ファム・ファタル

鍋谷葵

ファム・ファタル

 辻の日陰に生える卯木うつぎでさえ、二ヵ月の旱魃と酷暑には耐え切れず、青々とした葉を落とし、枝の他、幹も朽ちさせていた。

 

 二条大路の築地の下に累々と重ねられた屍の腐臭は都に充満しており、この辻もまた例外ではなかった。かのような不快な日陰で懶惰らんだする放免何某は、色褪せて退紅色となった綾羅りょうらの袖で額の汗を拭いながら、痩躯に反してずっしりと蓄えられた顎髭を摩っていた。


 大路に転がる骸の瘴気のたまった腹部が降り注ぐ陽によって破裂したのか、一層強烈な嘔吐を覚える厭わしい臭気が辻に入り込んだ。ただ腐臭の中にあっても彼は自己の将来に対する不安を前に黙し、身動ぎ一つしなかった。この臭気さえ忘れさせる彼の不安というのは、非人の身分を背負ったまま、検非違使の僕として生きることに対する不安である。もちろん、いままで通りの律令が都に敷かれていれば、彼は放免を受け入れていただろう。


 しかし、地震、大火、疫病、野分、戦乱の災禍に見舞われ、盗人が都に跋扈するようになった王朝末期の頽廃の中、制度は形骸化した。この経帷子を着た律令に従う理由を見いだせず、彼はいつしか蔑まれる身分に甘んじているのであれば盗人に身を落とした方がよいのではないかと考えるようになった。


 罪業の道に身を再び落とすべきだろうかと考える彼は、懊悩の苛立ちを紛らわせるため、足元の卯木を蹴った。枯木はぽきりと折れ、軽くなった幹はからからと地面に転がり、正面の家の狭い間口で落ち着いた。


 転がる枯木を目で追っていた放免はその目のままあばら家を捉えた。戸は打ち壊され、土壁が崩れ落ち、そのために空いた細々とした孔から、大路に降り注ぐ陽が差し込んでいた。眩いばかりの白い光は、織物の文様のような蜘蛛の巣を銀糸の如く暗がりに示していた。


 彼の見たところによると人気のない空き家であった。かつての彼であれば(というのも、彼は盗人として獄に入れられたのである)家に人が居ようが居まいが、躊躇いなく押し入り、略奪の限りを尽くしただろう。だが、現在の彼は万が一の打首を恐れ、狭い間口に転がる枯木を見つめるのみであった。


 過去と現在という撞着の中、彼は再び顎髭に手を伸ばし、髭を一つまみしてねじって放し、一つまみしてねじっては放しと、他愛のない遊びに興じた。彼はいたずらに時間を過ごし、横着する決断を天啓に任せようとしたしたのだ。もっとも、彼は仏典の内容を幾らか知っており、自身が地獄道に落ちる運命あると悟っていた。


 時間を無為する彼であったが、ふと桎梏しっこくの冷たさに似た何かが藁草履を履いた足の上を這いずるのに気が付いた。彼は小心翼々と足元に視線を寄越し、ぬらぬらとした鱗を称える片目のつぶれた青大将を見出した。彼はわっと驚き、蛇を目の前の空き家へと蹴飛ばした。蛇は宙をくるりと舞いながら、打ち捨てられた暗がりへと消えていった。


 心臓の高鳴る音を聞きながら、彼は胸をなでおろした。彼は烏帽子を直し、足に残る嫌な冷たさの中、再び顎髭に手を伸ばした。ただその瞬間に小さな悲鳴が彼の目の前の空き家から彼の耳に届いた。


 放免にとって悲鳴は馴染みであった。盗人であった頃、都の頽廃がいまほどひどくなかった頃、つまり彼が仕事に従事していた間、彼はかの音声を常に聞いてたのである。したがって、彼は突如として聞こえる声に肩をびくりと震わせることがあっても、全身を粟立たせたりはしなかった。


 彼は家屋から聞こえた悲鳴を手弱女の悲鳴と断定した。経験から来る推察とその結果は、彼の暗澹あんたんとした未来をぎらりと照らし、横着していた進路に新たな道を一つ与えた。それは迷信に依った荒唐無稽極まる立身出世の道、すなわち手弱女を彼女の意志関係なく水神の巫女として捧げる道である。この焦熱地獄の朱殷しゅあんと獄卒の怒号が響く道を彼は唯一の活路として選んだのだ。


