パレードが続くなら。

月庭一花

(仮)

 朝霧が世界を白く覆っている。

 鉄塔の群れが、薄く揺らめきながら、遠くまで続いている。

 いったい、どこまで続いているのだろうか。

 わたしは一つひとつ指で追いながら、二千を超えたあたりで諦めた。

 それはもう鉄塔というより、人の骨のパレードにしか、見えなかった。


 二階から降りていくと父の遺影が食事の用意をしていた。白黒の薄い笑顔を貼り付けたまま、出掛けるのか、と訊ねるので、わたしは小さく頷いてみせ、

「教え子とデートなの」

 苦い、泥水のようなコーヒーをすすりながら、笑みを返す。目玉焼きがチリチリと音を立て、フライパンの上で焦げていた。

「中学を卒業したら桜を見に行こうね、って。約束していたのよ」

 遅くなりそうなのか。

「わからない。ふふ、泊まりになるかも」

 じゃあ、夕飯は俺ひとりだな。

 父の遺影がため息をついて、ぱたんと倒れた。わたしはそれに向かって手を合わせ、ごちそうさま。と、小声で言って、お別れをした。

 薄く化粧をして家を出る。まだ、霧は晴れない。

 離れのガレージにはわたしの車と父の車が仲良く並んでいる。向かって左側、父のフェアレディZはもう、かれこれ六十年くらいは動かしていないはずなのだけれど、ぴかぴかに磨き上げられていて、父のこういうところはマメだな、と思う。骨董品、と声をかけると、せめてヘリテイジと言えないものかね、なんて不平が返ってくるのもいつものこと。

 わたしはその声を無視して、自分の車に乗り込んだ。ジルコンサンドメタリックという、メジャーとは言えない色のロードスター。助手席には恋人関係にあるテディベアが、足を投げ出して座っていた。

「おはよう、ゆすら」

 おはよう、椿。今日はデート?

 耳についたシュタイフのタグを揺らしながら、皮肉げにわたしを見上げるその目は、黒くて丸い。まるでガラス玉みたいだ。

「そうよ。うらやましい?」

 別に。でも、相手はまだ中学を出たての子どもでしょう? しかも自分の教え子に手を出すなんて。それって淫行じゃないの?

「お腹の中に木屑しか入っていないあなたに言われたくないな」

 ちょっとだけムッとして、おでこを突く。彼女はこてん、と倒れ、少し遅れてからメーと低い声で、恨めしそうに鳴いた。内蔵されたグロウラーが反応したらしい。

 エンジンをかける。

 荒々しい音と鼓動が車内を満たす。メーターの針が振れ、車が戦闘モードに入ったことを知らせてくれる。素直ないい子。

 朝の道路は空いている。

 幹線道路に差し掛かってもゆすらは黙ったまま。もしかしたらへそを曲げてしまったのかもしれない。

「仕方ないじゃない」

 わたしは言った。

「だって、あなた。……クマなんだもの」


 待ち合わせ場所に現れた衿花は、何があったのだろう、目の横に大きな痣を作っていた。

 まぶたが紫色に腫れて、左目が塞がっていた。

 唇も切れてしまっているのか、端から血がにじんでいた。靴を履いていなかった。髪もぼさぼさだった。服が破れ、一番上のボタンが引きちぎられていた。

「どうしたの」

 どうもしない、です。そう言って衿花はわたしから目を逸らした。ゆすらが彼女の姿を見て、くすくすと笑っていた。

 せっかくのデート、なのだけれど。

 彼女はずっと俯いていて、話しかけてもろくに返事をしなかった。膝の上に抱いたゆすらの頭を、ただ、静かに撫でていた。

「どこか、コンビニでコーヒーでも飲む?」

 訊ねると、小さく頷く。

 峠道の入り口にあるコンビニに車を止めて、交代でトイレに入った。急に生理が始まってしまって、下着が少し汚れていた。用を足して個室から出てくると衿花がペットボトルの並んだ棚をじっと見つめていた。お茶や清涼飲料水のボトルの中で、色とりどりの金魚が泳いでいた。

 綺麗。

 ぽつりと呟くその声を聞いて、わたしは、少しだけ欲情した。血が、どろっと垂れてきた。

 ねえ、先生。

「なに?」

 わたし卒業なんてしたくなかった。ずっと、先生と一緒にいたかった。前に言ったよね、先生。わたしは学校の亡霊だって。みんな季節が巡れば卒業していく。わたしたち教師だけが学校に取り残される。いつまで経ってもどこにも行けない、亡霊みたいだ、って。

 衿花がまだ保健室登校をしていた頃。

 そんな話をしたことを、ぼんやりと思い出す。

「高校は楽しくない?」

 ……楽しくない。

 だって、先生がいないんだもの。

 朝日が霧を溶かしていく。わたしは彼女のためのスリッパと、Sサイズのホットコーヒーを二つ購入した。車に戻って席に着き、手動で幌を開けると、桜の花びらが頭上から舞い込んできた。


 ……誰?

「初めまして、かな。美術の先生してる野々市椿です。わたしの顔、見たことある?」

 衿花はベッドに腰をかけたまま、小さく首を横に振った。左手首に巻いた包帯に血がにじんでいた。暗い部屋は消毒液のにおいで満ちていた。雨が降っていた。蛍光灯がじじ、と音を立てた。校庭ではあちこちに池ができ、生徒たちが雨に降り込められて、溺れそうになっていた。

「養護の梅比良先生に聞いてきたんだけど。石蕗さん、絵が上手なんだって?」

 衿花はまた同じように首を横に振って、上手なんかじゃありません、と消え入りそうな声で言った。悲しいほどに綺麗な声だった。

 ……それに、絵が上手くても、何にもなりませんし。

「そうかな。自慢できるよ。少なくともわたしは目にとめる。絵が上手な人、わたし好きだもの。ねえ、石蕗さん。わたしたち、友達になれないかな」

 ……友達?

