3.もう一人の誕生日

 小鳥のさえずりが、辺りに響いている。空は晴れ渡り、清々しい朝である。小さなこの診察室でも、一日の始まりを気持ちよく迎えられる。

 ……こんな奴らと顔を合わせなければ。


「万吉先生! 今日はなんの日でしょう?」

 診察室にやって来た旭が、にこにことこちらを見上げている。一はその背後に立って、後ろに手を組むようにしていた。特に不気味だったのは、いつも無愛想なはずの吾郎でさえも、柄にもなく微笑んでいたことだ。これには万吉が怪訝な表情になるのも無理はなかった。

「……さあ」

「ええーっ? 本当に分かんないの?」

わざとらしく叫んだ旭を、細い目で見下ろしたその時だった。


「ほらっ、万ちゃん」

 一の声に顔を上げる。

満面の笑みを浮かべる彼が抱えていたのは、大きなホールケーキだった。

「お誕生日おめでとう! 万吉先生!」

 記念日を祝う三人の幽霊の声は、小さな診察室にこだました。


「なんだい、そりゃ」

 万吉は冷ややかな目で、ホールケーキを見下ろす。

「嫌味かい」

 旭がきょとんと目を丸くしていた。そんな彼に諭すように、万吉はゆっくりと話した。

「幽霊から、誕生日のお祝いかい? そいつは滑稽だね」

「……怒ってるの?」

「んー? 怒ってはないよお? ただまあ、気分は良かねえなあ」

 全体重を背もたれに掛けると、椅子はぎしっと呻く。と同時に、大袈裟に溜息をついてみせた。

「ひねくれんなよ、万ちゃん。何も僕らは」

 一の言葉を遮って、立ち上がった万吉は、とうとう診察室から出て行った。


 ママチャリにまたがり、まだ動き出さない町を駆け抜ける。しばらくすれば一たちも諦めて帰るだろう。そう踏んでいた。

 別に、一のことが嫌いなわけではない。彼は親友だ。しかし、彼が幽霊らしくないことが、万吉の心には引っ掛かっていた。

 彼が生き生きしているのを見ると、まるでこちらの生気が吸い取られるような、そんな呪いのようで、うんざりしていた。あんなに仲が良かったのに、こうしてじわじわ自分を苦しめる存在になっている。


 ぼんやり考え事をしていたその時、万吉の身体が大きく跳ね上がった。

 前輪が石に乗り上げたのだ。余所見を一瞬しただけで、焦ってハンドル操作が上手くできなくなる。そんな彼を嘲笑うかのように、ゴムのぎしぎしとした音が響く。

 なんとかバランスを保とうとハンドルを右へ左へ動かしていると、ママチャリはよろよろと進み、河川敷の方へ向かっていく。

「よせよせよせ……ああっ!」

 願いも虚しく、ママチャリは吸い込まれるように河川敷へ向かい、その斜面を派手に滑り落ちて言った。勿論、万吉もろとも。

 ぼうぼうに生えた草のお陰で、そんなに強い衝撃はなかった。が、先日同じように転んで怪我をした額のことがふと思い出された。全く俺って奴は、いつまで経ってもバランス感覚に乏しいようだ。そう思うとなんだか変に笑えてきて、そのまま河川敷に寝転がった。

 さらさらと、微かに川の流れる音が響く。澄み切った青空が高く、どこまでも続いている。

「少しの間でいいから、一人にしてくれないか……」

 万吉は天を仰いで、そう呟いた。


 ふと、柔らかな草の中で、何かが指先に触れた。何気なしに手に取って、目の前に掲げてみると、きらりと反射した朝日が、万吉の目に突き刺さった。

 それは、小さなコンパクトミラーだった。

 また何気なしに、その蓋を開けてみる。中には当然鏡があったが、それは汚れてしまっていて、彼の姿を上手く映せていなかった。

 白衣の袖でそれを拭き取ろうとする。小さな鏡の上で袖を何度か往復させていると、漸く鏡は外の光を吸収し始めて、景色を映し出した。

 万吉と向き合い、彼の顔をも映し出す。鏡の向こうの表情は、心なしか普段より生き生きとして見えた。


***

 ホールケーキを抱え戻ってきた一を見て、双葉はなんとなくながら状況を察したようだった。

 誕生日のお祝いをしてあげよう、そう言いだした一は、嫌がる吾郎を他所に、乗り気の旭を連れて、双葉のカフェへとやって来た。ケーキを作ってくれと頼まれ、彼女は二つ返事で了解したのだ。

