終章
始まりの終わり
『カフェ・サエキ』の二階部分、洋君の自室に宛がわれている部屋に、彼は横たわっていた。安価そうな敷き布団に寝ている彼の額には、汗がたっぷりと浮かんでいた。冷たい水が入っている洗面器に、ピンク色のタオルを浸して絞り、それを洋君のおでこに乗せた。
【で、真優ちゃん。どうする?】
わたしの隣に座していた猫が……洋君のお兄さんが問いかけてきた。
どうするもこうするも、喋る猫から告げられたことがあまりにも突飛すぎて、わたしだってまだ情報を整理できていないんだ。
――あのとき。
洋君はわたしのときと同じように、麻衣さんと蒼さんに対して力を使った。お姉さんの記憶を見せる、と言っていた。薄い光を右手に纏った洋君は、目を瞑っている二人に触った。そうして、数秒経ったあと、二人は目を開けた。涙を流しながら、二人は抱き合っていた。蒼さんはすぐに涙を止めたけど、麻衣さんは十分泣いていただろうか。そして麻衣さんが泣き止んで、蒼さんが洋君にお礼を言いに来たとき、洋君は倒れてしまったのだ。蒼さんは驚きつつもすぐさま駆け寄ってきて、洋君を担いでくれた。幸い、公園の裏手が『カフェ・サエキ』だったので、すぐに運ぶことができた。そこまでは普通だった。洋君を寝かせた蒼さん達が階段を下りて、帰ったあとのことだ。
いつからいたのか、わたしの横には猫がいたのだ。黒猫の金色の双眸が、ずっとわたしの目を見ていた。何かを射抜くような視線だ。
「あなたも、洋君が倒れたから悲しいの?」
黒猫の短い毛を撫でようとしたとき、その猫はしゃがれた声で喋りだしたのだった。
【オレの声、聞こえるか?】
わたしは大げさに首を左右に振った。これは心労だ。洋君、あなたのせいで、幻聴まで聞こえるよ。一人苦笑を浮かべ、立ち上がろうとして。
【瑞原真優ちゃん。黒い猫の声が聞こえるか?】……二回目の声。認めるほかなかった。
そこからは驚きの連続だった。
喋る黒猫の正体は洋君のお兄さん。洋君に何があってどう生きてきたのか。どうして倒れたのか。そして、このままだとどうなっていくのか。
様々なことを一気に喋られたわたしは未だに混乱している。
「どうしたらいいんだろう」
いつか、わたしは自分で約束をしたんだ。誰かのために何かがしたいと。彼が私を助けてくれたように、困っている人がいるなら、その人を助けてあげたいと。ここに寝ている彼、捻くれている男の子の助けになってあげたいと、あのとき思ったのに。
誰かのためにできることなど、何もないのだろうか。
想うだけじゃ、何もできないのかな。
【そんなことはないよ】
ハッとしたように顔を上げて、わたしはお兄さんを見た。
【君には君の、役割があるんだよ】
どこかで言われたことのある言葉だ。その言葉は多少の真実を含んでいる気がする。
【変えられない事柄だって、変えられると思わないか。……君はどうしてここにいる?】
人生の何もかもが神様によって仕組まれているとしても、過程だの結果だのというモノのすべてが予定通りだとしても、わたしは、彼を……。
どうしてここにいる。どうしてって、そんなの、好きだからに決まっている。洋君は昔、恋をしないとわたしに言い捨てた。彼のその態度から、彼には彼の考えがあるのだろう。本当にそういうことが嫌いなのかもしれない。そんなことを思っていた。でも、お兄さんから話を聞いて、わたしは分かったんだ。
彼は、すべてを諦めて、捨てている。
恋とか、そういうモノもだけど。そうじゃなくて、もっと大きくて、大事なことを。
気づかせたい。気づかせたい。
生きてほしいと願っている人がいることを。
きっと、わたしだけじゃない。洋君と関わってきた人、みんな、そう思っている。
「……なんとかしたい」
【じゃあ、なんとかしよう】
あっけらかんとお兄さんは言った。
え?
