三者邂逅


 珈琲は冷めてしまった。ホームルームのチャイムがなるまであと数分というところである。峯撫は、虹口があいもかわらず机上の春眠を貪っているのを、肘で小突いて起こしてやる。そうして教室を出て、彼女のクラスへと戻っていった。


 虹口は顔をあげず、ただヒラヒラと片手を上げて応えた。彼のために持ってこられた珈琲はそのまま机の上にあり、冷えてしまっていた。

 ただそのあとのホームルームで、挨拶をするためクラス一同が立ちあがって礼をすると、座るついでに虹口はコーヒーの紙コップをイッキしてしまった。冷えていたから容易かった。これがないと目覚める感じがしないのだった。あとこのとおり、彼がコーヒーの味に拘るくせに、飲み方が杜撰であるのはもはやそういう性分でさえある。


 彼のクラス担任である数学教師シューリマン(そういう渾名である。)が、いつもどおりクラスの遅刻が多いのに苦言しつつ出欠を取る。

 虹口の番まではしばらくある。そのあいだ、どうにも手持ち無沙汰になるのを、コーヒーが効くような効かないようなイマイチな感じで、ぼうっとしながら待つ。あるいは壁際の席である虹口は、そのすぐ横にある壁へと寄りかかって寝かけてさえいた。


 転入生──こんな言葉が、教室のざわめきから聞き取れてくる。虹口は睡魔に負けながら、この教室に『転入生』ナンテ居ただろうかと考える。はたまたコンナ時期に転入生だって?──そう疑念する。

 いや珍しいことではない。強いて言うなら、虹口のいるこの高校自体がめずらしい部類に入る。すると此処では珍しいことが当たり前のように起きたりする。

 それだけのことだ。虹口は思念するのが面倒くさくなったので、ここでやめた。

 担任が呼んだ。「虹口ー」

「……あい」虹口は手を高く上げ、こうべは深々と突っ伏して、応答した。

「天原がフラレたってよ」

 虹口は寝た。もう起きている義理はなかった。ただまわりの駄弁りがうるさかった。


「エッツうっそ、だれに? まじでフッたの?? ふられたんじゃないの?」

「いや、らしいよ!? オレも噂きいただけ。でもあんの天原さんフッたって、なに考えてんだろーね」

「誰、だれがフッたん? つーかナニ告白されたってこたあ告白したん、天原が──あの天原が?」

「でしょーよ。いや、マジナニ考えてんだろうねフッた男のほう。ヤバいんじゃね?」


 青春とは女衒師である、と。これが売り出す美麗さ、その色香にあてられ、いいようにされる少年どものなんと多いことか!──なんて。


 にやにや・・・・としながら、尾崎おざき大空まさたかはそう思っているのだった。

 すくなくとも恋愛沙汰というやつに、無闇矢鱈と若いころのエナジーを費やしてしまう奴がなんと多いことか。力強い疾風怒濤な、限りあるうら若き時代を恋愛というブラックボックス、ブラックホールへと希望の光明ごとぶち込むのだから、豪胆としか言いようがない。


 あるいは考えなし、とでも言おうか。取り戻しようのない時分をつぎこんで、浪費するのだから。若いというのがどれほどの価値があるのか分かっているのだろうか。尾崎は不思議におもう。

 そもそも「若い」とはどういう事なのか、当の若者である彼らはつきつめて考えたこと──それさえあるのか、これをも疑わしい。

 湯水のように自分の血潮が湧き出てくると、使いつぶせると、なんの理由もなく思っているのだろうか。そんな筈もない。人体は二割の血水をなくしてしまえば、死に至るのである。「若さ」とやらだって同じことだとは思わないのか。

 若者はその一人生の二割をすぎれば、中年になるのやも知れないのだ、と。そんな二割の時間をわざわざ十七、十八あたりの女子に費やすなんて、特攻も屁ではない果てしなき無謀だと、そうとさえ思っているのだった。だいたい十七八から二十歳あたりの処女なんて、一番面倒くさい時期の女子じゃないか。ハナから難易度エクストラのそれへと突っ込む経験値零どうていな男子はらしいっちゃらしいが、僕はなりとうないワイ。……


 ──そんなオッサンの説教くさいことを、十七の年頃になったばかりにして、素で言いつのってみせるのが、尾崎大空というこの少年だった。

 この現代、デジタル世代のインターナショナルどころか5Gな時代には、若さの泉Fountain of Youthなど、すでに伝説の沙汰になって久しいのである。いやそれにしても、尾崎に至っては高二病といってさえも、いやさか手遅れであるような気がされる。

 末期な、若者としては、その邪気な病をこじらせれていたのみならず、あまつさえには死にかけた──そういう、中年にならずにして、得てして諦観と達観をそなえてみせていた少年だった。

 ただし老成というには、その少壮活気な身体のみならず青臭くヒネた性根にしても、あるいは読書によって身につけた偏狭な人生への嗜癖にしても、──いわんや、可哀らしいものがあった。


「朝からみだらふしだらの風吹きまくるお前は死ね」


 この文句とともに、尾崎のもとへと肥後守が入った白封筒がおくられたのは、いまより二三日ほどまえである。

 日池驥太郎はこれを聞いて、尾崎というこの同級生はなかなかの大物、さりとて奈落じみた馬鹿のどっちかだと、そう思った。尾崎はこの肥後守いう折りたたみ式な、鉄でできた小刀をどうともせずに使い、そうしてこの二日ほどでさえ使いこなし始めてさえいたのである。


