第3夜 蜿蜒

 濃醇な空気が、張り付いた肺に流れ込む。


 ぼんやりと雨が屋根を打ち、滴る水の粒が床を侵食する。次第に、目の前にあるものがはっきりとした像を結び始めた。頬の痛々しい跡もそのままに、あの日と変わらない京治が、そこに居た。


 反射的に、時計を確認する。六月二日、午前一時十七分。紛れもなく、京治が死んだ夜だった。驚きか慄きか、動物的な本能で、身体が彼から離れようとする。無造作に散らばった彼の足につまづき、ざらつく小屋の壁にもたれ掛かった。振り返ってもう一度、離れたところから彼の姿を観察する。


 京治は一瞬、びくりと身体を震わせたが、起きる気配はなかった。蹴られた足が痛かったのだろう、申し訳ない。傍にちょこんと置かれた潰れかけの缶ビール、床に捨てられたリュックサック。一定の間隔で上がったり下がったりを繰り返す胸元は、彼が生きていることを証明していた。本当に、本当に戻ってきたのだ。どういう仕組みなのかはわからない。はっきり言ってどうでも良い。ただ、安堵する心とは裏腹に、心臓は胸の中で煩く暴れている。


 戻ってきた、とは、即ちまた京治が死ぬかも知れないことを意味する。正直、これ以上彼が死ぬのは見たくなかった。これ以上、というのも可笑しな話だが。つい少し前までは、戻りたくて必死だったというのに、情けない。額を壁に押し付ける。触れたところはひんやりと冷たく、頭の中は燃えるように熱かった。


「何してるんですか」


 聞き慣れた声が、狭い小屋に響いた。腹部を壁に密着させたまま、首だけが回る。


「どっかの壁画の真似ですか。つまらないイタズラですね」


 つまらない。その言葉に過剰に反応し、慌てて蜘蛛のように飛び退く。京治はまだ眠たげな両目を擦り、低い唸りを漏らした。


「俺、大瀬さんにビンタされる夢見ました」


 ほのかに色づいた頬を撫でる彼は、寂しいような、悲しいような、複雑な表情をしていた。思わず、目を逸らしてしまう。


「……なんや、それ。ビンタなんかしないし。つまらん冗談やな」


 口ではそう言いつつも、ひとつ、思い当たることがあるのも事実だった。とある推測が走り出す。あの夜、確かに俺は、平手打ちをした。彼を起こすために。そのことを、夢でみたと言うなら。駄目だ、思考ができない。酒でも飲んできたのだろうか。考えようとすればするほど、脳が締め付けられるように痛む。


 答えに辿り着けない思考を繰り返していると、再び、何とも幸せそうな寝息が小屋を満たし始めた。右手を頬に当てたまま、こくりと首が落ちていく。


 少々理由もなく悩んでから、彼の脚と脚の間にしゃがみ込み、左の頬を、短く速く打ってみる。直ぐにぱちりと目が開き、何故か満足そうに微笑んだ。


「やっぱり、そうこなくちゃ」


 細い目でこちらを見据え、呑気にそんなことを呟いた。微かなアルコールが、鼻をくすぐる。こんなところでのんびりしているわけにもいかない。有無を言わさず腕を引き上げ、落ちていたリュックサックを肩に掛けてやる。すると、ゆっくりとゼンマイ人形のように動き始め、額を自動ドアにぶつけながら外へ出て行った。その姿を目で追いつつ、慌てて閉まり掛けたドアに身を滑らせる。


 京治は、数メートル先の闇に溶け込もうとしていた。湿った暗い街の匂い。五感に訴えかける全てが、あの夜と同じだった。同じ筈なのに、細部まで思い出せない。あの夜、この後何をしただろうか。何を話しただろうか。記憶を辿る暇もなく、無意識に、手にしたビニール傘を広げる。そして地面に広がる水溜りを蹴散らしながら彼を追いかけ、傘の中に捕まえた。彼の髪は既に濡れて、太い毛束となっていた。