 穢れた道を選んだ放免は、恍惚とした微笑を浮かべ、髭から手を離し、鮫皮柄に手をかけながら家へと足を踏み入れた。そして、薄暗い家屋に入るや否や彼は鞘を抜き、眼前の蜘蛛の巣を刃で払った。


 あばら家は狭く汚れていた。黒ずんだ木床には埃が薄っすらと積もっており、くりやの竈には蜘蛛が住み着いていた。調度品の大半も叩き壊され、原形を留めておらず、満足な形を保っているのは漆が所々剥げた衣紋掛けだけであった。衣紋掛けは壁の孔から差し込む白んだ陽に照らされ、暗がりの中で漆黒を称えていた。そして、その下には蘇芳すおう小袿こうちぎが一着、惨めな一室を彩るように落ちていた。


 地べたに落ちる小袿を放免は訝しんだ。小袿は寝殿暮らしの女が纏う服であり、辻に住まうような人が纏う服ではない。その上、蘇芳の着物などは略奪されないわけがない代物なのである。彼は戸外で獲得した勇気に一部の陰りを抱き、面妖な連中に騙されているのかもしれないと恐れを抱いた。ただ彼は歩むのをやめず、忍び足で一歩一歩近づいた。一歩、また一歩と近くほどに彼は衣紋掛けと蘇芳の小袿に埃が被っていないと気付いた。同時に小袿の下で何者かが震えていることも見て取れた。闖入ちんにゅう前の推察に従えば、小袿の下で震えているのは手弱女で間違いなかった。だが、彼生来の臆病さは、経験則に応じた推察を小袿の動物的痙攣の中に放ってしまった。


 刀を震わせる彼は、彼の歩む道を象徴する恍惚とした微笑も忘れ、歩みさえも震わせた。彼は奥歯を打ち鳴らしながら、右腕に青筋を浮かべさせながら刀を把持し、左手を小袿に掛けた。そして、一突きに殺してやると言わんばかりに、着物を引っ張り上げ、後方へ放った。


 舞い上がる埃とともに、はらはらと小袿が床へ向かって落ちて行った。同時に彼が蹴り飛ばした片目のつぶれた青大将が、彼の股下をするすると通り抜け、戸外へ素早く這って出て行った。ただ、彼は自身の肝を冷やした蛇に視線を配ることなく、小袿より現れた小袖を身に纏う麗人に目を奪われていた。


 濡羽色の髪を床に垂らし、脚を曲げて座る手弱女は瞠若どうじゃくし、放免を見上げた。彼女はわなわなと唇を震わせ、声にならない声をほっそりとした喉から鳴らした。


 白の薄紗の小袖と指貫さしぬき、そこから覗く健康的な肌色のふっくらとした四肢、身に沁みついている薫物の香りから、彼は彼女が貴族の者だと断定した。だが、彼は相手が貴族であったとしても切先を突きつけることを辞めなかった。


 震える切先は彼女の左目の前で止まった。放免か彼女のどちらかが少しでも動けば、彼女の目は盲となっただろう。光が奪われるかもしれないこの状況に、彼女は身体をより震わせ、極度の興奮状態へと陥った。息は上がり、体は上気し、体は汗で濡れた。薄紗の装束は彼女の艶めかしい肉体にぴたりと張り付き、しなやかで丸みを帯びた美しい肉体を彼のもとに示した。白磁の如き肌と柔らかな肉付き、微かに酸っぱい汗の臭いと混じる薫物の香り、そして荒げる息遣いと涙ぐむ双眸。切先を突きつけられ、狭い額には髪が貼り付き、たおやかなる首は玉のような汗を浮かべ、その汗は鎖骨を通って胸元に垂れ、薄紗の布はそれによって透けて行った。また、息に混じって漏れる声にならない声は霊妙で艶やかだった。


 非人になって以来に相手されなくなった女という性を、いや、捕縛される以前から自分を相手にしてくれなかった女という性を屈服させている状況は、彼の”ressentiment”を大いに刺激した。ことに紊乱の都において蓄積され続け、発散する場所を常に失い続けていた性的欲求はかの刺激によって迸った。全身を駆け巡る甘美な刺激は性を滾らせ、暴力的欲求を肉体に漲らせた。彼の海綿体には血が巡り、陽物は”erect”した。


