第2夜 胡蝶

 不思議と、脳は凪いでいた。


 一面に広がるオレンジ色、鼻の奥のツンとした痛み。こめかみの辺りを、得体の知れない液体が流れていった。遠くからまばらに、心地よい音がする。


 唐突に、上体を起こしてみる。頭がぐらりと揺れ、若干の吐き気を催した。本能で額に手を当てると、風呂上がりのようにじっとりと濡れていた。どうやら、発熱しているらしい。役目を終え、乾燥した熱冷ましシートが、ぽとりと目の前に落ちる。


 重い瞼を持ち上げ、周囲を見回す。部屋の隅のあたたかいルームライト、ティッシュのゴミが散乱した床、隙間の空いたカーテン。間違いない。自分の部屋だ。なぜここに居るのか。記憶を辿ろうとすればするほど、脳が締め付けられるように痛む。枕元の鍵は、全く置いた覚えがない。二日酔いだろうか。


 その時、かちゃり、と静かな音がして、ドアノブがゆっくりと下がるのが見えた。次第に、開くドアから漏れ出す光が、天井と床を侵食していく。身構える余裕もなく、まばゆい光の中に人影が現れた。


「ああ、大瀬さん。起きてたんですか」


 ヒュッ、と喉が鳴る。京治が、驚いたような、安心したような顔で、そこに立っていた。あの時、あの夜、あの場所で、死んだはずなのに。程よく日焼けした肌、艶々とした薄い唇、ハの字に傾いた眉。もう一度会いたくて、会いたくて堪らなかった彼が、丼をのせた盆をかかえて、そこに立っていた。


「そんなに見てなくていいですから」


 照れの混じる柔らかい声が鼓膜を揺らし、自分が彼を凝視していたことに気づく。今更視線を逸らす理由もない。そのままぼんやりと見つめていると、京治はまだ寝ぼけてるんですね、などと言いながら後ろ手にそっとドアを閉め、盆をローテーブルに置いた。これは、夢なのだろうか。夢ならば、神は残酷だ。目頭が熱くなる。


「あれ、大瀬さん、冷えピタ取れてるじゃないですか」


 京治の手が近づいてくる。触れられたところが、じんわりと冷たい。あっつ、と呟いたのが聞こえ、いきなり視界が溶けた。


「うわ、どうしたんすか、急に」


 彼の手が離れてしまう。名残り惜しむように、額が熱を帯びていく。


「何や、俺、悪い夢でも見てたんやな」


 いくら擦っても、止めどなく溢れ出してくる。夢じゃ、ない。京治はここに居る。ただそれだけのことを、どれほど願ったことか。最後に泣いたのはいつだったか、殆ど思い当たらない記憶を遡ってみる。頭が痛い。


 俯く顔を、京治が下から覗き込んできた。その口元には、にやりと意地の悪い笑みが浮かんでいる。


「なに、泣いちゃうほど怖い夢でも見たんですか」


 一瞬の躊躇。うん、と痰の絡む喉が唸る。垂れた鼻水を啜り、彼の両眼をじっと見据えると、自然と涙は引っ込んだ。


「京治が、車に轢かれて死んじゃう夢」


 口に出してしまえば、それまで胸を支配していた虚無や後悔、といった類の感情が、全て押し流される気がした。刹那、京治の目が丸くなる。それから、ふっ、と吹き出すと、なんすかそれ、と一蹴した。思わず、そんだけかい、と小さなツッコミがこぼれる。


「まあ……縁起でもないんで追及しません」

「薄情な奴……何日もヘコんだんやぞ。慰めてや」


 すると、いつものような冷ややかな目をしながら、すたすたと窓の方へ歩いていってしまった。開いたカーテンの隙間から外をチラリと確認し、キッチリとカーテンを閉め直す。


「慰めません。思ったより元気そうなので」


 なんでや、と控えめに叫びつつ、頬に触れてみる。なるほど、口角があり得ないほど引き上がっているようだ。内に秘めたはずの喜びと企てが、顔に出ていたらしい。全部、京治の所為なんだけどな。これでは「何日もヘコんだ」の重みが伝わっていないのも当然だろう。