 空から舞い降りた水の粒の、傘の上で奏でる音色が、ふたりの間を埋めていく。今更ながら、何を話すべきか、わからなかった。下手をすれば妙なことを口走りそうで、ちらりと横目で様子を確認してみる。京治はどこか一点を見つめて、唇を尖らせていた。対向車線の車のライトが、酷く眩しい。


「早坂さん、今日は静かですね」


 僅かな不満の滲んだ声が、目の前の虚空に浮かぶ。


「さっき、新しいイタズラをつまんないって言ったの、根に持ってるんですか」

「いや、別に。ぜ、全然気にしてないし」


 予想外の言葉に、思わず前のめりに否定してしまった。これではかえって、気にしているようではないか。


「ていうかあれ、イタズラでもなんでもないから」


 違う、こんな会話じゃなかった。もっと大切な、重要な何かを話した気がするのに。左の肩が、じっとりと重くなっていく。


「じゃあ、何してたんですか、壁にくっついて。変人じゃないですか。他に人が居なくてよかったですよ」


 彼の特技である毒舌が、早くも炸裂する。今夜も間違いなく、彼は東田京治であった。夢でもなんでもない。これは、現実なのだ。そうとわかってしまえば、感傷に浸っている訳にもいかないな。


「そ、そんなん言うたら、お前も変人やろ。引っ叩かれて、何や、に、にやにやしてたで」


 それは、と呟いたきり、彼はあからさまにそっぽを向いてしまった。見覚えのある横顔。火照った脳が真面目に働く筈も無く、勝手に口角が引き上げられていく。


「あれ、京治くんって、ドMだったっけ」

「いや、それとこれとは違って、その……」


 してやったり。そうかそうか、だから毎度、悪戯に引っかかってくれるんやな。そんなことが溢れかけたが、彼の方が早かった。


「い、いざというときは、そっちじゃない方、です」


 紅く染まる頬は酔いか、それとも別物か。小さくたぶん、と付け足して、水の滴る襟足を、白い首筋に撫でつける。そんな姿を見せられては、余計な茶化しは飲み込まざるを得なかった。胸の中の猛獣が、どくんと大きく跳ね上がる。彼の言いたいことがわかるような、わからないような。武骨な指が描いた軌跡を、自然と両目が追っていた。思い切り頭を振って、足元へ視線を落とす。


「……黙らないでくださいよ」


 京治は傘から逃げ出した。数メートルほど、よたよたと走っていく。それからぴたりと立ち止まり、こちらを振り返った。その隙に後を追い、濡れた頭の上に傘を差し出す。切れ長の瞳が、大きく開かれている。


「大瀬さん、俺、ビール忘れました」


 沈黙。耳から入ってきた音を反芻し、思わず吹き出してしまった。


「そんなに美味かったんか。また買えばいいでしょ」

「そういう問題じゃないんです……俺、戻って取ってきます」


 聞き返す間もなく、ここで待っててください、と独り言のように呟き、リュックサックを肩から外しにかかる。気づけば、脳が指令を出すより先に、傘を放り投げていた。水の滴る左腕はそのままに、空いた右手で手首を掴む。こちらを覗いたふたつの瞳が、困惑に揺れている。


「俺も行く」

「なんで……大瀬さんには関係な−−−−」

「いいから。俺も行く」


 ここで彼から離れてしまっては、その間にまた、京治は死ぬかもしれない。折角過去に戻ることができたのだから、同じことを繰り返す訳にはいかない。絶対に、彼を死なせない。手首を掴む右手が白くなっていく。その狂気を感じ取ったのか、京治はしばらく眉間に皺を寄せてから、わかりました、と視線を逸らして不貞腐れた。



