太宰治『晩年』岩波文庫版(二◯二四年、六月)――あの太宰治に〈注釈〉がつきました――

 太宰治の本を沢山読もうと思った人はたいてい新潮文庫の諸書かちくま文庫の「太宰治全集」を読むことになるであろう。

もちろん角川文庫等からも出ているが、〈量〉や〈網羅性〉

――とはいえここを突き詰めると筑摩書房ちくましょぼう浩瀚こうかんな「決定版全集」を読まなければならなくなるが――

を気にする読者であれば「文庫で太宰治を読むなら新潮かちくまが良い」と決まってしまうのである。


 こうした凝り固まった太宰治文庫本のに突然新星が現れた。

それがこの『晩年』(岩波書店、二◯二四年)である。新潮文庫とは全く違う。

まず表紙を見たまえ。ほら。「(注・解説=安藤宏)」と書いてあるだろう。

私はしょうもない人間だが安藤宏という優れた太宰治研究者が居ることくらいは知っている。

彼は確かちくま新書で太宰論の本を出していたはずだ。それから去年(あるいは今年の始めだったかもしれぬ)東京大学出版会から重厚な(千ページ超えていたかと思う)太宰論の本を出した。

 というやつだ。私は太宰研究者といえば安藤宏と相馬正一くらいしか知らない。


 今までは太宰治の本が出る時「解説」が付いても「注釈」は付かなかった。角川書店の「日本近代文学大系」は注釈で有名だが太宰治の巻は無い。


 太宰治ファンの皆さんはぜひお手元の『人間失格』や『走れメロス』の巻末を開いて注釈があるか確認して欲しい。

新潮文庫の場合、芥川龍之介や夏目漱石、森鴎外、谷崎潤一郎らの作品には注釈が

しかし昭和最初期や戦中に活躍した太宰治や戦後の三島由紀夫が書いた作品には注釈が

しかし実際三島由紀夫や太宰治の作品は注釈ナシでもそれなりには読める。

ただし細部をつっつかれて「ここに書いてあるこの外国人作家の代表作はな~に?」なんてやられると閉口へいこうする。

しかし文章なんぞ細部がものである。


 余談だけれど、〈読む〉という言葉は不思議だ。

「これを読んだ」という場合には大抵「その文章の意味を読んだ」という意味である。

あるいは「意味はわからないけれども楽しめた」という状態で「読んだ」と言う場合もある。

後者の「読んだ」はたいてい詩だとか詩的散文だとかなにかしら「わかる・わからぬ」以前に文字のヴィジュアルや音韻、イメージの跳躍によって楽しませるような文章にたいして言うのである。


 そうして考えていくと「わからないつまらない」と言われる文章の真の問題は「わからないつまらない」ことであり、もっと「わからなさ」つまりナンセンスさを追求することで「わからないおもしろい」へと進歩させていくのが良いということになるが、これもまた本筋と関係がない。