「全然、元気やない。悪夢にうなされてこんな頬こけてしまったし、熱も出てんで」

「あー、はいはい、辛かったですね」


 見事な棒読み。彼の得意分野である。これではっきりした。彼は間違いなく東田京治であるということ。夢でも何でもない。京治は、生きている。


「……俺、どこで何してたん」


 ふと、そんなことを呟いてしまった。京治が、ひとつため息をこぼす。


「いつもの待合室で倒れてました。大瀬さん、いくら電話しても出ないから、もしやって思って見に行って」


 床に転がったゴミを拾い上げ、握りしめる。


「酔い潰れてぶっ倒れて、おまけに熱まで出してるなんて、社会人の名折れですよ、ほんとに」


 その言葉には、不思議と叱責や呆れは感じられなかった。つい、心配してくれたんやな、なんてことを口走ってしまう。すると京治は、手のひらの中のものを慌ててゴミ箱に投げ込んだ。照れ隠しか。


「ていうか、俺、ここまで大瀬さんのことおぶって来たんすからね、雨の中。お、大瀬さん、見かけによらず重いっすよ。なんか、もっと、運動とか、した方が良いんじゃないですか。アラサーだし」


 なんということだ。京治は、1キロと少しの距離を、おぶってきてくれていたらしい。その途中で目覚めるべきだった。彼の背中の感触を覚えていないとは、惜しいことをしたものだ。ただ、「重い」というのはなかなかうなづけない。


「俺、そこまで重くないやろ。筋トレしてるし。どう考えたって標準や」


 そこで、素晴らしい悪戯を思いついた。何気なくズボンのゴムを引っ張り、中を確認するフリをする。


「あ、京治ちゃん、見たやろ」


 すると京治は、その場でしゃがみ込んでは立ち上がったり、ぐるぐる回ったりと暴れ始めた。そして顔を大きな手で覆い、「いや」「その」「まあ」の三音を放つ。本当に、からかい甲斐のある後輩だな。頃合いを見て、トドメを刺す。


「俺の、腹筋」

「……は」


 京治は、予想通り、片手を腰に当てた格好で、間抜けな声を漏らした。何食わぬ顔をして、両腕を身体に巻きつける。関節が若干、電流が走ったように痛んだ。


「だから、俺の腹筋。見たやろ〜」


 はあ、と魂の抜けるような音が、部屋いっぱいに響きわたる。


「まあ、見ましたけど」

「割れてたやろ。俺、筋トレしてるから、重いとしても筋肉やし。それに身長だって180あるからそこそこ体重あるの普通だし––––」

「はいはい、もうわかりましたって」


 京治は呆れたのか、はたまたごまかしなのか、両手で顔をごしごしと擦った。俺の勝ち。面白くて、つい吹き出してしまう。自分の笑い声が頭蓋骨にこだまして、鈍器で打たれるように痛む。


「そ、そうだ、俺、シャワー借りたんで。着替えも、大瀬さんの借りてます。ウチまで大瀬さん連れてきたんすから、このくらい、いいですよね」


 もちろん、と言おうとして、声が出なかった。京治が、自分の洋服を身につけている。確かに、よく見れば、それは休日に重宝するセットアップのスウェットだった。京治が、おれのふくを、きている。さほど背丈も体格も変わらないが、オーバーサイズのため、少しぶかぶかとして、服に刻まれた皺は深い。僅かに余った袖口をギュッと掴み、唇を尖らせている姿を見ていると、なんとなく、胸がざわついた。早く目を逸らさないと、どうにかなってしまいそうだった。でも、そんなことは出来そうにない。ただ、取り敢えず今は、落ち着かない心も、火照った顔も、虚しく疼く下腹部も、全部、熱の所為にしておくことにした。


「あ、あと、鍵はカバンの中漁って、そこ置いときました。スーツは水気とって干してあるんで、乾いたらちゃんとクリーニング出してください。そのほかの濡れたもんは、今洗濯してます。俺のも入ってるんで、後で俺が干します。それから……あ、リビングも散らかってたんで、片付けときました。あとひとつ、キッチン借りたんで。おかゆ作ったので、食べれそうだったら食べてください」


 心中穏やかでいられないのは京治もなのか、一気にこれだけのことを捲し立てると、俺はこれで、と呟いてそそくさと出て行こうとした。焦燥に駆られて呼び止めたものの、特に言い訳は思いつかない。回らない頭で考えるより先に、口が勝手に言葉を紡ぐ。


