致死率100%

藤咲雨響

第1夜 濫觴

 東京が泣いている。


 閉め切られた小屋の、生あたたかい空気。水の粒が奏でるこもった音色。そこに混じる彼の寝息は、怖くなるほど規則的だった。


 陶器のような肌に走る、一筋の痛々しい赤い跡。それをそっと拭おうとして、咄嗟に腕を引っ込めた。悪戯心が邪魔をする。無防備な姿を見せられては、優しく起こすのも性に合わない。


 冷たいプラスチックの腰掛けから立ち上がり、無造作に散らばる彼の脚と脚の間にかがみ込む。相変わらず、綺麗な顔をしている。心地よくぼうっとする頭の中で、そんな事を考えていた。


 ぺちぺちと数回、両頬を平手打ち。一瞬、びくりと身体を震わせると、まだ眠たげな瞳がこちらを覗いた。ああもう最悪、とか何とかつぶやきながら、両目をごしごしと擦る。人の顔を見て最悪とは失礼な。すいませんねぇ、美女じゃなくて。


「おはよう、京治くん。もう一時過ぎてますよー。早く帰りましょうねー」


 反応はない。重いまぶたは再び閉じていた。よっぽどこの硬いベンチから離れたくないらしい。今度は先程よりも強めに、短く速く頬を打つ。程よく日焼けした彼の肌は、直ぐに紅く染まってしまった。薄く開いた唇の隙間から低い唸りが漏れ、微かなアルコールが鼻をくすぐる。力なく投げ出された腕の片方を掴んで引っ張ると、彼の身体はえらく従順に立ち上がった。思っていたよりも軽い。そして、床に捨てられていたリュックサックを拾い上げ、肩に掛けてやれば、そのままゆっくりと動き出した。だらしなく垂れ下がる指の先に、半分潰れたようなビールの缶が引っかかっている。



 何かあったのだろうとは思うが、今回は尋常ではないらしい。相当飲んでいる。その証に、ボタンを押さなければ開かないタイプの自動ドアに額をぶつけているのだ。空いている方の手で何度もボタンをたたき、しばらくかかってやっと外に出ていった姿は、まるで墓場から這い出てきた死体のようだった。


「ちょ、京治。雨降ってるって」


 荷物をまとめ、忘れ物がないか辺りを見回してから、閉まりかけたドアに身を滑らせる。京治はほんの数メートル先の闇に溶け込んでいた。ビニールの傘を広げ、すぐさま歩き出せば、足元を気にしながらでも追いつくのは容易だった。



 空から舞い降りた水の粒が、靴の上で弾け飛ぶ。湿った暗い街の匂い。流石に、大人の男ふたりでひとつの傘を共有するのは無理があるらしい。左の肩が、滴るほどに重みを増していく。対向車線の車のライトが、疲れでぼやけた目に染みる。


「お前、折りたたみ傘くらいはちゃんと持っとけよな」


 彼は眩しい夜のどこか一点に視線をおいたまま、すいません、とつぶやいた。続けざまに、でも、と唇を尖らせる。


「そういう早坂さんこそ、傘持って来てくださいよ。腐るほど家にあんの、知ってんですからね。この傘だって、またコンビニで買ったんでしょう」


 こういうことしてるから、家にビニール傘が増えるんすよ、とため息混じりにお説教めいた言葉を吐き出す。少しずつ、いつもの京治が戻ってきたようだ。


 バレてたのか、とこぼすと、当たり前でしょう、と身も蓋もない言葉が間髪入れずに返ってきた。


「でもさ、今日雨降るかどうかなんてわからんやん。臨機応変に対応してこそ一人前の社会人でしよ」

「あんた、朝、天気予報とか見ないんですか。ちゃんと準備してこそ一人前の社会人ですよ」


 ナチュラルに先輩のことを「あんた」呼ばわりしてきたぞ、この生意気な後輩ちゃんは。


「俺さ、天気予報信用してへんねん。京治こそ『ちゃんと準備して』傘持って来てよ。先輩のおサイフと玄関スペースのためにさ」


 敢えて“先輩”を強調してみる。


「それとも、持ってこなかった理由でもあんの」


 それは、と小さく呟いてそれっきり、黙ってしまった。ちらりと横目に見下ろしてみると、あからさまにそっぽを向いていた。小学生が必死に言い訳を考えているようにしか見えない。面白い。火照った脳味噌でまともな思考ができるわけもなく、勝手に口が動く。