 流石に親友から祝われれば、あんな万吉でも多少は喜ぶと思ったが、現実は違ったらしい。

「皆で食べる? それ」

 一は少し俯いたまま、その問いには答えなかった。ケーキの中央に鎮座するチョコレートのプレートに書かれている万吉の名が、目に突き刺さる。

「だーから言ったんだ」

 いつもの無愛想な表情に戻った吾郎は、そう言うなりソファにふんぞり返って、新聞を手に取った。

「お前のやり方なんて、私は納得していなかったぞ」

「じゃあどうすりゃ良かったんだよ!」

 一を庇うように、旭が飛び出して叫んだ。

「どうするも何も、余計なことはしないのが吉ということだ」

「友達なら、お誕生日は祝ってあげるだろ!」

「そもそも万吉先生は、幽霊のことをよく思っておらんだろうが」

 すると、旭はとうとう黙り込んだ。

「幽霊に絡まれることほど、万ちゃんの逆鱗に触れることはないよ」

 一はカウンターにケーキを置いて、そのまま腰掛けた。

「でも、キンダイチは万吉先生の親友なんでしょ?」

「それはもう昔の話だよ。万ちゃんにとってはもう、僕は幽霊でしかないんだ」

 見上げた先のキンダイチの背中が、なんだか小さく見えて、旭は掛ける言葉を失っていた。

「万吉先生も万吉先生だがな」

場の空気に耐え兼ねたのか、今頃になって吾郎のフォローが入った。

「こっちが勝手に押しかけたとはいえ、良かれと思ってということくらい分かるだろう。貰ってやるというのも思いやりじゃないのか」

 とはいえ、肝心の当人がいない状況では、その言葉は誰にも響かないわけで、更に空気を妙なものにするだけだった。

 真っ白なホイップクリームだけが鮮明で、その眩しさに目を逸らすように、一は俯いた。


「双葉さーん!」

 重く暗い雰囲気を蹴散らしたのは、幼い声たちだった。入り口には、恭四郎たち三人組がいた。

「遊びに来たよ!」と叫ぶ澪に、双葉はいつも通りの笑顔に戻して、「いらっしゃい」と返す。一も下がっていた口角を持ち上げて、彼らを振り返った。

「あれ、キンダイチさん、それ……」

 ところが、恭四郎がホールケーキの存在に気が付く。せっかく上げた一の口角は、決まり悪そうなものになってしまった。

「ははっ、これね……実は、今日は万ちゃんの誕生日だったから」

「先生なら、これから一緒にボウリングに行くんだぜ!」

 一の言葉を遮り、幸仁が言った。

 その場にいた幽霊の全員が、ぽかんと間抜けに口を開いていた。

「だから、キンダイチや双葉さんを誘いに来たの!」

「先輩も一緒に行きませんか?」

「えっ、あ、うん……」

「馬鹿言うな、本当に万吉先生かあ?」

 吾郎の言葉は、次の瞬間鳴り響く玄関のベルと重なった。

「やあ! なんだ、こんな所にいたのか」

 そこから登場した人物は、あまりにも彼らの想像と異なっていた。

「アスレチックに来れば良かったのに。皆で遊んだんだよ」

 そう言って、彼は旭の頭を撫でる。旭が恐る恐る顔を上げると、今まで見たこともないような、満面の笑顔がある。

「これから恭四郎君たちとボウリングに行くんだ。皆も来ないか?」

「……どういう風の吹き回しだ?」

 怪訝に尋ねる吾郎に、彼は胸元から取り出した一枚のチケットをひらひらさせた。

「町長さんから貰ったんです、誕生日クーポン!」

 子供のように微笑む彼は、どこからどう見ても万吉だった。


