5話 Replaying……
六秒の、長い間が空いた。
「誰か、待ってるんだろ?」
「そだった。
ただ、彼女は塩川の目前まで近寄った。それで襟元に手を伸ばすから、塩川は少々息を止めた。
「塩川、こっちだけ出てる。」
「……そう?」
「そー。はい、なおりました。」
「あぁ、ありがとう。」
七竈は「じゃあ塩川、明日ね」と満足そうに去っていった。塩川も笑みをこぼして、彼女の軽い足取りを見送った。
風に揺れる木々の情緒があれば、渡り廊下は透明になる。
それから暫く、何も言わないでいた。
八階の窓から見た空に、一対の『光の線』が入っていた。
─────────
【あの線、気になるでしょ。】
……マグカップの珈琲と、知らない女性が映っている。
【教えてあげない。】
やけに広い一室、アクリル張りの角部屋で、白い都市の
(そうか……ここで俺はその理由を尋ねて、こう返される───)
───【私達とかかわった記憶は、きっと覚えていられないから。】
やがて、強烈なノイズが
─────────
深夜2時30分に、訳もなく目を覚ましている。
「……夜、か。」
妙に頭痛がする。塩川は
静かだった。額に押し当てた掌で、だれた前髪を掻き上げてみる。数刻前の自分は、何か夢を見ていただろうか。
「思い出せない」
月明かりの通路の両側に真っ暗な階段があって、それぞれ下に続いているらしい。
自分の履いた来賓用スリッパに目をやって、塩川はやはり動けずにいた。
ふと気付いた時には、もう渡り廊下の中間に立っていたのだった。
行く当てもないから、黙って座り込んでいた。
───重い静寂を、自分以外の足音が破らないかと待っては、頭を抱えている。
消火栓のランプを除けば、窓、続く床も、静かな色合いを取る。月光の差す部分は、一様に青白く映った。
……''Clair de Lune''.
(答えを、出さないと)
「俺は、誰なんだ。」
熟思黙想の時だ。再び目を閉じて、塩川は考え事を始めた。多くの感情が、暗闇で渦を巻いた。
───さて、孤独の問答。
【
虚空が問いかける。
(……)
【何処から来た】
(わからない)
【何処に向かう】
(わからない)
【どうして歩く】
(わからない)
【いつまで歩く】
(わからない)
【何ができる】
【誰のために】
【何のために】
(わからない)
【なら、何になる?】
(……何も、わからない。)
涙の流し方を覚えていなかった。塩川は閉じた目とつぐんだ口で、静かに時を
(畜生が、これも自己憐憫だろ)
「俺は、空っぽだ。」
かすれた声で呟いて、力尽きるように眠った。これが七月十日金曜日の、午前2時58分のことだった。
さて、同日の午前4時58分は、きっかり2時間後である。
「……」
気づけば自分は目を覚ましていて、明るくなった窓の外を眺めていた。
それで、涼しいようだ。ぼんやりと光を入れた渡り廊下も、既に朝方の気配をした。少しひんやりしたワイシャツの手触りを確かめた。
空気の、清澄な匂いがする。深い呼吸から、耳を澄ませた。どこか遠くの方から、微かだが、長続きする音が届いた。
これは生き物の声とは遠く、人の話し声とも違う。どちらかと言えば風鳴に近い。
何がさて、少し居心地が良かった。五感が妙に冴える。白い大雲がゆっくりと流れていくのを、ただただ眺めている。
塩川は立ち上がって、八階の窓から眺めた。
……The wind blows.
風が木々を揺らす情緒、渡り廊下は透明になった。
目が見える、耳が聞こえる。
【この痛みを、どこかで覚えている】
紛れもなく、平穏で、良い朝だった。
「嗚呼……どうして」
……どうして、『涙』を流しているのか。
静かに伝っていくのを確かめて、塩川は痛みを噛んでいた。
熱が、心の内に湧き出る。
「───俺は、この景色を──────」
──────────────
Replaying……
──────────────
……自分の教室へ続く廊下を、ゆっくりと、歩いているようだ。
(誰もいない。)
廊下には、奥行きがある。
明るい廊下。
(多分、よく見慣れた景色だ。)
なんとなく、懐かしい感じがする。
以前この廊下で、多くのことを考えていた───
……今朝の空模様のこと、
切迫した時刻のこと、
鏡に映った自分のこと、
目に映った誰かのこと、
とりわけ重要でないこと、そうとも言えないこと、
先のこと、今のこと、前のこと……
今では、忘れ去ったこと。
(ひどく長い夢を、見続けていた気がする。)
遠い昔の【記憶】のようなものを、微かに思い起こしている。
風に揺れる景色だ。
確かに、大事なものだった。
(もう、ほとんど思い出せない。)
霧散した光の残滓が、空っぽの廊下を漂っている。
当座は見過ごした記憶の断片、零れた光の欠片が、今更、はっきりとわかる。
そのまま受け取ればよかったものを、どうしてか、殴り散らした。
自分のために流れ去る数千の光の日々を、自分で裏切り続けていた。
……失うことでしか、見出すことが出来なかった。
後悔しているんだと思う。
【痛み】だけが、今日の自分に残っている。
(それでも、もし。……いつか、取り戻せるなら)
自分は廊下を歩いてきて、扉の前に立っていた。
この扉の先に、失った光景がある。
深く呼吸をして、間違いなくこう思った、
(今が変わる時だ)。
手をかけて、取っ手を引いた。白昼夢の続き、今度は、取り戻すためだ。
視界は、もう澄み切っていた。
「───"déjà vu"───」
影が青い。
描いた夏は、既に来ていた。
─────────
……さて、彼は惰性から日々を喰い潰す馬鹿である。貰った恩も思い出さない阿呆である。なにか面白い夢を見ようとして、一日中眠るような間抜けでもある。
未だに、彼はそうである。
ただ、しかしそれでも、陽当たりと風抜けの良い日に、どこからともなく喉の痛みはやってきて、
【嗚呼、
と、静かに告げた。それで、彼も理解した。
何度忘れようが、こぼれ出た光が絶えない。
(これでいい)
(一羽の雀の命も、無窮の大空に抱きしめられている。)
それで───ようやく、彼は目を覚ました。
(だから、もう一度。)
……Reviving……
「塩川、聞いてる?」
「は、ぼーっとしてた」
放課後、日当たりのいい「ファミレス」に居た。
「それで、どれが一番おいし?」
「……北見チョコミントスペシャル」
「自分のじゃん」
「まあね」
絶妙な表情で、塩川は「北見チョコミントスペシャル」を食べた。ハッカの香りが鼻を抜ける。そして、スプーンはやけに細長い。これが何故だか、妙に懐かしく思える。
……過ぎ去り、移ろいゆくものであり、また、
『『塩川の
塩川の日常《リプレイ》 @karashina_hentetsu
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