ぽかんと口を開けているわたしに、お兄さんは一つの指示を出した。
【萩原七恵に電話をして、風成虹介と霧霜雪菜をここに呼べ】
誰のことだか全く分からなかったけれど、お兄さんに言われた通り、洋君の携帯から七恵さんに電話を掛けて、二人をここに案内してもらった。二人がここに着いた頃、蒼さんと麻衣さんも洋君を心配して、再度訪問してくれたのだった。
【役者は揃ったな】
お兄さんが不敵に笑みをこぼした。
☆☆☆☆☆
僕が目を開けると、そこには数人が、見覚えのある人達がいた。
のっそりと起き上がった僕は兄貴に見つめられていた。
【……なあ、洋。そろそろお前自身の不幸を取り除かないか?】
「不幸ってのは、この身体のこと?」
【そうだ】
「生き返る代わりの対価じゃなかったっけ。取り除いたら死ぬんじゃないの?」
【もともと死ぬつもりの奴が、何言ってんだ?】
僕は言葉に詰まった。ああそうか、この人には僕の胸の内が見透かされているんだった。
【ただの寂しがり屋だろ? 周りと一緒に時間を過ごせないからって、お前はどうして死に急ぐ?】
死に急ぐ理由、どうしてだろうか。それは自分にもよく分かっていない。
【お前は、ただ無心に他人の幸せを願っているように見えるけど、それ、大間違いだから。なんで自分の幸せを願えないようなヤツが他人の幸せを願えるんだ。そんなの、ただ酔ってるだけだろ。そうして人と関わっていって救っていくのが、お前が死ぬまでの生きる理由だろ。そうしてんだろ?】
矢継ぎ早に僕の心情を言い当てられた。
「そうやって生きていくのが、俺の処世術だから」
ハン、と鼻で兄貴は笑った。
【生きていく? 大概にしろ】
そして、一呼吸。
【諦めるのも、捨てるのも、ちゃんと生きてからにしろ!!】
ガツンと頭に衝撃を受けた。雷に打たれたみたいだ。
僕が様々な気持ちを殺していたことに、やっぱり兄貴は気づいていたんだ。
【だから、オレはお前を生かすよ】
「……どうやって」
辛うじてそう口にできた。……違う。そもそもだ。
「どうしてみんながここにいる?」
沈黙していた真優がゆっくりと言った。
「あたしが連れてきたんだよ」
はあ、と兄貴はため息を吐いた。
【このままだと、お前は本当に、自分の身体が壊れるまで右手を使い続けそうだ】
決意の表情で真優は言った。
「わたしはそれを止める」
「……どうして兄貴と真優が喋ってる?」
当然という顔で兄貴は告げる。
【お前と一番……お前が一番、深く接しているからオレの声だって聞こえるんだよ】
あのね、と静かに喋り始める真優。
「あたしはお兄さんから、洋君のことを聞いて、助けを――みんなを呼んだんだよ。ここにいるみんなは、洋君に助けてもらったんだよ? 不幸の対価を全部、全部一人で背負ってさ。身体に溜めて……。そんなのは、そんな風に一人にだけ不幸を押しつけるのはみんな嫌なんだ。だから、みんなの不幸を洋君に押しつけた代わりに、みんなの幸せを少しずつ洋君にあげる」
みんなの幸せを少しずつ僕にくれるってどういう意味だ。僕が持っている力は、『他人のために想って願って祈って誓ったモノを対価にして、その他人の不幸を取り除く』という力だ。そんな力が――幸せを移動する力があったら、どうしてもっと早くに使わなかった。それより、一体誰がそんな力を持っているんだ。
【オレだよ。上野洋君】
いや兄貴、冗談はやめようぜ。兄貴が持っていたなら、すぐに僕に使ったはずなんだ。
【オレはいっちばーん最初に、お前のために使ってやったぜ?】
「……どういうこと?」
【ホントはな、オレとお前は逆――お前が死んで、オレが生き延びるはずだったんだ。強い既視感、いや、映像かな。映像が頭の中に流れたことがお前もあっただろ? 近い未来に起こることが見えるんだよ。お前よりもっともっと強い力をオレは持っていた。それで、お前が死ぬのを見ちまったんだ。だから、変えたよ】
【オレの幸せをお前にちょっとあげたんだ。オレが事故に遭って死ぬ代わりに、お前が事故に遭っても生きるように】
僕は言葉を失った。兄貴がそこまで僕のことを考えているとは思わなかったからだ。
やっぱり、昔のままなんだ。口調や雰囲気が変わっても、兄貴の本質的な部分は変わってないんだ。
「なら、どうして今また幸せを俺に渡そうとする? いや、それより、どうしてそれを俺に言わなかったんだ?」
【昔言わなかったか? 『人間にはそれぞれ役割があって、それを全うするだけなんだよ』って】