 だいたい私は激烈に体調が悪いのだ。

今日は医者に言われた量の倍、抗不安剤を飲んだ。薬の名はセパソンと言うのである。

そして先程医者から言われた量の四倍にあたる睡眠薬を飲んだ。

もうイっちゃっているのである。目の前がグルグルと回転している。


 ここで健全なる諸君に豆知識を授けておく。

まず、カフェインというのはアッパー系だ。あれがアッパーというやつだ。

カフェインい弱い者が大量に接種すると活発になり積極性を示す。血圧が上がる。心臓は激しく脈打つ。動きが機敏になる。

ゆえに買い物の前にカフェイン剤を飲むべきではない。爆買いしてしまう。


 次にアルコールは実はダウナー系だ。

こう言うと驚かれるだろうけれども、アルコールの真の作用は「脳を沈静化させる。眠くさせる。反応を鈍くさせる」ことにあるのだ。

ではどうしてアルコールでハイテンションになるのかというとそれは脳の理性の府にあたる箇所を優先的にアルコールが麻痺させるからだ。


 とはいえ本質的にはダウナーだからどんな酒豪でもアルコールを摂り続ければそのうち寝る。その前に吐くかもしれないが、まあ良い。

一般的にアルコール摂取で一番「ハイ」になれるのは「ほろ酔い」状態の時である。

だからダウナーな気分になりたければ「ほろ酔い」を飛び越えた分量のアルコールをガブガブ飲んでしまえば良いのである。

すると立っていることすら不可能になり地べたに寝っ転がるようになるであろう、


 ちなみに依存性はカフェインのほうが強い。

依存性というのは依存の対象を取り上げられた時になってわかるのである。

いわゆる離脱症状だとか禁断症状だとか呼ばれるものだ、

一般的にイメージされるような「接種するのをやめられない。どうしても欲しい」という精神的な焦燥感も含むが、それだけではない。

例えば頭痛、発汗、不安、眠気、感覚鈍麻などが離脱症状の一種である。


 カフェインは依存性がハンパなく強い。

ためしに一週間ほど缶コーヒーを一日二缶飲む生活をした直後にカフェインを絶ってみればよい、

テキメンに離脱症状が出る。私もよく『ポケットモンスター』のコダックのごとく頭を抱えたものだ。


 アルコールも依存性が大いにあるのだが、先のカフェインの例のごとく一週間大量摂取したところで離脱症状は始まらない。

案外安全なのである。


 さて私は物質の精神作用をアッパー系とダウナー系に区別した。

睡眠薬や抗不安剤は断然後者である。

超ダウナーだ。

読者諸君らもイライラすることがあって「このままでは事件の加害者になってしまう」と思う機会があったらすぐに心療内科へ行ってダウナー系の薬を貰うとよいだろう。

そしてストーナー・ロックやドゥーム・メタル、ノイズ、ドローン・ミュージック、シューゲイザーなどを聴くのが良いであろう。


 坂口安吾などが服用したのはヒロポンといってこれはアッパー系のドラッグである、

ヒロポンは覚醒剤の一種でアッパー系だ。眠れなくなり集中力百パーセント(あるいはそれ以上)の状態で何日も労働できる。

働きたい人や騒ぎたい人には最適なドラッグなのである。

坂口安吾は働き者であったのかもしれぬ。


 ヒロポンは最近流行るような「チルい」(チルアウトできる)薬物ではおそらくない。

「チルい」気持ちになりたければ抗不安剤を飲むかアルコールを飲めば良いのだ。


 余談が長くなってきたが本題に戻す。


 

