3.もう一人の誕生日
小鳥のさえずりが、辺りに響いている。空は晴れ渡り、清々しい朝である。小さなこの診察室でも、一日の始まりを気持ちよく迎えられる。
……こんな奴らと顔を合わせなければ。
「万吉先生! 今日はなんの日でしょう?」
診察室にやって来た旭が、にこにことこちらを見上げている。一はその背後に立って、後ろに手を組むようにしていた。特に不気味だったのは、いつも無愛想なはずの吾郎でさえも、柄にもなく微笑んでいたことだ。これには万吉が怪訝な表情になるのも無理はなかった。
「……さあ」
「ええーっ? 本当に分かんないの?」
わざとらしく叫んだ旭を、細い目で見下ろしたその時だった。
「ほらっ、万ちゃん」
一の声に顔を上げる。
満面の笑みを浮かべる彼が抱えていたのは、大きなホールケーキだった。
「お誕生日おめでとう! 万吉先生!」
記念日を祝う三人の幽霊の声は、小さな診察室にこだました。
「なんだい、そりゃ」
万吉は冷ややかな目で、ホールケーキを見下ろす。
「嫌味かい」
旭がきょとんと目を丸くしていた。そんな彼に諭すように、万吉はゆっくりと話した。
「幽霊から、誕生日のお祝いかい? そいつは滑稽だね」
「……怒ってるの?」
「んー? 怒ってはないよお? ただまあ、気分は良かねえなあ」
全体重を背もたれに掛けると、椅子はぎしっと呻く。と同時に、大袈裟に溜息をついてみせた。
「ひねくれんなよ、万ちゃん。何も僕らは」
一の言葉を遮って、立ち上がった万吉は、とうとう診察室から出て行った。
ママチャリにまたがり、まだ動き出さない町を駆け抜ける。しばらくすれば一たちも諦めて帰るだろう。そう踏んでいた。
別に、一のことが嫌いなわけではない。彼は親友だ。しかし、彼が幽霊らしくないことが、万吉の心には引っ掛かっていた。
彼が生き生きしているのを見ると、まるでこちらの生気が吸い取られるような、そんな呪いのようで、うんざりしていた。あんなに仲が良かったのに、こうしてじわじわ自分を苦しめる存在になっている。
ぼんやり考え事をしていたその時、万吉の身体が大きく跳ね上がった。
前輪が石に乗り上げたのだ。余所見を一瞬しただけで、焦ってハンドル操作が上手くできなくなる。そんな彼を嘲笑うかのように、ゴムのぎしぎしとした音が響く。
なんとかバランスを保とうとハンドルを右へ左へ動かしていると、ママチャリはよろよろと進み、河川敷の方へ向かっていく。
「よせよせよせ……ああっ!」
願いも虚しく、ママチャリは吸い込まれるように河川敷へ向かい、その斜面を派手に滑り落ちて言った。勿論、万吉もろとも。
ぼうぼうに生えた草のお陰で、そんなに強い衝撃はなかった。が、先日同じように転んで怪我をした額のことがふと思い出された。全く俺って奴は、いつまで経ってもバランス感覚に乏しいようだ。そう思うとなんだか変に笑えてきて、そのまま河川敷に寝転がった。
さらさらと、微かに川の流れる音が響く。澄み切った青空が高く、どこまでも続いている。
「少しの間でいいから、一人にしてくれないか……」
万吉は天を仰いで、そう呟いた。
ふと、柔らかな草の中で、何かが指先に触れた。何気なしに手に取って、目の前に掲げてみると、きらりと反射した朝日が、万吉の目に突き刺さった。
それは、小さなコンパクトミラーだった。
また何気なしに、その蓋を開けてみる。中には当然鏡があったが、それは汚れてしまっていて、彼の姿を上手く映せていなかった。
白衣の袖でそれを拭き取ろうとする。小さな鏡の上で袖を何度か往復させていると、漸く鏡は外の光を吸収し始めて、景色を映し出した。
万吉と向き合い、彼の顔をも映し出す。鏡の向こうの表情は、心なしか普段より生き生きとして見えた。
***
ホールケーキを抱え戻ってきた一を見て、双葉はなんとなくながら状況を察したようだった。
誕生日のお祝いをしてあげよう、そう言いだした一は、嫌がる吾郎を他所に、乗り気の旭を連れて、双葉のカフェへとやって来た。ケーキを作ってくれと頼まれ、彼女は二つ返事で了解したのだ。
流石に親友から祝われれば、あんな万吉でも多少は喜ぶと思ったが、現実は違ったらしい。