確かに言っていた。だけど。
「それと俺に言わなかったことにどんな関係がある?」
【オレは、もう一つ言ったはずだぞ。『例えばオレが神様で、全ての結末を知っていたとする。そんでオレがお前にさ、このまま進めばお前は幸せになるよって言ったらお前はどう行動する。オレの言葉を信じて、無意識の内に手を抜くかもしれない。だって、最後は幸せになれるって知っているからな。そして逆に、お前は不幸のまま死ぬんだよって言ったらどう行動する。粘りもせずに諦めるだろうな。どんな人間だってそうするだろ』って】
お経を諳んじるみたいに、兄貴は言った。
【お前はお前の役割を、とりあえずは全うしたんだ】
そう言って兄貴は真優の側に行き、彼女の手に触れた。そして、みんなが集まってくる。
「なんで、みんな、俺に」
僕なんかのために幸せを分けられるんだ。
「馬鹿かお前は」
佐伯さんだった。
「別にな、俺はお前のためにここにいるんじゃねえよ。おれは約束を果たすだけだ」
「約束って……?」
僕の質問に答えたのは兄貴だった。
【オレはこいつにだけ言ってたんだよ。オレは死ぬよって。弟の面倒を頼むって約束をしたんだ】
兄貴の声は聞こえてないはずの佐伯さんが、まるで意思疎通できているかのように口を動かした。
「おれは、お前の面倒をみるって、この馬鹿と約束したんだ」
兄貴を見つめながら、僕に告げる。
「ほんっと、お前らは馬鹿兄弟だ。兄貴の方は弟に生きて欲しいと願って死んだのに、弟は死んだ兄貴をどこまでも追いかけて、こんな姿になった兄貴にも心配をかけて……」
そこで聞こえたのは、はぁ。というため息――虹介の声だった。
「あのな、俺はお前ら兄弟の事情、あんまり知らないけどさ、どうして頼らないんだ?」
僕は、どうして頼ろうとしないんだ。
「お前は、上から物事を見てないか? 俺は助けてもらったんだ。今度は俺の番だ」
虹介の眼差しは、穏やかながらも、とても強い意思を宿していた。その後ろには、雪菜ちゃんが控えてきた。彼女も僕を見据えていた。
「わたしにできることなんて、何もないのかもしれないけど。でも、あなたは私の恩人だから。わたしにも何か手伝わせてください」
そう言ってペコリと頭を下げた。
「俺だって、同じだ」
虹介の横にいた蒼さんが、そう漏らした。
「俺がお前をどこまで理解できるのか、分からないけど、でも、いや、まあ……」
「はっきりしなって」
麻衣ちゃんはそう嘆いて、それからクスリと笑みをこぼし、僕に告げた。
「誰だって、普通に生きていいと思いますよ?」
すべてを諦めていたのは、どうしてだろう。だけど、諦めながらも生きていたのは、たぶん……。
【まあ、始めるぞ】
そう言った兄貴の身体が光り出した。それは、まるで、僕の右手のよう。
不死の身体という不幸を消せるだけの幸せが、どこにあるんだろう。一人一人の小さな幸せでは、おそらく足りないであろうに。一体兄貴は何を――
「対価って、まさか、兄貴の命」
突如として浮かんだ一つの疑惑――
【最後の最後に一つくらい当てるもんだな】
「そんなことして、俺が喜ぶか!!」
怒声を発した僕の声に皆はたじろいだが、兄貴はどこ吹く風だ。
【なあ、洋】
兄貴の声は、憂いに満ちていた。
【オレにも役割があるんだよ】
「兄貴も俺と同じことをしようとしているだけじゃないのか!?」
【オレはもう、一度死んでいるんだ】
兄貴は、どうして。
【死んだはずの人間が生き返った。生き返ったのには何か理由がある。たぶん、それは、未練とかそういうモノなんだよ】
お前は、どうして。
【お前のことが心配だったんだ。でも、もういい。お前の周りにはこんなに人が集まってるじゃないか。お前は、オレのやった力のおかげだと思うだろう。でもな、違うんだ。どうであれ、お前が動けばお前の周りにはちゃんと誰かが居るんだよ。集まるんだよ】
下心のない、綺麗な自己犠牲ができるんだ。
【一つ教えておいてやる。オレのやった力はな。最初はオレの言った通り、不幸を扱う力だったんだよ。だけど、あのとき――】
チラッと二人(虹介と雪菜ちやん)に視線を送り、それからまた僕を見つめて話し出す。
【お前は、お前の中で力を変えちまった。いや、変えたんだ。不幸じゃなくて、幸せを扱う力に。お前が自分で汚いと思っているその願いは、きっと綺麗だ。あとは、自分の幸せを願えばいいだけなんだ。だからオレは消えるよ。生者の前から、オレは消えるよ】
そんな勝手なことを言って、兄貴は僕の前から消えるのか?
