こゆきとのぞみのお悩み相談室 「溺れない約束」

地崎守 晶 

溺れない約束

 胸の奥から勝手に抜け出そうとする息。内側から叩かれているように耳に激しい音が響く。沁みる瞼を持ち上げると、光る水面は恐ろしいほど遠い。

 水を吸った服が重く、もがく短い手足が痺れていく。

 体が、沈んでいく。おぼれる。

 必死にこらえていたのに、口から最後の空気を吐き出してしまう。そのあぶくがきらきら光りながら上っていき、自分は下へ、下へ。

 もう、ダメだ。

 そう思ったとき、感覚の失せた手が掴まれ、体が持ち上げられる。かすんだ目に、大きな大人の体が広がる。力強い腕。

 あれほど遠かった水面が、近づいてきて、光があふれる。


 見開いた目は、見慣れた学生寮の天井を見つめていた。滝のように汗をかいて、冷えた体を震わせる。


「また、あの夢か……」


 体を起こす。狭い部屋、机の上には開いたままの参考書がいくつか。そのうちの一つ、赤十字救急法講習教本と、それからルーズリーフのメモを手に取る。

 俺が必ず向き合わなければならない、繰り返し夢に出てくる過去。そのために、メモに書いた怪しげな奴らを頼る必要があった。


「谷山直貴くん20歳、スポーツ健康学部所属2回生、と……部活は水泳部、将来の夢は救命師。夏休み中はプールの監視員とバーガーショップのバイトの掛け持ち……がんばりやさんやなあ」


 白い髪と上下真っ黒の服にサングラスというやたら目立つ格好の女子大生が、にやっと笑って助手席から俺を振り返る。


「あ、ああ、そうだけど……」


 ずい、と顔を後部座席に突き出してきた、「小雪」と名乗る妖しげな女に軽く身を引きながら口ごもる。正直、うさんくさかった。

 「どんなお悩みもズバッと解決☆」とやたらポップなフォントのキャッチコピーを掲げた「こゆきとのぞみのお悩み相談室」――大学内の一種の都市伝説めいた、大小さまざまなトラブルを潰して回る何でも屋――のホームページで匿名の投稿をしたのはつい三日前のことだ。

 そこから1回目の返信で「探しとる人、見つけたから大学の正門前に来てな~♪」とだけいざ待ち合わせに出向けば早速ドライブに連れ出された。大学のある高台をぐるりと回るように道が続いているので、背中がぐっと後部座席に押し付けられる。

 あまりにも都合が良すぎるし、「小雪」の妖しさ満点の見た目と、俺の素性を全部言い当てた言動のせいで信用できない。


「こら、いきなりそんなこと言ったらびっくりさせるでしょ」


 ハンドルを握る、こちらは長い黒髪と白がメインのキレカジを着込んだ女子大生が彼女を肘で小突く。彼女は「のぞみ」と名乗っていた。


「ごめんなさい、コイツ人を振り回さないと気が済まないたちなのよ。まぁたぶん、あなたのバッグから飛び出してる付箋のついた参考書としおり代わりのバーガーのクーポン、日焼けのつきかたなんかから言い当てたんでしょうけど」

「ふふ、いつの間にかキミもかなり観察眼が上がったねぇ、ワトソンくん?」

「アンタはホームズってガラじゃないでしょ」


 そんな気の抜けるやりとりをすると、のぞみは咳払いを一つして、ミラー越しに俺に視線を向けた。


「でも今回の依頼が早かったのはたまたまよ。あなたの探し人も、ちょうどあなたを探していたから」

「え、それって……」


 口ごもり、流れていく町並みに目を向ける。俺が自分のけじめと覚悟のために向き合おうと思っていた過去。それはどこまでも俺の勝手でしかなくて、あの日俺を助けて犠牲になった人の家族も、俺を探していた?


「探し人は、むか~しの水難事故で亡くなった水替氏当時41歳の遺族。……もちろん、ワケをムリに話せとは言わへん。ただ、ちいっとラクになりとうなったら。このドライブが終わるまで時間もあるわけやし、耳となんやったら胸も貸すで」


 サングラス越しにウィンクをしてみせた小雪の、突き出した胸のふくらみから努力して目をそらしてから、俺は息をついた。いざ対面する前に、胸の内を整理しておきたかったのは事実だった。このうさんくさい白黒女は、人の心に滑り込むのが上手すぎる。


「じゃあ、耳だけ貸りるよ。

……俺は、その水難事故で助けてもらったんだ。まだ小学生になりたてのころ、家族で海水浴に言ったとき……」


 オープンカーが風を受け、運転席と助手席の二色の髪がなびく中、二人は俺の言葉を黙って聞いていた。


 小さい頃の俺は、親の目が離れたすきに、海水浴場の「立ち入り禁止」の看板を無視して、沖に向けて突き出した岩場に上ってしまった。テレビで見た、高飛び込みの真似をしてみたかったんだと思う。

