わたしという「問題」――僕も自意識の始まりについて考えてみた2

森下 巻々

西暦2024年4月17日水曜日の考え

 僕は、前に「僕も自意識の始まりについて考えてみた」という文書を投稿している([ https://kakuyomu.jp/works/16818093074758659265 ])。


 そこでは概ね、「意識」を読者である貴方や僕にもある意識として、意識一般の意味で使っていた。「自意識」は、各々にとっての自分だけの、僕であれば僕としての意識の意味で使っていた。


 今日、Wikipediaに「なぜ私は私なのか」という項があるのを知った。しって、僕は思った。「自意識」があることと、「わたし」であることとには異なったニュアンスがあるのではないかと。


 まず、「自意識」というのは、昨晩はラーメンを食べ、今日いまノートパソコンに向かっている僕、視界に部屋の様子も入っていて、外からの色々やキーボードを叩く音を聞きながら指を動かしている僕、僕は僕だと思っている、これで十分伝わるのではないか。


 次に「わたし」であるが、これは上に書いただけでは不十分である。「何故わたしがわたしなのか」と考えるということは、そうやって指を動かしている僕は、何故、いま近所を散歩しているあの人ではないのか、ということだろう。わたしの自意識は何故わたしなのか、と言ってもいいと思う。


 Webで検索しただけの情報であるが、赤ちゃんは、かなり早い時期からお母さんのことを分かっているらしい。ということは、他者の存在を知っているということにならないか。


 赤ちゃんは、他者と他者の区別はついている。赤ちゃんは、自分自身のことはどう認識しているのだろうか。


 おそらく「わたしは、こういう人だ!」なんて考えてはいないと思うが、たぶん、「自意識」はあるのではないかと思われる。「最前まで近くにいたお母さんがいない。不安だ。ああ、いないと思ったら、いた」という風に感じているのではないか。以前におっぱいをもらった自分と、いまおっぱいをもらいたい自分が、同一であることを感じているのではないか。


 僕には、人間は最初から、或いはかなり早い時期から「自意識」があるように思われてくる。


 今回の文書の本題は、何故その「自意識」はその赤ちゃんにとっての「わたし」なのかということである。


 二つ、思い浮かんだことがある。


 (A)この時代のこの時間にこの場所でこの肉体で存在しているのは、自分だけである。


 (B)人間は何故「何故わたしがわたしなのか」という問いをたてたくなるのか、或いは問いをたてられるのか、と考えてみると、それは或る時点から異なる時点までの記憶があるからだと思う。自分は、或る時間・場所を生きてきた者であると思い出せるから、問いをたてられるのではないか。或る時間・場所を生きてきた者は、自分だけである。


 (A)と(B)のように考えると、その内にある「意識」が、世界でただ一つだけの「自意識」であるのは、不思議ではないと思う。


 僕たちは、他者の「自意識」で物を感じることができない。常に自分の「自意識」である。


 だから、自分の「自意識」を特別扱いしてしまう。彼の「自意識」と僕の「自意識」が別個のものであることは間違いないが、僕の「自意識」は何故彼の「自意識」ではなかったのかと問いをたてるのは、何かがおかしい気がする(気がするだけですが……)。


 わたしがわたしなのは(わたしの「自意識」が、わたしなのは)、この時代のこの時間にこの場所でこの肉体で存在しているからである。


 彼が彼なのは(彼の「自意識」が、彼なのは)、この時代のこの時間にその場所でその肉体で存在しているからである。


 それだけかも知れない、というのが、この文書の結論である。

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