「食べさせて」


 閉じかけたドアから顔を出す。切れ長の細い目が、打って変わって大きく開かれていた。


「……正気ですか」


 その声は震えていた。無論、正気な筈が無い。自分でも、この期に及んでなぜそんなことを言ったのかわからない。


「正気なわけないやん。熱出てるし、関節痛いし、たぶん次寝て起きたら、ここで何したか忘れてんで?……だから、食べさせて」


 彼は眉間にシワを寄せ、しばらく考え込んでから、渋々といった様子で再び、後ろ手にドアを閉めた。腕まくりをして、程よくたくましい上腕を露わにする。


「しょうがないですね。手の掛かる先輩で」

「そりゃどうも」


 うっすらと湯気の立ちのぼる器を持ち上げ、ベッドサイドにしゃがみ込む。詰まってほとんど機能していない鼻が、微かな甘い匂いを捉えた。


「俺、基本的に自炊はしてますけど、味は保証できませんからね」


 不服そうな顔で、器の中身をやんわりとかき混ぜる。彼がそうやって保険をかけるのは、決して珍しくない。しかし、そういう時は決まって、必ずうまくいく。今回も、京治の作ったおかゆは絶対に美味しい。なんの疑いもなく口を開けて待っていると、頬に熱いものが触れた。油断した。思わず奇声を上げてしまう。


「なにするん、病人やぞこちとら」


 京治は口元を隠しながら、肩を震わせた。笑いごとやないで、とこちらもつられて笑いながら、濡れた頬を拭う。すいません、と口では言っているものの、そこに「すいません」なんて思いは込められていない。


「でも、普段大瀬さんにやられてるイタズラに比べたら、可愛いもんなんで」


 少量のおかゆを掬い取り、息をそっと吹きかける。


「……さっきだって、俺のことからかって遊んでたじゃないですか」

「なんのことですか……あうっ」


 少々乱暴に、スプーンを押し込まれる。口いっぱいに広がった、あたたかい甘みと、ほのかな鮭の塩味。何すんねん、歯が折れてまうやろ、なんて悲痛な叫びは、心からの「おいひい」になってこぼれ出た。京治はよかったです、とだけ呟いて、二口目の用意を始める。それから、何か言いたそうに口をもごもごと動かした。じっと見られていては、飲み込むものも飲み込めない。胸の中で暴れる心臓を必死に抑えつけて、ゆっくり嚥下する。再び口を開ければ、すぐさま食べ物が供給された。


「……あの、俺、見ました。そ、そっちも」


 突然の告白に、喉が詰まった。数回、酷く咳き込む。あっちもそっちもこっちも、指し示すものはひとつしかない。京治が背中をさすってくれたお陰か、幸い、口の中のものは吐き出さずに済んだ。


「おまっ、人が食うてるときにそんなことっ、言うなや」

「すいません、でも、正直に、見たもんは見たって言わないと、卑怯だと思って」


 突っ込みたいところはたくさんあったが、喉の爆弾が邪魔をする。少しでも声を出そうものなら、イガイガして、すぐに咽せてしまう。差し出されたペットボトルをひったくるように受け取り、水を体に流し込む。


「だって、着替えさせるのに、見ない方が難しいじゃないすか。傘させなかったから、全身びしょ濡れで、中まで濡れてて、その、し、下着だけ替えないってのも変だなって、おもって」


 彼の弁明を聞いている間に、込み上げる咳は大分おさまってきた。彼の誠実さは清々しい。羨ましくもある。本当に、いい性格をしている。


 言いたいことは山ほどある。その中でも選りすぐりの、ひとつだけ。


「京治ってさ、意外とむっつりだよな。知ってたけど」

「知ってたんだったら、わざわざ言わないでください」


 珍しく、食い気味の反抗。口元を手で隠し、そっぽを向く。指の隙間から覗く頬が、オレンジのルームライトでも、真っ赤に染め上げられているのがわかる。自分から白状したくせに、そのザマはなんだ。


「スケベ。むっつりスケベ」

「……うるさいですよ」


 口を閉じろとでも言わんばかりに、次から次へとおかゆを放り込まれる。息をつく暇もなく、腹の底に、幸せが蓄積していく。美味い美味いにスケベ、を混ぜて、時折鋭く睨まれる。楽しい時間はあっという間に過ぎ、気がつけば、器はスプーンと擦れてカチャカチャと音を立てていた。まだ少し残る甘みを噛み締め、自然と湧き出た感謝を告げる。京治は満足そうに微笑み、空の丼を載せた盆を抱えて、立ち上がった。部屋の空気が揺れる。


「じゃ、俺、家から解熱薬持ってきます。大瀬さんの家、薬なかったんで」

「ありがとな、俺、健康優良児やからさ、薬買わんのよ」


 おっさんが何ほざいてるんですか、とかいう辛辣なぼやきが聞こえたのはさておき、ドアノブに手をかけたまま、唇を噛んだ京治と目が合う。


「今夜、泊まるんで。……絶対、寝ててくださいね」


 適当な返事をしておく。彼の言いたいことはわかる。「忘れろ」だ。寝たら全部忘れる、なんてデマカセを、律儀にも信じているのだ。しかし、忘れてなどやらない。忘れるわけが無い。手作りのおかゆの味、緊張が見える不慣れな手つき、赤く染まる頬、苦しそうに細められた目。そのひとつひとつを思い返していると、恨めしそうな顔をしながら、京治は部屋から出ていった。残された自分と同じシャンプーの匂いが鼻を擽る頃、「今夜、泊まるんで」の破壊力に気付き、のたうち回ったのはここだけの話で。




