風が薫りて山の峰は翡翠に染まり、やがて心よい温かさを獲る。
鈴ノ木 鈴ノ子
Happy Spring is coming
温んだ風が山から私の暮らす部屋へと吹き降りてきた。
庭の花も山々の色も新しい色に染まり、小鳥の囀りと先程の風を縁側て味わいながら、急須から入れた緑茶をお気に入りのマグカップに注いでゆっくりと味わう。
山里のさらに奥、秘境とまではいかないけれど、限界集落をとっくに飛び越えてしまったこの地区は、今では人よりも獣の方が多かった。150年以上の古民家と言うよりはただの古びた家で、35歳の私は暮らしている。草臥れたピンクのスウェットに金髪、肌と胸は少したるみが出て来たけれど張りはまだ残っていた。
「薫ちゃん、いるかい?」
「みき婆、今行きます!」
自宅前の石段下から呼ぶ声が聞こえて来たので、返事をして突っ掛けを履き大慌てで下ってゆく。
「タラの芽がたくさん取れたからお裾分、あ、あとこれ孫だよ」
皺くちゃの優しい顔に白い手拭いを巻いた、昔ながらのおばあちゃんと言った感じのみきさんが、軽トラの助手席からタラの芽の緑が眩しいほどにビニール袋を差し出してくれる。運転席には細面だけれどTシャツから筋肉が盛り上がっている健康そうな若者がこちらへと頭を軽く下げた。
「みき婆、いいお孫さんだね」
「そうだろう、ババアの山菜取りに付き合ってくれる優しい孫さ」
少しだけ世間話をして別れると手元のタラの芽をどう料理しようかと悩みながら、石段を駆け上がり、家に残っていた料理本とスマホのグルメパッドの投稿を見ながら調理をして美味しく戴いた。
私はこの家に巣食うゴミのような存在だと、最後まで面倒を見た、いや、見てやった義父が言っていた。義父と大切な母親の再婚、地獄はそこからスタートして不幸の大河を流れ下るようにしてこの母親の実家へと流れ着いた。社長だったプライドのみを持ち続けた義父、自らの過ちを認めず、母親と私に当たり散らし、母親は私が高校生の時に森で首を吊って自ら命を終えた。義父は財産を好き勝手にして親戚全てを敵に回して、地区から孤立し、やがて、外に女と借金を作り、私は昔話のように身売り同然に連れ去られて、17歳から29歳までを風俗店で過ごした。店が警察の摘発に遭って、弁護士の手助けで抜け出せても、結局、戻るところはなく、結果、この家と朽ちかけた義父の面倒を都会へ逃げた親戚から押し付けられた。幸いと言うべきなのか、借金はなく、3年足らずで義父が言い方は悪いけれど、くたばってくれたおかげで細々と暮らしていた。
夜の帳が下りた頃、図書館から借りてきた小説を春冷えのする縁側で読書灯をつけて読んでいると、虫の声に混ざって車のエンジン音が聞こえて止まり、やがて、石段を駆け上がる靴音が響いてきた。
「こんばんは」
「来たの?」
「うん」
昼間のみき婆の孫、翡翠が昼と変わらない姿で縁側の縁に腰を下ろして、そんな挨拶を交わしながら私をじっと見つめる。鳶色の目に心がドキリとする。
「ビール飲む?それとも…」
胸元を少し引っ張ってつけてない胸をチラッと見せると、若い性欲を程よく煽ったらしく、私は手を強引に引かれるように奥の部屋へと連れ込まれていく、もちろん、逆らうようなことはしない、これは…罰に等しいのだから。
義父の面倒を見始めてから酷いストレスに苛まれて、そんな時に出会ったのが引っ越して来た翡翠だ。
高校生で不自由のない暮らしと、順風満帆の学生生活を送っていた彼が、羨ましくもあり、それ以上に妬ましくて妬ましくてたまらなかった。そんな日々を過ごしてみたかったと羨み、ある晩に私から誘いをかけてテクニックで蹂躙してやった。やがて店に通ってきていた男達と変わらぬように若い身空は堕ちた。
義父が生きているうちは何も考えなかったが、やがて義父が死んだ途端、激しい罪悪感に苛まれることとなった。関係の精算を身勝手に何度も、何度も、何度も、考えて実行に移しても、翡翠に否定されて心の底まで蹂躙されてしまうと、まるでそれを愛情のように私は受けとり、さらなる身勝手で独りよがりに縋りついた。だから、この地区で農協職員として翡翠が働き始めたと聞いた時は、幸福感と罪悪感に苛まれた。でも、結局、私は弱い。翡翠の顔を見ると苛まれた気持ちは掻き消されてずっと甘え続けている。
