する。

この人は本当に「ファンタスマゴリィ」なる奇術で売れたらしい。

もちろん「ファンタスマゴリィ」という興行こうぎょうも実在する。


「ファンタスマゴリィ」は五十ページほどで、次の「さよならも言えない」もまた短い。

「さよならも言えない」は「天羽槌アメノハヅチ」というデバイスが種族、身体的特徴、職業、場所、場合にとって最適なファッションを選択してくれる世界の話だ。

アメノハヅチは多分天羽槌雄神あめのはづちおのかみという織物の神からきているのだろう。

アメノハヅチは自他のファッションを採点してくれる機能、最善のファッションを自動で選んでくれる機能、そして廉価れんかで衣服を作ってくれる機能を持つ。


 用語はやや和風だが舞台は日本ではなく宇宙だ。

宇宙に住む人類達はそれぞれが住んでいる惑星の環境に合わせて身体が変質している。

ある種族はろくろ首のように首が長い、ある種族は蜘蛛のように腕がたくさん生えている、ある種族はのっぺらぼうのように顔が平たい……といった具合だ。

惑星間の移動が簡単になっている未来の話だから、当然異種族間の混血児も存在する。


 アメノハヅチのシステムが生まれた要因としてはとしてとにかくを与えたいという思惑がある。

つまりろくろ首でも蜘蛛でもデバイスに従ってお任せファッションをしておけば周囲から笑われないで済むのである。

デバイスは服装を採点することで一元的かつ絶対的に「これは良い」「これはダメ」という価値観を与える。

しかし同時にあらゆる人種が百点満点中九十点などの高得点を手に入れることができる。


 主人公のミドリは「服飾局」というアメノハヅチのファッション採点システムを管理する場所の職員だ。

優秀なのになぜかスコアが低い服装をする部下について悩むミドリは偶然ジェリーという少女と出会う。

ジェリーのファッションはたったの三点だ。

彼女はなんとアメノハヅチが用意した服を解体して素材を入手し、悪趣味なオリジナルのファッションを身に纏って生活しているのである。


 ミドリは気が強いが非常に仕事ができる女性である。

この世界はあらゆる人間の適職を診断し「天職」に就かせる。

ミドリはアメノハヅチが出すスコアを非常に信頼する人だから「服飾局」との相性は抜群に良い。


 機械が提示するスコアに関係なく自分が良いと思う服を着るジュリーにミドリは徐々に惹かれていく。


 未来の宇宙を舞台にした本作はわかりやすくSFっぽい(「創元日本SF叢書」だからSFなのは当たり前ではあるが)。

外見の自由や差別の問題など、現在政治や哲学の分野で盛んに議論されているようなアクチュアルな要素を多く含んでいる。

しかし実際に読んでいると人間ドラマのような感じがする。


 真面目でお固いミドリと奔放なジュリーは対照的である。

出会って惹かれるもののという絶妙な距離感が面白い。

お互い〈いつこの関係が終わるかわからない〉というぼんやりした不安を抱えているようなところがある。

このドライで物足りない距離感が現代的で物悲しい。


 人間ドラマと重厚なSFとが合体している。

人間ドラマとしてもSFとしても一流だが、両者の相性はどうだろうか。

深刻な哲学問題にゆっくりと取り組みたい時にアツい恋愛要素で心を揺さぶられる。

言うなれば「ショッキングピンクに塗装した戦車」のようにチグハグだ。


 ただ政治の問題になるとあまり静的に考えてもいられなくなる。

悩んでいるとその隙に格差が拡大するケースもある。

また政治運動をする際は個人ごとのアツい物語や情念がものを言う。

現代の政治運動の場において主体は個人であり、個人の怒りや悲しみが問題になる。


 そう考えるとジュリーの苦しみと

「いかにシステムと戦うか」「いかに己の身を守りつつ怒りを維持するか」という個人レベルの葛藤はリアルな政治活動の現場に通ずる。


「さよならも言えない」はテーマの重さに対して甘く感傷的に過ぎるような気もするが、

