ダイラタンシーな彼女

八影 霞

ダイラタンシーな彼女

その街の暴行事件の大半といったら、紛れもなくその男の仕業だと言って差し支えないだろう。男は時折、自らの感情を抑えることができなくなり、その度に近くの人間に怒りのままに力をふるった。指導を二十回、拘置を八回、刑務所に入ったのはこの間で三度目だった。街ではそんな彼のことを『ムルソーの再来』と揶揄したりする者もいた。

まるで精神異常者のような話だが、普段の彼はいたって正常だった。それどころか、そこらの一般人より他人思いの優しい男だった。溜め込んだ怒りの暴発さえなければ、男は誰からも好意を向けられる『愛すべき人間』になれていたことだろう。  だが、世間は男の悪い部分だけを見て、男に悪人の烙印を押した。

男が二十歳になる頃には、男の周りには『嫌われているやつにも分け隔てなく接する自分はできた人間だ』という自己目的のために近づく人間を除いては、誰もいなくなってしまっていた。

長い入獄期間を終えると、男のもとに大学の知り合いからの連絡がやってきた。内容は「今度の休日に会えないか? お前に紹介したい人がいる」というものだった。もちろん、この知り合いというのも、男と一緒にいることで自分の評価を上げようとたくらんでいる連中のひとりだった。だから、男には誘いに乗る必要はまったくといっていいほどなかったのだが、どういうわけか男はその誘いに対してイエスと返した。なにが男にそのような行動をさせたのか。まあ、今となってみるとそれが男の行く先を決めてしまう分岐点になったことは明白だが、この時点で男がそれを知るよしもないわけで、それはただ単純に暇が高じただけだったに違いない。


 呼び出されたのは繁華街の少人数経営のバーだった。夜の街はそこかしこが汚れていて、できることなら今すぐにでも引き返したいくらいだった。

 ひどく錆びれたドアノブを捻り、店のドアを開けると、店内の客がなにやら怪訝な表情でひそひそと会話をし始めた。おそらく僕の登場について困惑を共有しているのだろう。それもそのはずだ。僕はこの街では赤子でも知っている前科者だ。そのことを知らないのは遠くの街からやってきてこの街に流れ着いた外部の人間くらいだ。とはいえ、そいつも街に足を踏み入れたら何よりもはじめに僕のことを教えられるだろう。「聞いてくださいよ。うちの街にはこんな凶悪犯がいるんですよ」って具合に。

 しばらくその場に立ち尽くしていると、奥のテーブルから彼が僕を手招きしてきた。彼の右手にはウイスキーの入ったグラスが握られていた。人を呼びつけておいて先に酒をたしなむとは、随分と節度の整った人間じゃないか、と思った。

「遅かったな。俺はこれで二杯目。彼女なんてこれでもう四杯目だぜ」

彼の言う通り、彼の向かいに座る女性は手元にジョッキを四つほど抱えていた。それほど待たせた覚えはなかったので、二人ともとんだ酒飲みというわけか、と呆れた。

彼の隣に腰を下ろすと、彼が僕の肩に手を置き言った。

「彼女は同じサークルの後輩だ」

「まさか紹介したいってのは、女の子のことだったのか?」

「ああ、もちろんだとも。お前もその気で誘いに乗ったんじゃないのか?」

いいや、と僕は首を振った。

「てっきり、腕のいい弁護士でも紹介されるのかとばかり思っていた」

僕がそう言うと、彼は腹を抱えて笑い、僕のことを小突いてきた。人聞きが悪いな、と。

「俺は単純にお前にもそろそろ彼女が必要なんじゃないか、と思っただけだ。自分を慕ってくれる存在がいるっていうのは、思ったよりもいいもんだぜ」

僕は肩を落とした。

「まずは話してみな。そうしないことにはなにも始まらない」

 僕は気乗りしなかったが、彼に流されるがまま軽い自己紹介を行った。彼女はこくりこくり、と頷きながら興味深そうに僕の話を聞いてくれた。第一印象はとんでもない酒豪という感じだったが、どうやら、おしとやかな性格のようだ。僕の彼女に対する印象が少し変わった。

