泥濘
白河夜船
泥濘
この町では時々、人が消える。
僕が知らないだけで、もしかしたら人以外も消えているのかもしれない。犬も猫も鳥も虫も木も建物も……全てが消えて、空白に『何か』が流れ込む。空白は『何か』によって埋められて、だから消えたという一事を容易には認識できないのである。
僕がそれに気づいたのは、中学二年の夏休みだった。
真っ青な空と入道雲のコントラストが、厭にくっきりしていたことをよく覚えている。太陽の位置から考えるに、昼、であったのだろう。僕は兄と一緒に田圃の間の道を歩いていた。
今となってはもう、どうしてそうしていたかも定かではない。兄の名前も兄の顔も兄の声も兄がどういう人間だったかすらあやふやで、滲みぼやけた人影と鈍くひりついた――しかし妙に慕わしい感傷ばかりが曖昧に思い出される。
「 」
兄が何かを言って、不意に立ち止まった。足を止めて振り向けば、踏切の中に佇んでいる。危ないと感じなかったのは、その線路がとうの昔に廃線となっていることを知っていたからだ。
何?
声がうまく聞き取れず、そう尋ねたような気がする。兄はまた何か言ったが、その言葉はやはり聞き取れなかった。鬩ぎ合い重なり合う蝉の鳴き声が暑さで茹だった頭を揺らし、じ――――という耳鳴りが頭蓋の内側で反響している。
カン、カン、カン、
警報音の幻聴を聞いた。
と思った瞬間、遮断機がギロチンのように勢いよく下がり、
ごおっ
と黒い影が線路上を駆け抜けた。
驚愕と戸惑いでしばし思考が停止して、
「兄さん」
呆然と呟いた自分の声でようやっと我に返った。
平素と変わらない様子の古びた踏切と長閑な田園風景が、あんまり空々しくて背筋が冷える。兄は踏切の中に立っていた。さっき通過したものが何だったかは分からない。分からない……が、撥ねられたんじゃないか。
慌てて辺りを見回したものの、兄はどこにも見当たらず、鼓動がどくどくと鬱陶しかった。気持ちを落ち着けようと僕は俯いて強く目を瞑り、一秒、二秒、三秒、四秒、五秒………………
どれだけそうしていただろう。
身を焼く夏日の苛烈さに耐えかねて瞼を開くと、兄がいた。いや、兄がいたのとちょうど同じ位置に、兄のような『何か』がいた。
見た目は人型の泥だった。
目鼻口の形すら溶け崩れて判別できず、なのに兄だと確かに感じてしまう薄気味悪さ。兄が消えた空白に泥めいた『何か』が入り込み、兄を原型とした型を使ってどうにか形を保っている―――そんなイメージがふと頭に浮かんだ。消える刹那を目撃したからかもしれない。辛うじて『それ』が本物の兄ではないと認識できて、認識できるが故に酷く気持ち悪かった。感覚と理性が
思わず道端に蹲って嘔吐した。胃液が喉と口内を刺激して、饐えた匂いが鼻に付く。
兄が、兄を模した『何か』が僕を見ていた。
意識が次第遠退いていき、どう歩いたのだろう。逃げたのだろう。気づけば自室のベッドで寝ていた。
起きた直後は全て悪い夢だったのでは、と期待したのだけれど、所々土で汚れた自分の体を見下ろして乾いた笑いが洩れた。蹲った際、付着した土だ――――
あの日以来、兄は消えてしまった。
単にいなくなった、というだけではない。
名実共に消えたのである。
兄の写真、兄の部屋、兄の持ち物……世界のあらゆる各所から兄の痕跡が失われ、父も母も兄の友人も兄のことをまるで覚えていない。いや、正確には指摘するまで、世界や自分の記憶から
このまま本当に、兄のことを忘れてしまうのではないか。
居た堪れないほど不安になったら、兄が消えたあの踏切へ行く。
踏切には泥人形が身動ぎもせず、あの日のまま佇んでいて、やはりそれを兄だと感じて気持ち悪いのだけど、少なくとも『兄がいたこと』『兄がいなくなったこと』その二点だけは明瞭に再確認できるので安心した。
さて。
兄が消失する現場に居合わせて、『何か』を認識したせいかもしれない。僕は町中――不思議と全て町境の内側にいる――でも時折、泥人形を見掛けるようになった。きっと兄同様、忽然と消えてしまった人々なのだ。商店街の裏路地、公園のベンチ、グラウンドの片隅、トンネルの中……町内の至るところに大人、あるいは子供の形をした『それ等』はいた。ただきっかけがないと知覚できない類のものなのだろう、僕以外の誰もその存在に気づかない。
どんなに観察してみても泥人形に意思があるとは思えなかった。
無機物のように、ひたすらじっとそこに在る。
泥人形が兄を消した。初めはそう考えていたのだけれど、違うのかもしれない。別の要因で兄は消え、半ば機械的に泥状の『何か』がその空白に流れ込んだ。結果、兄の細部は失われたが、潰れるはずだった空白が埋まって、最低限形だけは保存された。
そんなことをぼんやり想像したものの、想像が真実であるか確かめる術はない。図書館、ネット、学校の先生、郷土資料館、心当たりのどこを調べてみても手掛かりは掴めず、それだというのに目の端に映る泥人形と兄の消失は僕にとって吐き気を催すほど、現実だ。
今日もまた、不安に駆られて踏切へ向かう。
夕焼けの底。細波立つ蒼い田圃を貫く線路の上に、兄の形をした、決して兄ではない『何か』が佇んでいる。喪われたものに対する郷愁が胸を満たして、兄さん、と呼びたくなった。口を開き掛け、言葉を呑み込む。
それだけはしちゃいけない。
直感的に分かっていた。あれが無害なのは何者でもないから、空白を満たす不定形の泥に過ぎないからだ。名前を付ければ定義される。あれが自分の形を得てしまう。
そうしたら―――どうなるのだろう。
曖昧な予感を辿って考えてみる。僕が兄さんと呼んだなら、あれは『兄』になるのだろうか。消えた兄に。もう戻っては来ない兄に。
『あれ』は兄に成り代わる。
兄として僕等の日常に入り込む。
その可能性を薄気味悪いと感じると同時に、惹かれてしまう自分もいた。いずれ帰ってくる見込みがないのなら、喪失感を埋める代替を求めてもよいではないか。しかし、それは、
唇が震え、やはり声は出てこない。
兄さん。
心の中で呟いた。
泥人形は僕を見ている。
ひたすらじっと、見詰めている。
目を瞑る。
鬩ぎ合い重なり合う夏虫の声が、頭蓋の内側で今日も五月蠅い。
泥濘 白河夜船 @sirakawayohune
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