「俺が、すべてを諦めながら生きていたのは、兄貴がいたからだ」
【……だから、オレは消える。過去は過去だ。本当はそこにいないはずの人間に縛られて、お前はずっと生きていくつもりか?】
兄貴自らが決めた消えるということ。そこに迷いなど感じさせない瞳が僕を睨んでいた。
「また、俺は」
兄貴のいない日々を送るのか。喪失感を抱えて、生きていくのか。
【それは、そういうもんなんだよ。生きていくってことは、失っていくこと、無くしていくことだ。その代わり、お前はたくさんのモノを手にするんだ】
兄貴の身体から、小さな何かが溢れ出してくる。粒子か、なんなのか、よくは分からないが、それは淡い光景。
「死ぬのが、怖くないのか?」
僕は事故に遭ったときに、自分の最期を見る勇気がなかったから目を瞑った。だけど兄貴は、消えていくことを恐れもせずに、金色の双眸を開いている。
【怖いね。すごく怖いね。だけどな、オレは一瞬たりとも、自分のしてきた選択を後悔してないんだ。今だってそうだ。だから、オレは満足して逝けるんだ】
兄貴がそう言ったとき、部屋の外から物音がした。
「「にゃあ」」
ミィちゃんとケンちゃん――二匹の猫だった。
【お前ら……】
兄貴は驚いた顔をして、自分に近づいてくる二匹を凝視していた。
近づいてきた二匹は、兄貴の顔を舐めた。
沈黙していた佐伯さんの顔が突如豹変し、けたたましい声を張り上げた。
「親愛の行為!? 今舐めたよね!?」
【にゃあ! にゃあ!】
それぞれの想いを確かめるように、慈しむように。兄貴は二人の顔を舐めた。
そのあと、兄貴はもう一度僕の方を見て、言葉を発した。
【それじゃ、オレは逝くよ。代わりに、不老不死だった身体は消える。体調も治る。要は――お前の背負った不幸の対価をオレが全部もらっていく】
身内の命を喰らってまで、僕は生きてもいいのだろうか。
【いいんだよ。生きていいんだよ。右手の力は残しておくけど、もう対価にお前自身の身体は使えないからな。ちゃんと、自分の命の重さを知るんだ。……周りと一緒に過ごしていく中でな】
兄貴の身体から発せられているたくさんの粒子。発せられている量が一定であったのに、粒子は徐々に多く身体から出ていっていた。輝きが増していく兄貴。そうして、丸い光に包まれた兄貴は、僕に言う。
【じゃあな】
眩しすぎる光が視界を遮って、僕は兄貴がどんな表情をしているのか窺い知れない。
でも、その声は、確かに笑っていた。
「兄貴っ!!」
何を言おうとしたのか、自分でもよく分からない。だけど僕は無意識の内に叫んでいた。
☆☆☆☆☆
「兄貴っ!!」
洋君がそう叫んだあと、お兄さんを包んでいた輝きが消え、そこには一匹の猫だけが残されていた。たぶん、あの猫の中に、お兄さんの魂は、もうない。
「あ、兄貴……?」
腕をゆっくりと動かし、恐る恐る黒猫の身体を撫でる洋君。
にゃあ?
うっすらと疑問符の付いた泣き声。嗄れてはいない、可愛らしい声。
「俺は……」
嘘だと思いたかったことが、事実へと変わっていく様に絶望しているのか。
自分には何もないと思っているのか。
「……どう生きていけばいいんだよ」
わたしには彼の心中を言い当てることができない。
でも、言わなければいけないことがあるから、わたしは言う。
「洋君は、なんで生きてるの?」
分からない。洋君はそう言いながら首を左右に振った。
「洋君は、わたしに言ったよね」
彼はゆっくりと首を動かし、怪訝そうな表情で訊ねてきた。
「俺は、何を言った?」
洋君は忘れているのだろう。考えに考えて言った言葉なら、頭の中に残っているだろうけど、そのときそのときの想いを口に出す彼は、その何気ない一言が人を変えてしまうことを知らない。
些細な一言が、わたしを変えてしまったことを知らない。
「溺れてみろって、言ったよね」
「溺れて……?」
洋君の口ぶりからするに、彼は本当に覚えてないようだ。
ねえ、なんで覚えてないの?
わたしを救ってくれた言葉を、どうして洋君は覚えていないの?
