第10幕 第1場 舞台にて

 文化祭二日目。

 今日は湊高校の生徒だけではなく、一般参加も許可されているため、昨日とは打って変わり、右を向いても人、左を向いても人、どこもかしこも人ばかりだ。すれ違う人と肩がぶつからないよう、気をつけながら歩く。

 娯楽の少ない田舎町にとって、他校であろうが、縁もゆかりもなかろうが、高校の文化祭は貴重なイベントの一つだ。市内の別の学校に通う高校生たちを筆頭に、築五十年の木造校舎が人で溢れ返っている。演劇部の部室のある特別教室棟は一般参加者の立ち入りは禁止されているが、それでも賑やかな声が届いてくるほどである。

「どんどん焼き、買ってきました!」

 白鷹が本日何度目かわからない、特別教室棟と一般教室棟の往復から戻ってきた。

「白鷹さんって、どうしてこんなに食べるのに、全然太らないんですかね」

 舞鶴さんが怪訝な目つきで白鷹を眺めながら言った。

「舞鶴だって、まだ食べた分だけ太る年齢じゃないだろう」

 白鷹が椅子に腰を下ろしながら言葉を返した。

「その発言、多くの女子を敵に回しましたよ」

 舞鶴さんがこれ見よがしに肩を竦めた。

「葉山先輩、少し外を歩いてきたらどうですか?」

 白鷹が僕の方に体を向けて言った。

「いや」

 僕は台本から顔を上げると、首を横に振った。

「それなら、せめて胃に何か入れたほうがいいですよ」

 白鷹がどんどん焼きを一本手に取ると、もう一本残っているフードパックを僕に差し出してきた。初めからそのつもりで二本買ってきたのだろう。

「いくらだった?」

 スラックスの尻ポケットに手を突っ込んで財布を取り出す。

「小銭なので気にしないでください」

 白鷹が口端にソースをつけたまま答えた。

「バカ言え。後輩に奢らせられるかよ」

「葉山先輩は変なところで強情ですよね。百円でした」

 僕は百円玉を白鷹の前に置いた。

「舞鶴さんと歩は、オレたちに遠慮しないで外に出てきてもいいぞ」

 人間って、どうしてこれほどまでに欲に忠実な生き物なのだろうか。ソースの香りが漂ってきた瞬間、急に食欲が沸き立ってきた。

「満衣香は昨日、充分楽しんだので大丈夫です」

 朝一の当番を終えてきた舞鶴さんは、クラスの活動に未練がないのだろう。あっさりと答えた。

「それじゃあおれは、クラスの方にちょっとだけ顔を出してくるね!」

 歩が颯爽と部室から出ていった。

「アイツ、血統書付きのバカですね」

 白鷹がとっくに閉じている戸を見つめながら言った。

「白鷹、よく覚えておけよ。歩にはお世辞も社交辞令も一切通じないぞ。行間が読めない、言葉通りの意味でしか台詞を受け取れない人間だからな」

「そんな話を聞いたら、ますます京都に連れていきたくなりますね」

「京都か。歩にとっては相性が良い場所だな。ぶぶ漬けのお替りを勧められたら、炊飯器が空になるまでお替りするぞ」

 この世で一番最強の生き物ですね、と白鷹がペットボトルのお茶を一口飲んだ。

「ごめん! 予定よりも遅くなっちゃった!」

 メイド服姿の千歳が部室に駆け込んできた。スカートの裾がお転婆に跳ねている。

「今日も精が出るな」

「うちのクラス、売上賞を狙っているから人使いが荒くてね」

 千歳が真っ白なフリルのついたヘッドドレスを外しながら言った。暑いのか、手で顔を扇いでいる。

「女装コンテストの優勝だけじゃ、ご満足いただけなかったのか」

 千歳の働きは充分だろう、と思いながら言う。

「球技大会で優勝できなかったのが相当悔しかったみたい」

 優勝する気満々だったからね、と千歳が苦笑いを浮かべた。確か四組は準優勝だったはずだ。

「四組は相変わらず血の気が多いな。あんなクラスで、よく千歳がやっていけてるよな」

 千歳のコミュニケーション能力なら問題ないか、と自分で言いながら気づく。

「一組は狙ってないの? 売上賞」

「うちのクラスは最初からやる気がなかったからな。そうでもなけりゃ、出店にお化け屋敷なんて選ばねえよ」