 だがしかし、その印象はすぐに予想外の方向へ針を狂わせた。

 僕が話し終わると、次に彼女が自己紹介をする番になった。彼女が固く結ばれたその唇を開く。

 「わたし、優しくされると溶けてしまって、手荒に扱われると形をとどめられるんです」

 「なんだって?」

 思わず声が出た。そのあとで軽く咳払いをした。

 「すまない。もう一度言ってくれるか? どうもひどい聞き間違いをしたらしい」

 彼女は「はい。もちろんです」と言って僕に笑いかけた。

 「わたし、優しくされると溶けてしまって、手荒に扱われると形をとどめられるんです」

 さっきの発言と一言一句同じだった。

 僕はゆっくりと頭に手を置き、最後に病院に罹ったのはいつのことだったか思い出そうとした。

 すると彼が可笑しそうに手を叩き、僕に言った。

 「まあ、そうなるよな。俺もはじめは自分がおかしくなっちまったんだと思ったぜ。つまり彼女はダイラタンシーなんだよ」

 僕は顔を上げ、彼を見る。

 「聞いたことないか? 粉と水で起こせる、銃弾をも防ぐ強固になるっていうあれだ」

 「聞いたことくらいあるさ。だが、彼女がダイラタンシーというのはいったいどういうことだ?」

 言葉のままさ、と彼は言った。

 僕は彼女の方に目をやった。見る限りではそんな様子は一切感じられない。そこらを歩いていてもおかしくない普通の女の子だ。少し酒飲みなところを除いて。

 「なあ、からかってるんだろう?」

 僕は言った。きっとそうに違いない。彼は彼女に惹かれていて、なにか上手く落とす方法はないかと考えた結果、僕をこけにしようと思い立った。おそらく、こんな具合だろう。

 「どうしてそう思う?」

 彼が首を捻った。

 「どうしてって、こんな話、信じるやつがどこにいるんだ?」

 僕がそう言うと、彼はやけに静かに頷いた。たしかにな、と。

 「もういいか? まったく暇ってわけじゃないんだ。そういう冗談に付き合うための時間は持ち合わせていない」

 僕が席を立つと、彼は「いいじゃないか。もう少しゆっくりしていけよ」と僕の腕を掴んできた。

 「しつこいな」

 僕は彼の手を振り払う。思ったよりも力が入ってしまい、彼の腕はテーブルの角に勢いよくぶつかった。どうやらその音は静かな店内に響いたようで、他の客が僕を見て騒ぎ始めた。「ほらあの人、また力にもの言わせてる」「犯罪者ってのは何回捕まっても懲りねえな」「噂通り恐ろしいやつだ」と。

 聞こえないように言ったつもりかもしれなかったが、僕には客の声がすべてしっかりと届いていた。またやってしまった、と思った。

 すまない。

 その一言が出てこなかった。

僕はどうしようもない愚か者だ。ただその一言が、どうして言えないのか。

僕はその場を逃げるように去った。

嫌らしい客の視線を掻い潜りながら、震える手でドアを開ける。

ふと後ろを振り返ると、彼女だけがたったひとり心配そうな目で僕を見つめていた。

 

路地裏の換気扇に腰かけ、僕は深くため息を吐いた。

不覚だった。あんなことを言って出てきたのにもかかわらず、席に携帯を置いてきてしまったみたいだ。すぐに取りに戻るわけにもいかない。仕方がないが、彼が店を出るのを待つしかない。

 三十分くらいたっただろうか。誰かが店から出てくる気配がした。僕は店の方を覗き、それが彼であることを確認してから店の入り口に向かった。なにもかも順調に思えた。だがしかし、ある重要な存在が僕の意識から抜けてしまっていた。