 半分潰れたような缶は、静かな小屋でひっそりと、置かれた場所に鎮座していた。京治はそれを回収し中を覗くと、結構残ってたな、と呟いた。


 水の張った街の間を、ふらふらと縫っていく。先程逆さまに転がしてしまったため、時折大きな水の玉が、髪の間に潜り込む。傘を刺す水の針は、数刻前より鋭くなった。


「大瀬さん、これ、飲みます?」


 雨の音に掻き消されそうなほどに小さなその声を、この耳は決して、逃しはしなかった。間髪入れずに飛び出した間抜けな悲鳴が、夜の東京に響き渡る。


「じゃあ、飲まなくてもいいんで。ちょっと持っててください」


 強引に、それでいて丁寧に、宙ぶらりんの濡れた左手を捕まえ、そっと缶を握らせる。そして胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、車道側を向いて背中を丸めた。


「……なに、ラブレターでも書いてんの」


 冗談のお返しのつもりだったが、効いていないらしい。京治は恨めしそうに振り返り、違います、とだけ言い残して、再び光る画面を睨み始めた。無理矢理覗く勇気も無く、与えられた缶を、目の高さまで持ち上げてみる。縁には薄く色づいた液体が、歪んだ形に溜まっていた。


「そういえば、なつさんはどうしたん」


 不意に、口が勝手にそんなことを放った。我に帰り視線を投げると、京治も、こちらを見ていた。




 突如として、聞き覚えのある轟音が鼓膜を突き上げる。視界の端に迫った、異様な光と鉄の塊。咄嗟に、手にしていたものを全て放り投げた。右手で彼の頭を覆い、腰をぐっと引き寄せる。車道に向けた背中が空気のうねりに煽られ、四本の足が絡み合った。大人の男ふたりの身体は、重力に従って素直に傾いていく。


 水が跳ね、打ちつけた手のひらが熱くなる。濡れた毛と溶け出した整髪料の匂いが、じんわりと肺を満たしていく。自分の呼吸音が五月蝿い。冷たい地面と彼の頭の狭間で、右の手の感覚が遠のいていく。


 ぼんやりと麻痺した鼓膜が、大きな衝突音を捉えた。所謂惰性、とやらで、そちらに首が回る。狭窄した視界には小さな光が飛び散っているだけで、音の正体は見当たらない。再び視線を落とすと、そこには瞳に光を湛え、眉を歪める京治が居た。


「……大瀬……さ、ん……」


 いつにも増して吐息の混じった声に狼狽し、身を引き離そうとするも、それは憚られてしまった。京治が、乱れた襟元から伸びたネクタイを、ぎゅっと掴んでいる。


「まだ……動かないで、ください」


 何枚かの布を隔てて、激しく上下する胸を直下に感じながら、訳もわからずごめん、と呟く。


「もしかして、頭、打ったんか……? ちゃんと、守ったつもりやったんだけど……」


 すると、京治は大きな手で顔を覆い、そうじゃなくて、と口篭り、その先は何も喋らなくなってしまった。やり場に困る目を泳がせ、静かに悶える彼の回復を待つ。目眩だろうか、それとも頭痛か。不安と懸念が、無理な姿勢で耐える身体を蝕んでいく。だが、痺れる右手には、何も感じない。地面には、雨が小さな波紋を広げているだけで、何も流れていない。動くなと言われた以上、どうすることもできない。背中に、じわりと水が染み始めた。自分の下に居る彼を潰さぬよう、小刻みに揺れる肘に力を込める。どれだけの時間が経っただろうか、耳が本来の機能を取り戻してきた頃、京治は濡れた前髪を掻き上げて、独り言のようにもう大丈夫です、と囁いた。


 手を頭に添えたまま、ゆっくりと上体を起こす。刹那、小さく肩を震わせたものの、京治はすぐに立ち上がった。比べて、こちらは呆気に取られてその姿をしばらく見つめた挙句、強制的に引っ張られる羽目になってしまった。


 あの轟音の正体は間違いなく、あの夜、京治を轢いた車だった。それなのに、今、目の前に、京治は居る。にわかに頬を染めて、こちらを睨んでいる。京治は、生きている。死ななかったのだ。じっとりと、身体が冷えていく。どれだけ濡れようが、もうどうでもいい。今にも決壊しそうな目頭を押さえて、声を絞り出す。