「皆で食べる? それ」
一は少し俯いたまま、その問いには答えなかった。ケーキの中央に鎮座するチョコレートのプレートに書かれている万吉の名が、目に突き刺さる。
「だーから言ったんだ」
いつもの無愛想な表情に戻った吾郎は、そう言うなりソファにふんぞり返って、新聞を手に取った。
「お前のやり方なんて、私は納得していなかったぞ」
「じゃあどうすりゃ良かったんだよ!」
一を庇うように、旭が飛び出して叫んだ。
「どうするも何も、余計なことはしないのが吉ということだ」
「友達なら、お誕生日は祝ってあげるだろ!」
「そもそも万吉先生は、幽霊のことをよく思っておらんだろうが」
すると、旭はとうとう黙り込んだ。
「幽霊に絡まれることほど、万ちゃんの逆鱗に触れることはないよ」
一はカウンターにケーキを置いて、そのまま腰掛けた。
「でも、キンダイチは万吉先生の親友なんでしょ?」
「それはもう昔の話だよ。万ちゃんにとってはもう、僕は幽霊でしかないんだ」
見上げた先のキンダイチの背中が、なんだか小さく見えて、旭は掛ける言葉を失っていた。
「万吉先生も万吉先生だがな」
場の空気に耐え兼ねたのか、今頃になって吾郎のフォローが入った。
「こっちが勝手に押しかけたとはいえ、良かれと思ってということくらい分かるだろう。貰ってやるというのも思いやりじゃないのか」
とはいえ、肝心の当人がいない状況では、その言葉は誰にも響かないわけで、更に空気を妙なものにするだけだった。
真っ白なホイップクリームだけが鮮明で、その眩しさに目を逸らすように、一は俯いた。
「双葉さーん!」
重く暗い雰囲気を蹴散らしたのは、幼い声たちだった。入り口には、恭四郎たち三人組がいた。
「遊びに来たよ!」と叫ぶ澪に、双葉はいつも通りの笑顔に戻して、「いらっしゃい」と返す。一も下がっていた口角を持ち上げて、彼らを振り返った。
「あれ、キンダイチさん、それ……」
ところが、恭四郎がホールケーキの存在に気が付く。せっかく上げた一の口角は、決まり悪そうなものになってしまった。
「ははっ、これね……実は、今日は万ちゃんの誕生日だったから」
「先生なら、これから一緒にボウリングに行くんだぜ!」
一の言葉を遮り、幸仁が言った。
その場にいた幽霊の全員が、ぽかんと間抜けに口を開いていた。
「だから、キンダイチや双葉さんを誘いに来たの!」
「先輩も一緒に行きませんか?」
「えっ、あ、うん……」
「馬鹿言うな、本当に万吉先生かあ?」
吾郎の言葉は、次の瞬間鳴り響く玄関のベルと重なった。
「やあ! なんだ、こんな所にいたのか」
そこから登場した人物は、あまりにも彼らの想像と異なっていた。
「アスレチックに来れば良かったのに。皆で遊んだんだよ」
そう言って、彼は旭の頭を撫でる。旭が恐る恐る顔を上げると、今まで見たこともないような、満面の笑顔がある。
「これから恭四郎君たちとボウリングに行くんだ。皆も来ないか?」
「……どういう風の吹き回しだ?」
怪訝に尋ねる吾郎に、彼は胸元から取り出した一枚のチケットをひらひらさせた。
「町長さんから貰ったんです、誕生日クーポン!」
子供のように微笑む彼は、どこからどう見ても万吉だった。
***
静か――まるで音が吸い込まれていくような、そう形容すべき静寂だった。だから彼は目を覚ましても、あまり実感が湧いてこなかった。
埃っぽさが鼻について、思わず咳き込む。ぼんやりとした頭をゆっくりと振って辺りを見回すと、段々と薄暗さに慣れてきた視界が、見覚えのある景色を映し出した。
そこは、診察室の奥に位置する倉庫だった。まだ使いこなせていないどころか、いつのだか分からないものが随分残っていたので、掃除も後回しにしていたのだ。
なんでこんな所にいるんだっけ……。座っていた椅子から身体を起こそうとすると、途端バランスを崩した。
上手く受け身が取れず、うつ伏せに床に倒れ込んでしまう。その時、倉庫の扉が開かれ、その向こうから光が射しこんだ。
「おっ、目が覚めたか」
頭上から響く声。聞いたことのある声だ。それなのに、肝心の声の主が思い出せない。