この簡単なことをわざわざ力強く主張しておく。

以下に注釈というものはこういったシステムで生まれてくるという例を示す。


 第一に先駆者による精度が低くてもカタチになっている〈最初の注釈〉がある。

第二に〈第一の注釈〉の問題点や疑問点を追求しつつより進歩した知見を活かした注釈が生まれる。

もちろん〈第一の注釈〉の良いところは受け継がれる。コピペである。

そして第三第四の「前のより優れた注釈」達がポコポコと生まれる。


 すなわち「」のである。

だからこそ先鞭をつける行為は重要かつ困難なのである。


 太宰治は知名度こそ高いものの注釈の作成がおろそかになっていた。

プロ・アマ問わず注釈ナシの版と格闘していたのである。

そこにこの岩波文庫版『晩年』の新しい注釈が出た。

「知名度が高い『人間失格』ではなくあえて『晩年』を注釈書のスタートとする」というのは奇妙だが、とりあえず歴史的意義は大きい。

岩波文庫の予定にはないものの、『人間失格』の注釈書はどこかから必ず出るであろう。

いな


 私も力を入れて岩波文庫版『晩年』を宣伝したい。

ただし私には文章を書く能力が無い。

のみならず私は前述の薬のせいでヘロヘロなのだ。

まあしょうがない。ヘロヘロなりにごまかして文章をこしらえてやろう。


『晩年』はいくつかの中編短編によって構成されている。初版は砂子屋書房。実はこの砂子屋書房はまだ存在する。

今は詩や短歌に注力しているようだ。単行本の発表は昭和十一年である。


 「解説」によるとこの『晩年』は「葉」を除けばおおむね成立順に配置されているのだそうである。

そう言われると『晩年』が完成度の高い作品であるのみならず「小説家太宰治誕生の奇跡」を描いた一つのドキュメンタリーのように見えてくるから面白い。


 作品集のスタートをきるのは「葉」。

断章というべきか、アフォリズム(箴言、警句)というべきか、直接つながりのない短文がいくつも掲載されている。

これらは太宰が未発表のままにした習作群からを抽出して作ったらしい。

実に面白い試みである。


 私は岩波版の解説を読むまで知らなかったのだが「葉」の断章は「三十六」ある。これは「三十六歌仙」になぞらえたのである。

こうした小ネタの仕込みは面白い。


『晩年』の作品なんてその気になれば「青空文庫」で全部読めるのだ。

せっかくだから「葉」のなかでも評判が良い断章を引用してお目にかけよう。


「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った」


 これは第一の断章である。

岩波文庫版でほんの三行にすぎぬ短文だがなかなか面白いではないか。

太宰治は前向きである。「夏まで生きていようと思った」とある。


『晩年』の出版より前、太宰は一度(おそらく彼の生涯で最初の)心中をしている。女だけが死んだのである。

この事件を太宰は『晩年』の至る所で〈作品化〉している。

面白いのは実際の心中は海辺での「服毒」によってなされたというのに

太宰が〈作品化〉する時は決まって「入水」へと事実を改変しているのである。


 作家としては「心中の失敗」というテーマはなかなかオイシイ。

確か明治時代の後期に森田草平が平塚らいてうと心中未遂をして「煤煙」という小説を書いたと思う。

とにかく事件を起こして〈小説化〉すれば大いに売れるのだ。


 太宰は「本当」のことを並べまくるだけでジャブジャブ金儲けできるという事を察知していた。

しかしそれをあえてしなかった。

前述の「服毒」から「入水」(「魚服記」などにも活かされる水のイマージュ)への転換は「本当」から「嘘」への転換に他ならない。


『晩年』をとおして太宰は嘘をつき続けた。

本当らしい嘘、嘘らしい嘘、嘘らしい本当、おどけた嘘、内心見破られることを心より願いながら吐く悲しい嘘――太宰はあえて直線的な「真実」への肉薄を回避しクネクネと「嘘」で作品を(そして場合によっては作者象を)塗り固めていった。


 本書の注釈は優秀だ。

「葉」の冒頭に置かれたエピグラフ(引用句)である

「撰ばれてあることの/恍惚と不安と/二つわれにあり」(詩を引用する際は改行をスラッシュで示す)という「ヴェルレエヌ」という詩句に

安藤宏は「太宰が参照したのは堀口大学『ウェルレエヌ』(東方出版、昭和二年)か『ヴェルレエヌ研究』であろう」と注釈を付けている。


 ほかにも「ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をぱたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら」というエピクラフについて安藤宏は良い注釈を付けている。

この「ノラ」は野良猫ではない。

注釈なしでそのまま読んでしまうと野良猫が散歩をする情景しか浮かんでこないというのに、実はそうではないのである。


 安藤宏は「ノラ」は「イプセン(一八二八~一九◯六)の代表作、『人形の家』(一八七九年)のヒロイン。自我に目覚めたノラは妻や母の立場を捨てて家を出て行く。女性解放運動の象徴的な存在となった」というのである。


 つまりこの短い断章は「思い切って家を捨てたことで女性解放の象徴となるノラ。実はその決意の一瞬に『帰ろうかしら』という不安の念が兆していたのだ」という悪魔じみて意地の悪い文章なのである。