「ほんとに、大丈夫なんやな」

「はい。まあ、なんとか」

「どこも怪我してないよな」

「は……? まあ、多分」


 そう言って、あちこちを見回す。ほとんど物が入っていない薄いリュックサックは彼を守ってはくれず、身体の背中側は派手に濡れてしまったようだ。纏わりつくパンツをはたき、濡れたのを気にする様子を見ていると、なんとなく、胸が落ち着かないのを感じた。背負っていたリュックサックを投げ捨て、脱いだジャケットを無造作に彼の頭に投げる。京治はうわ、と可愛げもなく叫ぶと、あからさまに怪訝そうな顔を覗かせた。


「なんですか、これ」


 あー、と意味もなく唸りながら、傘と缶を回収しようと背を向ける。幸い、誰にも目撃されずに済んだようだ。濡れた地面にしゃがみ込み、力なく転がった缶を拾い上げる。中身は流れて、底の方に煌めくものが僅かに残っているだけだった。


「ごめんな、急に、その……転ぶつもりはなかったんやけどな」


 今になって、自分の行動に理由を探し始めてしまう。なぜ、彼を庇おうとしたのか。それは、彼が死ぬと思ったから。でも、彼は自分が死ぬ運命にあることを知らない。今、彼に問い詰められれば、ただの変人だと思われてしまうに違いない。だって、お前が死ぬと思ったから、なんて言えない。次々と、口から半分戯言のようなものが飛び出していく。


「本当に、訳わからんことしてしまったわ。なんか変なもんがちょっと見えてさ、これは危ないって、咄嗟に思ったんよ……ああ、そう、本能ってやつや、本能」


 考えてみれば、自分たちは歩道を歩き、車は車道を通っていた。このタイムリープでは一度目ときっちり同じことが起こるとするならば、京治は横断歩道で衝突する。あの車が、歩道に突っ込むなんてことは起こり得なかったはずだ。しかし、一度目と同じことが起こるのならば、なぜ、京治は待合室に缶を忘れたのだろう。なぜ、自分たちは違う会話をしているのだろう。わからない。なにもわからない。立ち上がってみても、意味のない思考は終わらない。今にも焼き切れそうな程に熱くなった頭を、雨がしっとりと冷やしていく。


「でも別に、うるさかっただけでなんともなかったし、おかげで京治はびしょ濡れやし、ビールもこぼれてしまったし、ほんまなにしてんやろ、俺––––」


「大瀬さん」


 苦し紛れの独白は、芯のある強い呼びかけに遮られ、ようやく止まった。びくりと肩が震えたのがわかる。でも、振り返ることはできなかった。足が、首が、動かなかった。彼は今、どんな顔をしているのだろう。見えない、見れない、見たい、見たい。


「大瀬さん、俺は、大丈夫ですから」


 ぎゅっと肩を握られ、身体が勝手に回転する。京治は律儀にジャケットを被ったまま、柔らかく微笑んでいた。


「この程度じゃ、風邪なんか引きません。ビールなんか、また買えばいいです。俺は、大丈夫です」


 ヒュッ、と喉が鳴る。彼は、彼は何も知らないはずなのに。どうしてそんなことが言えるんだ。どうしてそんな顔をするんだ。細められた瞳の奥で、なにかが揺らいでいるようで、不思議と目が離せなかった。息が詰まるのを感じ、離れたところで咲いている傘を取りに行くふりをして、彼の捕縛から逃れる。


 逆さまになった傘の底には、うっすらと水が溜まっていた。すでに風呂上がりのように濡れているのだから、今更差す意味もない。摘み上げ、払い、そっと閉じる。そして、どちらからともなく、ゆっくりと歩き始めた。


「……でも、ありがとうとは言いませんから。もうすぐ、大丈夫じゃなくなるところだったんで」

「え、やっぱり打ってた……? 目眩するとか、頭が痛いとか、気持ち悪くなってきたらすぐ言えよ」


 こちらの焦燥も知らずに、いやそうじゃなくて、と数刻前と同じ言葉を繰り返す。即座に問い返すと、しばし口をもごもごと動かしながら、鋭く睨んできた。負けじと顔を覗き込むと、京治は被ったジャケットの中に隠れてしまった。


