第8話 バス停のベンチで彼女は私を待っている

 私は音が聴こえない。耳の障害かと言うと、少し違う。色んなお医者さんが診てくれたけど、診断結果は何処も問題無しだった。それ故に、お医者さんが私を見る目に疑いが見えた。確かな異常があるのに、それを伝える方法を持たない私は、それ以来誰にも打ち明けない秘密にした。


 音が聴こえない生活というのは、便利と不便が同居しているようなものだ。雑音が聴こえないから穏やかな日々を過ごせるけど、雑音が無いから日常に新鮮味が無い。周りに音が聴こえない事を隠している所為で人間関係は独りが基本。最初は少し寂しかったけど、今は慣れてしまった。


 それに、独りでいたからこそ感じる事もあった。ある日、いつも同じグループにいた子が、いつものグループの輪から離れて独りでいたのを目にした。話している内容も、どういう関連で集まっていたのかも知らないけど、独りになった子には哀愁が漂っていた。それで気付いたんだ。音が聴こえていても、人間関係は唐突に亀裂が走る。それなら、最初から独りでいた方が哀しまずに済む。


 そんな風に独りで過ごしていたある日、私は一人の女の子と知り合った。その日はなんとなく外に出かけたい気分になって、適当に道を歩いていた。そうして歩いていった先で、もう使われていないバス停があった。時刻表は風化して見えなくなっており、雨を凌ぐ屋根には所々穴がある。


 その屋根の下にあるベンチに、彼女は座っていた。背筋をピンと伸ばし、閉じた足の太ももの上に両手を重ね置き、視線は真っ直ぐと前を見つめていた。


 私は彼女に惹かれた。何をしているのか、可愛らしい容姿だからとか、そんな理由じゃない。彼女が私と同じ、独りに思えたからだ。


「……あの」


 私は彼女に声をかけた。すると、彼女はキョトンとしたような表情を浮かべながら、私を不思議そうな目で見てきた。多分、その時の私も同じ目を向けていたと思う。


 それで、私はまず彼女が何をしているのかを聞いてみる事にした。自分が音が聴こえない事を一瞬忘れていたから出来た事だ。


「何をしてるんですか?」


 私がそう尋ねてみると、彼女は傍に置いていたスケッチブックを手に取ると、書いたものを私に見せてきた。


【バスを待っています】


「え? バス?」


【もう1時間は待ってます。いつ頃来そうですか?】


「えっと……残念だけど、バスは来ないよ。ここはもう使われていないバス停だからね」


 そう言うと、彼女は明らかな驚きを見せ、その驚きのあまりに持っていたスケッチブックを地面に落としてしまった。


 彼女が拾い上げるよりも先に私が拾い上げると、意図せずスケッチブックに書かれた過去のものを目にしてしまう。スケッチブックには、絵ではなく、文字が書かれていた。どれも日常会話で用いられるような言葉だ。


 何故文字ばかり書かれているのか気になっていると、彼女が私の服をか弱い力で引っ張ってきた。彼女を見ると、申し訳なさの中に怯えが見える表情を浮かべていた。


「もしかして……声が、出せないの?」


 多分、私はこんな事を言ったと思う。もしかしたら、もっと違う言い方だったかもしれない。いずれにせよ、初対面の相手に対して私はデリカシーの無い言葉を口にしてしまった。


 私の言葉に、彼女は笑顔を浮かべながら、悲しそうに頷いた。その彼女の様子に申し訳なさを覚えながらも、何故私が彼女に惹かれたのかが分かった。


 彼女は私と同じなんだ。声と音。喋れないと聴こえない。その二つは違うようで似ている。


「……私、音が聴こえないんだ。虫とか、風とかの環境音だけじゃなくて、人の声も聴こえないの」


 彼女にスケッチブックを返す際、私は自分の秘密を打ち明けた。私の秘密を聞いた彼女は目を見開いて驚いたけど、すぐにスケッチブックに文字を書き込んで私に見せてきた。


【私は声の出し方を忘れてしまいました】


「出し方を? 出せないじゃなくて?」


【不思議ですよね】


「……そうだね。私も音が聴こえない事が不思議だよ」


 私が先か、彼女が先か、あるいは同時にか、私達は微笑んだ。私も彼女も、微笑んだ理由は一緒だろう。ずっと独りで過ごしてきた日常に、同じく独りで過ごしてきた子を見つけたから。初めて同じ世界を生きる人と出会えた。


 それから私達はベンチに座って話をした。彼女がスケッチブックに話題を書き、それに対して私が話したり、時折彼女がスケッチブックに意見を書き込んで衝突したりもした。どんな話題になっても、結局最後はお互い笑っていた。


 そうして私達は、彼女のスケッチブックに文字が書き込めなくなるまで話し続けた。最後にスケッチブックに書かれたのは【次の日曜日も、ここで会いませんか?】だった。


「もちろん。また会いましょう。それまでに新しいスケッチブックを買っておいてね。次はもっと書けるスケッチブックを」


 音が聴こえなくなった私に、初めての友達が出来た。一緒にいて落ち着けて、ずっと傍に居続けたいと思えるような大切な人。


 今日も私は、あの廃れたバス停で彼女と会う。音が聴こえなくなった私を待つ、声の出し方を忘れた彼女と。

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