 「忘れものですか?」

 目の前には彼女の姿があった。彼が出てきたのだから、一緒にいた彼女が出てくるのは当然のことだが、目的にとらわれ過ぎた僕はそれを見落としてしまっていたみたいだった。

 「ああ、携帯を置いてきたみたいなんだ」

 彼女はハンドバックに手を入れてごそごそ、と漁り出した。

 「もしかして、これですか?」

 彼女の手には確かに僕の携帯が握られていた。

 「そうだ。助かったよ」

 「だめです」

 僕が手を伸ばすと、彼女は携帯をハンドバックに戻した。僕が呆気に取られていると、彼女が僕の手を取って言った。

 「そう簡単には返しませんよ。少しお話ししましょう。返すのはその後です」



 歩いて行く中で、僕は彼女に店内でのことを説明した。すると、彼女は「気持ちは分かりますよ」と頷いた。

 「自分の恋人は自分で決めた人がいいです」

 「そうだろう?」

 僕は嬉しくなって彼女の方を見た。

 「でも、彼のいうこともよくわかります」

 「あいつのいうことが分かるって?」

 「はい。だっていくら自分の理想があったとしても、その人と出会う可能性はかなり低いです。ですから、今日みたいに人の紹介で付き合ってみるというのは、効率的です」

 効率的。人との付き合いに効率もなにもあるかよ、と思った。

 僕は少し嫌な顔をした。彼女がそれに気づいて、この話をやめてくれるように。しかしながら、彼女はかまわず話し続けた。

 「考えてみてください。人が人と出会う確率は四十万分の一です。その中で自分が理想とする人に会おうとすると、確率はさらに低くなります。要するに、自分の理想の人と巡り合えて、加えてお付き合いできる確率というと、雲をつかむ確率なんて比ではないということです」

 「わかってないな」

 僕は言葉をこぼした。

 「いいえ、わかっていながら見ないふりをしているのですよ、みんな」

 「そのみんなに、僕も入っているのか?」

 「当然ですよ」

 ふざけないでくれよ。僕は心の中で言った。

 何も考えていない連中と同じにしないでくれ。僕は僕で考えているんだ。考えた結果、ここにいるんだ。それを考えるフィールドに立っても居ない奴らと同胞と見なさないでくれ。

 「あなたはその中でも酷いです」

 聞き間違えかと思った。いや、聞き逃したことにしてしまいたかった。

 だから、僕は聞こえていない風に装い、彼女に前言撤回を促した。

 だというのに、彼女は何食わぬ顔でもう一度同じ言葉を繰り返した。

 「ですから、あなたはその中でも酷い方だと言っているのです」

 だめだった。

 そこで彼女が撤回をしていたら、僕はまだ我慢ができていただろう。だが、二度目のその言葉を聞いた僕は、もう自分で自分を制御することができなくなってしまっていた。

 「どうして、昨日今日に出会った人間にそんなことをいわれなきゃいけないんだ?」

 僕は彼女に罵声を浴びせる。もう、とまらなかった。感情をコントロールする装置がすっかり故障してしまっていた。

 「なにがわかるんだ? 僕の何がわかる? 少し話して、一緒に歩いて、たったそれだけで、外側からしか僕を見てない人間に、いったい何がわかるっていうんだ?」

 彼女は表情を変えず、僕を見ていた。

 その光景が僕の言動をさらに酷いものに変えた。

 あろうことか、僕は彼女に向かって手を出そうとしていたのだ。視界の隅に自分の右手が入り込んでくる。もう止めることはできない。自分が自分でないみたいだった。まるで誰かに、殺人鬼にでも体を乗っ取られたように、僕の右手は彼女へと降りかかっていった。

 右手に衝撃が走る。あまりに勢いをつけすぎたせいか、手の甲全体に、とんでもない痛みが広がった。勢いあまって、そのまま地面に崩れ落ちる。僕は痛む右手を押さえながら、乱れた呼吸を整えることに集中した。

 しばらくして、元の自分に戻っていく感覚が体中に浸透した。灰汁がぬけて、浄化されていくみたいだった。この感覚だ。この感覚が僕を一番、幸せにしてくれる。心地が良い。僕は深呼吸を重ね、やっとのことで落ち着きを取り戻した。

 その時、ふと彼女の存在を思い出した。

 まずい、と思った。

 僕は彼女に手を出したのだ。思いのままに、この右手で。全身から汗が流れ出てくる。やってしまった。恐怖で震えながら、僕は顔を上げた。

 また、私欲のために他人を傷つけて……

 だがしかし、顔を上げた先にあったのは僕が想像していた彼女の姿ではなかった。

 そこには、まったくといっていいほど衝動前と変わらない、直立不動で僕を見つめる彼女の姿があった。

 「驚きました?」

 何が起こっているのか分からなかった。

 僕は今ここで、彼女のことをひどい目に合わせた。そのはずだ。それは取り返しがつかない。いや、彼女にあたっていなかったのか? 僕の手が。いやだが、しっかり衝撃はあった。あったはずだ。勘違いするはずがない。