「その、耳元で……やめてもらえますか」


 消え入りそうなほど小さなその声に、なんのことや、と返すと、無意識ですか、恐ろしい人ですね、と身に覚えのない悪態を吐かれてしまった。すると京治は、横に垂れていたジャケットの袖を掴んで顔の前に持ってくると、思い切り空気を吸い込んだ。


「……おおせさんのにおいがする」


 おかしなことを言うものだ。素っ頓狂な奇声を発し、やめろ、嗅ぐな、と喚きながら、逃げていく彼を追いかける。


 とにかく、俺たちは酔っていた。全ての説明は、それだけで十分だった。




 無事に横断歩道を渡り、残りわずかの家路を進む。辺りに、雨の匂いを上書きするように、濃い臭気が漂い始めた。十数メートル先に、微かな狼煙が上がっている。近づいてみると、それは例の黒い車であった。無様に、道端の電柱に激突したらしい。どこから湧いたのか、傍には数人の野次馬が屯していた。ふと気になって、通り過ぎる一瞬、目を凝らしたが、運転席に人影は見当たらなかった。


「派手にやってんな」


 特に大層な感情もなく、ひとことだけ吐き出す。京治はさほど興味もなさそうに、適当な相槌をこぼしただけだった。


 濃淡のない真っ黒な空から注がれる雨が、髪を、肩を、じっとりと濡らしていく。ワイシャツが張り付いて、なんとなく痒くなってきた。互いに何も話さず、淡々と地面を踏みしめる。


 向こうから、人が歩いてきた。パーカーのフードを深々と被り、両手はポケットに突っ込まれている。傘は持っていないようだ。他に、近くに人は見当たらない。東京といえど、この辺りは、異様なほどに静かだった。雨の音だけが、気味悪く鼓膜を揺らしている。


 どん、と鈍い音がして、京治の肩が翻った。フードの男がぶつかっていったらしい。振り返りもせず、彼は行ってしまった。


「なんや、あいつ。謝りもせんで……大丈夫か」

「……はい」


 小さくなっていく黒い背中に、少々ガンを飛ばしておく。雨の東京。まして深夜である。どんな人間が居ても、不思議ではなかった。引きずるような足音、衣擦れ、雨。妙な沈黙が、ふたりの間を流れていく。


 どさり、と音がして、隣から、京治の気配が消えた。


 横を向く。居ない。視線を下げる。京治は地面にうずくまり、頭からジャケットを剥ぎ取ろうとしていた。


「けい……じ……?」


 返事はない。目の高さを彼に合わせ、肩を掴む。京治は苦しそうに空気を貪りながら、俺のジャケットをこちらへ押し付けた。


「どうした、目眩か? 吐くならいま、なんかふくろ––––」


 目が、異様なものを写した。赤く染まったワイシャツ。彼はなんとか隠そうとしていたが、みるみるうちに赤は範囲を広げていく。弱々しく抵抗する腕をそっと払いのけ、彼のジャケットを捲る。ナイフだ。脇腹、いや、もっと上、肝臓があるような辺りから、ナイフの持ち手の部分が飛び出していた。


「おまっ……これ、いつ……」


 高速でフラッシュバックする記憶。考えられるのは、あの一瞬、フードの男がぶつかった時だけ。嘘だ、嘘だ、嘘だ。折角、事故を回避したというのに。油断した。車を回避すれば、京治は死なずに済むと思い込んでいた。両手の震えが止まらない。あまりの衝撃に動けずにいると、彼は勢いよくナイフを引き抜き、放り投げてしまった。街灯の光を反射して煌めくそれを、勝手に目が追っていく。刃渡り十五センチメートルはあるだろうか。ナイフと地面が擦れる音が、閑静な夜の闇を裂いた。