 怒張する陽物は彼の理性を当初の目的から逸らした。彼は刀を鞘に納めると、艶めかしい音を鳴らすだろう臀部、暴れまわるだろう四肢、荒げるだろう声、赤く染まりゆくだろう肌、先端を可憐に隆起させるだろう胸、玉門から垂れるだろう蜜を想像し、想像の内で彼女を手籠めにした。彼はこの夢想に恍惚とした笑みを浮かべた。


「お前、動くでないぞ。動けば首を跳ねるぞ」


 放免は腕を組み、胴間声で彼女を脅した。彼女は自分がいたずらに動けばどうなるのかを彼の骨張った手に見出した。同時に、自身に降りかかる不幸を彼の炯々とした眼に想起した。静と動のおぞましい空想は、彼女をさらに興奮させた。そして、彼女の生理的な恐怖は彼をなおのこと喜ばせた。


 欲動を抑えきれなくなった放免は、彼女の両手首を掴んで床に押し倒した。生じた衝撃は彼女の体を弓形にのけぞらせた。彼女の小袖は乱れ、みぞおちが露わになった。乱れる黒髪、艶やかな首筋、鎖骨からみぞおちに掛けて垂れ落ちる汗、そして自分の手の内で体を震わせる女という性。彼もまた極度の興奮へと陥り、体を震わせ、汗を噴き出した。我慢ならないと言わんばかりに、彼は指貫を下ろし、怒張した陽物をさらけ出した。


「わ、わたくしめは権大納言、近衛大将何某の娘であります……」


 青筋が青大将のように這いずる放免のそれは、危うさを知らずに屋敷の外へと出てきた怯えるばかりの彼女に反抗の言葉を与えた。


「だからどうしたというのだ。お前が貴族だろうが何だろうが変わらない」


 彼女の乾坤一擲の抵抗は、興奮に囚われる放免からしてみれば他愛のない戯言でしかなかった。熱狂的な執着を性の発散に示す彼は、玉門に触れようと彼女の手首から左手を放した。


 異性による肉体の支配からの一部分的な開放は(例えそれが一部分であったとしても)、彼女に勇気を与えた。勇気は意思を活性化させ、艶めかしい肉体に反抗を宿らせた。そして、意識的な反抗はすぐさま行動として現れた。


 彼女は労苦を知らない柔い右腕を笞のように振るい、汗と脂が混じってぬらぬらと光る汚らしい彼の頬を打った。頬を弾かれた彼は衝撃に合わせ顔を天井に上げた。そして、意この一撃によって緩んだ拘束から彼女は身動ぎして逃れようと試みた。全身に力を入れ、彼から逃れようと四肢を暴れさせた。


 自由から逃れようと暴れまわる彼女であったが残念かな、寝殿で暮らし、労苦を知らない身では、痩躯の放免に勝る力は一分も無かった。陸に打ち上げられた鮒のように暴れまわる彼女は、加減を知らぬ彼の平手打ちによって鎮圧された。


「何をする!」


 頬を赤くはらし、鼻から鮮血を垂らす彼女に放免は激昂した。同時に彼女の白い頬を赤黒く汚しながら床に落ちて行く血に魅惑された。しかし、彼女の血が彼を胡乱とさせるわけではない。むしろ、彼の憤怒と情欲は混じり合い、極めて暴力的な衝動を呼び起こした。


 放免は彼女から両手を放して、立ち上がったかと思うと、彼女の両手首を踏みにじった。彼の全体重がかかるほっそりとした手首は赤くなり、赤らみが強くなるにしたがい、彼女の苦悶は強まった。頭を振り、髪を乱れさせ、顔をしわくちゃにして、涙と血を振り撒く彼女の形相は元来の美しさから切り離されていた。だが、彼は乱れる彼女の姿に反って性をそそらせた。はちきれんばかりの陽物は、その先から粘度の高い透明な汁を彼女の小袖に垂らした。


 腹部に感ずる放免の体液の温度に彼女は悪寒を覚えた。生理的な拒絶は彼女の全身を粟立たせ、肉体の反乱をより強めた。


「おとなしくしろ! さもなければ先に言った通り首を跳ねるぞ!」

「ひい……」


 しかし、乱れる髪と崩れる表情、暴れる四肢は放免の胴間声を前に沈静化し、二人の間には再び支配と被支配の関係が作られた。それは蹂躙と服属の関係であり、もはや彼女がこの関係から逃れることはできなかった。野蛮な力を前に平伏し、反抗の勇気を取り上げられた彼女は、人形の如き虚ろな目を彼に見せた。光を宿さない黒い瞳は、怒張する陽物と惨たらしい彼の微笑だけをうつしていた。


