傷口

「……お風呂、入れそう?」施設に着いてからも続いていた無言の空気の中で、井ヶ谷さんの弱々しい声が私の耳に届く。

「……………。」私は黙って頷いた。

そう、といつもよりもどっと老けて見える井ヶ谷さんが力無く言う。

私はそっと立ち上がり、浴場に向かった。

浴場に向かうところの壁に掛けてある時計が十一時四十分を指していた。その時計の前で少し立ち止まった。こんなに遅い時間に帰ってきたことは今までになかったのだ。

この施設には一歳から十八歳までの子供達が暮らしていて、年齢ごとに門限がある。小学生未満は施設に併設してある保育園にいるため、お散歩の時間以外は外に出ない。小学生は十六時三十分まで、中学生は十八時まで、高校生は二十時まで、というふうに門限が設定されている。

私は高二だから、門限は二十時だ。そして私はその門限を三時間以上も過ぎたいたのだ。

浴場に繋がる洗面所の前で、鏡に写る自分が目に入った。

鏡の中の私は、錆だらけの汚れた服を着て、顔にもいくつかの擦り傷と汚れが付いていた。

「…………このままいなくなるはずだったのに」

口からぽろっと零れた、思ってもいなかったその言葉に、耳を疑った。なんでそんなことを言ったのかは、全く分からない。なにか…なにか大事なことを忘れてる…?なにを…?

その言葉について考えていると、急に頭蓋骨が割れそうなほどの頭痛が戻ってきた。私はすぐに考えるのをやめた。いや、考えられなくなった。

私は浴場で、痛めた肩を動かさないようにそっと髪の毛と体の汚れを落としていった。その間、体中の擦り傷が痛い痛いと悲鳴を上げていたが、全て無視して一心不乱に汚れを落とした。


「おやすみ」優しく呟いた井ヶ谷さんに「おやすみなさい」を返す。そしてそのまま真っ直ぐ施設の三階にある私の部屋に行く。

部屋の中は薄暗く、時々近くを通る車のライトが入ってくる。やけに静かで居心地が悪い。だが、他の子達が寝ているので、音を立てないよう、静かベッドに入った。その日は傷口の痛みに耐えながら眠ることになった。



〝あと九日〟

無差別にピチチと鳴く雀の声で目を覚ました私の頭に響き続けた。夢でも見ていたのかもしれないが、何のことなのかは全く分からない。だけどなぜか、どうしても頭から離れない。あと九日で何が起こるというのだろうか。

「いっ…!」

すっと起き上がろうとした私に、容赦の無い痛みに驚いたが、まあそうだよねという納得もあった。そしてじわじわと湧いてくる、まだいるんだ、という変な感覚。これまたどうしてか、清々しい気すら感じるのだからより変に思う。昨日の一日だけで、溜まっていたものが吐き出されたような清涼感。だがまぁ、それに比べて気温は高い。今の時点で二十五度はゆうに超えているだろう。すでに若干汗が滲んでいる。


コンコンコン

「端月ちゃん、起きてる?お話をしたいんだけど、入ってもいいかな」

井ヶ谷さんの声だ。その声には、疲れとほんの少しの不安が混じっている気がした。

「……起きてます。………でも…顔を洗ってからでもいいですか?その後、職員室に行くので」

「…分かりました。下で待ってるから、早めに来てね」

「……はい」

トントントン…という足音が消えるのを待って、私は部屋のドアを開けた。


ジャー……バシャンッ!……

まだ脳がふわふわとしていたから、現実に無理矢理引き戻すために、強く水を当てた。まだまだ傷口の悲鳴は止みそうにないが、それは無視する。

ふぅ、と一息。間違いなく長くなる話し合い。気が重いけれど、仕方のないことだ。この施設には、無断で門限を過ぎてしまうと先生と長い長い話し合いをしなければならない、という決まりがある。前に施設にいた、私の二個上の人は無断で門限を一時間過ぎて話し合い、というか、説教のようなものをくらっていた。聞けば、友達の家でやっていたゲームに夢中になりすぎていたらしい。彼は普段ものすごくアクティブな人なのだけれど、余程だったのか、待ち望んでいた食べ物を貰えなかった子犬のようにしょぼんとしていた。

あのときの彼を思い出すと気も重くなる。それに…。

コンコン、職員室の扉を軽く叩く。「失礼します」と一礼してから足を踏み入れる。私が説教されるのは、そこの入って右奥にある椅子と椅子が向かい合って置いてあるところらしい。その椅子と椅子の間には、無理矢理押し入れられたような低い楕円形の机があった。井ヶ谷さんはその奥側の椅子に座っていた。

