第2話 トルフェリア家の蕎麦屋
俺は、普通の高校生だ。
そういうありきたりな言葉がぴったりとあてはまってしまうような人間である。
梅雨が明けて、少し重たくなった空の青色に夏の気配を感じる。
七月。もう三週間もすれば夏休みという時期に、俺は初めて学校をサボった。
理由は特にない。
成績は悪くない。運動は普通。彼女はいないけど友達はそこそこ。
夏休みになったらプールに行こうぜ、なんて約束をする程度には関係も良好だ。
いじめられてる訳でもないし。ただ、電車に揺られていると急に色々なことが面倒になって、いつも降りる駅を通り過ぎていた。
がたんごとん揺られに揺られ。二駅先に着く頃、車内に女性の声が響いた。
「きゃあああっ。痴漢っ、痴漢ですっ!」
一時騒然となるが、おそらく痴漢であろう男性を、四十代半ばだろうおじさんが捕まえていた。
スーツにカバン、いかにもこれから出勤といった感じだ。若干髪の毛が薄くなってきているようで、前髪がかなり後退している。
だけど意外と頼りになる人のようで、不審そうな太った男の腕をしっかりと固定している。
「さあ、次の駅で降りるんだ」
お決まりのセリフを放つおじさん。
けれど駅に着くと、いきなり痴漢が暴れ始めた。手を振りほどき、逃げ出そうとする。
まずい。俺は咄嗟に一歩を踏み込み、その襟首を掴んだ。
ただ無理な体勢で手を伸ばしたからバランスを崩して、痴漢と一緒にすっころんだ。
それでも、一応は確保できて、乗客から拍手をいただいてしまった。
◆
駅長室で鉄道警察から事情聴取を受け、終わる頃には十時を回っていた。
被害に遭っていたお姉さん……二十代半ばの、ショートカットの女の人は何度もぺこぺこと頭を下げる。
「ありがとうございますっ、助けてもらって」
「いやいや、実際に止めたのはそこの彼だし」
「俺は、その。咄嗟に手が出ただけで」
おじさんは謙遜し、俺も感謝されるほどではないと手を振って、もう何度かお姉さんがお礼を言っておしまいになった。
「ところで、君は高校生だよね。学校、大丈夫? 私のせいで遅刻になっちゃったね。なんかあったら、証言するよ?」
「あぁ、大丈夫です。その……今日はどうせ、最初からサボりだったんで」
「え、あ……」
「お、お姉さんこそ大丈夫ですか?」
「私は、さ、サボりだから……」
二人して暗い顔で肩を落とす。
重苦しい雰囲気を振り払おうと俺は叔父さんに声をかける。
「お、おじさんは出勤途中、ですよね? 会社、遅刻になるんじゃ」
「いいや、今日は休みだから大丈夫だよ」
「えぇ……じゃあ、なんでスーツを」
「これは僕の正装だからね」
学生服を着たサボりの俺と、ショートカットのサボりお姉さんと、会社員風休みなのにスーツおじさん。
嫌な三人が揃ってしまった。
「しかし、君のような学生がサボりというのは。なにか、学校で辛いことでも?」
おじさんが俺の顔を覗き込む
いじめとかそういうのを心配しているみたいだ。
でも、別に何でもない。特に何かがあったわけでもなかった。
「そういうのじゃ。ただ、妙に疲れて……学校に行くのが億劫で、つい」
「分かるわー。私も、同じ気持ち。だから、学校さぼっちゃった」
初対面の人相手に何故か心情を明かしてしまった。
するとお姉さんがうんうんと頷き同意してくれた。彼女は、大学生なのだろうか。
「そうか、若くてもそう言うことはあるよなぁ。僕だって、仕事は辛い。だからこそ時々……異世界人ごっこをしているんだ」
異世界人ごっこってなんだろう。
お姉さんも気になったようで、おずおずと問う。
「あの、異世界人ごっこって?」
「まあ、僕のリフレッシュ法、かな。疲れて、どうしようもなくなった時。僕は、異世界人になるんだ」
まったく意味が分からず困惑していると、おじさんはにっこりと笑った。
「じゃあ、サボりで時間はあるだろう。君達もやってみないか?」
◆
「異世界人ごっこは、日常的にあるものを初めて触れるものとして扱い、新鮮な驚きを持って楽しむん遊びなんだ」
そう言って連れてこられたのは、ごく普通の駅蕎麦だった。
立ち食い蕎麦の店だが朝の時間を微妙に過ぎたから、あまり客は入っていない。
「まずね、
転校生名前ひどくない?
