廃ビル
ミーン…ミン…ジジッ……
はっとして、目を開く。
ここは…どこ…?私は、施設に帰る途中で…。
あ、そうだ…。すごく暑かったから…ひんやりと冷たい空気が流れてきた、この廃ビルに入ったんだ…。それで…?どうしたんだっけ…。その後は、あんまり…覚えてない…。
ただ廃ビルの静けさと季節に合わない涼しさが、変に体に染みていく。そしてそれが心地よくも、恐ろしくも感じるから、より脳が働かなくなる。
ただ、不格好な窓からさしてくる赤く燃えるような斜陽を見るに、そろそろ施設に帰らなければならない時間らしいということは分かった。
自分は階を上がった記憶はないけれど…外の景色を見た感じでは、少なくとも一階ではない、のかな…。
そう思って、廃ビルのガラスと細い鉄骨で作られた巨大な窓に近づいていった瞬間…『どくんっ』と心臓が、目の奥が、破裂したような衝撃をもった。と、同時に視界がぐにゃりと歪み、ガラスと鉄骨の間に肩をぶつけた。
「ゔっ…」バタンッ
急いで手で口を覆ったけれど、もう遅く、猛烈な目眩の隙間から見えた景色が重なり、私はその場に崩れた。
『わぁ〜!美味しそうなケーキ!これ全部私が食べて良いの?』
満面の笑顔で、机一面に並べられた可愛らしいケーキを眺めている女の子がいる。
『ええ、もちろん。□□□のために買ってきたのよ?』
あの子の母親だろうか。女の子に優しく微笑んでいる。
そして私はその二人を遠目に見ている。
二人とも顔はぼんやりしていてよく見えないが、いかにも幸せいっぱいという感じで親子っぽい。
『やった〜!あ、でも、□□□も今日が誕生日じゃないの?□□□の分も取ってあげなきゃ』
『□□□!!やめなさい!□□□はもうすぐいなくなるんだから。』
急に怒り出した…?どういうことだろう。この親子にはもう一人誰かいるのだろうか…?
……それにしても、名前のところだけが壊れたディスクから出るような耳障りな音で隠されてしまう。
『□□□のことは忘れなさい。分かった?』
『……うん…。』
『偉い子ね。…さ、ケーキを食べましょ。』
辺りが真っ暗になったと思うと、急に違う場所が見えた。
『え…?ちょ、ちょっと待ってね…。』
『……………』
今度は…施設の前…?若い女性の職員が、うつむいて黙り込んだ小さな女の子を前にして困っている。女の子は、いくつも繕った跡のあるぼろぼろの服と靴を着ている。まさに〝薄汚れた子供〟という感じだ。
『うんと、□□□ちゃんね。今□□□ちゃんを保護できるように確認してるから、とりあえず中で待っててね。』
…やはり、名前のところだけは聞こえないみたいだ。
若い女性職員が、施設の中にある受話器を手に取って誰かに話し始めた。
『……はい。さっき、自分で歩いてきて…はい…ご家族のことは何も話してくれなくて…はい…はい…』
受話器を取ったときよりも少しだけ安心さが表情に含まれた女性職員が、女の子のところへと戻ってくる。
『□□□ちゃん、色々確認したいところだけど、保護してもいいってなったから、今日からここが□□□ちゃんのお家になるけど、大丈夫?』
『………うん』
…?この感じ…なにか………。
「………あれ…?」
すっ…と息を吸ったところで目を覚ました。鉄骨に当たって冷たくなっている頬には、なぜかつうっと流れた涙の跡がある。その頬が触れるコンクリートの地面は、この時期の暑さなんてまるでないかのように冷たい。
起き上がろうと思ったけれど体が言うことを聞かない。頭のてっぺんからつま先までピクリとも動かない。目はうっすらと開けているものの、見えるのは無機質なコンクリートの地面と、取って付けたように不格好な鉄骨だけだ。
でもなんだろう…。なぜか心地良いと感じてしまう。前から知っていたことのように思えて、不思議と落ち着くような気がする。起きなければいけないと思っていても、〝もう二度と起きれなくなればいいのに〟と思ってしまう自分もいた。
私は目を閉じて深呼吸をしてみた。一つ一つ、ゆっくりゆっくりと深呼吸をした。すると、少しづつ肺が空気を受け入れてくれるようになってきた。少しづつ、息ができるようになっていく。少しづつ、体に温度が戻ってくる。
廃ビルの静けさの中に、私の呼吸音が響く。その音を聞いて、またさらに呼吸が楽になっていく。
私の体はゆっくりとではあるが、動くようになってきた。目をすぅっと開いて、手のひらを温度の無い地面につけて力を入れる。
「……っ!」と声にならない声が出た。さっきぶつけたところだろうか。肩の辺りから激痛が走る。それでも私はゆっくりと肘を立て、頭を持ち上げ、胴体を床から引き剥がし、膝を曲げて、四つん這いの状態にまで体を起こすことに成功した。そして、亀のような速さで腰を下ろす。肩の激痛はなくなりそうにないし、目の奥がズキズキと軋むけれど、壁に無理矢理取り付けられたような、錆だらけの鉄骨を頼りに立ち上がった。
しばらくの間、目の奥の軋みが許さなかったから目をあまり開けられなかったけれど、だんだんと軋みが治ってきた。少なくとも、ズキズキからキリキリくらいまでにはなっただろう。
その目に不意に写った景色には、あのときのような気持ち悪さは無く、ただ暗い夜の世界があるだけだった。この廃ビルには、つけるような電気は無いため、私の周りももうだいぶ暗い。
「………帰らないと」そう呟いて、私は壁に寄りかかりながらも廃ビルの下を目指した。
階段の一段一段、一歩一歩が私の痛みに追い打ちをかけてくる。肩に至っては余程打ちどころが悪かったのか、骨や筋肉が思考のない何かに無理矢理引き裂かれているような痛みがする。折れてはいないと思うけれど、それと同じくらいの痛みがする。
ザリッ…ザリッ…と耳に残る靴音が響く。
もわんという嫌な熱気が体に纏わりついてくる。
あと一つ、階段の踊り場を越えれば出口が待っているのだ。
すぅっと現れた月は、大部分が欠けていて不格好だった。
その頃には、もう痛みは感じなくなっていた。というよりは、麻痺した、という方が合っているだろう。
横から、誰かが息を荒くして走ってくる音がする。が、私はその不格好な月に見惚れていたため、音の方には向かなかった。
「…はぁ…はぁ…はぁ………。は、端月ちゃん…!」
その声を聞いてはっとした。
「…井ヶ谷さん…」
私の横には、全力で走ってきていて汗だくの女性がいた。女性は片手を膝につける形で私の名前を呼んだ。
彼女は井ヶ谷さんと言い、私の施設の保護者のような役割の人だ。彼女の顔には、不安や焦り、恐怖のようなものと、少しだけの安堵の表情が浮かんでいた。
井ヶ谷さんは夜のように静かに「帰ろっか…」と言った。その後は、話は全部明日聞くから、と言う井ヶ谷さんに甘えて、二人でゆっくりと施設までの道のりを、お互い一言も喋らずに歩いていった。
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