「なるほど、もしかして京治ちゃん、俺と相合傘したかったんやろ。可愛い奴めっ」


 水の滴る左手で、京治の髪の毛をぐしゃぐしゃにこねる。やめてください、と身をよじるも、片手は缶で塞がれているためうまく抵抗できない。狭いひとつの傘の下で大人がふたり暴れれば、もはやさしていないも同然。京治はついに傘から抜け出し、数メートルほどよたよたと走っていった。


「もし、雨降ったら走って帰る予定だったんで」


 こちらを振り返り、雨に打たれながら後ろ向きにじりじりと足を引きずっていく。


「早坂さんと相合傘なんかするもんか」


 静かな夜の東京に、妙に強がった声が響く。酔っ払いが走ったら転ぶで、と叫びながら水溜りを避け、京治をひょいと捕まえる。彼の肩には白い水の玉が、所狭しと並んでいた。


「早坂さんだって、相当酔ってますよ。関西弁になってます」

「ふたりのときは、大瀬でいいって」


 無意識のうちに、自分でも意味のわからないことを口走ってしまった。ほんの少しだけ力を込めて、肩の雫を払い落とす。確かに、今日は、飲み過ぎたかも知れない。



 重度の酔っ払いふたりはふらふらと、夜の街を這っていく。真っ黒で扁平な頭上から降り注ぐ水の槍は、数刻前より鋭くなった。


「お前、さっき泣いてたやろ」

「泣いてません」


 食い気味に即答。


「きっと、見間違えですよ。ま、ち、が、い」


 いつもならサラッと華麗にスルーする筈なのに、今日に限ってやけに食いついてくる。


「どうせフラれたんやな。ヤケ酒にはまだ早いで」


 吐き出した言葉が、虚空に浮かぶ。返事は無い。図星か。


「……そういう早坂さんこそ、どこで飲み歩いてたんすか」

「俺は、ただ、取引先のお偉いさんと情報交換してただけやねん」


 適当に言葉を打ち返す。


「それより京治、なんでフラれたんか、大瀬さんに話してみ」


 ふと、隣を歩く彼の足が止まった。彼の頭に雨粒が降りかかる前に、あわてて傘を引き戻す。


「あの、さっきからフラれたフラれた言ってますけど、勝手にフラれたことにしないでください」

「ほな、フッたんか」

「自分でもよくわかんないんすけど」


 京治の声が、不自然なほどにうわずる。


「どういうわけか、『好き』って、言えなくて」


 彼の歩みに合わせ、そっと寄り添っていく。身体の左側から寒気が走り、震えた。


「なつさんのこと好きだったんとちゃうん」

「……そうかも知れないけど、『好き』って、よくわかんなくなって」

「そら、阿呆やな」


 わざと空っぽな声を出してみる。


「そんな中学生みたいなこと言うなや。四六時中その人のこと考えてて、何をしてもその人の顔が浮かんで、一緒にいるだけでとんでもなく楽しい人のことを好きって言うんよ」


 闇の中に、緑色の人影がぼうっと浮かび上がっている。地面に走る縞模様の上を跳ねるように歩いていく。彼の気配が消えた。泣くのを堪えるような、苦しい声が背中に突き刺さる。


「だとしたら、俺、『好き』な人、なつじゃないです」


 はあ、と京治の方を振り向く。京治はまだ、歩道の際で立ち止まっている。


「おま、なに言って––––」


 突如として、轟音が鼓膜を突き上げる。光と鉄の塊が、こちらをめがけて突っ込んで来るのが見えた。同時に、京治が、目の前から消えた。



 それはほんの一瞬だった。何が起きたのかわからないまま、路肩に倒れこむ。麻痺した鼓膜、痺れる掌。

 飛び出してきた車のボンネットは大きくへこんでいた。


 あちこちで光が飛ぶ視界の中で、京治を探す。


「けい、じ……?」


 何度も名前を叫ぶ。何処を探しても、その姿は見当たらない。すると、なにかぬるりとしたものが手に触れた。地面を、黒い艶のある液体が流れている。その先を、勝手に両眼が追っていく。京治が着ていたスーツと同じ色の布に包まれた腕が、どういうわけか車の下から伸びていた。