 彼にいわせれば、この肥後守のことは彼も以前より知り得てはいた。しかし買う気まではおきなかった。もとより彼は、BlackWingのワン・ステップ・シャープナーをもっていた。だからこの小刀、高度経済成長期あたりのひと昔前な世代のこどもらが、木っ葉や鉛筆を削りだのして使っていた、この工作用のナイフについては買わずじまいでいたのだった。それに彼のシャープナー、つまるところ鉛筆削りのそれは、父のものを使わせてもらっている愛着あるものであったというのも、これに相まっていたという。……


 そこじゃないだろう。もっとあるだろ。言うべきことがよ。こういうときにふさわしい常識ある言葉を述べよ。

 日池は、こう、なんだコイツ、と『被害者』の超然っぷりに慄きさえした。だがまあしかし、それはそれで気になるので、日池はそのシャープナーとかいうのを借りてみた。

 図書室で、尾崎の座っていた隣に陣取り、尾崎のシャープナーで、日池は自前の消しゴム付きな青色の軸をしたステッドラーの鉛筆を削る。

 そうして片手間に、となりで勉強していた尾崎へとはなしかけた。


「その手紙、『みだらふしだらの風』は言いたいことはわかる。僕もお前さんも、高校生男子だからな」

「ああ」

「しかし……『朝から』?」


 マジで? 朝からやってんの? てかお前さん童貞じゃないの? 誰とやったん? どうそこまで行ったん? 教えて。──これら総てを自重して、日池はただ目で尾崎をうながした。


「うん、朝だった。だが、告白されただけだ。みだらでは、ない……だろう。」


 そうも尾崎は述べた。

 やってないんかい使えんね。日池の興味はさっそう風前の灯火に化した。もとの期待が高かったせいでもある。もちろんいきなりな話で、冷静さをやや失っただけに過ぎないのだ。彼はそう内心で断じた。事実である。弁明ではない。

 そうして、ふと見渡してみると図書室は昼休みであっても、その時間割りではありえないほど、人気のない静けさをたたえていた。いるのは尾崎と日池、そうして本を貸借するカウンターのむこうの司書や、当番な図書委員ぐらいである。だから本を閲覧するための席はまったくガラリとして、空きほうだいだった。


「んだ、今日なんかあったっけ?」

「決裁」


 決闘裁判のことである。

 尾崎はこれを淡々と答えた。


「忘れてたし、それで当然のやつじゃんか」


 日池は了解した。なぜ尾崎がそれを見に行かなかったかも理解した。彼はそういうやつだった。

 決裁、決闘裁判の価値を、その実行や結果にかかわらず存在からして認めていなかった。

 この高校──信教大学校付属高等法科学校、俗に信学高校といわれるここ──での「決闘」たる風習は尾崎大空、かれにとっては、いわば野蛮人の邪祭なのだった。


「いいんか尾崎、お前さんイガクブ志望だろ。そうと聞いたんやが? 血とか見にいかなくていいんかね」

「不謹慎だ」


 尾崎はこう切ってすてた。

 彼にしてみれば大した話ではない。行かなくて済むのなら行かないほうがいいというのが、当然の話であり、そっけなく言いきるぐらいにせん無きことなのだ。それに彼は『決裁』にかかわっていい思いをしたことがなかった。


 しかし事実として、こうした彼のせいでいわんや、フラれてから本物となった恋があった、と。そうとでもいえばいいのかもしれない。

 だいたい天原無二、この少女が尾崎大空という少年を見出したのが『決裁』にまつわる出来事によるものだった。彼女が尾崎を見初めたのも、やはり『決裁』によるところだった。これは常人ならばまちがいなく喜ばしいとするところであったはずである。

 しかし尾崎は彼女を拒んだのである。面倒を増やしたくないという、ただならない理由によってである。

 だがなんと、この尾崎のフり方というのは、ますます相手の女子をその気にさせた──間違いなく彼のことを、ますます気に入らせたらしい。

 うまいことやったもんで! いやや、そうやられてそうなるほうだって、えらいこっちゃってもんだ──日池は、惚れられたほうのやつも大概だが、惚れるほうもスゲえ、と、素直に驚嘆した。

 しかしそれで男のほうへと刃物を送りつけられるとまでなると、恋の晴れた惚れたが大火傷にまでなるかもしれない。


 日池はともかく、誰に恨まれたものか見当がつくのか、これを尾崎から聞きだそうと試みた。

 彼は糾問部の部員であったからだ。


 ──糾問部。風紀委員会の、その部活動バージョンとでもいえばいい代物である。しかし本当のところは、もう少しお騒がせな部活であった。なにせ学校の中での諍いやらなんやらを、部活という大義を振りかざして己の首を突っ込み、解決しようという連中のあつまりなのだから。

 こんな奴らがどういうはた迷惑さをしているのかというのなら、たとえば今日のこの昼に行われる『決裁』──決闘裁判だって、此奴らがしゃしゃり出てくる悪癖のせいで催されることになったといっても過言ではない。

 このような連中のうちで、このたび『決裁』の告訴人になった所謂虐められた側の生徒らを焚き付けたのは、言うまでもなく『糾問部』のうちで「熱意のある」奴らだった。


 貴方たちを悪虐した非道の輩を、このままノコノコ五体満足に生き永らえさせていいのか、誅さなくてよいのか!? 彼らは虐められっ子なる者にこう言い、そうして続けてこう画してみせた。

 『決闘裁判』では告訴された被告人は当人みずからが現れなくてはならない。けれども告訴人は代理の者を寄越すことができる。もちろん『決闘』に至っても代理人への委託は有効だ。ならばこの『糾問部』の部員である我々が、貴方の代行者として『決闘』してもいい。なにも気にすることはない。我々としても臨むところだ。……


 この提案に虐められた側がのったことで、そのとおり、糾問部の部員がこの決闘裁判においての代行者となることで、今日の『決裁』は行われようとしていた。

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