「あの変な料理っ」
なんだっけ。なんだっけ。ああ、なんでこんなときに名前が出てこないんだろう。
「変な料理……」
ますます怪訝そうな表情で、こちらを見つめてくる洋君。
そんな洋君の様子を見ながら、必死に名前を思い出そうと考えていたとき、声が聞こえた。嗄れた、お兄さんの声が。
――アフォガートだって。
わたしは目を丸くして、辺りを見渡した。でもそこには、お兄さんはいなかった。お兄さんだったはずの黒猫は、どこかぼんやり遠くを見つめているだけ。
洋君も同様の反応をしていた。そして、小さく口を動かした。あのばか、と。
「思い出したよ。俺は、確かに言った」
「だから、だからさ」
もうなんだか、どんな言葉だって意味を為さないような気がする。
だから。だから。そう言って、声が詰まって、想いを表せなくなってしまったわたし。
「真優……?」
洋君が、わたしの名前を呼んだ。
大丈夫か。どうしたんだ。
言われていないはずの、そんな言葉が聞こえてくる。
そうやって、為さない言葉の行方を知りたいと思ったとき。
ぽろぽろとわたしは涙を溢していた。
「ま」
洋君が、もう一度、わたしの名前を呼ぼうとした。
「ゆ」
それを遮るように、わたしは、声を出す。
目から溢れている涙をそのままに、わたしは叫んだ。
「わたしは、君に、『溺れてる』んだよ!」
洋君は目を見開いた。そうだよ。わたしは君に言われたんだ。溺れてみろ、と。恋というヤツに、君という人に、わたしは溺れたんだ。
言うよ。言わせてもらうよ。
「洋君だって、溺れてみてよ……」
ここにいるすべての人達の想いを代弁するように、声の限りに、告げる。
「生きることに、溺れてよ!」
静かに座っていた洋君の身体が揺らいで、そして――
ゆっくりとではあるけれど、目元に溜っていく、流せなかった透明な雫。
その雫が流れていく刹那、わたしはそうっと彼の涙を拭った。
薄い桜色に染まった――それなのに冷えている頬に手を当てて、わたしは言う。
「大丈夫だよ」
お兄さんと同じように、生きることを許すよ。
いなくなったお兄さんの代わりに、伝え続けるよ。
「上手じゃなくてもいい。どんなんでもいい。洋君は生きていいんだよ」
生きてていい。そう思えるモノを手にする資格が、洋君にはあるのだ。今は悲しみが胸を支配しているだろう。お兄さんのことで――大切な人の命を犠牲にしてまで自分は生きてていいのかと、洋君は自問しているだろう。そのことについて答えが出るとき、できるなら前向きな答えが出たとき、きっと彼は、自ら歩き出していくことだろう。
それまで、お手伝いしたい。本当は、ずっと、側にいたいのだけど。
か細い光の糸を彼に届けたくて。
ずっとずっと胸の中にあった想いを、震える声で呟いた。
――わたしと一緒に生きよう?
洋君の涙を拭ったわたしの手に、柔らかな夕日の色が付いていた。
☆☆☆☆☆
古ぼけた部屋の中から見えた夕刻の空は、覗き込んだこちらが静まり返ってしまうほど鮮やかだった。差し込んだ橙色の優しい光は僕の身体をするりと透過していく。一筋の光は、まるで希望であるかのように、じんわりと心の中に染みていく。
この夕日が落ちれば、また夜がやってくる。
少し前の僕のように、絶望だけがこの世を彩ったと錯覚してしまう夜がやってくる。
でも、だけど、それでも朝はやってくる。望もうとも、望まなくとも、朝はやってくる。
それならば、朝を望もう。孤独の朝焼けが如何に眩しかろうと、僕らは夜を抜けていく。
それにそもそも、僕は孤独じゃない。
――わたしと一緒に生きよう?
どれだけの想いを込めてくれたのか、震える声でそう言ってくれる人がいる。
なんで兄貴が変な力を持っていたんだ、とか。
どうして僕も変な力を持ったんだろう、とか。
未だに分からないことはたくさんあるけれど。
僕は生きていく。
消えてしまった兄貴をときどき思い出しながら。
僕は生きていく。
消えなかったこの右手の力を上手に使いながら。
僕は生きていく。
兄貴が残した、この命を全うしていきたいから。
僕は生きていく。
見渡せば、側に誰かがいることに気づいたから。
頬に流れ伝う涙を優しく拭ってくれる人がいる。
そういう人に出逢えたなら、僕は生きていける。
きっと、僕らは生きていけるのだ。
だから。
ありがとう――
僕は一言、そう答えた。
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