クレープシュゼットをもう一度

犀川 よう

クレープシュゼットをもう一度

 小さい頃、銀座のとあるビル地下にあった老舗レストランによく連れていかれた。両親の好きなフレンチレストランのひとつで、わたしと妹はお姫様のようなドレスを着せられ、絢爛豪華な地下宮殿へと迷い込んだのである。

 今考えるとめまいのするような調度品やカトラリーが並んでいる立派なレストランであった。いくら贅沢な場であろうと、当時のわたしたちにとっては、家で躾けられたつまらぬテーブル作法を披露するための実践の舞台でしかないから、わたしも妹も良い気分にはなれなかった。

 割り当てられた席には、フランス式の並んだ多くの厳ついカトラリーがわたしたちと対峙していて、「お前に使いこなせるのか?」と言っているような気がした。生真面目な妹がその景色に圧倒されている中、わたしは「いざとなれば箸で食べよう」と、家から持ってきた割り箸をポーチに忍ばせていた。


 当時はもちろん飲むことはできなかったが、両親は今となっては結構良いワインを注文していた。ワインと葉巻に関しては早く生まれたもの勝ちな世界であるが、今考えれば、とんでもなく安い値段でDRCやボルドーの一級が飲めたのだと思う。


 話が逸れたが、わたしたち姉妹にとっては、フレンチの味などわかるはずもなく、ただ、意地悪く並べられたナイフやフォークと格闘しなければなかった。特にフィッシュスプーン。あれはいけない。わたしも妹もテーブルマナーをしつこく教えられてきたが、フィッシュスプーンの使い方だけは何故か教わらなかった。順番的に魚料理に使うことはなんとなくわかったが、何故かナイフ側に置かれている。妹は混乱しているようで、フィッシュスプーンを使うことを放棄して、肉料理のナイフを持ち出すことを選んだ。それを見ていたわたしは、誰にも見られぬよう、フィッシュスプーンをそっとテーブルの下に落として、最初からなかったものとした。


 何をとっても面倒で大仰しい食事の中、唯一の楽しみがデザートであった。その当時は、クレープシュゼットを目の前で作ってくれた。クレープシュゼットとはクレープをオレンジリキュール(またはコアントローやブランデーなど)と一緒にフライパンに入れ、火でアルコールを飛ばし、アイスまたは生クリームとオレンジを添えたものだ。


 わたしはクレープシュゼットを作ってくれるメートルの凛々しさが好きだった。丁寧に磨き上げられたフライパンに家では考えられないような量の砂糖やバター。そんな密の中に浸るクレープに火が入ると、綺麗に剥かれたオレンジの皮の道にコアントローを流して火をつける。幻想的な火遊びフランベにわたしと妹は興奮する。普段は飲むことが許されないお酒が入っていることにもドキドキしながら完成を待つ。ギャルソンたちが恭しくわたしたちの前にサーブをして、メートルが直々にアイスを添えてくれる。妹がそのアイスをあまりにも見つめているので、中年紳士のメートルは、わたしたち以外に気づかれぬよう、そっと多めに添えてくれた。


 クレープシュゼットはわたしたちにとって、大人への一番身近な羨望であった。大人になったらクレープシュゼットいつでも食べれるようになるのか。そんな甘い幻想を妹と共有しながら、添え物であるオレンジの果肉を食べた。クレープシュゼットは人の手によって作られる優しいお芝居であった。テーブルマナーは嫌いであるが、あの紳士が作るクレープシュゼットを食べることは、とても大事な行事であった。


 待望の大人になり、自分でもフレンチでクレープシュゼットをオーダーできるようになった。あのレストランはわたしにとって大事な場所であったから、育ちの良さそうな当時の彼氏とは、有楽町にあるホテルやフレンチに行って食べていた。

 毎回事前に予約するので、いつの間にかわたしが行く時にはクレープシュゼットがデフォルトとなっていた。時にはフランス人のメインシェフがわざわざ作りに来てくれた(マナーとしてどうなのか不明であるが)。クレープシュゼットが食べたいために、フレンチに通っていた時期もあった。


 しかしそんな夢のような時間には終わりがあった。大事だったあのレストランが閉店することになってしまったのだ。わたしにとっては大事件であった。わたしはその情報を入手してすぐに妹に連絡をした。妹にはわたしのような貴族趣味はないので、大人になってもフレンチには行ってはおらず、子供の頃の話で終わっていた。しかしながらクレープシュゼットの楽しみだけは忘れていなかったようで、久振りに二人で行ってみることになった。


 何人かのスタッフたちがわたしたちを覚えてくれている中、初老を越えた件の紳士メートルは皺の多くなった目じりをさらにしわくちゃにして迎え入れてくれた。

 そして、決まりきっていることなのに、わたしたちに向かってこう言ってきた。――あの日を思い出せてくれるような、素敵な笑顔を添えて。


「本日のデザートはいかがなさいますか?」

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