 僕はいまだに何が起こっているのか理解できなかったが、自分が今なにをしなければいけないかについては充分に理解できた。

 「すまない。怪我はないか? いや、あるよな。今すぐ病院か救急車を呼ぶ」

 「大丈夫ですよ」

 「大丈夫なことがあるかよ。今、僕は君に殴りかかった。それはそんなに軽く流せるものじゃないはずだ。きっと今は麻痺しているんだ。あとから酷くなる前に、早めにことを運んだ方がいい」

 「ですから、大丈夫ですって」

 僕が救急車を呼ぼうと携帯を取り出すと、彼女はその手を奪い取り自分の肩に押し付けた。

 「いったい何をやって……」

 僕は息をのんだ。なんと、彼女に掴まれた自分の手が、彼女の肩を貫通していたのだ。

 言葉が出ずに、僕は何度も自分の手と彼女の顔を行ったりきたりした。

 「さっき説明したじゃないですか。私は『強く触れると形をとどめられる』と。強くすれば強くするほど、私の体は強固になって、それはそれは痛みなんて感じるはずもありません。むしろあなたの方が痛かったはずですよ」

 「なるほど、それであんなに激痛が走ったのか。とはいえ、僕が自暴自棄になって殴ってしまったのには変わりはない。すまない。謝っても無駄だってことは分かっているが、どうも僕は自分の感情を上手くコントロールできないらしいんだ」

 「知っていますよ」

 彼女はやけに優しい声で言った。

 「そのせいであなたは、これまでに様々な人たちを傷つけてしまったのですよね?」

 どうしてそんなに知っているのか、と疑問に思ったが、情報源は明確だ。彼から聞いたに違いない。

 「ああそうだ。だからこれまで、付き合った人たちはみな離れていってしまった。おまけに恋人もできたことがない。まあ、こんな状態のやつと積極的にそういう関係になろうって思う人間がいた方が、おかしいんだがな」

 そう言って僕は自嘲した。

 「実に情けない。だから、自分の感情を掻き立たせないような、そんな人を恋人としての理想像として置いてきた。そういう人となら、自分が正常な人間で生きていけるかもしれないと思ったからだ。だが、そんな都合のいい人間なんていなかった。そして結局、僕は知り合いからも、世間からも爆発物として扱われ、誰も関わろうなんてしてこなくなった。そんな男が恋人を作ろうなんて、とんだ戯言だ」

 「わたしがなりましょう」

 「なんだって?」

 僕は思わず聞き返した。

 「ですから、私があなたの恋人になりましょうって言っているんですよ。それとも何ですか? やはり、わたしはお嫌いですか?」

 「いや、ちょっと待ってくれ。僕は今、君を傷つけた」

 彼女が「ええまあ」と頷いた。

 「そして、ひどい罵声を浴びせ、挙句の果てには手を出してしまった」

 「そうですね」と彼女は確認した。

 「それなのに、君が僕の恋人になるっていっているのか?」

 「ずっとそう言ってますよ」

 僕は頭を抱えた。

 「いったいどうして? 僕から慰謝料をたんまり搾り取ろうって魂胆か?」

 「いいえ」

 彼女は首を振った。

 「じゃあいったいなんだってんだ? 僕は君に殴りかかった。暴行だ。立派な犯罪なんだ。そんなことをされた相手を、許すどころか、恋人にするだって?」

 「あなたが私に暴行をした。『だから』なんですよ。だから、なおさら私たちは付き合うのです」

 彼女は僕の目をじっと見た。

 「いいですか? このままいけば、あなたは自分を制御できずに色んな人に暴力を振るって、そのたび人を傷つけて、そして自分を傷つけて、どうなるか分かったものじゃありません。ですが……」

 彼女が僕の手を取った。

 「私ならいくら殴られようと、蹴飛ばされようと、あなたの衝動に耐えることができます。私は『ダイラタンシー』ですから、あなたの振るう力が大きければ大きいほど、私はなんの痛みも感じません。あなたは我慢しなくていいんです。そして誰かを傷つけて、その罪悪感で自分を追い込む必要もないんです。すべて私が受け入れますから。私があなたの傍に居て、あなたの苦しみや怒り、憎しみ、抑えきれない衝動を全部受け入れてあげますから。ですから、私はあなたと恋人になりたいです。私はあなたのことを救いたいんです。だって本当はあなたは優しいのですから。ただ優しすぎて、自分のうちにため込みすぎてしまっているだけなのですから」