 微かに名前が呼ばれるのが聞こえ、弾かれたように彼の方へ向き直る。


「……おおせ、さん……すみません……」

「謝らんでいいから。……もう喋んな」


 鮮やかな赤は、それまでとは比にならない速度で溢れ出し、紺のスーツすらもその色を黒く変えていく。無我夢中でワイシャツの穴が空いたあたりを押さえると、京治は静かに、唸り声を上げた。雨とも汗とも違う、なまあたたかく、ぬるりとして、指に纏わりつく液体。どくんどくんと波打つのが、怖いほど伝わってくる。ふと、京治が膝を曲げ、辛そうな体勢をしていることに気づいた。手を離し、脚を伸ばしてからゆっくり引き摺り、歩道の端の柵に上体をもたせかける。


 額を拭い、もう一度、傷口に手を当てる。喉から漏れる苦悶。相当痛むのだろう、彼は大きく身を捩った。止まりそうにない。自分の呼吸が、どんどん早くなっていく。どうしたらいい。どうしたら––––。


「きゅうきゅうしゃ……」


 右手は傷口を強く圧迫したまま、左手でポケットを弄る。幸い、直ぐに見つかった。しかし、電源ボタンを押しても、画面は光らない。震える左手ではうまく扱えず、何度も取り落としそうになる。なぜ、なぜ点かない。試しに長押ししてみると、黒い画面に赤く点滅する電池マークが表示された。充電切れか。こんな時に限って。使い物にならないそれをポケットに押し込み、周囲を見回す。誰か、他に人は––––。


 そうだ、あの車のぶつかったところに、人が居た。慌てて立ち上がり、彼から距離を取る。もう、その顔を見ることはできなかった。逃げるように、あちこちに水を飛ばしながら走り出す。絡れる足。抗う術もなく、視界が揺れる。


「あ、あの、だいじょうぶ、ですか……?」


 花が散るように儚い声が、鼓膜に届いた。顔を上げる。そこにはひとりの女性が、傘も差さずに立っていた。


「雨、滑りますよね。……た、立てますか……?」


 瞬間、頭が鈍器で殴られたように痛んだ。丸い細縁のメガネから覗く淡い瞳。袖のよれたカーディガンから伸びる細い腕。早口言葉。


 ブルーアネモネ。


 もしや手が差し出されていたかもしれないが、この目には写らなかった。慌てて立ち上がり、濡れた身体を撫で回す。案の定、胸の不自然に飛び出した部分に、それはあった。どうして、今まで気づかなかったんだ。


「あ、あの……血が……」


 彼女に意識を戻す。ふと見れば、両手は血に染まり、シャツはおろか、あちこちに赤い染みができていた。衝動的にこれは俺の血じゃなくて、と放ってしまってから、彼女の顔がみるみる引き攣っていくのに気づく。


「その、人が、刺されて……救急車、呼んでもらえませんか。この先に、居ます」


 それだけ言い残してそそくさと立ち去ろうとしたが、不意に呼び止められてしまった。首からチェーンを外しながら振り返る。


「あの、どこかで、お会いしませんでしたか」


 心臓が縮む音がした。彼女は巻き込まれてしまった、とでもいうのか。ひとつ前のタイムリープで、接触したばかりに。どう答えるべきか、わからない。肩に触れるか否かの長さで切り揃えられた髪を弄び、物憂げにこちらを見つめている。


「……人違いやと思います」


 今度こそ、行くあてもなく走り出す。あの人は、救急車を呼んでくれるだろうか。いや、それも、もうどうでも良いな。また、過去に戻ってはじめからやり直せば済む話だ。雨の音、湿っぽい空気、彼の寝息。前と同じように、掌にひんやりと冷たいブルーアネモネを握りしめ、安っぽい呪文を唱えてみる。


 足の感覚が消える。目の前が、真っ暗になった。沈んでは少し浮上し、また沈んでいく意識の揺れが、妙に気味が悪かった。



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致死率100% 藤咲雨響 @UKYOfujisaki_0311

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