むしろその感傷性こそが現在の政治問題の現場を反映しているのではないか。


 いずれにせよこの作品は面白かった。


 続く「4W/Working With Wounded Women」(以下「4W」と呼称)は本書でもっとも長尺だ。

香港を舞台にした本作は上層の人間の受けたダメージが下層の人間に「転瑕」される世界の話だ。

上層の人間は痛みや傷を知らないから遊びで自殺したり他者に平気で暴力を振るったりする。

対して下層の人間はいきなり指から血が出たり頭が弾け飛んだりする。


 主人公はユィシェンという下層の住人だ。

〈他人に何かを尋ねるのは不幸の蓋を開けるような気がしてを感じる〉という彼女は真実を知るのを恐れる性質がある。

彼女は自分と「瑕」を通して繋がっている顔も知らない上層の人間を「あの子」と呼び英雄視する。

そうすれば〈「あの子」がシステムと戦っていて自分は「あの子」のダメージを肩代わりしている〉という自分に都合の良い物語を作り出せるのだ。


「イザナミ」というの名前を偽名として用いる怪しい白人がユィシェンに上層への「復讐」を提案した時、彼女は断った。

彼女にとって主人公は「あの子」であり「あの子」がシステムと戦ってくれればそれで良いのだ。

彼女は自分の夢を壊されたくないから「あの子」の正体を知りたくなかった。

しかし腕に「あの子」からのHELPというメッセージを持った瑕が送られてきたてからは勇気を出して上層に行こうとする。


 序盤は延々とディストピアの情景が描かれ薄暗い。

ゆるせないよねェェェェェエエエエエエエエエエええええええ」(本文より引用)と言いながらイザナミが机をぶん殴るあたりから物語が動きだす。


 下層と上層の戦いを描く場合、「善良なのに悪に付け込まれて酷い目に遭う下層民」と「とにかく極悪人の上層民」という構図になってしまいそうだ。

しかし主人公をユィシェンという割と人間にすることで絶対的な善と絶対的な悪の戦いという展開を回避しているように見える。


 典型的な悪役に見える上層のヤクザみたいなオッサン(多分名前が無い)はよく見るとただのデブであり別にムキムキのスーパー悪役ではない。普通の小悪党である。

彼がシステムに反抗する下層民たちの運動を「知ろうとしない」のはユイシェンの臆病さと似ている。


 勧善懲悪の物語を回避し

〈平凡で弱い人間は割り当てられるポジション次第で搾取する側にも搾取される側にもなり得る〉という事実を提示する。

人間は弱くて愚かなのであり、だからこそ人間が弱くてもなんとかなるような「システム」を拵えてやる必要があるのだ。

人間がミスをするのは「人間がアホだから」だが、同時に「ミスが発生し得るようなシステムがアホだから」という側面もある。

上層と下層のシステムを攻撃する作品だからこそ徹底して「弱い人間」を主役と悪役に配してやる必要があったのではないか。


「4W」は実によく出来た作品であり、「身体」「瑕」「痛み」といった要素を生々しく描いている。

結果的に本書中トップでグロい。

家電屋の頭がぶっ飛ぶシーンは結構気持ち悪い。


 ユィシェンは弱いキャラクターだが、周囲の人物によってうまく中和されている。

ユィシェンの元恋人で同棲相手でもある中毒者のメイファンはたまに癇癪を起こして暴れるというクズ人間だが気質的にはユィシェンよりサッパリしていそうだ。

ユィシェンの現恋人のトゥイはメイファンとの同棲を続けるユィシェンに嫉妬しつつも良い恋人を演じる。

イザナミは下層民に上層への復讐をさせるのが趣味の上層民であり、その悪趣味さは一周回って堂々たるものがある。

イザナミと瑕を通してリンクしているイザナギは無愛想で無口な大男だ。多分彼が一番マトモである。


 こうやって並べてみると全員ちょっとおかしいのだが、

これらのキャラクターが弱気で臆病なユィシェンの醸し出す陰鬱な雰囲気を全く別ので中和している。