 物を言わなくなった彼女を前に、彼の性的興奮は絶頂に達した。同時に感情の混在によって発露せざるを得なくなった内なる嗜虐性の下、彼は鮫川柄の太刀を鞘から抜き、鈍い鋼に夏の陽を反射させた。


「なにをするのですか」

「なあに、心配するな」


 残虐な微笑を浮かべる放免から少しでも逃れようと、彼女は瞼を閉じた。現実では敵わないために暗がりの中へ、非現実の中へと逃避したのである。彼女は暗闇の中に貝合わせの雅な絵を想い描いた。頽廃に好奇心を向ける前、好んで貴族の娘と遊んでいた遊び道具の麗しい絵を、そして安堵の象徴であり、生臭さとは無縁の薫物の香りで満ちた北の対を想起した。彼女は虚ろな心持で過去に浸った。だが、可愛らしいそれも右目に走る激痛によって霧散した。


「どうれ、見えるか?」


 放免は彼女の薄い瞼を切先で貫き、眼球を抉ったのだ。頭の奥を槌で殴られるかのような鈍痛が絶え間なく彼女を襲い、彼女はそれに絶叫した。玲瓏な声音はいまや猿の鳴き声となり、土壁を通り抜け、屍ばかりがある通りに響き渡った。そして、尋常ならざる力で四肢を暴れさせた。


 発狂寸前の痛みに理性の箍が外れた彼女の反乱であったが、それでさえも放免の力に及ばなかった。もっとも、放免は身体の平衡を失いかけたし、剥き出しの尻を蹴り飛ばしてくる彼女の足に痛みを覚えた。しかし、それは彼の支配を瓦解させるほどの力ではなかった。むしろ、彼女の絶叫と悶絶は彼の興奮を煽った。


 放免は刃を振り払って切先についた血を落とすと、指貫を切り裂き、太刀を地面に放へ放り投げ、指貫を彼女から剥ぎ取った。その上で彼女の両手首を床に押し付け、彼女へと自身の顔を近づけた。暴れまわる彼女の右目から、鼻から飛び散る血が彼の顔を汚し、口の中で鉄臭さを広げた。ただ、彼の興奮は彼女の血を甘美な雫へと変え、彼の脳を痙攣させた。


 正常の判断を失い、暴力による征服を完遂させようと放免は躍起になった。暴れる彼女の脚を自身の脚で抑え付け、左手を彼女の手首から離し、薄らと黄ばんだ白い褌で隠された玉門へと無我夢中に手を伸ばした。


「なっ、お前」


 彼女の玉門を褌越しに触れた放免は、すぐさま手を放した。不得要領の事態に際し、彼の手は震え、声からは覇気が失われた。


「お前は、男であるか」


 自らの性的興奮を弄ばれていたと感じた放免は、彼女に胴間声で訊ねた。いや、それは訊ねたというよりも、自らの興奮を無理やりにでも正当な興奮であると自分に言い聞かせるための自己暗示のようであった。しかし、叫びながら血涙を流し、白磁の肌を鮮血で染める彼女は、彼の問いを満足させられなかった。


 彼の手に残るしなやかで小ぶりな陽物の感覚は、迸る性衝動の要因となった征服の観念を灰にした。薄れゆく衝動の中、彼は胸のむかつきを少しでも収めるため、鯉のように開いては閉じる彼女の口に唾を吐き捨てた。痛み悶え、両手の自由を彼に奪われる彼女は、彼の汚らしい唾を受け入れざるを得なかった。


 血の泡を吐き出す口へと吐かれた唾を彼女は反射的に飲み込んだ。理性を滅却させる暴力の下に置かれていても、嚥下はなされるらしい。喉仏のない血飛沫で汚れたしなやかな喉は、こくりと鳴って、彼の唾を飲み込んだ。そして、彼は彼女の嚥下を前に苛立ちを忘れ、白磁の肌の内側の臓腑に自身が溶け込んでゆく一体の感覚を抱き、その感覚は萎んでいた彼の陽物を再び屹立させた。


