「人をいじめてはいけない」という理念をどう教えるか

柿うさ

第1話 「いじめ」から逃げるな

「いじめは悲しいことです」


「いじめを許してはいけない」


「いじめは悪い。絶対悪なんだ!」


 社会の中では何の根拠もなしにそんな事が説かれることがある。

 「いじめ」は「悪であること」を当然のこととして、それに関する社会的考察、自分たちが取るべき立場が定められたりもしている。

 しかし、「なぜいじめは悪いことなの?」と子供に問われた場合、その明確な理由を説明できる人は多くはいないだろう。


 せいぜい「他者の人権を侵害する行為だから」とか、「いじめを肯定すれば社会が成り立たない」とか、その程度のものだ。

 酷いものになると、「そもそも、そんな問いをすること自体おかしい」とか、「いじめを肯定するなら、皆であなたをいじめますよ」と脅迫し、結局「なぜなのか」という問いには答えない。そもそも「あなたがするなら私たちが、いじめますよ」ということは「いじめ」が「悪」ということになんの答えも示していないどころか、「いじめ」を肯定していることにさえなる。


 仮に前者二つの理由を説明をされたとして、そのとき子供は「いじめは他者の人権を侵害する行為だから、いけないことなんだ」と言って、ちゃんと理解するのだろうか。もちろん理解する子供もいるでしょうが、「他者の権利を侵害することの何がいけないの?」、「社会が成り立たないことの何がいけないの?」と思う子もいるわけで、その答えとしては、まだまだ抽象的すぎる。


 つまり、この時点で「他者の人権を侵害する行為だから、人をいじめてはいけません」と教えを終えた場合、それは断定的な思想の押し付けでしかないのである。


 上記のように、「なぜいじめは悪いことなの?」の質問に答ることができる者は大勢いるように見えて、厳密な回答ができるのは実はごく少数ということだ。

 これらのもの以外にもたくさんこの疑問に答えようとした人はいるが、一応の論証はしていても、解像度が低すぎたり、認識があまかったり、教養が足らなかったりして、真理(普遍的正統性、正しさ)がぼやけてしまっていて、厳密な論証にはなっていない。


『思想とは、真理に対する王手である。思想を持とうとする者は、そのまえに真理を欲し、真理を要求する遊戯の規則を認める用意がなくてはならない』


 オルテガの『大衆の反逆』から引用したもので、私はこの言葉が凄く好きだ。

 どういう意味かと言うと、「思想とは正しさの一歩手前である。思想を持とうとする者は、正しさを欲し、あくまで思想とは正しさに到達するための道具であるという規則を守らねばならない」ってことだと私は解釈している。


 つまり、人間は絶対的正しさに到達することはできないが、絶対的正しさに近づこうとする意思が大切であり、思想を調整しうる議論や審判、つまるところ意見交換や自分に問いかけるといった一連の規則を認めなければ、思想や意見というものは無意味なものになってしまうということだ。


 しかしながら、我々は簡単に真理に到達したと錯覚し、他人の意見に耳を傾けず、自分自身にも問いかけず、ただ大多数の人が信じ込んでいる常識や偏見を鵜呑みにしいる。それはポピュリズムへの入り口なのである。


 さて、子供に「なぜ、いじめをしてはいけないか」を教えるための一つの答えとして、私はそう言った断定的な抽象ではなく、より普遍的な具象に向かってその子自体に考えさせることを提唱したい。


 例えば、「どうして、人をいじめてはいけないと思う?」、「いじめられた子は、今どんな気持ち?」、「今いじめてみて、貴方はどんな気持ち?」」とかだ。

 つまり、「人をいじめた」という事象そのものではなく、「人をいじめた自分自身」を考えさせなくてはいけないということなのだ。


 それ故に、私は今から炎上覚悟であえて問題発言を言う。


「興味関心のまま、人をいじめなさい」と。

 

 能動的にいじめをして、その業を体感し、「人権とは何なのか」、「なぜ、いじめてはいけないのか」ということを、その子供自体が考え、真相をその胸に刻み込まなければいけないのだ。そうしない限り、人をいじめてしまうのだ。人を殴ってしまうのだ。もっと言えば、殺人にも繋がってくる。

 

『左右極限を知らねば中道(悟りの入り口)に入れず』という仏教の言葉がある。これは善悪についても応用できる。


 善とされること、悪とされること、その両極を知り実践して、その実践者がたどり着く真理の深さというものは、抽象的だったり断定的だったりして一方しか知らない、押し付けられた思想しか知らない者とは、そのたどり着く真理は、まるで違うものになる。


 悪とされることの極限をどこに置くのか、「いじめか?」、「人殺しか?」、それとも「大量殺人か?」という問題はあるが、それは個人の真理の探究によるものだ。ここで私が定義できるものではない。


「人をいじめてはいけない」という理念を押し付けられ、理解せずに守っている者とその理念を自らの興味関心のまま破り人をいじめた者、この両者が「なぜ人をいじめてはいけないのか」という答えにたどり着いた時、理解の深度はまるで違うものになるだろう。


 つまり大事なのは、いじめた過去を思い出したり、実際にいじめてみるなどをして、その業に向き合い、自分自身と対話することである。人をいじめることに抵抗感があるなら犬や猫、トカゲやバッタでも構いません。とにかく「いじめ」という業を体感し、それについて己自身が真摯に向き合い、真理を探究せねばならないのだ。


 そして、いじめ問題に対して周囲の人間ができることと言えば、薄っぺらい表層の断定的思想を語ることでもなければ、暴力的制裁を加えることでもない。その業を犯した少年少女が自身の業に向き合えるように、質問を投げかけるなどをして補佐することのみなのだ。


「あれもダメ、これもダメ」と言って、子供が理解しないまま規則を与えるのではなく、自らの力で考えさせる。そうしない限り、確固たる基準(価値や善悪)を持つ子供は育成できないのである。


♢  ♢


 本作はセンシティブな問題を取り上げているので、当然賛否両論あると思います。ですから、否定的な意見、反対意見を持つ皆さまは、遠慮くなくその意見を応援コメント欄や近況ノートの方に書いて、私にぶつけてください。そういったコメントを頂ければ、私も勉強なりますから。もちろん、応援メッセージや賛成意見も大歓迎です。

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