とんでもない皮肉である。

現代の研究者によって散々指摘されてきたことかとおもうが


 ただしそこまで解釈しなくても「決意する女性」というかたちで皆が追い求める「主体性」「個人の意思」など本当はありえないのだ。

主体は常に分節化され、ゆらぎ、不安で、支離滅裂なのだというくらいに読み取っても良い。

すなわち「無気力」「主体性の皆無」「されるがまま」でも良い。むしろ人間なんて思い通りにならぬのだから「主体性」を求めるだけ無駄だ。

「自分」なんてどこにもいない。あるのは肉体と気分だけだ。というやさぐれた宣言である。


「葉」は非常に戦略的に緻密に編まれたテクストである。

先に「三十六歌仙」になぞらえて「三十六」の断章を配したという安藤宏の言葉を紹介した。

そうした「数」だけでなく内容においても「葉」の三十六の断章は連絡し合っている。

安藤宏はこうした性質を「付け」と「転じ」という言葉で表現した。

おそらく連歌の用語だろう。


 私は文学に詳しくないからよくわからないが、「付け」つつ「転じ」る。モチーフやテーマ、文体などに繋がりを残しつつ「付け」ていく。

そうした操作のもとで断章が選択・配列される時、一種の流れが生じる。

流れさえ生じてくれればあとはほんのちょっと「転じ」るだけで大きなアクセントになるのだからようなものだ。


 繰り返しと変化がミソなのだから、まあテクノ・ミュージックみたいなものである。

ちなみに定型を踏まえつつ多少のアイデアを盛り込むのが基本のいわゆるなろう小説もまたテクノである。

古典落語も皆が知っている話をほんのちょっとアレンジしながら語って面白がらせるのだから、テクノである。

文化の何割かはテクノで説明できるらしい。


 続く「思い出」はおそらく『晩年』諸作の中でも最初期に創られたであろう一編である。

この嘘で塗り固められた作品集で言うと妙だが実に「自伝的」な香りのある作品だ。


 内容は幼少期から旧制高校(今でいう)にいたるまでの回想録だ。

メインは女中の「みよ」という人に一方的に恋をする話であり、まあざっくり言えば「初恋と思春期を迎えた少年の地獄のように暗い自意識の葛藤を描く」といったところではないか。


 それにしても暗い思春期には「地獄」という言葉がしっくりくる。

逃げ場が無く、常におびやかされており、

暴力や怒鳴る際の声量、財力などでは大人に敵わず、

周囲からは将来的な「金」「地位」「名誉」などを漠然と期待され、

そうした抽象的な目標こそ用意されているものの「コツコツやれば確実に花開く」ような確固たる手段が提案されることはない。


「運動すればオリンピックなどに出場し偉くなれる

「勉強すれば東京大学などに入学でき、その後も鍛錬を積めば官僚にでもなれる

「何か一芸に特化した方が合理的

「周囲の提案にフラフラと乗っかって色んな経験を積んだ方が良い


といった具合で「なにやっても何かしら得るものはあるのが、結局何をやれば良いんだよ」と言いたくなる。

すると「色々やってみろ」だとか「自分の適性を見極めろ」だとかいうことになる。


 それならかえって「お前は商人の子だからビジネスを一生かけて極めろ」とか「お前は坊主の子だから一生かけて教えを極めろ」とか決めつけられた方が迷う時間がカットできる分いくらか合理的である。