 けれどいざ登って、太陽にきらめく海面を見下ろすと、その高さにびびって腰が抜け、飛び込むことも、引き返すことも出来なくなってしまった。直貴、と大声がした。顔を青くして俺を探していた母さんの上げた悲鳴に驚いた俺は、足を滑らして岩場の真下、そこだけ恐ろしいほど黒々とした海に落っこちた。岩場の下はそこだけやけに深く、流れも速かった。

 あっけなく溺れた俺は、もうダメだと思った瞬間、たくましい腕に引き上げられ、意識を失った。


 病院で目が覚めた俺を待っていたのは泣いて喜ぶ母さんの抱擁と、父さんの拳骨と、……そして、俺を助けてくれた見知らぬ男性が亡くなった、という事実だった。

 あまりにもショックが大きすぎて、それをどう受け止めていいのか分からなかった。前後の記憶はあいまいだけれど、あの日泣きはらした目で俺を見ていた女の子のことを覚えている。

 俺が助かった代わりに、あの子はお父さんを亡くした。そうして俺は大学生になるまで生きることが出来た。たびたびあの日のことを、溺れてあの人に助けられる夢を見るようになった。

 その意味を、ずっと考え続けていた。そして進路を選ぶ時期になって、俺は命を救う仕事を目指すと決めた。


「俺は、大人になるには……あの人に、あの人の家族に、向き合わないといけない気がするんだ」


 それが、あの夢を見る、意味だと思うから。

 しゃべり終えると、喉の乾きを感じた。いつの間にか車の中を通る風に潮の香りがしていた。


「なるほどなぁ、立派なもんや。どうや、のぞみちゃん?

水替家の嬢ちゃんに会わせてもええ?

のぞみちゃん、反対しとったもんな。いたずらに辛い過去に直面させるな、言うて」

「……今の話聞いてダメとは言わないわよ、後は本人同士の問題でしょ」

「あ、のぞみちゃんちょっと泣きそうになっとる」

「うっさい、運転に集中出来ないでしょ!」

「ふふ、じゃあ合格やな、よかったなあ直貴くん」


 どうやら、あの日の女の子とすでに関わっている「相談室」の彼女たちに、俺は認められたらしい。少し胸の中が軽くなって、顔を上げた俺は、車が角を曲がった瞬間目の前に広がった青い海のまぶしさに目を細めた。

 あの日訪れた海水浴場は、今も賑わっている。

 オープンカーの向かう先、一軒の民家の前で、大きな麦わら帽子をかぶった女性が立っていた。


 水替家の墓は、海を臨む高台にあった。「相談室」の二人が持たせてくれた花束を添え、線香を上げる。手を合わせて目をつむる。

 蝉時雨が耳を満たす中、俺は心の中で恩人に語りかけた。

 目をあけると、視線を感じた。横を見ると、俺と同い年くらいの女性と目が会う。あの日父親を喪い泣いていた女の子。水替真海と名乗った彼女のその瞳が、まっすぐ俺を見ていた。

 俺が何か言う前に、彼女が静かに口を開いた。


「あなたを恨んだことも、ありました。

あの日あなたを助けなければ、お父さんは死なずに済んだって」


 半ば覚悟していた言葉だったけれど、その重さに俺は目を伏せかけ、

でも、と 真海さんが続けた言葉に、俺は顔を上げる。


「父は海が……家から見えるあの海が好きでした。海は綺麗で、同時に怖いところだって、よく言っていました。だからこそ、好きな海で悲しい思いをする人がいないほうが良いって。だから、お父さんのしたことが間違いだとは思いません。

 お父さんが助けたあの男の子が、どんな大人になってるか、人に迷惑をかけるような人だったらいやだな、と思って、探してもらいました。

 けれどお父さんのお墓参りをしたいと聞いて、溺れる人を救う仕事を目指してる、と知れて。うれしかったんです。お父さんのように、海で誰かを助ける人になってくれたら、お父さんが私を残していったことも意味があるって気がして。

……すみません。勝手なこと、言って」


 そこで真海さんは困ったように笑った。


「いや……いいえ。あなたのお父さんが、俺を助けてくれた意味。俺が今日まで生きてきたことに意味があるなら、きっと海で一人でも誰かを助けることだって、思うんです。だから……真海さんの話が聞けて、よかった」


 そう返すと、真海さんは瞼をぎゅっと閉じた。少し涙の滲んだ目で、再び俺をまっすぐ見つめてくれる。


「約束して、もらえますか」

「何を、でしょう」


 揺れる声で、彼女は答えた。


「溺れないでください。

……溺れる誰かを助けても、あなたが溺れたら。あなたがいなくなったら。お父さんのいなくなった私のように、悲しむ人がいます。だから、私のわがままですけど。あなたの大切な人も、そして私も悲しみますから」


――あなたは溺れないでください。


 胸に響く言葉。俺は黙って、彼女の目を見て、しっかりと頷いた。

 帰りの車中、俺は傾いた日に照らされる海に目をやった。

 あの青の美しさと、恐ろしさに挑む覚悟と決意。それをもらった夏の日のことを、きっと忘れないだろう。

 今日のことを胸に、俺は溺れずに泳いでいく。






 

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