うつ伏せのまま顔を上げると、彼は、漸くその答えを知った。
「やあ、気分はどうだい? 僕」
自分を見下ろしているのは、確かに、万吉自身だったのだ。
「あ……?」
やっと思考が覚醒した万吉は、慌てて起き上がろうと身をよじる。ところが、足首と上半身に巻き付く縄が、身じろぎさえ許してはくれない。
「どうしたんだ、そんなに慌てて?」
床を這いつくばる自分の様子を見て、もう一人の自分がわざとらしく宥める。
河川敷でコンパクトを拾ってからの記憶はなかった。万吉はとうとう状況を理解した。
すると、目の前の万吉が高笑いを響かせた。
「なあ、しっかりしてくれよ、僕? 一体いつまで寝てるつもりだったんだ?」
「ふざけるな偽者!」
「偽者? 何言ってるんだ。僕はお前。いつだって鏡越しに映るお前自身」
自分とはまるで正反対の、彼の飄々としている様子が、万吉には不愉快でたまらない。
「こんなことをして、何が目的だ……」
「それはお前が願ったことだろ?」
「俺が……?」
見上げた先の自分が、ゆったりと頷く。きょとんとして、一瞬視線を外した時だった。
突然顔を持ち上げられたかと思うと、口元にガムテープが貼りつけられた。
「むぐっ!?」
咄嗟に顔を振るがもう遅く、万吉は慌てて身体をじたばたさせた。
「あんまり暴れるなよ、無駄に疲れるぜ」
もう一人の自分は、呆れたように溜息をついて言う。
「僕とお前は、同じ身体を共有してる。怪我も疲れも同じだけ作用するってわけだ」
彼はそう言って、前髪を持ち上げてみせた。そこには確かに、墓地で転んだ時にできた怪我を隠す絆創膏が貼られている。
「余計な動きすると、二倍疲れるだけだぜ」
彼の手が倉庫の扉にかかったのを見て、万吉は声にならない声を上げた。
扉の向こうへ消えていく彼の口角は、にたりと妖しく上がっていた。
「精々一人の時間を楽しめよ。これは僕からの、誕生日プレゼントだ」
無情にも扉がしっかりと閉まり、視界は一瞬暗闇に包まれる。扉の向こうでは、何やらごとごとと重い音が響いていた。
ここでのたうち回って、彼の体力をも削ってしまおうかとも考えたが、腹の虫が鳴いた途端、そんな気力さえ消え失せた。
思えば今日一日、朝ご飯すら食べていなかった。あいつは、町長の所へも行ったのだろうか。ああ、せめて彼の家に行ってご飯だけでも腹に入れてから、あんな小汚いコンパクトを拾うべきだった。ていうか、なんで町長も幸仁くんも、偽者だって気が付かないんだ。考えても仕方のない、しょうもないことが頭の中に浮かんでは消える。
そうだ、大丈夫だ、一なら。あいつが異変に気が付かないはずがない。そしたらすぐに助けに来てくれる……。
ぼんやりとした意識の中、決して届かなくとも、唯一無二の親友の名を呼ばずにはいられなかった。いつだって笑って、大丈夫だって言って、なんとかしてくれる、この世で一番頼れるあいつの名を。
「うぐ……」
声はみっともない呻きにしかならない。それがまた万吉を絶望させる。
なんでこんなことになったんだっけ……。そんな言葉が頭を掠めた瞬間、甲高い声が脳をつんざいた。
「お誕生日おめでとう! 万吉先生!」
あの時、彼らの厚意を拒んだことを、本気で後悔した。
診療所を出た万吉を出迎えたのは、恭四郎たちだった。
「先生! こんなところにいた!」
「早く行こーぜ!」
ぴょんぴょんと落ち着かない澪と幸仁と目が合うようにして、万吉はしゃがみこむ。
「ああ」
そうして、優しく微笑んで見せる。
鏡の万吉は、本物が普段する行動の全て逆を、見事にやって見せた。子供たちを見下ろして話す威圧的な態度も、誰彼構わず突き刺す冷たい目線も、決してやらない。
こうすることが、彼がこの世界で残すことのできる僅かな爪痕だった。自分は確かにここにいる。姿は同じでも、自分らしい自分が。
今まで眺めているだけだったこの世界で、自由に動き回れる。もう、あんな不貞腐れてばかりの万吉の真似っこなどしなくていい。
僕はお前の願いを叶えてやったんだ。寧ろ感謝されたいぜ。今は彼のことなど忘れて、楽しく過ごそうじゃないか!