「そう? お化け屋敷はお化け屋敷で面白そうだけど……。それに、演出はケイタが考えたんでしょう?」

「あんなもん、演出なんて呼べやしねえよ」

 僕は顔の前で手を振った。

「そんなことないですよ。なかなかの物でしたよ。それに、わずか六十四平方メートルの空間に物語を作るなんて、その発想が葉山先輩らしいですよ」

 白鷹が口端についていたソースを舌の先で拭った。

「白鷹、いつの間に行ってきたんだ?」

 驚いてむせ返った。だんだん焼きを食べ終わったあとでよかった。でなければ、白鷹の顔が大惨事になっていたところだ。

「シャーピンを買ってくる前に、覗いてきました」

 シャーピンは、白鷹が本日最初に買ってきた食べ物だ。ということは、今日の開幕直後に寄ってきたということだ。

「どうだった? 怖かった?」

 千歳が白鷹の方に身を乗り出した。

「怖かったというよりも感動しましたね」

「お化け屋敷なのに感動……?」

 千歳が眉を寄せた顔を傾げた。

 お化け屋敷に物語性を持たせることにしたのは、気まぐれの思いつきだった。山形市にある千歳山の阿古耶姫伝説をモチーフに、松の木の精である名取左衛門太郎を怨霊に置き換えた。

 このアイデアは、ディズニーランドのアトラクション『白雪姫と七人のこびと』を参考にした。トロッコに乗りながら白雪姫の物語を体験できるライド系のアトラクションなのだが、おとぎ話のような夢のある演出ではなく、白雪姫に毒リンゴを食べさせようとする魔女が要所、要所に現れる演出になっており、まるでお化け屋敷のような怖さがある。何なら主役であるはずの白雪姫は一度しか出てこず、タイトル詐欺もいいところだ。いっそアトラクション名を『魔女と七人のこびと』に変えたほうが看板に偽り無しだろう。

 幽霊はすべて左衛門太郎に統一した。結ばれなかった恋に未練があり、成仏できなかった霊が、阿古耶姫との思い出を振り返る構成だ。

 教室に入るとすぐに琴の音が流す。最初の角を曲がったところで一つ目のドッキリポイント。左衛門太郎が笛を鳴らしながら急に現れる。二つ目、三つ目を通過すると、最後は松の木に結ばれている縄を引くことで扉が開き、外に出られるようにした。

「へえ、面白そう。梅ちゃんは行ってきた?」

 千歳が、教室の隅っこですっかり空気になっていた笹野に話しかけた。

「え? なに?」

 笹野は僕たちの話を聞いていなかったらしい。青白い顔をこちらに向けた。

「ケイタのクラスのお化け屋敷に行ってきた? もしまだだったら、一緒に行ってこようよ」

 ちょっと千歳先輩! と白鷹が椅子から立ち上がった。

「まだ行ってないわ……」

「それなら、ちょっと外の空気を吸ってくるついでに行ってこよう!」

 千歳が立ち上がり、笹野の前へと移動する。

「自分もっ! 自分も行きます!」

 白鷹が慌てて千歳の後を追った。

「白鷹はさっき行ってきたんだろう」

「笹野先輩と一緒にお化け屋敷にいけるチャンスを、みすみす逃せるわけがないじゃないですか!」

 白鷹が声を張り上げた。

「うん、コウジも一緒に行こう。マイちゃんは行ってきた?」

「満衣香も行ってないです」

 舞鶴さんが顔を横に振った。

「マイちゃんも行こう。ということで、僕たちは少し外に出てくるから、ケイタはシズオを待っててね」

 千歳が振り返りがてらに片目を閉じてみせた。

「いってらー」

 戸が閉まり、静かになる。千歳のヤツ、上手いことやったなあ、と感心する。

 笹野は僕と同じく、朝から部室に顔を出していた。朝のSHRが終わると、クラスの映像喫茶の準備を手伝うことなく、直行してきたという。

 笹野の顔色はいつにもまして白かった。笹野とはクラスが違うこともあり、朝に顔を合わせることがあまりないため、いつもこの調子なのかどうかの判断がつかなかった。

 が、彼女が極度に緊張していることは節々から伝わってきた。いつもならば、暇な時間さえあれば英単語帳を開くのだが、今日は鞄から取り出してもいない。何をするでもなく、教室の角に椅子を運ぶと、落ち着きなく髪の毛先を弄っていた。

