空木春宵『感応グラン=ギニョル』(東京創元社、二◯二一年)――乱歩が好きなら春宵もイケる!――

 いきなり表題作「感応グラン=ギニョル」から始まる。

本作と巻末の「Rampo Sicks」(実はこの二編は繋がりがある)はどちらも「浅草」(「Asakusa」)が舞台に設定されている。

私は東京についてほとんど知らないからなぜ浅草なのかはよくわからない。


 新宿が若者の街なのはわかるが浅草は猟奇の街なのだろうか。

なにやらおどろおどろしいイメージがあるのかもしれない。


 この本に収められている短編小説はいずれもいわゆる「百合」、「ガールズラブ」の世界が描かれている。

巻末解説にある通り「耽美」なのに「百合」なのである。

「耽美」なら「薔薇」すなわち「ボーイズラブ」のほうが普通ではないかと思うのだが、本作では「耽美的な女性同士の恋愛あるいは性愛」を描ききっている。


「耽美」は「耽美」でも「美少年」モノや「BL」と比べて耽美的な「百合」は先行作品が少ない(その分独自性が高い)のではないかと思われるがどうであろうか。

そのテの作品は本当に読まないからよくわからない。


「感応グラン=ギニョル」と「地獄を縫い取る」は「百合」的なお色気シーン(お色気シーン?)が多くてキツかった。

しっかりベッドでをするところまで描くのである。


ただ「地獄を縫い取る」では「たとえ女でも少女のポルノを欲したらそれは立派な変態だろう」という割と真っ当な主張がなされており、あまりにも過激な内容なのにテーマはマトモなのである。

「百合」なのに「全肯定されるべき美しい女性」と「醜い存在として『なかったこと』にされる男性」という女性崇拝的な構図に陥っていないのだ。

私はこの作品を読んで「アレ、この本『百合』なのに結構男女観が平等だぞ」と気付いた。


 本書に収められた小説の中でも巻頭二作は特に「痛み」(暴力など)の描写が多く読み終わるとしばらく次の作品にいけなくなるくらい疲れる。

私は「この本はアレだ。音楽で言うところのDIR EN GREYみたいなやつだから慣れればイケる」と自分に言い聞かせながら次の作品にいった。


 そこを越えたら割と万人受けする世界が広がっている。

三つ目にあたる「メタモルフォシスの龍」は清姫伝説がベースとなっており幻想色が強い。SFではあるものの上田秋成の「蛇性の婬」などの「蛇の女」を扱った作品群と同じ感覚で楽しめる。

蛇になりつつある女、ルイが江戸っ子的な気風の良い女で主人公テルミに対して歳上なのが解りやすくて良い。


 あまり「ネットリとした妖しい女性同士の濃密な性愛」みたいなのを描かれるとついていけない。

こういう〈男女の恋愛〉にも通ずるようなキャラクターや関係性を設定していないと理解できないのである。


「地獄を縫い取る」はその点「ネットリしていて常に腹に一物ある性格の女同士」で読んでいて息が詰まる。


「感応グラン=ギニョル」には江戸っ子風な蘭子が結構好きなのだが、彼女が千草と絡み合う理由がよくわからない。

〈愛情を抱く理由を一個提示して一元的に全部説明する〉のは不可能だし、〈「顔が良いから好き」から始まってどんどん深入りしてしまった〉みたいなしょ~ォもない話でも納得がいってしまうのが「恋愛」ではある。


それでも〈ルイ/テルミ〉コンビは〈蘭子/千草〉コンビと比べて二人が惹かれ合う過程が丁寧に描かれ説得力がある。この差は大きい。

私は本当に「百合」への理解がないから丁寧に丁寧に説明してもらえないと納得できず、納得できたところで人物や関係がネッチョリし過ぎていると入り込めないのである。


 清涼剤のような人物を出すか適度な距離感を保った関係性のまま進行させるか、どちらかでないと濃厚すぎて〈男女の恋愛〉と同等の「恋愛」として認識できない。


 実際〈男女のカップル〉は「相補的」な関係になりやすいというか「気の強い女と気の弱い男」の姉弟的コンビや「気の強い男と気の弱い女」の兄妹的コンビをよく見る。

どっちもが主導権を握りたいタイプの場合は喧嘩になってしまうのだ。


 当然私は〈レズビアンのカップル〉のことは一切知らない。

もしかしたら〈レズビアンのカップル〉に関しては「地獄を縫い取る」のようなネットリ型二人の組み合わせが多いのかもしれない。

しかし私は「百合小説」を異性愛の小説と同じように捉えて読むのだから、異性愛であまり見られない事には抵抗がある。


 四作目「徒花物語」は「メタモルフォシスの龍」に劣らず一般受けする作品(つまり「百合」に理解の無い私でも楽しめる作品)である。

簡単に言えば教員や職員以外全員ゾンビの女学校の話で醜い顔をした主人公黛由香利が美しい顔をした鈴羽に話しかけられるシーンからはじまる。


 本作と五作目「Rampo Sicks」は醜い少女が主人公であり、「美少女同士を組み合わせば汚い『男』が居なくて最高じゃん」と言わんばかりの「百合」作品に対して嫌な気持ちを抱く私は感情移入してしまう。