中和しきれていないような気もするが、とにかく鬱陶しくて暗い雰囲気に負けずに読み通す価値のある一編である。


終景累ヶ辻しゅうけいかさねがつじ」は名前からして三遊亭円朝『真景累ヶ淵しんけいかさねがぶち』のオマージュだ。


ここではお菊(一枚足りない皿を数えるやつ)、

お露(三遊亭円朝『怪談牡丹燈籠』で下駄をカランコロン言わせながら来るやつ)、

お岩(四谷怪談の毒を盛られて顔が腫れるやつ)、

累(醜さ故に継父に殺された姉、助にそっくりな娘がかさねて産まれたがこっちは実子故に育てられたやつ)、

といった怪談ヒロイン達が主人公となる。


 ちなみに『真景累ヶ淵』といえば豊志賀だろうがこっちは出ない。


「終景累ヶ辻」はループものだ。

「時間の流れは一条ひとすじでなく、交差と分岐を繰り返す、無量に連なる辻の如きもの」

という世界でお菊やお露は何度も死に直す。

その度に少しずつ展開が変わる。


「幽霊の辻」という場所がある。

そこでは三つの道筋があり、それぞれ「未来」「過去」「現在」に繋がる。

するとお菊がお露と出会って話をし、自らの運命を変えるといった展開が起きる。

死者達は未来に行き、過去に行き、互いに交錯する。

死者の怨念は消えることなく「未来」「過去」「現在」を彷徨うのだから、彼女らが合流するのは当然だ。


 一風変わった怪談の趣きがある本作は短いながらも面白い。

焦点化される女性によって文体が違うのが良い。

お露の語りはいかにも執念深く恋に生きた彼女らしくネットリしている。

最初の数行と最後に配される累だけが一人称が「妾」かつ歴史的仮名遣いであり、異様な存在感を放っている。


 本書ラストを飾る「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」はVR世界で活躍する「魔女」たちと魔女を狩る「騎士」たちの話だ。

ここでは反体制、反差別、反資本主義といった思想のもと活動する人々が魔女のアバターを纏ってVR世界で活動する。

テレビにだってアバターのまま出演でき、VRで講演会もできるのだから技術が進んだ世界では顔を隠して政治活動しても全く不便ではない。


 様々な思想を持った魔女たちがいるのだが、特に反女性差別を掲げるフェミニストの魔女が多いとされる。

それに対してVR世界のシステムを改造し、魔女たちの行動を妨害しようとするのが騎士だ。

騎士もまた魔女の集会と同様、騎士団を組んで活動する。

騎士達は現在の格差を肯定し政治運動を抑圧しようとする。


 主人公のジョンはそんな騎士の一人だ。

白人で体質上太りやすい彼はあらゆる人から白豚と罵られ、笑われてきた。

同性は彼をからかう事で自分の実力を誇示しようとし、異性は彼を無視した。

自己を不当にいじめる世界への憎しみの矛先はなぜか魔女達に向いている。


 彼は騎士団に入ることで始めて人に役割を与えてもらい、認めてもらうという経験をする。

彼にとって騎士団は唯一の居場所なのだ。


「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」は言うまでもなく今のSNSを反映した話である。

VR空間は多国籍的で色んな国の人間が翻訳を通して交流できる。

ジョンはアメリカ人なのだろう。

騎士団メンバーのキャラクターをもっと掘り下げたら色んな事情が出てきそうだが、尺の短い本作ではそこまで深く描かれない。


 ジョンはVR世界で迷惑行為に及んでいるだけでそんなに極悪人という感じではない。

彼のエピソードとして「買い物に行くと女性の店員がメキシコ系の客と談笑していてレジに商品を持って行くと嫌な顔をされる」、

「その女性の店員がメキシコ系の客に誇張した悪口(数回クレームを入れたのを毎回クレームを入れまくっているかのように言う等)を吹き込んだせいでメキシコ系の奴が襲ってくる」などが描かれる。