 そんな彼女を心配して、千歳は笹野を外に連れ出したのだろう。舞台に立つ前の緊張感は、僕よりも千歳の方がよほど理解が深いだろう。少しでも緊張が解れればいいが、と思いながら部室を見渡す。

 演劇部の活動も、あと数時間で終わりだ。この部室でも数々のドラマがあった。あのときは日常だと思っていたシーンが、走馬灯のように流れていく。

 程なくして、千歳たちが部室に戻ってきた。白鷹の恍惚とした表情を見る限り、千歳の気遣いは、後輩の一生の思い出作りにまで発展してしまったようだ。笹野の顔にも笑顔が見られ、少しは緊張も解れたようだ。

 人々の喧騒に急かされるように時間は流れ、部室に吾妻が現れないまま、体育館に移動しなければならない時間になっていた。

 笹野はしきりに時間を気にしており、本日もう何度目かわからない、壁に掛けられている時計をまた見つめた。

 いや、笹野だけではない。みんなが今日、何度壁掛け時計を見つめたことだろう。

「ケイタ……」

 千歳が僕の肩を叩いた。僕よりも千歳の方が冷静な様子だ。

「体育館に移動するぞ」

 僕の言葉に、誰も何も答えなかった。

 最初に椅子から立ち上がったのは、やはり千歳だった。その後に白鷹、笹野と続いた。朗らかに戸惑っている様子の舞鶴さんと歩が、三人の後を追いかけるようにのそのそと動き出した。

 僕は殴り書きしたメモを部室の戸に貼りつけると、体育館を目指して列の最後尾を歩いた。



 体育館に着くと、ステージでは生徒によるバンド演奏が行われていた。曲はオリジナルではなく有名なアーティストのコピーだったが、演奏の腕前はなかなかのもので、衣装も統一感があり、ばっちり決まっていた。