***

 静か――まるで音が吸い込まれていくような、そう形容すべき静寂だった。だから彼は目を覚ましても、あまり実感が湧いてこなかった。

 埃っぽさが鼻について、思わず咳き込む。ぼんやりとした頭をゆっくりと振って辺りを見回すと、段々と薄暗さに慣れてきた視界が、見覚えのある景色を映し出した。

 そこは、診察室の奥に位置する倉庫だった。まだ使いこなせていないどころか、いつのだか分からないものが随分残っていたので、掃除も後回しにしていたのだ。

 なんでこんな所にいるんだっけ……。座っていた椅子から身体を起こそうとすると、途端バランスを崩した。

 上手く受け身が取れず、うつ伏せに床に倒れ込んでしまう。その時、倉庫の扉が開かれ、その向こうから光が射しこんだ。

「おっ、目が覚めたか」

 頭上から響く声。聞いたことのある声だ。それなのに、肝心の声の主が思い出せない。

 うつ伏せのまま顔を上げると、彼は、漸くその答えを知った。

「やあ、気分はどうだい? 僕」

 自分を見下ろしているのは、確かに、万吉自身だったのだ。

「あ……?」

 やっと思考が覚醒した万吉は、慌てて起き上がろうと身をよじる。ところが、足首と上半身に巻き付く縄が、身じろぎさえ許してはくれない。

「どうしたんだ、そんなに慌てて?」

 床を這いつくばる自分の様子を見て、もう一人の自分がわざとらしく宥める。

 河川敷でコンパクトを拾ってからの記憶はなかった。万吉はとうとう状況を理解した。

すると、目の前の万吉が高笑いを響かせた。

「なあ、しっかりしてくれよ、僕? 一体いつまで寝てるつもりだったんだ?」

「ふざけるな偽者!」

「偽者? 何言ってるんだ。僕はお前。いつだって鏡越しに映るお前自身」

 自分とはまるで正反対の、彼の飄々としている様子が、万吉には不愉快でたまらない。

「こんなことをして、何が目的だ……」

「それはお前が願ったことだろ?」

「俺が……?」

 見上げた先の自分が、ゆったりと頷く。きょとんとして、一瞬視線を外した時だった。

 突然顔を持ち上げられたかと思うと、口元にガムテープが貼りつけられた。

「むぐっ!?」

 咄嗟に顔を振るがもう遅く、万吉は慌てて身体をじたばたさせた。

「あんまり暴れるなよ、無駄に疲れるぜ」

 もう一人の自分は、呆れたように溜息をついて言う。

「僕とお前は、同じ身体を共有してる。怪我も疲れも同じだけ作用するってわけだ」

 彼はそう言って、前髪を持ち上げてみせた。そこには確かに、墓地で転んだ時にできた怪我を隠す絆創膏が貼られている。

「余計な動きすると、二倍疲れるだけだぜ」

 彼の手が倉庫の扉にかかったのを見て、万吉は声にならない声を上げた。

 扉の向こうへ消えていく彼の口角は、にたりと妖しく上がっていた。

「精々一人の時間を楽しめよ。これは僕からの、誕生日プレゼントだ」

 無情にも扉がしっかりと閉まり、視界は一瞬暗闇に包まれる。扉の向こうでは、何やらごとごとと重い音が響いていた。

 ここでのたうち回って、彼の体力をも削ってしまおうかとも考えたが、腹の虫が鳴いた途端、そんな気力さえ消え失せた。

 思えば今日一日、朝ご飯すら食べていなかった。あいつは、町長の所へも行ったのだろうか。ああ、せめて彼の家に行ってご飯だけでも腹に入れてから、あんな小汚いコンパクトを拾うべきだった。ていうか、なんで町長も幸仁くんも、偽者だって気が付かないんだ。考えても仕方のない、しょうもないことが頭の中に浮かんでは消える。