いつものように逢瀬と猛々しい性の本流に身を任せる。
綺麗ともはや呼ぶことすらおこがましい肢体とその子宮に生きる残滓を気にしながら私は翡翠とやがてベッドで眠りについた。彼の腕は私を逃すまいとでも言うかのように心臓上の片乳房を柔らかく掴んで離さないでいる。その温かさに私は安堵して、近くにあった翡翠のスマートフォンのロックを解除してアラームを1時間後にセットした。泊まらせて地区の噂になるのだけは避けなければならない。
設定をして暖かさに身を委ねる。やがて意識は沈むようにして途切れた。
春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだと呆れ果てた。
目を覚ました時には翡翠の姿はなく、春らしい明け方の日が開け放たれた襖から室内に入り込んでいる。
「やっぱり…だるい…」
身体が熱を持ち下腹部はどことなく違和感がある。熱の原因は分かっていた。翡翠に迷惑をかける訳にはいかない…。早めに遠い病院に行かなければと身を起こして、吹き込んだ風に混じって芳しい味噌汁の香りが漂っていることに気がついた。耳を澄ますと包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。脱ぎ捨てられていた衣服を慌てて身につけてキッチンへと急ぐとほっかむりをした老婆が漬物を刻んでいるのが目に入った。
「おはよう…ございます…」
気が動転していて投げかけれた言葉は、ただの挨拶が口をつくだけで、それを聞いた老婆は出刃包丁を握ったまま、こちらを向いてじっと私を見つめた。
「おはよう、薫ちゃん」
「みき婆、どうして…」
「頼まれたんだよ。翡翠がね、美味しいものを作ってやって欲しいって言ってきてね。2人の関係も話は聞いたよ」
「ごめんなさい。翡翠さんは悪くな…」
「悪いも悪くないもないさ。翡翠も卑怯なんだからね」
翡翠の身を案じようとして謝罪を口にすると、遮るようにしてみき婆がそう言ってから、出刃庖丁をまな板の上に置き、前掛けで手を拭きながらこちらへと向かってきた。
「少しだけ、話をしてもいいかい?」
「は、はい…」
罰が悪そうな表情をしていたのだろうか、優しい手つきが背中を撫でてくれる。朝日で輝く縁側に2人して腰掛けるとみき婆がそっと私の手を握った。
「翡翠はね、母親がいないんだ」
「え?」
「母親…私の娘だけど…翡翠を産んですぐに産後うつになってしまってね。幼い翡翠を残して自ら命を絶ったんだよ。父親は仕事ばかりで家庭には見向きもしない人でね。別の女と再婚したのだけど、そしたら今度は生まれて来た娘たちばかり可愛がって…。翡翠がこの近くの高校を受験したから、不憫に思って私の家と実家を行き来させていたんだよ」
「そんなこと…知らなかった…」
「話してないだろうからね…。翡翠はああ見えて真面目な子でね、素直に両家を行き来していたのだけれど、ある時から私の家で過ごすことが多くなってきた。最初は私の家が居心地よいのかと思っていたんだけど、薫ちゃんがいてくれたおかげもあったんだろうね」
「私が悪いんです…。翡翠さんに…」
「自分を責めたくなる気持ちは分かるさ、でも、翡翠も悪いんだよ。薫ちゃんに母親を求めていたんだから…」
「私が…母親ですか?」
「母親に甘えることを知らなかった子だからね。薫ちゃんに伝えるには恥ずかしい話だけど、薫ちゃんがあやして諌めてくれたから、今の翡翠があると思う。今朝ね、私を呼び止めた翡翠がね、大真面目な顔をして仏間で話がしたいと言ってきて、いざ聞いてみたら薫ちゃんとのことを洗いざらい話してくれたよ。そしたら最後になんて言ったと思う?母親以上の大切な人だって言ってね。誰がなんと言おうと一緒になって守ってやると大口を叩いたよ」
「そんな…私はそんなこと…」
「それを望むことは悪いことかい?」
「こんな人間に…」
「過ぎたこと言うほど私は耄碌してないよ。孫が守るって大口を叩いたんだ。もし、それができないなら男が廃るってもんさ。それにお腹に翡翠との子がいるんだろ?」