「早速だけれど…昨日、どうしてあんなに遅い時間まで帰ってこなかったの?」椅子に座った私に井ヶ谷さんが問いかけた。一瞬言葉が喉の奥で詰まったが、なんとか押し出して答えた。

「……分からないんです」

「分からない…?」

「はい…。私は昨日のお昼ごろ、とても暑くて…それで…」

やはり言葉が喉の奥で詰まってしまう。それに、そろそろ涙が出てきてしまいそうだ。こんなところでどうして涙なんかでるのか、と思われるかもしれないけれど、そんなこと私が一番知りたい。私は、自分のことや本音を話そうとすると、涙が止まらなくなって話どころではなくなってしまうのだ。

前に一度、今でいう井ヶ谷さんのような立場の人に呼び出されたことがある。その人のスリッパが無くなったことの犯人が私だと思われたからだ。その人は、私のことが余程嫌いだったのか、いつもきつく当たってくる人だった。その日も散々言われた後だったから、またか、くらいにしか思っていなかった。けれど、スリッパ泥棒の汚名を着せられることを知って、私は違うと必死に反抗した。しかし、私は私の思う正しいこと、実際あったことを言っていると、急に涙がぼろぼろと溢れてきた。終始私に言い押されていたその人は、はっとして、泣けば許されると思ってるなんて甘いのよ!!と怒鳴りつけ、最終的には私の体にたくさんの痣をつけることになった。まぁ、その問題が公になったおかげで井ヶ谷さんと交代になってくれたんだけど…。

私はいつも大事なときに涙が止まらなくなる。どんなに優しい人だって、伝えたいことも伝えられず、甘えだと言われ、呆れられる。だから私は話し合いが嫌いなのだ。

「……それで…?」瞳に真っ直ぐ私を映す井ヶ谷さんがそっと聞いてくる。だけどその優しさは私にとってはマイナスで、私の涙を止めてくれる蓋に、さらにヒビを入れていく。

「…それで…あの……暑くて…それで…」

情けない。自分が思っていることも言えないのに理解してほしいなんて。傲慢にも程があると自分でも思う。

私は横にあったティッシュケースをがっと掴み、ティッシュを二、三枚抜いて顔に押し付ける。どんどん呼吸が崩れていく。深呼吸をしようとしても、さらに悪化するだけだ。息も上手く吐けなくなってきた。涙もぼろぼろと溢れてくる。鼻水も出てくる。

まだ何も言えてないのにこの有り様だ。本当に呆れる。

「……私は何分でも、何時間でも待つから。少しずつでも、教えてほしい」

井ヶ谷さんは今も真っ直ぐ私を、私だけを見ながら言った。


「………………冷たい、空気が…流れて、きてたんです」

五分程経っただろうか、嗚咽混じりではあるが、やっと言葉を捻り出せた。

「…あの廃ビルから?」

井ヶ谷さんの問いにコクンと頷く。

「…それで、気になって入っちゃったの?」

続く問いに、また頷く。

「でも…どうしてあの時間まで…?」

「………………気付いたら…夕方で…それで…その……」

やはり言葉が喉の奥に詰まってしまう。頭では何を言うべきか分かっているのに、あとほんの少しで出てくるところで喉がその言葉を拒絶して声にならない。たった一言言うだけで体力が半分くらい持っていかれる気分だ。

「…………気を…失ってた、みたいで……」

「え…?な、なにかあったの?どこかにぶつけたとか、事故とか…」

慌てて心配そうに聞いてきた井ヶ谷さんの言葉を遮って、私は言葉を捻り出す。

「違、くて………急に…具合が、悪く…なっちゃって……倒れてた、みたいな……」

「それで、あの時間まで気を失ってたってこと…?」

こくん、と小さく頷く。反対に、ひっくひっくという乱れた呼吸に合わせて動く肩は激しく揺れる。それに、きっともう体力や精神力的にこれ以上言葉は出せない。喉が痛くなってきた。

「………話は分かった…。とりあえず…今日から二週間は外出禁止。端月ちゃんが悪くないのは分かったけど、体調的にまた知らないところで倒れられたら困るの。だから二週間外出禁止。夏休みの三分の一が外出禁止になっちゃうんだけど…それでもいい?」

私はまた頷いた。

「……お話聞かせてくれてありがとう。とりあえず今日はゆっくり休んで体調を整えてね。」

井ヶ谷さんがそう言うと、私はすくっと立ち上がり、机の上にある丸まったティッシュの山をぐしゃっと持ち、さっさと職員室を出た。

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闇と欠けた月 朝ノ夜 @asanoyolu

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