 頭だけが強烈な引力で吸い込まれるような感覚に落ち、急激に目の前の霧が晴れる。今時夢オチかよ、と笑ってみせるも、隣に彼の影は無い。


 8日前、東田京治は死んだ。確かに死んだ。


 車の運転手がどうなったかは知らない。はっきり言ってどうでも良い。ただ、「京治が死んだ」事実だけが、現実味を帯びないまま、今夜も自らをこの場所に留めていた。


 京治が座っていた手前から二番目のベンチ。そこにあの日のような温もりは無く、小屋を満たす空気は生ぬるく動かない。雨漏りの水の音が、密閉された空間に一定の間隔で響き渡る。目的もないまま、ただぼんやりと、同じ思考を逡巡していた。


 その時、異様なほどなめらかにドアが開いた。嗅ぎ慣れた匂いと共に、あたたかい何かが、凝り固まった空気をかき乱す。靴が鳴らす甲高い音と煩いほどの呼吸音が、近づき、通り過ぎ、だんだんと遠ざかっていく。別に、気にするものでもない。再び、重力に従って重い瞼が下がってきた。

 

 この場に似つかわしくない爽快な破裂音に続き、液体が床に散らばる音が狭い小屋の中でこだまする。所謂惰性、とやらで、音がした方に自然と首が回った。


「あ、ごめんなさい。起こしてしまって」


 蝶の羽音のように儚い声。その持ち主は、入眠を妨害した犯人であった。


「炭酸、噴いちゃいました」


 見ればわかるだろ、と突っ込みたくなる衝動を必死に押さえつけて、得意の営業スマイルを顔に貼り付ける。


「いえいえ、とんでもないっすよ」


 やる気のない両腕に力を入れて、リュックサックの中を探る。


「なにか、拭くものはお持ちですか」


「あ、あの、それが……」


 彼女の瞳が、嘘のように横へ靡いていく。


「な、なにも持ってなくて」


 自分のお人よしな性格を恨んだのはこれが初めてだった。見知らぬ迷惑な部外者など放っておいて、今はただじっとしていたいと思う本音とは裏腹に、身体はハンカチを掴んで立ち上がってしまった。


「お貸ししますよ」


 半分棒のようになった両足をじりじりと引きづり、彼女へ近づいていく。そのうちに、脳が仕事モードへ切り替わっていった。


「どうぞ。お使いください」

「ほんとに、すいません」


 淑女は、差し出されたハンカチを受け取る時にさらりと俺の指に触れてきた。相当な手馴れだな。ほんの一瞬、そちらへぐらりと傾きかけた気持ちを、こちらへぎゅっと引き戻す。そんなことをしても、心の穴を埋められる訳ではないだろう。頭を軽く振り、邪な考えを振り解く。こういうタイプの対処法も、しっかり熟知しているつもりだ。まずは世間話でなんとか乗り切ろうと試みる。


「走っていらしたんですか?」

「ええ、まあ。外、雨降ってて」


 なるほど、長い彼女の髪がしっとりとうねっているわけだ。それにしても、俺がここへ来る時には雨など降っていなかった筈だ。外の状況も知らずにいたとは、一体どれだけここにいたのだろう。全く、情けない。今ここに京治がいたら、頬をつねられていたに違いない。


「なにか考え事でも……?」


 感傷に浸っている場合ではなかった。綿毛のように細い声が、鋭く鼓膜を刺激する。反射で飛び出したのは、「いえ」「まあ」「ちょっと」の三音だけであった。



 俺のハンカチを無造作ににぎり、しみのついた服をせっせと拭いている彼女との間を、なんとも微妙な空気が満たしている。


「綺麗ですね、その……」


 首飾り、いやネックレス。もしくはペンダント––––言い出してみたものの、どれも正確にそれを表してはいないようで、指先と視線で促してみる。胸元で揺れる大きな青い石は、切れかかった蛍光灯の僅かな光を反射して、水面のように輝いていた。