無意識に手を離してサッと下腹部を守るような仕草をした私に、みき婆はホッと胸を撫で下ろした。
「その動きができるなら大丈夫のようだ。翡翠には良い反面教師がいるからね。薫ちゃんのこと大切にするよ。それから子ができた以上は翡翠の願い通りに一緒になって貰う。命を粗末にすることは私が許さないからね」
そう言ってみき婆はじっと私の目に視線を合わせてジッと私を見据える。それは母が生きていた頃の注意によく似ていて面影が重なる。もはや、逆らおうとも言い訳をしようとも思わなかった。
「は、はい…。」
素直な心の奥底の声がそっと口をついた。
「あと、一つ、いいかい」
「はい…」
再び手を握られる、そしてしっかりとしっかりと固く痛いほどの力が入っていく。
「もう金輪際、こんな人間などと自分を卑下することは言わないこと、約束だよ」
途端に手が離れて私はみき婆にしっかりと抱きしめられた。柔らかな香りと温もりに抱かれて背中をトントンと、幼子をあやすように優しく打たれる。しばらくするとどこからともなく涙が溢れて、喉から搾り出すような大声でひたすらに泣き続けたのだった。
あの出来事から3年が過ぎ、また、新しい春が巡ってきた。
数日後の翡翠が外国語を話しているかのような緊張でガチガチの言葉での唐突なプロポーズ、結婚式はしないけれどみき婆も入ってのブライダル写真、入籍と産婦人科後の母子手帳申請、初めての出産、初めての育児と怒涛の日々、でも、1人ではない充実した日々を過ごしている。
私はいつものように縁側に腰掛けては、庭に作った砂場で遊ぶ愛娘の心温(こはる)を見ていた。百円ショップで買い揃えた砂場セットがお気に入りで、型で何かを作ったり、砂の城を作ったりと楽しそうに遊んでいたが、不意にスコップを持ったまま立ち上がった。
「ママ、ひいばあちゃんがくるよ」
車の音など聞こえていないのに、そう言って石段の側まで駆け寄って腰を下ろした心温を追うように私も縁側を離れて隣へと腰を下ろした。
しばらくすると軽トラのエンジン音がして、やがて階下にみき婆が姿を表した。
「こはるちゃん、待っててくれたのかい?」
「うん!」
石段下は危ないから降りない約束となっているので、みき婆が上がって来るまで辛抱強く待った心温は、上がりきったみき婆の手を優しく握ると、歩幅を合わせるようにして家へと続く道を一緒に歩いてゆく。私があとに続くと空いていた片手がそれを掴むようにとせがんできた。
可愛くて愛しい手を優しくしっかりと掴んで3人揃って昔ながらの広い玄関を入る。
「パパも早く帰ってきたらいいのにな」
「そうさねぇ、じゃあ、パパを待つ間に皆んなでおやつを食べようかね」
「うん!手、洗ってくる!」
靴とスコップをその場に放り投げてるように置いて、心温が一目散に洗面所へと走って駆け込んでいった。
「薫ちゃんは体調はどうだい?順調かい?」
「順調です、検診で分かったんですけど元気な男の子みたいです」
私はそう言って大きくなったお腹を摩った、それに答えてくれるかのようにドンドンと蹴り上げる元気な返事が返ってきたので、思わずみき婆の手を握ってお腹へと当てると、その振動に満足そうに喜びの笑みを浮かべてくれる。
心温の時と違うとすれば髪の色と服装は穏やかな、そして翡翠と私が好む色へと変化したことくらいだろうか。いや、幸せの度合いはかなり違っているから比較することすら間違っているかもしれない。
「元気な子だ、楽しみだねぇ」
「はい」
「ひいばあば、ママ、早く、早く!」
そう言って互いに笑い会う。
心温が洗面所から顔を覗かせて、早く手を洗うように大きな声でせがんでくるので、2人して足早に洗面所へと急いだ。
厳冬に荒んだ人生はようやく陽春の穏やかさで溶けていた。
風が薫りて山の峰は翡翠に染まり、やがて心よい温かさを獲る。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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