帰っておいで

縦縞ヨリ

帰っておいで

 ある春の寒い日の早朝、俺は親父と真っ暗な海を見ていた。俺の目はやがて霞んで、そうして何も、見えなくなった。


「何でだよ!神様がなんだってんだ!」

 涙声で叫ぶ俺に、親父は酷く渋い顔をした。

 昨今、近年稀に見る天災が幾つもあり、沢山の人が自然の猛威に傷ついた。

 俺は受験生で、神道系の大学に進学する予定だ。そして、いずれは叔父さんの所の神社を継ぐ事に決まっている。これはもう、この家系の男に産まれた宿命みたいなものだろう。

 俺だって神様の存在を感じる時はある。万物に感謝して飯を食うし、神様が居ないなんて思ったことは無い。

 それでも。

「神様は居るのに、なんであの人達は助けて貰えないんだよ……!」

 液晶画面は、被災地を、深い悲しみと押し殺した様な憤りを込めて映し出している。

 毎年と言っていい程に、様々な天災で奪われる無数の命。その全てが天命だなんで思える訳もなかった。

 親父は渋い顔のまま、買ってあった来年のカレンダーを何枚か捲り、その辺にあった赤ペンで丸をつける。

「……この日は空けておけ」

 親父は、俺の喉が切れるほどの叫びには答えずそれだけ言って、席を立った。

 多分、叔父さんのとこの神社に行くんだろう。

 俺は一人残されて、泣きながら部屋に篭もり、夕飯も食べずにずっと泣いた。

 あんまりだと思った。いや、物心着いた頃から、ずっとあんまりだと思っていたのだ。

 神様はなんで、全ての人を救ってはくれないんだろう。こんな気持ちで、神職なんて務まるのだろうか。

 

 

 それから数ヶ月経ち、やっとカレンダーに丸をつけた日になった。

 明け方の春の風はまだ酷く冷たい。

 少し前に受験も無事終わり、高校も卒業した。四月からは、将来神職を務めるべく勉学に励む事になる。今は言ってみれば春休みみたいなものだが、未だに心は釈然としないまま、ただ敷かれたレールに乗ってしまった様な気がしている。


 俺は前日のうちに詰めたらしい荷物と共に、親父のワンボックスに詰め込まれた。

 明け方暗いうちに出発して、高速道路を延々と走り、やっと目的地にたどり着いたのはもう夕日も沈みそうな時間だった。

 そこは小高い丘にある小さな神社で、俺たちは何とか日の出ているうちにお参りをして、お神酒を供えて車に戻る。

「今日は車で寝るの?」

 聞くと親父は首を振った。

「傍に開けたとこがあるから、そこに陣取る。車は入れんからここに置いていく」

 昔から寡黙で、家の中をのしのし歩く熊みたいな親父は、車からキャンプ道具を担ぎ出すと、テントだの寝袋だのタープだのの袋を、俺に投げて寄越した。

 焚き火台にちょっとした食事、コーヒーを飲む道具一式。二人で何とか持ち切れる量だ。

 どれだけ歩くのかと覚悟したが、なんて事ない、ちょっと茂みを抜けて、二、三分くらい歩いただけだった。

 海だ。

 小高い丘から、夕日に真っ赤に染まった海が見える。それは美しく神々しくて、同時に何処か不穏な風景でもあった。

 この海は、かつて数千人もの人を飲み込んだのである。日付は丁度明日だ。

「とっとと準備するぞ、飯食ったら仮眠取る、明け方4時には起きなきゃならん」

 親父はテントのバッグを開いて、俺も慌ててポールを伸ばす。ランタンはあるが、なるべく日のあるうちに支度をしないといけない。なんせ街灯も無い様な場所で、夜はもう暗いなんてもんじゃ無いだろう。

「ここ、熊出るの?」

 熊よけのスプレーを投げて寄越され、ぞっとする。結構大きな缶の冷たさが、背筋まで凍らせるみたいだ。

「熊は運が悪かったら出るだろうな、心積りはしておけ」

「襲われるかも知れない?」

 にやっと笑った熊みたいな顔が憎たらしい。

「冬眠明けだろうしな」

 神社の息子だろうがなんだろうが、天災も獣害も平等に訪れる。今晩は怖くて眠れないかも知れない。

 テントを早々に組み上げて、寝床より先に、焚き火台を準備する。火があれば僅かでも安心感を得られる気がした。


 行きに買ってきた弁当で夕食を取り、外の焚き火はそのまま、俺と親父は寝袋に入った。マットを敷いてあるから痛くは無いが、寒さは染みる。薪ストーブを持ってきたら良かったのに。苦し紛れに、ダウンジャケットを寝袋にかける。着て入ると狭くて寝られないような気がしたのだ。