「美少女」と比べて醜いという意味では「オタマ」とあだ名される由香利と私は仲間である。

大いに応援したくなる。


 ちなみに本書に収録される作品の多くは「作中作」の形式を取っている。

「感応グラン=ギニョル」では「浅草グラン=ギニョル」の舞台が随所に挿入される。

「地獄を縫い取る」では「地獄太夫」のエピソードが挿入される。

そして本作「徒花物語」では「徒花物語」という女学校で回し読みされている作者不明の小説が挿入される。

「Rampo Sicks」では戯曲形式で「初老の男」の話が挿入される。


 これらはいずれも小説が進行していくうちに本筋との関係性が明らかになる仕掛けで最初に読者に対して「謎」を提示する効果がある。

本書収録の作品で「作中作」を利用していないのは「メタモルフォシスの龍」に限られる。


 ややネタバレになるが「徒花物語」は「お嬢様キャラ」が実は貧しいの子だったという展開が含まれており、「金持ってる家の娘って上品で良いよな」という形で金持ちを持ち上げるのが嫌な私にとって助かる。

「お嬢様キャラ」の魅力は貧乏人の子でも十分発揮できる。

金ではなく「意思」なのだ。

「お嬢様」を演じる精神性が魅力的なのである。


 掉尾を飾る「書き下ろし」作品、「Rampo Sicks」は名前の通り「乱歩」リスペクト小説だ。

主人公不見世が勤める「月と手袋亭」は「月と手袋」が元ネタ、といった小ネタが多数仕込まれている。

そうした細かいオマージュを無視してざっくりと言えば「『黒蜥蜴』(本作で出るのは「皓蜥蜴」だ)、『孤島の鬼』(ちなみに敵の名前は「諸妬姫」である)に挑む」といった作品である。

こう書いても何もわからないだろうが、本当にそんな作品なのだ。


間違いなくキーは『黒蜥蜴』と『孤島の鬼』二作に絞られる。


 女怪盗「黒蜥蜴」は別にそういうキャラクターではないのだが本作の皓蜥蜴は江戸っ子風の女で親しみやすい。

江戸っ子型の女性は一つの類型らしく、本書では「感応グラン=ギニョル」の蘭子、「メタモルフォシスの龍」のルイ、そして「Rampo Sicks」の皓蜥蜴と三人も出てくる。

いずれも単純に「善」「光」を感じさせるキャラクター達であり、作品が華やかになって良い。


『孤島の鬼』の悪役は「自分が身体障害者で蔑まれたから健常者まで身体障害者に改造して身体障害者の王国を作ろう」と考える世にも恐ろしい人物である。

「Rampo Sicks」の悪役は「美しい人は醜い人と比べて善い人として認識され得をするから皆醜くしてやろう」と考える。

その方法が恐ろしい。

暴力を振るって美しい人の身体を傷だらけにしようとするのである。


 基準が分かりやすいから『孤島の鬼』の悪役のほうがまだマシかもしれない。

実際「Rampo Sicks」では「美醜の基準」を大きな問題として取り上げている。


 本書に収められた作品群はいずれもグロテスクで精神的あるいは肉体的に「いびつな」人々を描いている。

こうした「世に知られざる狂気」を見つけ出して作品化する点が乱歩的だ。


乱歩作品を読んでいてつくづく思うのが「乱歩は娯楽小説として作品を書いているのに人物のパターンが多くて変態や狂人がポンポン出てくる」という事だ。

「陰獣」の静子はその典型で、「ただのヒロイン」では済まされない人物となっている。


なにしろこの静子が加害者大田春泥と同一人物で事件そのものがマッチポンプだという推理が行われるのである。

最終的に静子は自殺してしまい「本当に犯人は静子だったのか」わからないままになってしまう。

のみならず静子が夫や寒川に自分を打擲させるマゾヒストであることは確定であり、この人物の並々ならぬ変態性が描かれている。


 変態や狂人とは違うが、怪盗黒蜥蜴は追い詰められると一人称が「僕」になる人で男装も上手いから性別を超越してしまっている。

ただの悪役なら(たとえ怪盗であっても)ここまで奇妙な設定を付けなくても良い筈なのに乱歩はあえてそういう人物として描くのだ。


 奇妙な人物と猟奇事件を描き続けてきた乱歩を空木春宵は上手く継承している。

もちろん影響を受けたのは乱歩だけではない。

巻末の解説だけでもいくつもの元ネタが提示されている。


 先行作品へのリスペクトももちろん大きな武器だが空木春宵の魅力はそれだけではない。


本書の作品群では極めて現代的なテーマが用意されておりになっているのだ。

「地獄を縫い取る」が児童ポルノを取り上げているのはその一例である。

「メタモルフォシスの龍」における「自己の身体を改造して精神に見合った肉体を得ようとする」主人公テルミのような人間は後を絶たない。

「Rampo Sicks」では「美しい人を見る時と醜い人を見る時の視線の相違」が問題となる。


 むしろこうした要素がメインといってもよいくらいではないか。

つまり「先行作品」を「現代を描く」というのためのとしてオマージュし利用する。

それだけの主題をや問題意識を作者は持っているのである。


 これまで触れなかったが本書の魅力は卓越した文章表現力にある。

当たり前だが、画数が多い漢字を沢山使えば名文になるという訳ではない。

本書の文体は作品ごとに大きく異なっており、重厚な「Rampo Sicks」から軽やかな「メタモルフォシスの龍」と「徒花物語」まで書き分けがなされている。


 特にすごいのは後者の何気ない少女的な「語り」の巧みさである。

徹底的に磨けば変わった単語や表現を駆使せずとも自ずから文章にスゴみが宿るのだと感じさせる。


 少女的な一人称視点の語りといえば『下妻物語』などが有名だが、意外とヴァリエーションがある。

「だ」「である」調の時点で大分ゴツゴツしていて男っぽい。そこをあえて女性化させていくところが「ワザの見せ所」だろうか。

「だ」「だ」言ってても少女っぽく見せることは可能なのだ。

とはいえ少女的な文体の場合「である」は丁寧に回避されることが多いようだけれど。

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