 また、人間は少年時代「今はまだ実力が無いから(内心間違っていると思っていても)強そうな奴にヘラヘラヘコヘコしておく」という卑屈な体験をしなければならない。

そりゃ悔しさや閉塞感で頭がおかしくなるに決まっている。


 そうした「何者でもない時期」は基本的に「地獄」である。ある意味において青春時代はニートと似たようなものではないか。

別に「沼に咲いた一輪の蓮」の図式で青春の一瞬の煌めきや興奮を強調しても良いが、その前提として青春の地獄性を描き抜いてもらわなければ説得力が出ない。


 今後「青春映画」だの「青春小説」だのと言われるジャンルの作品を制作する人達に、私は提案をする。

まず主人公は物を言う度に吃る陰鬱な文学少年にしろ。

この主人公は親から虐待にならない程度に冷たく接されており、

大人だろうが子供だろうが自分に話しかけてくる人間はことごとく敵だと思っている。

寝る前には自分の知る人間を片っ端から銃殺する妄想をして溜飲を下げる。

授業中は起きているが、昼休みや休み時間になると必ず寝たフリをする。

そうして周囲の騒ぎをやり過ごす。


 こうした諸要素をおさえればきっと優れた「青春モノ」作品が産まれるであろう。

怒られたくないから私は保証


 明るい青春小説なんて嘘だ。

とはいえ私はここで「綺麗なブルーを背景に、学制服のちょっと可愛いっぽい女性にジャンプさせてる系」の映画ポスターや小説の表紙を批判する気は無い。

ただでさえ元気がないのにそんな「光と闇の全面戦争」みたいなのを起こしてしまうと本格的に疲労でぶっ倒れそうである。


 こうやって「思い出」を紹介していると、太宰治が幼少期を回想して素描したスケッチのような作品をイメージさせてしまいそうだが、実際にはもっと面白い。

なんとこの作品にはちゃんとがつくのである。


 文学作品においてオチはついてもつかなくても良い。

もちろん「買い物へ行った。おわり」みたいなものではこまるが、

「買い物へ行った。今日晩飯は美味いコロッケになりそうだ」なら小説として充分に成り立つ。

最後に気の利いたダジャレだとか衝撃の叙述トリックだとかを用意する必要は全く無い。


 太宰治の「思い出」にははっきりとしたオチがついている。

このことの意味は重い。


オチという視点で『晩年』を読んでみると

「葉」オチなし

「思い出」

「魚服記」オチなし

「列車」オチなし

「地球図」オチなし

「猿ヶ島」

「雀こ」オチなし

「道化の華」オチなし

「猿面冠者」

「逆行」オチなし

「彼は昔の彼ならず」

「ロマネスク」

「玩具」オチなし

「陰火」オチなし

「めくら草紙」オチなし

ということになる。

十五作品中五作品すなわち「三分の一にオチがある」という結論が得られる。


 もちろん「オチをオチとして感知する敏感さが私にあるか?」という問題は残る。

私より遥かにユーモアを解する人間であれば『晩年』諸作にもっと多くのオチを見付けられるであろう。

また逆にユーモアを解さぬカタブツであれば、ひょっとすると私以上に『晩年』諸作のオチを見逃すかも知れぬ。


 そうした曖昧さはこの場合措く。

私が強調しておきたいのは「『晩年』収録作に選ばれる基準の一つにラスト一文のウマさ、キレ味」があったに違いないという一点だ。


「書き終わり」の一文やオチとは反対に、太宰治のへのこだわりはよく指摘される。

「大事なのは最初ではなく終わりだろう!」と言いたくなるが太宰治を褒める人は皆「書き出し」を褒めるのである。

この書き出し好きは『晩年』の「猿面冠者」で

――太宰治の告白は恐ろしい。何度も何度も騙された。太宰。告白。この二単語が出ると自然と警戒してしまう――

しているところだ。


「彼は頬杖ついて思案にくれた。彼は書きだしに凝るほうであった。どのような大作であっても、書きだしの一行で、もはやその作品の全部の運命が決するものだと信じていた。よい書きだしの一行ができると、彼は全部を書きおわったときと同じようにぼんやりした間抜け顔になるのであった」