 「助けたいだけなら、わざわざ恋人にならなくてもいいんじゃないか? 第一、君は僕を好きなはずがない」

 だってそうだろう。いきなり殴りかかってきたやつを好きになる人間なんかいない。

 「いいえ、好きですよ」

 「今なんて言ったんだ?」

 「好きだと言ったのです。あなたのことが」

 「どうしてだ? まったくもって分からない」

 すると彼女は僕の手を優しく握った。徐々に溶け出して、液体となった彼女の手が僕の腕を包みこむ。

 「どうしてって、あなたはに他の人と同じように接してくれるじゃないですか? あなたは私を特別扱いしません。それが私の恋人に求める理想なのですよ」

 「僕はただ、人付き合いに乏しいだけだ。だから、普通の接し方もなにもないさ」

 「だとしても、私はそこに惹かれました」

 彼女は一歩も引かなかった。

 わからないな。どうしてもわからない。彼女が僕に執着する理由が。

 「そういわれても無理なものは無理だ。僕は恋人を作れない。君だって僕といることに後々後悔することになると思うな」

 「そうですか……」

 これでわかってくれただろうか。

 「それでしたら」

 「なんだ?」

 「すこしだけ一緒に暮らしてみるというのはどうですか? 合わないようでしたら、その時別々になればいいですし、なにより実際に共同生活を送ってみて、あなたも私の必要性に納得するいい機会です」

 なにをいってるんだろう、この人は。

 「そうと決まれば、今日から、この瞬間から、実行しましょう。さて私は今からあなたについていきます」

 「どうしてだ?」

 「もちろん、あなたの家に行くためです」

 「どうして家に来るんだ?」

 恐る恐る聞いてみる。

 「当然、今日から私はあなたの恋人だからです」

 お試し期間ですけどね、と彼女は付け加えた。



 それから、僕らの共同生活が始まった。基本的に家事は僕と彼女の分担で行った。僕のやる気が芳しくない時は彼女がほぼすべての家事をこなし、もちろん彼女のやる気がない時は僕が同じように代行した。僕が家事を負担するケースが極めて少なかったことは、言うまでもないだろう。それでも、彼女は嫌な顔一つせずにそれらをこなしてくれた。

 もちろん、ダイラタンシーの方も、僕は頻繁にその恩恵にあずかることになっていた。僕が時折、感情を暴発させ自分を抑えきれなくなってしまった時、彼女はいつもその処理に徹してくれた。

 「ああもう、どうしてこうなっちまうんだ」

 僕が外出から帰ってきて濡れた体で玄関に座り込むと、彼女はバスタオルを持って僕の方へ駆け寄った。

 「いったいどうしたんですか? 今日は晴れの予報でしたよね?」

 「そうだ。そのはずだ。ニュースの人間が自信過剰に断言したくらいだ。それなのに土砂降りとは…」

 彼女は僕の沈黙から、いつもの前兆を感じ取ったみたいだった。その通りだった。僕はこれからいつものように別人格に体を乗っ取られる。それは怒りの権化と言って差し支えないかもしれない。

 「いくらなんでも、ついてなさすぎやしないか? 雨は降らない、そういう話だったじゃないか。それなのに、僕が外出した途端、これだ。天気までも僕を否定する。なあ、どうしてだと思う? 僕の前世が核兵器でありでもしたのか? 納得がいかない。久しぶりの外出だったんだ。過ごしやすい気候にしてくれたっていいじゃないかよ」

 僕は衝動的に拳を振り上げた。目線の先には、花瓶などといった衝撃で割れやすいものが置かれた小棚がある。

 彼女がいち早くそれに気づき、すかさず身を挺して僕の棚の緩衝材になった。

 「落ち着いてください」

 「なんで、どうしてこうなる?」

 僕は彼女に阻まれてもなお、先にある対象物を破壊しようともがいていた。今すぐにその割れ物たちを粉々に壊してやりたかった。思う存分、叩きつけて握りつぶして、形がなくなるまで痛みつけてやりたかった。だが、彼女の存在がそれを許さなかった。

 彼女は僕の暴力を身で受けながら、「大丈夫です。あなたはなんにも悪くありません」と言った。

「あなたは不幸でもありません。ただ少し、今日は世界の機嫌が悪かっただけですよ」

自分でも詳しい理由は分からなかったが、彼女のかけてくれる言葉を聞くといつも、徐々に自分の中の異物が外に流れ出ていく心地がした。それは単に好きなだけ力を行使し、好きなだけ言いたいことを言ったからかもしれないが、彼女の存在は間違いなく僕の心を癒してくれていた。