 そうだ、大丈夫だ、一なら。あいつが異変に気が付かないはずがない。そしたらすぐに助けに来てくれる……。

 ぼんやりとした意識の中、決して届かなくとも、唯一無二の親友の名を呼ばずにはいられなかった。いつだって笑って、大丈夫だって言って、なんとかしてくれる、この世で一番頼れるあいつの名を。

「うぐ……」

 声はみっともない呻きにしかならない。それがまた万吉を絶望させる。

 なんでこんなことになったんだっけ……。そんな言葉が頭を掠めた瞬間、甲高い声が脳をつんざいた。

「お誕生日おめでとう! 万吉先生!」

 あの時、彼らの厚意を拒んだことを、本気で後悔した。


 診療所を出た万吉を出迎えたのは、恭四郎たちだった。

「先生! こんなところにいた!」

「早く行こーぜ!」

 ぴょんぴょんと落ち着かない澪と幸仁と目が合うようにして、万吉はしゃがみこむ。

「ああ」

 そうして、優しく微笑んで見せる。

 鏡の万吉は、本物が普段する行動の全て逆を、見事にやって見せた。子供たちを見下ろして話す威圧的な態度も、誰彼構わず突き刺す冷たい目線も、決してやらない。

こうすることが、彼がこの世界で残すことのできる僅かな爪痕だった。自分は確かにここにいる。姿は同じでも、自分らしい自分が。

 今まで眺めているだけだったこの世界で、自由に動き回れる。もう、あんな不貞腐れてばかりの万吉の真似っこなどしなくていい。

 僕はお前の願いを叶えてやったんだ。寧ろ感謝されたいぜ。今は彼のことなど忘れて、楽しく過ごそうじゃないか!


 町に唯一存在するボウリング場は、気休め程度に僅かなゲームセンターを併設した、小さなものだ。レーン数もさほどないが、それが埋まるほど人もいない。だから、一や旭のような幽霊がゲームに参加していても、不自然に思う者すらいなかった。