「あ……ありがとうございます」


 口元は柔らかく笑っているものの、長い髪をハンカチで撫でる彼女の瞳は、暗く俯いている。


「でも私、これ、好きじゃ無くて。ウチ代々伝わる大切なものらしいんですけど、本当は棄てちゃいたいくらいで」


 触れてはいけないものだったようだ。何か言葉を発そうと口を開くも、彼女の方が僅かに早かった。


「そうだ、貴方、もらってくれませんか」

「え、それは……」


 彼女は既に、首飾りをはずしにかかっていた。物憂げな瞳だけがこちらをじっと見つめている。これは手強い。押し殺したはずの邪念にたじろぎ、思わず距離を取ろうと後ずさる。その隙に、宙ぶらりんだった右腕が彼女に奪われ、例の首飾りを手のひらに押し込まれてしまった。


「お願い。もらって」


 暖かい手の感触。上目遣い。これはマズい。


「いや、でも……大切なものなんですよね?」


 必死に声を絞り出す。すごい圧だ。


「いいんです。貴方が持っていた方が、これも幸せだと思う」


 いや、それは––––ひらきかけた口は、なにか熱くて柔らかいもので塞がれてしまった。一面、ぼやけた肌の色。押し倒されたのか、腰が抜けて、気がつけば、尻は硬いベンチに受け止められていた。


 何が起きているのか。わからない。彼女は強引に、薄く開いた唇の隙間から入り込んでくる。消えていく自我の中で、抗う術などないことはすぐに理解した。


 歯の所在をたしかめるように、一本ずつ、ゆっくりと、その表面をなぞられていく。口の中で彼女が蠢くたびに、身体中が粟立った。上の歯だけでは飽き足らず、下の歯、そして裏側までも。全てをひと通り堪能し終えると、次は上顎を、奥から手前へと撫で上げ始めた。擽ったくて身を捩れば、喉がそれらしく、湿った音を鳴らした。


 アルコールと似た要領で、感覚が溶けていく。殆ど麻痺しかけた脳で状況を分析しようと試みたが、それは絶望にも等しかった。がっちりと拘束された両手。動かせそうにない。片手は冷たくざらついた壁に縫い止められ、もう片方はどくんどくんと脈打つものに押し当てられている。膝の上には彼女の重み。俺は、名も知らぬ一匹の猛獣に、ごく一方的に、喰い尽くされようとしていた。


 彼女は唐突に、俺の中を弄るのを止めた。やっと解放される。大きく息を吐くと、俺は呼吸を忘れていたことに気がついた。安堵も束の間、今度は奥深くで縮こまり、存在感を消していた筈の俺を、僅かにぬめった先端で小突き始める。そして否応なしに、一瞬にして絡め取られ、彼女の世界へ吸い込まれてしまった。


 本能というものは、自分のすべきことを、きちんと知っているらしい。たとえ思考が追いつかなくとも、己がそれを欲していなくとも。


 お互いが、お互いの中で暴れ、もつれ、ぐちゃぐちゃになっていく。


 次第に、あたたかな蜜が、柔らかい風味を伴って流れ込んできた。義務感に駆られ、それをこくん、と嚥下する。


 彼女は、甘夏の味がした。


 身体は勝手に、彼女を受け入れてしまったようだ。もうやめてくれ、離してくれ。俺の意思などお構いなしに、激しさは増していく。


 最早どちらのものともわからない吐息が、妖艶な響きと共に狭い小屋を満たしていく。とめどなく押し寄せる爽やかな甘み。それを身体に取り入れる度、腹の底が虚しく疼く。


 もう、何も考えることはできなかった。甚い、苦しい。頭にモヤがかかっていく。息が出来ない。幾度となく繰り返される水音。舌が、身体が、熱い、熱い。


 そういえば、今まで生きてきた27年間、キスなんてしたことがあったか。


 初めてを不本意に奪われた悲しみと、死の淵を見た高揚感に漂いながら、意識をそっと手放した。


 何処までも、行方も知らず堕ちていく。

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