 ステージ前方の立ち見席は、湊高校の女子生徒と他校の制服を着ている女子生徒が入り交じっており、髪型が崩れることを気にもせず、ロックな曲調に合わせて飛び跳ねていた。

 バンド演奏は、あと三組続くはずだ。この空気の後に演劇をするのかと思いながら、僕は舞台袖に移動した。

「ケイタ……」

 千歳の不安そうに揺れる眼差しが僕を捉えていた。

「アイツは絶対に来る」

 僕は噛み付くように、反射的に答えた。

「でも、まだ学校に着いてませんよね……」

 白鷹は舞台袖に人が出入りする度に、その方向に目を向けていた。

「最悪の場合を考えて、葉山はロミオの衣装を着ておいた方がよさそうね」

 笹野が俯きながら言った。

「吾妻先輩に連絡できないんですか? 電話とかメッセージとか……」

 歩が口を走らせる。

「シズオの携帯に何度も電話を掛けているんだけど、電源が入っていないんだ。家の固定電話も、留守電に切り替わって繋がらなかったんだ」

 千歳が首を横に振りながら答えた。

「おれが吾妻さんの家まで行って来ましょうか? もし吾妻さんが学校に向かっているとしたら、途中ですれ違うかもしれませんが……」

 歩は居ても立っても居られないようだ。長い体を落ち付きなく揺らしている。

「その必要はない。アイツは絶対にくる」

 僕は歩の申し出をきっぱりと断った。

「でも、そろそろ時間になるわよ!」

 笹野がとうとう焦りを隠さずに声を張った。

「仕方がないけど、ケイタが舞台に立つしかないよ。次の団体も控えているから、僕たちの都合だけで開演時間を遅らせることはできないし……」

 千歳が悔しそうに表情を歪ませた。

「葉山先輩……」

 白鷹が僕に視線を寄越した。

「吾妻は来る。だから、いつでも途中で交代ができるよう、歩は自分の番が来るギリギリまで待機していてくれ。サポートを頼む」

 僕はようやく衣装に手を掛けた。ロミオの衣装は一つしかない。この衣装は、吾妻の体型に合わせて作られたものだ。悔しいが、僕が着ればパンツの裾が余るはずだ。

「わかった」

 歩が深々と頷いた。

「私も着替えてくるわ」

 そう言うと笹野は、舞鶴さんを連れて、キャットウォークにある更衣室へと向かった。



 ステージの進行は何のトラブルもなく、タイムテーブル通りに進み、いよいよ前の団体がステージに上がった。

 舞台袖に待機しているのは、進行役を務める生徒会の女子生徒と演劇部の部員だけになっていた。ステージ発表のトリを務める吹奏楽部は楽器の運搬に時間がかかるため、演劇部の公演後に十分の休憩が挟まることもあり、舞台袖には僕たちの他には誰も待機していない。

 ステージ上では曲の演奏が終わり、一際大きい歓声が上がっていた。

「ねえ、葉山……」

 僕の隣に立っている、ジュリエットの衣装に身を包んだ笹野が小声で囁いた。よく見ると薄っすらと化粧を施している。髪の毛もハーフアップになっている。

「私ね、とても緊張してるみたい」

 そう言うと笹野は、僕の手に自身の手を重ね合わせてきた。冷たく、白く、細い指だった。

「オレもだぞ」

 僕は、その手をぎゅっと力を込めて握り返した。

「おかしいよね。どうして、私がこんなところにいるんだろう……」

 笹野が、ぽつりと呟いた。

 今はMCの時間らしく、波打つような笑い声が聞こえてくる。

「それは、オレたちが笹野を選んだからだ。そして、笹野がオレたちを選んでくれたからだ。だから、笹野。ありがとうな、オレたちの我儘に付き合ってくれて……」

 僕は言葉と一緒に熱を含んだ息を吐き出した。

「昨日のお返しのつもり?」

 笹野が顔を少し傾けて笑った。それでも緊張しているのか、目は大きく見開かれたままだった。

「ああ。ざまあみろ」

 次の曲が始まる。あまり音楽に詳しくない僕でも聞いたことのある歌だった。

 舞台裏は静かだ。ステージとの温度差が、緊張感をさらに高めていた。

 三曲目の演奏が終わり、ついに前の団体がステージから舞台裏へ引っこんできた。

 彼らの額には汗の玉が浮かんでいた。達成感か、それとも緊張から開放されたからか、清々しいほどに誰もが笑顔だった。

「演劇部のみなさん、準備をお願いします」

 主役の吾妻がいないという事情を知らない進行役の女子生徒が、時報のような機械的な口調で言った。彼女の言葉に、みんなが懇願するような眼差しを僕に向けた。

 僕は唾を飲み込んでから重たい口を開いた。

「行くぞ、舞台の幕上げだ」

「はい!」

 部員たちの声が綺麗に揃った。

 吾妻がいない中、みんなの心が一つになれているかどうかは分からない。それでも、おそらく誰もが自分の最低限の役割だけは担おうと心に誓っているに違いない。舞台はとっくのとうに始まっている。春とは呼べない、指先を擦り合わせ、息を吹きかけていた四月のあの日から、筋書きはできあがっていた。

 体育館の照明が落ちる。

 浮かされた熱はそのままに、波が引くように喧騒が静まっていく。幕の向こう側の世界が、見えてもいないのに感じ取れる。 

 観客に気付かれないよう、笹野がキャットウォークに移動する。僕はそれを見送ってから、息を吸ってステージに上がった。

 僕にとっては二年ぶりのステージだ。

 幕はまだ閉じられている。徐々に目が暗闇に慣れ始めてきた。

 打ち合わせでは、ロミオが指定の位置に止まるのを合図に幕が開くことになっている。僕はその目印を無視してそのまま突き進んだ。

「ケイタ……!」

 予定とは違う行動を取る僕に逸早く気付いた千歳が、思わずといった調子で声を上げた。僕はその声を背中に浴びてなお、幕を自身の手で開き、ステージの中心に向かって進んだ。