「アメリカだしまあ、そんなもんか」となってしまうから「皆ロクな人間ではないがジョンも悪いし仕方ない」という程度で流される。

これが日本だったら女の店員は怒られる一線を越えてしまっているからかなり悪い人ということになる。


「道を歩いているとメキシコ系の奴が待ち伏せしていて、あまり正確ではない話を理由に胸ぐらを掴んでくる」というのもかなり怪しい。

「アメリカ人だから豪快で男らしい振る舞いをしたがるのは仕方ない」と思うから話を適当に流せるのであって、

これが日本だったら「ちょっとおかしい人」である。


 そもそもアメリカはそんなにモラルがないのだろうか。

日本における典型的なアメリカのイメージとしては

「強そう。体育会系。技術大国。すげえうるさそう。豪快。不潔。男臭い」などがあると思うが、そんなこの世の地獄みたいな国が本当にあるとは到底思えない。

アメリカ人だってよく見たら大部分はジョンみたいにモソモソした奴なのではないだろうか。

本当にアメリカが「豪快。不潔。男臭い」といった国なのであれば、そんな国さっさと解体した方が世のためであろう。


 それはともかく、「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」は〈フェミニズム以外の思想を持った魔女も現在の社会に不満をもっていれば認める〉という括りの広さ、

そして〈環境の変化を敏感に察知して常に現在のポジションが正しいのか問い続けるのが大事〉という結論によって単純なフェミニズム肯定の物語を巧みに回避している。


 本作の希望を感じさせる展開はそうした配慮によって支えられているのである。

本書『ファンタスマゴリィ』の他の短編同様、巧みに伏線が張られており短いながらも満足度が高い。


 これで『ファンタスマゴリィ』全作に言及したことになる。

表題作は全肯定とまでいかなかったものの、全体のレベルの高さは十分に分かってもらえるだろう。

エンターテイメント小説ならではの作り物臭さ、ケレン味、過剰な伏線や演出、芸術性を損なうまでの技巧はまさに空木春宵の最大の武器である。

全くリアリティを無視した荒唐無稽な設定から政治や哲学のアクチュアルな問題をいつの間にか引き出して見せる手品のような技巧はさすがである。


「4W」に顕著な生々しい「痛み」の描写は登場人物に共感するか否かというレベルを越えている。

性格も国籍も社会的ポジションもあらゆる差を越えて「4W」のキャラクター達は読者に「痛み」を感じさせる。

それこそがというものではないか。


 我々は崩れる肉体を見る時、感情や理性を越えて身体的な不安を覚える。

こうしたの感覚は身体以外の素材では表現できないだろう。

その一点に関して肉体は究極のオブジェなのだ。


 空木春宵の前作が二◯二一年であった事から考えてリリースペースは三年に一度だろうか。

前作の「Rampo Sicks」は黒蜥蜴くろとかげならぬ皓蜥蜴しろとかげ、諸戸ならぬ諸妬、少年探偵団ならぬ美醜探偵団と、様々な乱歩キャラクターをオマージュしたが怪人二十面相はいなかった。


 今回の表題作「ファンタスマゴリィ」では「変身」「入れ替わり」というテーマが描かれるのだからこれもまた怪人二十面相的といえばそうなのだが、

やはり変装を武器にあらゆる人物のニセモノに変身してみせる怪人二十面相の直接的なオマージュに期待したい。


 現在のインターネットでは多くの人が顔を晒さずハンドルネームで活動している。

だからニセモノが現れてもなかなか気付けない。

のみならずアカウントの運営者が入れ替わっても文体等が似ていれば中々気が付かないだろう。

今こそ怪人二十面相が活躍するのに絶好の条件が揃ったのだ。

私のこのアカウントも明日には中身が入れ替わっているかもしれない。

本物の私を拘束した怪人二十面相が「妄想機械零零號」として活動するのだ。


 ところで、本稿の最初に私は「」という必殺の切り札カードを見せつけた。

ここで再び問うべきであろう。

」で判断した結果、この文章に書いていることには理があるだろうか?


 いやいや。まさかあるワケないでしょう。

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