 「すまない」

 しばらくして、正気を取り戻した僕が謝ると、彼女は「では、夕食の準備をしましょうか」と嬉しそうに微笑んだ。いつの間にか僕は、彼女相手には、きちんと自分のしでかしたことに謝罪できるくらいには成長していた。

 

夕食は彼女の手料理だった。彼女は料理が上手だった。前に「どうしてこんなに美味しい料理が作れるんだ?」と聞いたが、自分でもわかりません、と言われた。なにか天性のものがあるのかもしれない。

そんな彼女が手掛けたものだったから、これまで僕が不満をいだくことはめったになかったのだが、彼女も気が抜けていたのだろう、今日はいつものようにはいかなかった。運ばれてきた料理が視界に入るやいなや、僕の中の魔物が騒ぎ始めた。

「なあ、勘弁してくれよ」

彼女が僕の顔を凝視する。僕が何を言いたいのか、まだ理解していないらしい。その態度が魔物の暴走に拍車をかけた。

「俺はいつも、なんて言ってる? 覚えてないか?」

まだわからないらしい。

僕は舌打ちをし、彼女の視線を食卓に誘導した。

その時、彼女が勘付いた様子で声を上げた。

「すみません」

やっと僕の発言の真意を理解したようだった。僕は白米と副菜の混合物と、さらにもう一つの副菜が併存している食卓がどうも受け入れられないのだ。共同生活を始めたての頃に彼女にも伝えてあったが、それを実行するのは並大抵な意識ではままならない。だから、彼女の失態はしかたがないことだ。だというのに、僕はそれを許せなかった。

「前にも言ったはずだ。こういうのはやめてくれ、と。その時、君は頷いたじゃないか。理解したんじゃなったのか? それとも分かってもないのに、分かった演技をしていたのか? やめてくれ、そんなこと。だって意味のないことじゃないか。うわべだけの解釈なら誰にだってできるさ。僕は『君だから』他の連中とは違って、本当に分かってくれたんだと信じていたんだ。それなのに、こんな仕打ちかよ」

「今すぐ作り直しますね」

彼女が料理を片付けようとする。

「そういう問題じゃない」

僕は彼女の手を振り払った。コップの水がカーペットにこぼれる。体のバランスを崩した彼女が、床に倒れこんだ。床との間に鈍い音が発生し、部屋中に伝播する。振動は大したことなかったが、下の住人に訝しく思われるに違いない。

「僕は、この時間、このタイミングで料理が運ばれてくることを想定した行動しか計画していない。ここで夕食を作り直してみろ、何十分必要だ? いや何時間、か? とにかく作り直すなんてありえないな」

「私の確認不足でした。すみません」

彼女が謝罪する。だが、僕にはそれがなんだかわざとらしく感じた。

「謝ってほしいなんて誰が言って……」

今日の彼女は一段と強固だった。いや、重力の関係もあり、僕の力が普段より強かったと言った方が適切かもしれない。

それが僕を目覚めさせた。

今自分がしている行動がどれほど愚かなことなのかを、その痛みによって客観視することができた。

自らの手を抱え、うずくまる。これよりもっとずっと酷い痛みを彼女は感じているに違いない。彼女はダイラタンシーだからと言って平気だと弁明するが、僕には納得できない。僕がこんなにも痛くて、彼女がまったく平気なはずがない。彼女はもしかすると、僕のことを思って痛みに耐えてくれているのかもしれない、と思った。そうすることで僕の暴走をとめることが、目的なのかもしれないと思った。

ふと顔を上げる。

彼女はいつもどおり、何事もなかったかのような表情でそこに居てくれた。

「さて、まだ私の分は準備していません。交換すればあなたも納得ですよね」

彼女は優しくそう提案すると、倒れたコップを立て、カーペットを拭き始めた。

どうやら、本当に痛みは感じていないようだった。

感じていたなら、こんなに清々しい表情はできないだろう。

その事実は、僕を一時的に安心させてくれた。

だが一方では、それは消化しきれない懸念として僕の胸に残り続けた。

 

 