 体育館は耳が痛いほどに静かだった。

 バンド演奏を聞いていた観客がそのまま残っているのか、それとも僕たち演劇部の公演を観るために来てくれた人たちなのか、期待を上回る数の人たちがそこにいた。もう劇が始まったと勘違いしている観客の中から、ちらほらと拍手の音が疎らに鳴る。

 僕は鼻から息を吸い込むと、顎を持ち上げた。

「吾妻! ここにいるんだろう! いるなら、叫べ! そこはオレの場所だって! 隠れてないで、さっさと舞台に上がってこい!」

 僕の声は、静まり返っている体育館に響き渡った。様子がおかしいことに気付いたのか、客席がざわつき始めた。

 千歳が舞台袖から顔を出しステージを見つめている。僕は肩で大きく息を吸い込んでから続けて叫んだ。

「自分の居場所を、簡単に他人に譲るんじゃねえぞ!」

 吐き出す息に合わせ、心臓が跳ね上がった。

 改めて客席をぐるりと見渡す。空席が少ない。椅子に座れず、壁に寄りかかって見ている人までいる。キャットウォークが閉鎖されていなければ、もっと多くの人たちが体育館に入っていたかもしれない。

 僕は泣き出しそうになる鼻の痛みを誤魔化して、もう一度叫んだ。

「オレ、本当は最後まで台詞を覚えてねえんだよ!」

 そのとき、波打つようにどよめいている客席から、誰かが立ち上がった。ツバのついた帽子を深くかぶっているせいで顔は見えないが、シルエットの高さから、おそらく男であることはわかった。

 その男は、ステージに向かって真っ直ぐ歩いて来た。スポットライトが男の行く道をなぞるように走る。スポットライトを操っている、北沢の導く光が目に焼き付く。

 男は膝を高く持ち上げ、ステージに飛び乗った。僕の前に男が立つ。男の手が上に伸び、顔を隠している帽子を掴んだ。そして、その帽子を客席に向かって投げ上げた。客席の視線が放物線を辿る。

「シズオ!」

「吾妻先輩!」

「吾妻……」

 いつの間にキャットウォークから降りてきたのか、笹野が呆然とした表情で名前を呟いた。と思った次の瞬間、吾妻の胸元に飛び込んだ。

「何してるのよっ! バカっ! バカ、バカ!」

 笹野が一心不乱に吾妻の胸元に拳をぶつける。

「悪かった」

 そう言うと吾妻は、笹野の後頭部を掴んで自身の胸へと抱き寄せた。

 客席から歓声が上がる。

「こらっ! クライマックスはまだだぞ!」

 僕は思わず舌打ちを零してから吾妻の肩に手を乗せ、二人を舞台袖へと下がらせた。

 進行役の女子生徒からマイクを奪ったらしい歩が「アクシデントに伴い、少々お待ちください」と注意のナレーションを入れた。

 僕は進行役の女子生徒を気にせず、その場で衣装を脱ぎ捨てると、それを吾妻に手渡した。素直に受け取った吾妻もその場で着替え始める。

「こら演劇部! 何を勝手なことをしているっ!」

 牛渡の声だ。聞こえたと思った瞬間、どっしりとした巨体が眼の前に現れた。

「市長が吹奏楽部の演奏を聴きにくるんだ。一分でも遅らせてみろ、お前ら全員、停学だからな。終了時間を間に合わせられないというのなら、このまま辞退しろ!」

「そんな! 進行を遅らせてしまっていることは謝ります。だけど、おれたち、この日のために練習を積み重ねてきたんです! お願いします。予定通り公演させてください」

 僕は牛渡に向かって頭を下げた。

「駄目だ。スケジュールを一分足りとも遅らせるわけにはいかん!」

 牛渡が叫んだ。

「どこかのシーンをカットして、時間を調整することはできないの?」

 千歳が小声で訊ねてきた。

「普通の演劇なら、土壇場だって台本に修正を入れて時間調整をできる。でも今回は、英語の台詞で字幕付きの劇だ。台本に修正を入れられても字幕の修正がどうしたって間に合わない」