 とある。純粋な読者は「太宰、やはり書き出しに凝りすぎる自覚はあったのだなあ」と感心する。

猿面冠者さるめんかんじゃ」は小説が書けない作家のお話である。

注釈によれば「猿面冠者」とは「猿のような顔をした若者。豊臣秀吉の若い頃のあだ名とも言われ、立身出世をめざす自尊心の象徴として用いられる」のだそうである。

「猿面冠者」はいわゆる「劇中劇」の構成を持っていて中間に「主人公が書いた小説」のパートが挿入される。


「猿面冠者」の主人公が書こうとした小説のストーリーはこうである。

〈少年期に一通、青年期に一通、中年期に一通と絶望の瞬間に女性からの可愛らしい「風の便り」が届く。

それに希望を得た主人公は元気に生涯を全うするのであった〉

私がヘロヘロ状態で書いているから多少間違っているところもあるかもしれぬが、本当にこんなしょうもない筋書きなのである。


 思うに「猿面冠者」とは「小説家志望青年」のを込めたイジりであり全編通してブラックジョークのギャグ小説なのである。


 この小説の主人公のように「書き出し大好き病」に罹患し貴重な時間を「書き出しの一文」をコネコネコネコネするために使っている者はいないか?

そんなコネコネコネコネはやめちまえ。

「猿面冠者」の主人公は過去の海外文学の名作を熟知しつつも熟読して血肉化するという過程を飛ばしてしまう。


「どんな小説を読ませても、はじめの二三行をはしり読みしたばかりで、もうその小説の楽屋裏を見抜いてしまったかのように、鼻で笑って巻を閉じる傲岸不遜ごうがんふそんの男」というわけである。


 無論本当にあらゆる本を「二三行をはしり読み」した片付けるのではなくてちゃんと読んだ本もあるのだ。

しかしそうした本ですらペロペロと薄っぺらな引用としてしか活かせない。

男が「もし誰かに殴られたなら、落ちついて呟つぶやく。『あなた、後悔しないように』ムイシュキン公爵の言葉である」のだそうである。

注釈によればムイシュキンはドストエフスキー『白痴』の人物なのだそうだ。


 いくらドストエフスキー『白痴』を読もうが、そして小説の創作を志そうが、やっていることがそれじゃダメダメではないか。

「コレという本を一冊絞ってじっくり分析し身に付けたらどうか」と言いたくなる。


「猿面冠者」は創作者の悪いお手本だ。

ブラックジョークとしてとても良くできている。

主人公は小説を中絶する。

しかし最後には「書かれないまま放置されるはずだった手紙」が描かれる。

これが「猿面冠者」のオチなのである。


 もう字数が八千七百を超えている。死にそうだ。眠気と薬で脳の内外がグラグラする。


 最後に私が『晩年』中で最も好む「道化の華」の話をしよう。

はやく終わらせたいから三つのポイントに絞る。


 第一のポイント。道化の華は大庭葉蔵おおばようぞうが主人公だ。

『人間失格』の主人公と同名なのである。


 第二のポイントは三人称視点の小説なのにいきなり「僕」という「作者」が乱入してくるギミックだ。

この小説を図式化すれば

「大庭葉蔵と周囲の人物(見舞いに来た飛騨、三歳年下の親戚小菅、葉蔵の兄、看護婦の真野ら)が織りなす悲喜劇」のパート、

その次に「僕」という作者が「注釈」を付け、描写の意図や演出の狙いなどを暴露する。

そして「空行」だ。

このサイクルで「道化の華」は構成されている。


「本筋パート→作者大暴れパート→(空行あけ)→本筋パート」という循環だ。

見方によっては「本筋パート」での場面ごとの〈時間・場所・視点〉の移動というやっかいな箇所を「作者の大暴れ」によって上手く構成とも言える。


 どんな小説でも「見せ場」から「見せ場」への繋ぎはとてつもなく大変なのである。


 そして第三の見どころは「道化」を通して繰り返し描かれる(あるいは「僕」の「注釈」によって演出・プロデュースされる)「自意識過剰な若者像」である。

大庭葉蔵はとんでもない見栄っ張りだ。

友達の飛騨も小菅ももちろん見栄坊である。

この三人が合わさって側を女性でも通ろうものなら大騒ぎである。

そう、この「自意識過剰」さはコメディ要素でもあるのだ。


 そのうちに大庭たちは「演じる」「道化る」「皆して即座に用意した滑稽な茶番劇を大真面目に演じて(面白くもないのに)大笑いして見せる」ことの歪みと退廃へ深くはまり込んでいく。