 雨の音が、窓の外に響いている。こうしてじっと天井を見つめているうちに、時計の針は二時を指そうとしていた。流石に、遅すぎる。薬を取りに行くだけで、三十分以上もかかるだろうか。不安、焦り、孤独。必要ないとはわかっていても、先程大きな物音がしたのも気掛かりで、ついに思い立って布団を蹴飛ばした。


 力が入らず、子鹿のように震える膝。這いつくばりながら廊下を進み、玄関のドアノブに手をかける。適当なサンダルを引っ掛け、倒れるようにドアを押し込むと、全身が、どこか懐かしい雨の匂いに包まれた。


 京治の部屋は、ひとつ下の階にある。同じ色のドアがずらりと並ぶ通路を、手すりを頼りに歩いていく。吹き込んでくる雨が、火照った顔に心地よい。京治は、俺にハーフパンツを履かせたらしく、剥き出しの脛に弾ける水の粒が冷たい。ずるずるとゾンビのように徘徊し、やっとの思いで端にある階段に辿り着く。コンクリートの階段は濡れて、遠くの街灯をぼんやりと反射していた。曲がり角の踊り場には、どういうわけか革の靴が片方だけ転がっている。不気味に思いつつ、ひとつずつ踏みしめていく。いつもの感覚が戻ってきたのか、うまく動けない体に慣れてきたのか、試しにとんとん、と続けざまに降りてみても、転ぶことはなかった。


 軽率だった。ちょうど踊り場に差し掛かった時、案の定、両脚の制御を失った。


「……っぶねぇ」


 上半身が、手すりの向こう側へ躍り出る。慌てて身体を引き戻す。かろうじて、落ちずに済んだものの、視界の端に、奇妙なものが見えた。恐る恐る、もう一度手すりから身を乗り出して、目線を下へ動かしていく。


 人だ。人が、倒れている。


 滑るように、残り三階分の階段を駆け降りていく。目が潤んでよく見えなかったが、なんとなく見覚えのある顔をしていた気がした。嘘だ。嘘であってくれ。最後の一段を蹴り、それに走り寄る。両膝が、地面と擦れて熱を帯びた。


 京治は、糸の切れたマリオネットのように、濡れた地面に転がっていた。


 不自然に折れ曲がった肘。片方の足は靴を履いていない。頭部から流れ出る黒い液体が、雨と溶け合って、道の端の側溝に落ちていく。あの夜の光景が、苦しくも鮮やかに蘇る。


 何度も彼の名前を呼ぶ。返事はない。肩を掴んで大きく揺さぶってみる。彼の身体はやわらかくて、かたくて、つめたかった。得体の知れない液体が、頬を流れていく。その時、Tシャツの襟元から何かが飛び出した。


 見覚えのある、青い石の首飾り。


 あまりの衝撃に、喉から獣のような唸り声が溢れ出した。思考を放棄し、チェーンを掴んで首から外す。なぜ、これがここにあるのか。微かな光を宿した表面に、小さな水の粒がはらはらと舞う。両手が、震えていた。ただ、自分はあの待合室に行かなければならない、あの人に会わなければならない、という義務感に駆られて、立ち上がり後ずさる。そして、逃げるように走り去った。


 数刻前まで力の入らなかった足が嘘のように、勝手にあの場所へと向かっている。怖かった。彼の顔を見るのが、怖かった。死んでいても彼は、きっと綺麗な顔をしていたと思う。真っ黒で扁平な空から降り注ぐ水の矢が、じわじわと髪の間で蠢く感覚が気持ち悪い。苦しい、悔しい。酸素を求めて天を仰げば、雨粒がひとつ、口の中に落ちた。舌に広がる、しょっぱいような、苦いような、複雑な味がした。


 不意に、左肩に鈍い衝撃が走った。狭窄した視界が揺れ、手からチェーンが離れていく。掌と尻が何が起きたのかわからないまま地面を這い、首飾りを探す。舗装された歩道は一面に水を湛え、そこに映る顔は、おぞましいほどにやつれていた。