「このボブ助は、身長百九十八センチのマッチョで、しかも女好きでね。春香ちゃんや真冬ちゃんに声をかけてくる。最初は二人とも嫌悪感マシマシな態度だったんだが、ある日良平くんは放課後に春香ちゃんとボブ助が一緒にいるところを目撃する。しかも顔は真っ赤で、汗までかいて。いったいどうしたんだ……うん、まあネトラレだよね」
なに言ってんだろう、このおじさん。
「ボブ助のパワー・セッ〇スを味合わされた春香ちゃんは、性の快楽に溺れていく。次第にその魔の手は、真冬ちゃんにも。そして良平君の妹の秋奈ちゃん、そして母親の美夏さんにまで……。そうして帰宅すると、良平くんは見てしまうのさ。大事な幼馴染が、恋人が、妹が、母親がボブ助に墜とされ競い合うようにハーレム・セ〇クスをしているところを」
「しかもお決まりの寝取られ女からの罵倒を受け、絶望した良平くんは家を飛び出す。そして道路で、交通事故に遭ってしまうんだ。彼は最期に思った。“もしも次に生まれ変われるのなら、裏切られず、ちゃんと愛してもらえるような人間になりたい”と」
「そうして気付くと立浪良平くんは、異世界の侯爵令嬢であるオフィーリア・ネル・トルフェリアという美少女にTS転生していたわけだ」
「でもね、異世界は食文化がまだ発展していなくて、現代人の記憶を持つオフィーリアの舌には合わない。だからお父様にお願いして資金を出してもらい、現代の味を再現しようと頑張るわけだ」
そうしておじさんは、大きな手ぶりで店を指示した。
「その第一号店がこの駅蕎麦『ながれ』です」
つまり異世界人ごっこというのは、普段触れている日本では当たり前のものを「自分は異世界人であり、これは転生者が持ち込んだ未体験の文化」という設定で楽しむことらしい。
「あー、前に動画配信者がやってたやつだ。なるほど……異世界人役を演じる。練習だって思ったら、意外と面白いかも。……って、ああ!? おじさん、もしかして第三騎士団団長!?」
「おや、知っていたのかな。恥ずかしいな」
「あー、あー、これ動画配信用の企画なのね?」
「うん。今日は撮影でなく下見だけどね」
どうやらこのおじさん、ちゅーばーな人だったらしい。
その事実に気付いたお姉さんは俄然乗り気になっている。
おじさんは俺の肩に手を置いて促す。
「さあ行こう、少年。怯えることはない、ここは今大流行の、トルフェリア家の蕎麦屋なんだぜ」
にっ、と気風のいい笑みを見せる。俺はほとんど流されるまま入店した。
お姉さんはおっかなびっくり店を見回し、店内に置かれた食券機を指さす。
「お、おじさん。あれ、あの大きなの、なに?」
「ああ、あれはショッケンキって言うのさ。硬貨を入れて、食べたいメニューを押せばチケットが出てくる。それを見せの人に渡せば“ソバ”が出てくるって寸法だ」
「そもそも、ソバってなんなの?」
「穀物を細長くしたものを、スープに浸した料理だ」
「へぇ、そんなの美味しいのかしら」
たぶん、今のおじさんは事情通の異世界人なんだろう。
お姉さんはそんな彼に誘われて、試しに店にやって来た。
「ちょっと、少年早く行きましょうよ。いや、別に私は怖くないわよ? でも、とりあえずあんたが先に買いなさい」
そして俺はお姉さんの知り合いで、新しい店にビビって誘われたポジションらしい。
「え、あ、じゃあ」
「おっと、少年。今日は僕が奢ろう」
「いいんですか?」
「まあ無理矢理突き合わせてるみたいなもんだからね。ここはソバという料理に、トッピングが色々ある、という形だ。肉蕎麦は甘辛く煮た肉、海老天蕎麦は海産物のフリッターを乗せたものだ」