町に唯一存在するボウリング場は、気休め程度に僅かなゲームセンターを併設した、小さなものだ。レーン数もさほどないが、それが埋まるほど人もいない。だから、一や旭のような幽霊がゲームに参加していても、不自然に思う者すらいなかった。
万吉の放つ球は、全てのピンを弾き飛ばした。その豪快な音と光景に、子供たちは目を輝かせる。
「凄いね! 万吉先生!」
「そうだろー? 大学の時にサークルに入ってたんだ!」
意気揚々と言って、大袈裟に胸を張る。
「僕が唯一、一に勝てる特技だぜ」
「全くその通りだよ」
一投目からずっとガターを走る球ばかり投げている一は、そう言って苦々しく笑った。
「先生! 投げ方教えてよ!」
「もちのろん」
「僕も僕も!」
子供たちに囲まれる万吉の笑顔は、まるで少年のようだ。
「……なあ、キンダイチ」
その様子をぼんやり見つめていた一に、吾郎がこそっと声をかけた。
「はい」
「何かおかしなものでも食べたのか? あいつは」
「さっき双葉の店で食べてたじゃないですか、お菓子」
「そういうことじゃなくてな!」
万吉を見つめる吾郎の目は、訝しげである。
「妙だと思わんのか」
「何が?」
「あいつの目を見てみろ。あんなにきらきらしていた時があったか?」
「まあ……人間、そういう時もあるんじゃないですか。気まぐれな生き物ですから」
「だとしても……」
その時、ゆらりと影が落ちてきたことに気が付いて、吾郎は顔を上げた。
「ほら、一の番だぜ」
にこやかに一を見下ろすと、彼は小さく首を横に振った。
「僕はいいよ、やってもスコア変わらないし」
「じゃ、吾郎さん」
「重い球を投げて何が面白いんだ。こっちは年寄りだぞ」
そっぽを向く吾郎。一は困ったように微笑んで、「しょうがないなあ」と立ち上がった。
「大丈夫だよ、キンダイチ! 僕が投げ方教えてやるよ!」
旭が駆け寄って来て、一の手を引いていく。それを見やった万吉は、吾郎の向かい側に腰かけた。
「罪滅ぼしのつもりか?」
案の定、吾郎の嫌味が飛んできて、万吉は思わず口角を上げた。
「今朝のことはすみませんでした」
「ふん」
「寝不足だったもので。朝からケーキはきつかったんです」
「ケーキの代金は、きっちり徴収させてもらうからな。誕生日の主役にこんなことは言いたくないが、あんな態度を取ったお前が悪いんだぞ」
やはり、吾郎はそのことに対して不満があっただけのようだった。万吉は満足げに、「もちのろんです」と答えた。
一は特に何も気にしていない様子だ。当然だ。分かりっこない。だって僕は、万吉の姿かたちも瓜二つなのだ。
「万吉先生、キンダイチにも教えてやってよ! 僕が教えても全然できないんだ!」
「いやあ、難しいなあ、万ちゃんみたいに、かっこよく投げられないよ」
「ったく、万吉先生も、こんなにすげー特技があるなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに!」
「また来ようね! 先生!」
皆、僕が本物のように慕ってくれる。いや、寧ろ本物よりも慕われてるんじゃないか?