「先生と生徒って、枠を超えて。垣根を越えて。そうしたら、わたし、きっと亡霊じゃなくなると思うんだ」

 亡霊?

 ベッドの上には、彼女が描き散らした椿の絵。自分の血で赤く塗られた花の連なり。院体画のように、とても写実的に描かれているその絵。

 まるで、わたしの到来を告げていたかのような。綺麗な、綺麗すぎた絵。

「あなたが好き、ってことよ」

 意味がわかりません。

 そう言いながら、衿花が眉をひそめたのを、視線を外して、ほんの僅かに頬を染めたのを、わたしは今、思い出していた。


 わたしの分のコーヒーは?

 ゆすらが抗議の声を上げた。テディベアなんだから、コーヒーなんて飲めるわけがないのに。仲間外れにされるのが嫌なのだ。

 衿花はちょっとだけ困った顔をすると、ちらりとわたしの顔を窺ってから、ゆすらの頭頂部のあたりに自分の鼻を押し当てて、目を閉じた。そんな彼女たちの姿を見ていると微笑ましくて、気の多いわたしは苦笑を返すことしかできない。

 シフトを小刻みに操作しながら、山道を登っていく。

 花びらが車内に満ちていく。

 わたしの上にも、衿花の上にも、桜の花が舞い落ちる。ゆすらはもう、花びらに埋もれて見えなくなっていた。

「花で窒息しそうだね」

 はい。ゆすらちゃん、もう、息をしていませんよ。

 衿花が今日、初めて笑う。くすくすと、小さな声で。痛々しい、傷だらけの顔で。


 そのお寺は山の中腹にある。

 わたしが美大生の頃、よく写生にきた場所で、学長賞をもらったときの絵も、ここの桜だった。

 山門の近くに車を止めてドアを開けると大量の花びらが車内から流れ落ちた。衿花がゆすらを抱え、花びらまみれになりながら降りてくる。

 境内の小さな池のほとり。

 しだれの桜が水面まで枝を伸ばして、咲き誇っている。ミルク色の霧のなごりが、幽かにたゆたっていた。

 滔々とした春の陽射しが綺麗。重たげに咲いた花が水面を撫でると、餌と間違えるのだろうか、緋鯉たちがその都度跳ねるのだった。

 わたしは汚れてしまった下着を脱いで、池に放った。

 赤い鯉たちが寄ってくるのを、衿花と手をつなぎながら、見ていた。

 血が、わたしの足を伝って落ちる。鯉と同じ色の血が。

 綺麗な桜ですね。

 夢見るような声で、衿花が呟く。

 わたしは冷たい彼女の手を握りしめて、そうね、と囁く。

「でもね、綺麗なものは儚いの」

 なぜ?

「あまりに短い時間で別れてしまうものを、人は惜しむ。胸を痛める。それが、愛の本質だから」

 それって、わたしたちは終わり、ってことですか。

 衿花がゆすらを抱きしめて、不安そうにわたしを見つめる。

 潰れてしまった左目に、涙が浮かんでいる。

「どんなものにも終わりはあるよ。でも」

 でも?

 若い彼女にはきっと、まだわからない。何が本当で、何がそうじゃないのかなんて。何が嘘で、何がそうじゃないのかなんて。

「少し歩きましょう」

 寺は荒れている。ところどころ屋根も落ちている。今ではもう、管理する人もいないのだろう。

 なら、さっきから聞こえるこの鐘の音はどこから響いているのだろうか。誰が鳴らしているのだろうか。

 ううん、違う。違うのかもしれない。それはもしかしたら、わたしの心臓の鼓動、そのものなのかもしれない。わたしの小さな胸を内側から叩いている、命の音、なのかもしれない。

 わたしの血がわたしの足を伝う。

 ひとすじの糸みたい。運命、そのものみたいだと思うのは、いささかロマンチックに過ぎるだろうか。

 まだ新しい白いスニーカーを汚して、玉砂利に点々と赤い跡をつける。どれがわたしの血なのか、どれが桜の花びらなのか、よくわからなくなる。

 わたしたちは歩き続ける。

 どこまでいっても追いかけてくる季節の巡りから、時間そのものから、逃れるように歩き続ける。

 鐘は安珍を焼き殺す清姫のような優しい音色で、いつまでも鳴り響いている。わたしは思わず胸に手を当てる。桜のにおい。焦がれてしまう愛のにおい。鼻を覆いたくなるようなそれは、きっと、春そのもののにおいだった。

 目を瞑る。

 わたしを見つめる彼女の視線を感じる。

 衿花の冷たい指の感触が手に伝わる。

 リストカットの痕にそっと触れる。

 息づかいがわたしの呼吸と重なる。

 目を瞑りながら歩く。視界が白く消える。世界が消える。何もかもが、なくなってしまう。

 でも、

 美しい花を見た記憶は、消えたりしない。

 ずっと、心の奥に、いつまでも。

 残り続ける。


「わたし、あなたのことが好きよ。本当よ」


 わたしはあなたを、愛してる。


 この春の音が、鳴り響く限り。

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パレードが続くなら。 月庭一花 @alice02AA

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