 答える声がつい大きくなった。パソコンを操作するのが白鷹だったらどうにかできるかもしれないが、舞鶴さんだ。絶対に無理だ。

「とにかく! 時間調整ができないのなら、幕を上げることは絶対に許可しない!」

 牛渡が怒鳴った。

「牛渡先生! 延長させてください! お願いします!」

 僕は腰から体を曲げて頭を下げた。

「許可できるわけがないだろう!」

 牛渡が怒鳴る。そのせいで腹が揺れ、押し当てている顔が弾んだ。

「お願いします! 何でもしますから!」

 僕は必死で言葉を紡いだ。

「廊下の雑巾がけでも、トイレ掃除でも、冬の雪かきでも、何でもしますから! 十分だけ、オレたちに時間をください!」

 もう一度、頭を下げる。

「責任なら私が取ります!」

 熊野先生が、肩で息をしながらステージ裏に駆け込んできた。ステージに上がる吾妻を見て駆けつけてくれたのだろう。

「牛渡先生! 私からもお願いします! 私も責任を取りますから!」

 熊野先生が僕の隣に並んで頭を下げた。

 誰も信じられない、と語っていた熊野先生の声が脳裏に蘇る。それなのに今、熊野先生が自分たちの味方になっていることに驚く。

 牛渡の体の動きが、ぴたりと止まった。

「熊野先生、今何とおっしゃいましたか?」

 牛渡がのっそりと振り返り、熊野先生に体を向けた。

「私も責任を取ります。だから、彼らを舞台に立たせてやってください」

 熊野先生がもう一度言った。

 牛渡の目の色が変わった。いや、形が変わった。やけに細めた目で、熊野先生を見た。

「それはどういう意味ですか?」

 牛渡が腕を組み、熊野先生を上から下まで舐めるような視線で見た。

「私は演劇部の顧問です。彼らの頑張りを知っていて、黙っていられません」

「いいですか、熊野先生。文化祭は何も演劇部だけのものではないんです。湊高校の生徒、みんなのものなんです。だから彼らの我儘を許すわけにはいかないんです。それに、市長が吹奏楽部の演奏を聴くというスケジュールが決まっているんです。熊野先生に、市長のスケジュールを遅らせた責任が取れますか?」

 そう言うと牛渡は、鼻を大きく鳴らした。

「そのことは重々承知です。承知の上で、お願いしています。私が全責任を負いますので、どうか、よろしくお願いします」

 熊野先生が体を九十度に折り曲げ、頭を下げた。

「誰が肩を持つとか、そういう話じゃないんですよ。熊野先生はまだお若いですし、生徒たちの青春ごっこに混ざりたいのかもしれませんが、あなたは教師です。もう少し、教師としての自覚を持って発言して頂きたいものです」

 牛渡は顔を横に振りながら、溜め息交じりに言った。

「十分だけ、という言葉に嘘はないですか?」

 妙に落ち着いた声が突然、割って入った。ここにいる全員の視線が走った先には、校長の姿があった。

「あの……校長先生?」

 声を掛けた牛渡の存在を無視して、校長が僕たちの前に立った。

「今年の演劇部のみなさんは、ずいぶん活動的だったみたいですね。インターネットのことはよくわかりませんが、私の耳にも届いていましたよ。実は私の孫も、今回の舞台を楽しみにしていて、ここに観に来ているんです。だから今回だけ、いえ十分だけ、時間を許しましょう」

