第3話

かれこれ五分は歩いているだろうが全く奥に行きつく気配はない。永遠と続くこの通路は何とも表しづらい不快感で僕を侵食する。

無心で足を進めても見えるのは白い壁と永遠と続く通路のみ。

「やぁ!こっちにおいでよ。」

遂に幻聴でも聞こえたのかと思ったが、どうやらその声は現実らしい。いや、正確には『僕が今いる世界での現実』と表現するのが正しいのかもしれない。

「よく来たね。」

白衣を着た男がいつの間にか奥には立っていた。その男は僕に優しく微笑みかけている。長い通路を歩いてきた僕への労いなのかはたまたその裏には何か思惑があるのかは分からない。

「どうも。」

軽く返事をした僕をその男は笑った。

「君はえらく落ち着いてるね。慣れてる?」

「そんな訳ないですよ。」

この環境と空間がもたらす独特な空気に息苦しささえも感じる。謎が謎を構成するこの環境ではあの微笑みも疑わずには居られなかった。

「来て早々申し訳ないけど、始めようか。こっちの部屋に来てくれるかい?」

恐る恐る足を踏み入れると奇妙な空間が広がっていた。

相変わらずの白と所狭しと棚に並べられた色とりどりの瓶、そして中央に置かれた木の椅子。

「そこに座って。大丈夫だよ、死にはしないから。」

少し広めの部屋に佇む木の椅子はあまりにも異質だった。

「…はい。」

普段は温かさを持つはずの木は酷く冷たく感じられる。

鼻歌交じりに薬品を調合しているらしい彼は酷く楽しげにみえる。

「…本当に死なないんですよね?」

僕は男の後ろ姿に問いかけた。

「怖いの?他の子よりかは落ち着いてたから生存意欲無いのかと思っていたよ。」

意外だったらしい僕の発言に男は笑い交じりに問い返してきた。

「機械でもありませんし、こんな所で死にたくないだけですよ。」

「へぇ、そう聞くと殺したくなっちゃうなぁ。」

熱い吐息のこもったその声に背筋が凍りそうになる。何度考え直しても、その表情から感じ取れるのは脅しや恫喝の類ではない「殺しを楽しんでいる」という表現以外の何物でもなかった。

「じゃあ、少しだけ我慢してね。」

あっけらかんとしていた僕に彼は躊躇なく注射針を刺した。針の僅かな腕の痛みが去ったと思えば、気味の悪い感覚が身体中を駆け巡った。

「…何を?」

「教えな~い。」

彼は呑気に瓶の片づけをしている。

「もう向こうに戻っても良いんですか?」

こんな脳内処理の追い付かない異常空間からいち早く逃げ出したい一心でそう口に出した。それが彼にとってどんな影響を与えるかなんて考えもせずに。

「地味だなぁって思ってたけど、案外余裕は無いんだ?」

微笑みながらもこちらを見つめる瞳に僕は言葉を失ってしまった。白いはずのこの部屋はいつの間にか黒いペンキで塗られてしまったようだ。

「君、顔に出さないよね。面白くないなぁ…。」

その言葉の後、再び腕に小さな痛みを感じると、またあの白い部屋が目に入った。

「もういいよ。これで終わり。」

気味の悪い感覚も消えていた。

「はい。」

僕はとにかくこの状況から逃れる為に足を進めた。しかし、いくら進んでも元の広い部屋が見えてくる気配すらない。頭の中には異常を告げる心臓の鼓動と自分の足音だけが空しく響いている。

「…早く…。」

抑えきれず出た言葉も虚空へと消えた。

「ここ複雑だから戻れないでしょ。」

少し後ろから聞こえる彼の声はどこか懐かしさを覚えつつも、それが先程の男であると気付くのに暫く時間がかかった。

「どうしたの?しんどい?」

「あぁ…いえ。」

何故か自分の知らぬ懐かしさを彼に感じるのだろうか、それも会った記憶もない彼に。

「真っ直ぐ歩いて行って、たまに立ち止まってごらん。原理は説明出来ないというか、無いんだけど、多分ここだって感じる場所があるからさ。落ち着いて帰りな。」

頭を撫でる彼の手の温もりと起源不明の懐かしさのせいなのか、安心してしまっている自分に心底うんざりする。

「どうも。あと、やめてください。」

彼の手を振り払った僕に、彼は分かりやすく不満を顔に表した。

「つれないなぁ。ま、いいや。またね、星夜君。」

”またね”その一言にここまで嬉しさを感じられないのは人生で初めてかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とある”少年”の備忘録 睡蓮 @suiren0723

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