 しばらく自分と見つめあっていると、痺れる肩に、冷たいものが触れた。


「あ、あの、すみません。だいじょうぶ、ですか……」


 ゆっくりと、音のした方へ頭を上げる。


「ごめんなさい、あの、わたし、前見てなくて、その、ぶつかっちゃって……どこか、怪我とか……」


 そこにいたのは、ひとりの女性だった。不安そうに眉を歪めている。彼女もこの雨の中で傘をささずにいたのだろうか、差し出された細い腕にまとわりつく長袖のカーディガンからは、大粒の水が滴っていた。次第に頭のモヤが散っていき、唐突に状況を理解する。


「あ、すみません、俺も急いでて。そちらも、お怪我はないですか」


 彼女の手は見えないふりをして、よろけながらも自力で立ち上がった。精一杯の営業スマイルを無理矢理に貼り付け、なんとか乗り切ろうと試みる。


「わ、わたしは全然大丈夫です。で、でも……」


 顎の下でうねる髪を弄びながら、濡れたレンズ越しの瞳が、上から下へと靡く。


「あなたは、血が、出てるみたいです」


 自分の身体を見下ろしてみる。膝は、擦りむいているものの血が出るほどではない。しかし、ハーフパンツの裾からは赤黒い染みが迫り上がり、Tシャツにもところどころ同じような色の斑点ができていた。思い当たるのはただひとつ。反射的に、これは俺の血じゃないんで、なんて意味深なことを放ってしまった後で、自分が恐ろしいことを口走ったことに気づく。彼女の顔がこわばっていくのを感じ、すぐさま別の話題を振った。


「そうだ、あの、青いペンダントとかって、見ませんでしたか。さっき、落としちゃって」


 首を伸ばして周囲を確認するが、その目は捉えどころもなく泳ぐばかりだった。何か誤解を招いてしまったのではないか。彼女はそれを聞くなり慌てて捜索を始め、勝手な心配は霧散した。


 するとすぐに、彼女は今までの儚い声とは打って変わり、野太い雄叫びを上げた。そして、数メートル先から瞬間移動でもしたかのような速度でこちらへ走り寄り、例のものを大事そうに掲げた。


「こ、こちらですよね……」

「そうそう、それです。ありがとうござ……」

「ほんとに、存在してるんだ」


 力強い独りごとが、ふたりの間のなんとも言えない微妙な空間に、ぽわりと浮かぶ。手にした首飾りをあらゆる方向から観察し、「初めて見た」「どこか壊れてないかな」「ダイヤルがほんとにある」などとつぶやいている。


「ど、どうかしましたか……」


 その様子に、どこか狂気じみたものを感じ、思わず声をかけてみる。彼女は丸い細縁のメガネを押し上げ、震えながら口を開いた。


「これは……‘ブルーアネモネ’というものではないですか……?」


 その単語に全く聞き覚えがなく、とぼけた顔をしていると、彼女は宙ぶらりんだった手をとり、そっと、その首飾りを握らせた。それから、一歩引いて、深く空気を吸い込む。


「わたし、所謂オカルトオタクという者でして、その界隈には精通しているのですが、そちらの物品はこちらの世界ではほぼ伝説レベルでしか存在し得ないとされていた物で、様々な書籍や地域の御伽話などに時々登場していて、個人的にとても興味があって調べていたんですが、そのサファイアのような美しい輝きと白金のチェーン、間違いなく‘ブルーアネモネ’ですよ……でも調査と違うな、純金のチェーンだった……かつて古代では呪物として使用されていて、その能力は持ち主の望む過去のある時点にタイムリープできるという噂で……」


 持ち主の望む過去のある時点に、タイムリープ。次から次へと流れていく早口言葉の中で、そこだけを、この耳がはっきりと捉えた。持ち主の望む過去のある時点に、タイムリープ。彼女の口はまだ動いていたが、お礼もそこそこに、行く当てもなく走り去る。それさえわかってしまえば、簡単な話だ。京治が生きている過去に戻ればいい。右手に‘ブルーアネモネ’をしっかりと握りしめ、ぐっと瞼を閉じる。あの時、あの夜、あの場所で。戻れ、戻れ、時よ戻れ。安っぽい呪文を、心の中で唱え続ける。あの日も、雨が降っていた。生暖かい空気、屋根を打ちつける雨の音、彼の寝息。あの記憶の全てが、五感に訴えかけている。


 しばらくして、地面を蹴る両足の感覚は遠のき、ぷつりと視界が真っ暗になった。薄れゆく意識の中で、湿った暗い街の匂いだけが、心地よく身体に纏わりついていた。





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致死率100% 藤咲雨響 @UKYOfujisaki_0311

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