「……地震とかさ、天災って何で起きるの?」

「日本の下はひずんでるからだ。学校で習ったろ。大雨だとかは俺もわからん」

 プレートの変動が原因で地震が起きる。そんなのは知ってる。でも聞きたいのはそういう事では無い。

「神様はどうしてそれを止めてくれないの」

 大きく溜息が聞こえて、少し黙った後に、親父は呟くみたいに言った。

「日本のな、神さんは万能じゃねぇ、……いい、寝ろ、明日にはわかる」

「親父はいっつもそうだ、俺が聞いても全然答えてくんない」

「良いから寝ろ」

 むっとして押し黙ると、間もなく親父のいびきが聞こえて来た。朝からずっと運転をしていたのだ、仕方ないか。

 横から轟音が聴こえている中果たして眠れるものかと思ったが、自分も移動で疲れていたのか、思ったより直ぐに意識を手放してしまった。


「おい、起きろ」

 はっと目を覚ます。ごそごそと寝袋から這い出ると、親父はもうダウンを着込んで、表に出る所だった。

「まだ真っ暗じゃないか」

「じきに見える……」

 親父が闇に消えるのに、急に不安になって飛び起きる。俺はダウンを羽織って、熊よけのスプレーを御守りみたいにしてテントを出た。

 冷たい風が吹き付ける。外は真っ暗だ。

 焚き火台の火もとっくに消えて、どす黒い海は夜との境が分からない。

 どこか遠くから、カタカタと音がした。

「何……何の音?」

 音の方向を恐る恐る探る。獣の類の音では無く、もっと何か、木の板がぶつかるみたいな音だ。

 カタカタカタカタカタカタ…………

 神社の方か?

 振り向こうとした時、天空を何かが駆けて行った。

 それは雲のように薄く、しかしはっきりと形を成した、四つ足の獣だった。巨大な獣が、真っ暗な海へ向かって空を駆け抜ける。

「見えたか」

 深緑のダウンのポケットに手を突っ込み、ネックウォーマーに亀みたいに埋まって、低い声で親父は言った。

 見えた、という前に、頭上を幾筋もの線が駆けて行った。あれは多分、犬だ。狛犬だろうか。

「何あれ」

 空気がおかしい。昨日の夜とは明らかに異質な空間だ。何か自分の目に見えないものも、辺りを駆け抜けていくのが分かる。しかし北風の合間を縫うように、頬を掠める温かさに邪悪さは全くない。

 直感的に思う。これは神様の類だ。

「命日は絆が深く強くなる、ああやって氏子を探してんだ。日の出前から出てくるのは大分せっかちだが……神さんも必死なんだろうな」

「神様が帰ってこない人を探すの?なんで?」

 親父は海に向かって手を合わせた。

「お前が帰ってこなかったら、俺だって必死に探すだろうよ。そういうこった。海に飲まれちまった氏子の御魂をな、必死に探すんだよ」

「……神様なのに?」

 白い大きな龍が、長い尾をゆらめかせて、海に向かう。青みがかった目は、真っ直ぐ黒い海を見据えている。

 赤い服を着た沢山の狐が、小さな足で空を蹴る。

「神さんだからだ。八百万の神さんは万能じゃない。どんなに踏ん張っても、歪みを止められない時もある。それを悔やんで子供らを探すんだ。かつて境内で遊んでた子供ら、俺らだって神さんからしたら赤ん坊みたいなもんだ」

 どうしようもなく愛しい、そういうものが、居なくなったら探すだろう。

 胸が苦しい。熱くなって、焼けるみたいに。

 俺はなんだかたまらなく切なくなって、黒い海に向かって手を合わせた。

 まだ帰らない御魂があるなら、早く見つかりますように。早く、家族の居る家に、帰れます様に。

 目はすっかり涙で霞んで、もうその姿を追うことは出来ない。

「お前は小さかったから覚えてないだろうがな、津波の時は、画面越しにも沢山見えたもんだ。お狐さんも蛇神さんも、妖怪か神さんかわからんようなものも、波に飛び込んでくんだ……何とか身を呈してでも止めようとしたんだろうな。そういうもんなんだ……」

 親父は、何度ここに足を運んだんだろうか。恐らくは、未だ戻らぬ魂と、それを救わんとする八百万の神々に祈る為に。 

 気がつけば、随分時間が経っていたみたいだ。水平線が金色に光り始めた。天照あまてらす様が降りてきたのだ。

 朝日が昇る。こんなに悲しい日でも、温かい光は降り注ぐ。見守られていると肌で感じる。

 明るさにかき消される様に、この世ならざるもの達は見えなくなった。それでも見えない姿のままで、今日という日を必死に駆け回るのだろう。

 親父はやっと椅子に座り、巾着から小さな携帯コンロを出して、コーヒーを沸かし始めた。俺も出してあった椅子に座って、目をゴシゴシ擦る。

 小さなポットが、コトコトと音を立てている。夢か幻みたいな時間だったのに、親父は平然と粉を計っている。

「……俺に出来ることってある?」 

「信じてやれ。神さんの力の源は信仰心だ。お前が信じれば、それだけで力になるんだ。学校でもそれだけ覚えて来ればいい」

「……でも単位取らないと神社継げ無いじゃん」

 親父はそれを聞いて、久しぶりに歯を見せて笑った。一晩でずいぶん無精髭が生えて、更に熊っぽさが増したが気持ちの良い笑顔だった。

 親父は海を振り返る。夜の真っ暗な海とは違い、朝日の海はピンクと薄紫と橙色に染まって、幻想的にきらめいている。

 親父は満足気にそれを見て、コーヒーサーバーに湯を注ぎ始めた。

「最初の頃に比べたらもう殆ど残ってないんだ。人間もな、心の整理がつくまでは中々戻って来れなかったりするもんだ。大丈夫、神さんは優しくて根気強いから。ほら見ろ」

 ポットを置いて、白んできた空をすうっと指差す。俺は何にも見えないが、親父はまた手を合わせて、笑顔を見せた。

「……お前にはまだ見えないか?帰ってきたよ、ふかふかの背中に乗せてもらって、嬉しそうだ」


 

 終 

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帰っておいで 縦縞ヨリ @sayoritatejima

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