 新しい衝動の誕生は、彼の顔に残酷な笑みを浮かばせた。同時に彼女を彼女にし、自身の欲求を残酷の内に求める行為を希求した。彼は地面に放られた太刀を手に取り、切先で褌を切り裂き、彼女の陽物を露わにした。尿と汗で蒸れた彼女のそれは彼の感触通り小ぶりで、可愛らしく、毛を知らなかった。彼の眼に晒されたそれは、彼の心を震わせ、希求に対する躊躇いを有耶無耶にした。彼は彼女の手首から手を放すと、小袖の裾を切先で払いのけ、右手で彼女の竿を優しく包んだ。そして左手で把持する太刀の自身の欲望を任せた。


 大路を吹き抜ける土埃と腐臭を含んだ風が、土塀に空いた穴から入り込んだ。しかし、彼が腐敗の臭いに気付くことは無かった。彼の嗅覚を支配していたのは、血と体液の生臭さだけであった。いや、実際に彼が覚えていた臭いは何一つとしてない。彼は自らが希求した性の征服、このたった一点に自身の全てを注ぎ込んでいたのだ。


 彼は目を爛々と光らせ、口角を上げ、彼女の陽物の根元に刃をあてがった。そして、青筋浮き出る左腕を振りかぶり、一太刀で彼女のそれを刈り取った。


 *


 裁尾に熱中し、性を発散させた放免は、服装を整え終えると、行為の最中に意識を失った彼女を左肩に担ぎ、あばら家を駆けだした。血で赤黒く染まった小袖のみを纏う血まみれの彼女を担ぐ彼であったが、申の刻の大路を歩く人々の注意を引くことは無かった。頽廃によって生活のあらゆる余裕を失った彼らは、白みかかった藍青色の空の下、蹌踉と街路を行く土偶でしかなかった。したがって、彼や彼女に興味を示す者はおらず、彼は妨げの一切を受けず、中御門大路沿いの人気の絶えた辻へ入った。


 あばら家とあばら家の間を縫うように歩いた。そして、半ば屋根の崩れかかった家の前で彼は立ち止まり、目は爛々とさせたまま、乱れた陵羅と烏帽子を息とともに整えた。内面的な興奮以外を落ち着かせた彼は、朽ちかけた木戸を自身の意図せぬ力で叩いた。土壁の土は衝撃に合わせてぽろぽろと地面に落ちた。


「親分、おやすみのところ申し訳ございませぬ」

「なんだ?」


 放免に親分と呼ばれる浅黄色の水干を着た火長何某は、大儀そうに木戸を開けた。そして腰に掛けた鮫肌柄の太刀を戸にぶつけると、あくびを彼に浴びせかけた。乱れた烏帽子と、脂でてらてら光る痩せた頬に伝う涙から察するに彼は眠っていらしい。


 ただ、火長は彼の肩に担がれる彼女を認めると、瞠若として眠気を忘れた。


「お前、その女は何者だ?」


 火長は血まみれの彼女を指さしながら囁くように尋ねた。


「これは水神様の生贄でございます」


 放免は残虐な笑みを浮かべながら答えた。


「水神?」

「ええ、旱魃を解決するためにと思って、捕らえてきました。なあに、心配ありませんよ。この女、いや、この男は、女と見間違える美貌で男を騙し続けてきた邪鬼なのですから」

「男? この女は男なのか?」


 火長は当惑を示し、眉間に皴を寄せた。


「ええ、男であります。ですが、もはや男としての機能は失っております」

「……なるほど」


 火長は血の中で安らかに息を立てる彼女を恍惚と見つめた。そして薄っすらと髭が広がる自身の顎を摩り、目を爛々とさせて微笑を浮かべた。


「なるほど、わかった。じゃあ俺が預かろう。預かって、刑部省を通し、神祇官何某に渡そう」


 顎から手を放した火長は両腕を放免へと伸ばした。


「ええ、お願いします。それまでの間はどう扱ってもらっても構いませんから……」


 放免は火長の両腕に彼女を任せた。そして、火長は彼女を左肩へと担ぎ直すと、右手を太刀の柄のあてがいながら、あばら家へと帰り、木戸をぴしゃりと閉じた。


 放免の脳裏には、性を征服した一刻前の光景がありありと浮かんでいた。そして、征服と円満なる性の成就に残酷な笑みを浮かべ、彼はゆったりと大路へ向かって歩き出した。

 

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ファム・ファタル 鍋谷葵 @dondon8989

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