 それは「僕」の饒舌性も同様だ。

小説において「僕」が自作について何か書くたびに「そういう演出」になってしまう。

自分の作家としての不甲斐なさを嘆く「自嘲」ですらも一つの芸になってしまう。


 すると「自己言及のパラドックス」に似た状況が起きてくる。

ここに「俺が言うことは全て嘘だぜ」と言う男がいたとする。

しかし「俺が言うことは嘘」という発言は本当なのだろうか?

もし本当に「俺が言うことは嘘」なら。「俺が嘘を言うのも嘘」ということになる。

つまり「俺は嘘を言うという嘘」を言っている以上、この男は完全なる嘘つきとは言い難いのである。


 これと似た「自嘲のパラドックス」が始まる。

「俺はなんて馬鹿なんだ。面白いなあ」

という場合、「一段高い視点で俺を笑っている『俺』は誰なんだ」という問題が浮上する。

つまり「完全な自嘲」をするためには「俺を笑う俺を笑う俺を笑う……」という方式で、より高度な視点に立った「自嘲」を実践するためほぼ無限に自嘲しなければならないのである。


 さて三つの論点に触れたうえでもう一つ「道化の華」の問題を提示しておく。

それは「僕」なる人物の怪しさだ。

まさか「僕」がそのまま太宰治なわけはないだろう。


「ナマの、生物としての津島修治さん(太宰治の本名)」→

「物語を構築する主体、語り手としてのされ」→

「焦点化される人物(主人公。場合によっては場所や時間が焦点化される)」→

「物語において仮定され都合よく誘導される」→

「肉体を持って存在しているような

といった図式が作れる。

この図式はヘロヘロの俺が適当にでっち上げたものだから誰か訂正してくれ。

多分ロラン・バルトやジェラール・ジュネットあたりがこうしたこうした「読者論」「作者論」に詳しい。


 つまり大庭葉蔵は太宰治

海辺での服毒自殺を入水に変更したのもそうだが、それ以上に「僕」はらしい感性をもって「道化の華」を小説化している。


 そもそも「僕」が出しゃばらないパートは「普通の三人称視点による叙述」だと思いこんでしまうが「道化の華」においてはあらゆる「地の文」が「僕」によって書かれている。

だから「僕」の手がかかっていないのはセリフとほんのシンプルな動作の記述のみということになるのだ。


 こうした「視点」と「作者」の謎を解かない限り、我々は太宰治の嘘や道化に幻惑されてしまうだろう。


 最後に書きのこしたが『晩年』はおおむね成立順に書かれている。

すると未完結の「玩具」をはじめとして本書後半の作品群が明らかに破綻しつつあることに気がつくだろう。


「逆行」「ロマネスク」「陰火」の三篇はオムニバス形式である。全部読んでも短いのに短編がさらに区切られてしまっていて、非常に短い物語を複数読まされることになる。

最後に主人公たちが合流する「ロマネスク」は連作小説の趣きがあるものの「逆行」はパートごとの共通性が「ナルシズム」「無頼」くらいしかなく繋がりが貧弱である。


 どうやら『晩年』は自壊する作品群だったようである。

その破綻がどこにあったのかはわからない。

重要なのは『晩年』の最後に作品群が見せる「散文詩」に似た無頼エピソードの乱発がボードレール『巴里の憂鬱』にも似た一定の美学を見せている事である。


 そしてもう一つ重要なのは太宰治がその長い(実際には短いが)作家生涯にかけて『晩年』後半の破綻をいかに「回避」しあるいは「乗り越え」あるいは「無かったことにしてゴマカシ」てきたかというその作家的で伝記的なの物語ではないか。


 

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