「校長先生!」

 牛渡が叫ぶ。

「もちろん、私も楽しみにしていたんですよ。君たちの舞台を……」

 そう言うと校長は、客席へと消えていった。牛渡がその後ろを追いかけていく。

「熊野先生……」

 僕は未だ信じられず、焦点の合わない視線を何とか熊野先生へ向けた。

「オレたちのために頭を下げていただき、ありがとうございました」

「いや、格好付けた台詞だけ言って、こんな状況になるまで、何もしてやれなくてごめんな」

 熊野先生は牛渡に歯向かった気疲れからか、顔がげっそりとしていた。

「あの……」

 進行役の女子生徒が、申し訳なさそうにこちらを見ていた。

「急いで準備をした方がよいかと……」

 彼女の言葉に、我に返った僕たちは俊敏に動き始めた。

 今は感動している場合ではないのだ。僕たちが、僕たちの舞台を待ってくれている観客たちを感動させなければならないのだ。

 笹野がキャットウォークへと移動し、千歳と白鷹がステージ奥の方へと引っ込んでいく。

 まだ衣装に着替えている吾妻と二人きりになった。

「……台詞、覚えてないって本当なのか?」

 吾妻が声を潜めて言った。

「おれの演技力も、まだ捨てたもんじゃねえな」

 僕が笑みを零すと、

「ケータ……」

 吾妻が口を半開いたまま、瞬きを繰り返した。

「笹野との約束だ。台詞が英語だろうが、フランス語だろうが、ドイツ語だろうが、舞台に立つ可能性がある以上、脳に刻みつけるさ。これでもし英語の成績が一点も上がらなかったら、そのときは笹野を恨むさ」

 吾妻は何も答えなかった。

「昨日からの変更点は一つもない。後は笹野が上手くカバーしてくれるはずだ。何も心配しないで舞台に上がれ」

「ああ……」

 吾妻が短く答えた。

「お前は校内で一番の美少女を相手に、主役を演じるんだ。これ以上の青春、ここ以外のどこにもないからな」

 僕は声を低くして囁いた。

「ああ。わかってるよ」

 吾妻がさらに低い声で答えた。

 間もなく吾妻の着替えは終わった。吾妻は服の襟口を直すと、左腕に付けていた腕時計を外した。

「これ、預かっていてくれないか?」

 吾妻が僕に腕時計を差し出してきた。

「いいのか?」

 僕は驚いて訊き返した。

「ああ」

 吾妻が頷く。

 僕は手を伸ばして、その腕時計を掴んだ。

「笹野を完全に落してこい」

 僕は吾妻の背中を押した。吾妻が背中で答えたのがわかった。

「……長らくお待たせいたしました。演劇部より、演目『ロミオとジュリエット』です」

 生徒会の女子生徒のアナウンスが流れると、ざわついていた客席が途端に静かになった。

 表情を引き締め直した吾妻が、ゆっくりと舞台に上がった。

 舞台が始まる。

 幕がゆっくりと開いていく。

 僕は駆け足でステージの正面に移動し、あらかじめ確保していた席に腰を下ろした。字幕係としてパソコンの前に座って待機していた舞鶴さんが一度僕に視線を寄こしたが、何も言葉を掛けてこなかった。

 キャットウォークに立つ笹野に、眩しいほど輝いているピンライトが当てられる。

 第一声。

 舞鶴さんが人差し指でエンターキーを弾いた。

 ざわめきが起こる。突然の英語に、観客は圧倒されたかのような感嘆の息を漏らした。

 スクリーンに映る字幕に気づき、周囲の人間に教えようと指差す者もいる。

 見ろ! これがあの笹野だぞ! 夢に対して誰よりも貪欲な女の子の姿だぞ!

 眩しくて、瞬きもできないだろう!

 僕は誇らしい気持ちで笹野を見つめた。

 光を綺麗に跳ね返す彼女の白い肌が輝いている。柔らかな黒髪が風に弄ばれるように揺れている。歌うように愛を口ずさむ柔らかな唇は誰の目も魅了する。

 彼女はジュリエットだった。

 吾妻に恋しているくせに素直になれず、気持ちとは裏腹な偉そうな態度をとる笹野はそこにいない。暗闇に許され、大胆に愛を紡ぐ、一人の少女だった。

「裏にいなくて大丈夫なんですか?」

 舞鶴さんがスクリーンを見つめたまま訊ねてきた。

「こっちに問題ないか、様子を観に来ただけだ。すぐに戻る」

「字幕なら大丈夫です」

「それならよかった」

 僕はようやく安堵の息を漏らした。

「吾妻さん、来てくれましたね」

 舞鶴さんが視線はステージに釘づけのまま、小声で言った。

「ああ……」

「よかったですね」

「ああ……」

 僕は舞台を眺めた。細めてしまいそうになる目をしっかりと見開き、舞台を見つめた。

 吾妻がステージの床に膝をついて、笹野へ愛を囁き出した。

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2025年12月28日 20:00 毎週 日曜日 20:00

ミスキャスト 柳ツバメ @OmuCurry

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