それから何度彼女のことを殴ったか覚えていない。その度、彼女は「大丈夫です。あなたは悪くありません」と僕をなだめてくれた。だが、月日を重ねるごとに僕の中には「これ以上彼女のダイラタンシーに頼るべきではない」という考えが充満してくるようになった。もうこれ以上、彼女を傷つけることで自分を守ることはやめるべきだ、と。



 彼女と出会ってから半年が経とうとしていたある日、僕は思い切って彼女に思いを打ち明けることにした。その日は僕の誕生日だった。僕の心中を伝えるには他とない絶好の機会だった。僕は彼女から手作りの誕生日ケーキをもらい、「おめでとうございます」という言葉と共にクラッカーを鳴らされた。僕は「ありがとう」と彼女に笑いかけた。いたって幸せな恋人同士のような光景だ。彼女はケーキを切り分け、僕の前に置くと「何か誕生日に贈り物をしたいです。欲しいものはありますか?」と言った。

 チャンスだ、と思った。おそらくこれを逃したら、もう言い出せる機会はないだろう。今ここで、彼女に僕の今の気持ちをすべてさらけ出そう。

 「欲しいものはないんだが、ひとつお願いを聞いてくれないか? いや、提案と言った方がいいかもしれない」

 「提案ですか? もちろんいいですよ。あなたのためなら何でもやるつもりです」

 「そうか」

もう後戻りはできない。僕はゆっくりと重い唇を動かした。

 「もう、君のダイラタンシーに頼るのはやめにしないか?」

 彼女の表情が硬くなる。

 「勘違いはしないでくれ。君と恋人をやめるといっているわけじゃあない」

 それを聞くと彼女は一瞬安堵した表情になったが、すぐに元の表情に戻った。

 「では、いったいどういうことですか? あなたは私の恋人のままで、あなたは私に頼るのをやめる。本来の意図がちぐはぐになってしまっていますよ」

 「ああそうだな」

 続きを聞いてくれ、と僕は言った。

 「僕は今まで、抑えられない衝動があるとその都度、君にそれをぶつけてきた。だが、ある時気づいてしまったんだ。君から感じる恐怖に。君はたしかに、痛みを感じない。僕がどれほど強く君に力を振るおうと、その力が大きければ大きいほど、君はいたって無傷だ。何も感じない。でもな、君はあくまでも『身体的な痛み』を感じないだけなんだ」

 彼女の表情が変わった。

 「精神的な痛みってのは、いくらダイラタンシーな君でも、感じているだろう? 僕はそれに気が付いてしまった。だから、これ以上君に頼るのはやめる」

 そのかわり、と僕は彼女の手を取った。

 突然のことに困惑したのか、彼女は間抜けな声をあげた。何ですか急に、と。

 「これからは君に優しく触れていこうと思う」

 「そうはいっても私は……」

 「わかってる。君はダイラタンシーだ。優しく触れようとしたら、溶けてしまって形あるまま触れることができない。今もこうやって触れられていない」

 「そうですよ。優しくしたら誰も私に触れられません」

 「だがな、こうしたらどうだろう?」

 そう言って僕は思いっきり、彼女の手を握り締めた。普通の恋人だったら最低だ、と嫌われてしまうくらいに。でも、目の前の流動的女の子はそれを見るやいなや「うそ……ですよね」と涙を流していた。たぶん、彼女にとって「他人に手を握られる」というのは初めての体験だったのだろう。涙を流して当然だ。

 「思いついたのさ。強く触れるってのは、なにも暴力だけじゃない。普通に触れる延長線で加える力を大きくすれば、君に触れることができる。君も僕もすっかり盲目的になっていた。でもな、こうすれば僕は君と触れ合うことができる。だから、僕は君と普通の恋人になりたい。僕だったらなれるのさ。僕のこの他人をも傷つける力があれば、君と触れ合うことができる。なあ、お願いだ。もう僕は君を殴ったりしない、そのかわり君を強く抱きしめさせてくれ」

 僕は彼女の体を引き寄せた。

 そして、強く強く抱きしめた。

 普通の人間だったら肋骨が折れ、悲鳴を上げて倒れてしまうくらいの強さだ。

 でも、彼女は「嬉しいです。これが抱きしめられるってことなんですね」と泣きながら笑っていた。

 この先、僕らがどういう道を、どういう風に歩いて行ったかについてはここには書かないことにする。

 だって、恋心ってのは強く干渉すればするほど、儚く脆く散ってしまうからな。

 そう、彼女ダイラタンシーとは違って。

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