そうだ、これからは僕が本物の宇津美万吉……いっそ、このまま。
二ゲームを終えたが、どちらもストライクを何度も叩き出した万吉の圧勝だった。
「凄いやあ、万吉先生」
何度も何度も、子供たちは自分を褒めてくれる。それだけでも、万吉にとっては酷く喜ばしいことだった。
「さあ、帰ろう。帰ったら何する?」
すると、恭四郎が声を上げた。
「あっ、万吉先生」
「ん?」
「キンダイチさんが、マンツーマンで教えてほしいって」
見ると、一だけが一人レーンの所に残って、こちらに手を振っている。
「僕たち、先に帰ってます」
「でも、子供だけで……」
「吾郎さんがいますし」
万吉がもう一度、一の方を振り返った。
「キンダイチさん、上手くなりたいんですって。教えてあげてくれますか?」
「……もちのろん」
誰もいなくなったボウリング場には、ひっきりなしに音楽がかかっているのに、妙な静寂のように感じられた。
「悪いね、残ってもらっちゃって」
思ってもないであろう軽口であることは明白だった。
「ボウリングを教えてもらいたいなんて、嘘なんだろ?」
だからつい、彼は普段の万吉のように、冷たい口調をしてしまった。一はこちらを振り返って、それから小さく口角を上げた。
「ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。いいよね? 万ちゃん」
「……ああ」
「実は僕、探してるものがあってさ」
「探してる、もの……?」
なるべく平静を装おうとするが、身体は素直で、ふるふると声が波打つ。
「大切なものなんだ。それは不器用で、可愛くないけど……僕が助けてやらなくちゃ、誰が助けるって言うんだい」
なんのことを言っているのか、嫌というほど分かる。
「いなくなった親友を探してるんだ。名前は、宇津美万吉――君じゃなくて、本物の万ちゃんをね」
「……なんだい、そりゃ」
万吉は、ゆっくり息をついてから言った。
「まるで僕が偽者だって言いたげじゃないか」
「おや、分かってくださってるじゃないの」
「幽霊の分際で、人間の僕を疑うって言うのか? だとしたら、今の僕はなんだ?」
「鏡の万ちゃん、と言えばいいのかな?」
ひゅっ、と喉の奥の細い所に、空気が飛び込んだ気がした。
「ここのボウリング場は安い所だ。レーンもそんなにないけど、店は大きく見せた方がかっこいい。そこで――店の壁には、大きな鏡がびっしり張られている」
一が言わんとしていることは、もう万吉には察しがついていた。
「鏡に映っていなかったのは、幽霊の僕も同じ。そして――」
「もういい」
万吉は項垂れて、それから力なく笑った。
「ちぇっ、ボウリングに来たのが間違いだったな」
「そうとも言えないよ」
「え?」
顔を上げると、その先の一は満足げに微笑んでいた。
「君は万ちゃんをよく見て、よく知っていた。いつもとは正反対でも、端々に見える口調も仕草も、本物そっくりだった。正直今朝のことがあったから、心を入れ替えているのかと思った」
「だったら、どうして」
すると、一の人差し指がこちらを指差した。
「その怪我、どうしたんだい?」
彼が言うのは、額に貼られた絆創膏のことだった。途端、万吉は思わず笑い声をあげた。
「そんなこと僕が知らないと思ってるのか? 馬鹿にするなよ、一。僕の再現力は完璧だ。なんならこれを剥がして、怪我の具合まで見せてやろうか?」
「君は確かに完璧だよ。たった一つのことを除けばね」
「なんだと……」
「絆創膏の場所はそこじゃない。反対側だ」
はっとして、万吉は言葉を失った。自分が鏡の世界の住人であることを、すっかり忘れていた。
「色々なことを考えたさ。何かに憑りつかれているのか、或いは、僕たちにとって嫌味な態度をわざとやっているのか……そっちの方が考えられたけどね」
一は笑う。万吉はそれを見上げて思う。
本物の万吉は、いつも彼に言いくるめられて、情けないと思っていた。お前の代わりになってやったら、俺は上手くできるのにって。こんなへらへらしている奴に、俺はぼろなんか出さないのにって。でも……ダメだ。やっぱりこいつには勝てないみたいだな。
「万ちゃんを、返してくれるかい?」