「へ、へえ。な、なら、海老天蕎麦を、試してみようかなぁ」
俺もぎこちないながら異世界人を演じてみる。
お姉さんもおじさんも、にっと笑ってサムズアップしてくれた。なんだこれ。
カウンターに並んで立つ。駅蕎麦だからわりとすぐに出てくる。
「おっと、二人とも。食べる時はこれを使うんだ。箸、といってソバを食べるための道具だ」
「使いにくそう。フォークは……」
「おいおい、ソバヤでフォークなんて無粋な真似はしてくれるな。こいつは、箸で食べるから美味いのさ」
そうして出てきた天ぷら蕎麦。
まずはおじさんが口をつける。
「くぅ、美味い! こんなうまい蕎麦はここでしか食べられないぞ!」
「おぉ、嬉しいこと言ってくれるねえ」
厨房の男の人が喜んで声をかけたけど、蕎麦をここでしか食べられない設定に従ってるだけなので、別にたいそうな意味はない。
「うん、本当に美味しい! このスープも、揚げ物も。こんなに美味しいものがあるんだ、さすがトルフェリア家……!」
「……お姉さん、なんか、演技上手くない?」
「え? だって私、声優志望だもん」
お姉さんは意外と簡単に事情を明かしてくれた。
「声優学校に通ってるけど、中々芽が出なくて。この業界、年下の子がドル売りでメインヒロインをゲットするなんてこともあるからさ。この前もオーディションで、手応えがあったの落ちちゃった。理由は、後々キャラソン出してライブもやるから。二十四歳の女より、十八歳のカワイイ系の方が映える、ってとこなんでしょうよ」
蕎麦の汁を啜って、大きく溜息を吐く。
声優志望が、演技以外の部分で負けて役を逃す。
その悔しさがどれだけ大きいかは俺には理解できない。
でもお姉さんがサボろうと思ったのは、きっと心が追い付かなくなったせいなんだろう。
「だから気分転換だし、練習にもなるしで乗ってみたけど、意外と楽しいわねこれ」
「ああ、だから」
「そういう少年だって、学校サボってるでしょ? 言えないだけで、なんかあるんじゃないの?」
「俺は、本当になんにもなくて」
ただ、何かに疲れて体が動かなくなっただけ。
頑張って失敗した経験なんてなにもない。
俯く俺に、第三騎士団団長は小さく笑った。
「僕だって同じ経験はあるよ。何枚も書類を片付けていくとね、しんどくなくても辛くなる瞬間がある。こんなの誰でもできる、僕がやる意味って何だろうって。そういう時は、何か新鮮な刺激が欲しくなる。だけど、悲しいかな。この歳になると、なかなかそういう新しいものには出会えなくてね。だから設定を付与して、当たり前の日常にもう一度感動する。それが異世界人ごっこの始まりなんだよ」
ふざけたことをしていると思ったけど、おじさんなりに考えてのことらしい。
彼はぽん、と俺の肩を叩く。
「君もトルフェリア家の蕎麦を食べるといい。今日という日を非日常で終えたなら、きっと明日には日常が恋しくなる」
「はい……」
俺は、言われるままに傍を啜る。
美味しかった。
学校サボって、知らない人と食べる駅蕎麦は、俺にとっては設定なんかなくても充分に異世界の味だった。
◆
昨日、クラスメイトが学校を休んだ。
風邪かな、と思ったけど翌日には元気よく登校してきた。
安心したが、休み時間に雑談をしている時、俺はぎょっとした。
「ところでさぁ、この動画配信者が最近の推しなんだけど」
クラスメイトが第三騎士団団長の……親父の動画を布教してきやがった。
日本にいながら異世界を楽しむおじさん 西基央 @hide0026
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