万吉は、緩やかに口角を上げて微笑んだ。
「言ったんだ。お前の願いを叶えてやるって。本物の万吉に」
***
がたごとと乱暴な音が響いて、万吉はうっすらと目を開いた。直後耳元で、がたんと大きな音が響いて、同時に眩い光が目に突き刺さる。
「こんなところにおったのか」
万吉はまだぼんやりしたままで、上手く頭が働かなかった。
「おい、起きろ。世話かけさせるな、ったく」
次の瞬間、口元に鋭い痛みが走った。
「むぐあ!?」
その衝撃に、漸く意識が覚醒し、万吉は目を見開く。そこに映し出されたのは、自分の顔を覗き込む老人の顔。
「ご……吾郎さん……? なんでここに……」
「ふんっ、だーれがお前なんかを心配しとるというんだ。頼まれたんで、嫌々な」
そんな彼のポケットからは、一万円札がちらり、顔を覗かせていた。
「随分とみっともない格好だな、まるで芋虫だ」
「人の気も知らないで……」
「少しは反省したか?」
吾郎の言葉にどきっとして、万吉はたちまち黙り込んだ。
「散々だったねえ」
入店のベルと同時に、一がこちらを振り返って言った。
カウンターに腰かけた一の向こうでは、双葉がグラスを磨いている。
「もう大丈夫だよ、帰っちゃったから」
一の傍には、あのコンパクトが置かれていた。手を伸ばし、蓋を開く。鏡の中を覗き込むと、そこにはもう一人の自分が映っていた。
あの時のような勝ち誇った眼差しはない。いつもの覇気のないつまらない表情だ。
今までどんな気持ちで、鏡の向こうから、自分の真似をしていたんだろう。
このまま入れ替わり続けることだってできただろうに……。
「彼、言ってたんだ」
万吉の思いを感じ取ったように、一が言った。
「君の願いを叶えてやったんだって。ようく思い出してごらんよ」
俺の願い……あの河川敷で……。
『少しの間でいいから、一人にしてくれないか』
まさか……少しの間って……。
「……あのさ、あの時のケーキ、まだあるかな」
一と双葉は顔を見合わせてから、万吉に向かってにっこりと頷いた。
暫くすると、カフェの扉を勢いよく開いて、小さな影が飛び込んで来た。
「万吉先生!」
「こんなところにいたー!」
「万吉先生、アスレチックに来てください!」
恭四郎たちは、目を輝かせて万吉を見上げる。
「アスレチック?」
「みんなで万吉先生のお誕生日をお祝いするんです!」
と恭四郎が言うと、幸仁と澪は、「あー!」と大袈裟な声を上げた。
「ばか! それは内緒だったろ!」
「ここで言ったら、サプライズにならないじゃん!」
「ご、ごめん……」
幸仁は分かりやすい溜息をついてから、渋々というように、万吉の方を向き直った。
「せっかく先生が来たのに、歓迎会してなかっただろ? 診療所も始まって、先生が忙しそうで、タイミング逃しちゃったのを、父ちゃんが気にしてたんだ」
「だから、それも一緒ってことでね! 万吉先生、改めてよろしくね!」
「……俺の方こそ」
万吉はそう言って、不器用に微笑んだ。
「ほら! 行こう! みんな待ってるよ!」
「今度はかくれんぼして遊ぼうぜ!」
「アスレチックもいっぱい飾りつけしたんですよ! 万吉先生も驚くと……あっ」
「恭四郎はもう余計なこと言うな!」
嵐のような彼らが去って、急に静寂が戻った。吾郎が捲った新聞のページが空気を切る。
「いいの? 行かなくて」
「いいんだよ。町長さんの意向なんだからね。お化けの僕が行っちゃ、興ざめだよ」
「それに、」と続け、一はテーブル席を振り返る。「僕らはこっちで、万ちゃんを祝わなくちゃいけないからね」
テーブル席には、ホールケーキと向かい合うように、蓋を開いたままのコンパクトが置かれている。そして、フォークを握って豪快にケーキを頬張る、万吉の姿があった。
「誕生日おめでとう、万ちゃん」
「おう!」
「これからも、あの不貞腐れ王子を宜しくね」
彼は口の端に、入りきらなかったクリームをいっぱい付けて、にんまり笑って言った。
「もちのろん!」
幽霊探偵キンダイチの事件墓! 咲蔵 風人 @ninomae_fumi_
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