 万吉の放つ球は、全てのピンを弾き飛ばした。その豪快な音と光景に、子供たちは目を輝かせる。

「凄いね! 万吉先生!」

「そうだろー? 大学の時にサークルに入ってたんだ!」

 意気揚々と言って、大袈裟に胸を張る。

「僕が唯一、一に勝てる特技だぜ」

「全くその通りだよ」

 一投目からずっとガターを走る球ばかり投げている一は、そう言って苦々しく笑った。

「先生! 投げ方教えてよ!」

「もちのろん」

「僕も僕も!」

 子供たちに囲まれる万吉の笑顔は、まるで少年のようだ。

「……なあ、キンダイチ」

 その様子をぼんやり見つめていた一に、吾郎がこそっと声をかけた。

「はい」

「何かおかしなものでも食べたのか? あいつは」

「さっき双葉の店で食べてたじゃないですか、お菓子」

「そういうことじゃなくてな!」

 万吉を見つめる吾郎の目は、訝しげである。

「妙だと思わんのか」

「何が?」

「あいつの目を見てみろ。あんなにきらきらしていた時があったか?」

「まあ……人間、そういう時もあるんじゃないですか。気まぐれな生き物ですから」

「だとしても……」

 その時、ゆらりと影が落ちてきたことに気が付いて、吾郎は顔を上げた。

「ほら、一の番だぜ」

 にこやかに一を見下ろすと、彼は小さく首を横に振った。

「僕はいいよ、やってもスコア変わらないし」

「じゃ、吾郎さん」

「重い球を投げて何が面白いんだ。こっちは年寄りだぞ」

 そっぽを向く吾郎。一は困ったように微笑んで、「しょうがないなあ」と立ち上がった。

「大丈夫だよ、キンダイチ! 僕が投げ方教えてやるよ!」

 旭が駆け寄って来て、一の手を引いていく。それを見やった万吉は、吾郎の向かい側に腰かけた。

「罪滅ぼしのつもりか?」

 案の定、吾郎の嫌味が飛んできて、万吉は思わず口角を上げた。

「今朝のことはすみませんでした」

「ふん」

「寝不足だったもので。朝からケーキはきつかったんです」

「ケーキの代金は、きっちり徴収させてもらうからな。誕生日の主役にこんなことは言いたくないが、あんな態度を取ったお前が悪いんだぞ」

 やはり、吾郎はそのことに対して不満があっただけのようだった。万吉は満足げに、「もちのろんです」と答えた。

 一は特に何も気にしていない様子だ。当然だ。分かりっこない。だって僕は、万吉の姿かたちも瓜二つなのだ。

「万吉先生、キンダイチにも教えてやってよ! 僕が教えても全然できないんだ!」

「いやあ、難しいなあ、万ちゃんみたいに、かっこよく投げられないよ」

「ったく、万吉先生も、こんなにすげー特技があるなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに!」

「また来ようね! 先生!」

 皆、僕が本物のように慕ってくれる。いや、寧ろ本物よりも慕われてるんじゃないか?

 そうだ、これからは僕が本物の宇津美万吉……いっそ、このまま。


 二ゲームを終えたが、どちらもストライクを何度も叩き出した万吉の圧勝だった。

「凄いやあ、万吉先生」

 何度も何度も、子供たちは自分を褒めてくれる。それだけでも、万吉にとっては酷く喜ばしいことだった。

「さあ、帰ろう。帰ったら何する?」

 すると、恭四郎が声を上げた。

「あっ、万吉先生」

「ん?」

「キンダイチさんが、マンツーマンで教えてほしいって」

 見ると、一だけが一人レーンの所に残って、こちらに手を振っている。

「僕たち、先に帰ってます」

「でも、子供だけで……」

「吾郎さんがいますし」

 万吉がもう一度、一の方を振り返った。

「キンダイチさん、上手くなりたいんですって。教えてあげてくれますか?」

「……もちのろん」


 誰もいなくなったボウリング場には、ひっきりなしに音楽がかかっているのに、妙な静寂のように感じられた。

「悪いね、残ってもらっちゃって」

 思ってもないであろう軽口であることは明白だった。

「ボウリングを教えてもらいたいなんて、嘘なんだろ?」

 だからつい、彼は普段の万吉のように、冷たい口調をしてしまった。一はこちらを振り返って、それから小さく口角を上げた。

「ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。いいよね? 万ちゃん」

「……ああ」

「実は僕、探してるものがあってさ」

「探してる、もの……?」

 なるべく平静を装おうとするが、身体は素直で、ふるふると声が波打つ。

「大切なものなんだ。それは不器用で、可愛くないけど……僕が助けてやらなくちゃ、誰が助けるって言うんだい」

 なんのことを言っているのか、嫌というほど分かる。

「いなくなった親友を探してるんだ。名前は、宇津美万吉――君じゃなくて、本物の万ちゃんをね」


「……なんだい、そりゃ」

 万吉は、ゆっくり息をついてから言った。

「まるで僕が偽者だって言いたげじゃないか」

「おや、分かってくださってるじゃないの」

「幽霊の分際で、人間の僕を疑うって言うのか? だとしたら、今の僕はなんだ?」

「鏡の万ちゃん、と言えばいいのかな?」

 ひゅっ、と喉の奥の細い所に、空気が飛び込んだ気がした。

「ここのボウリング場は安い所だ。レーンもそんなにないけど、店は大きく見せた方がかっこいい。そこで――店の壁には、大きな鏡がびっしり張られている」

 一が言わんとしていることは、もう万吉には察しがついていた。

「鏡に映っていなかったのは、幽霊の僕も同じ。そして――」

「もういい」

 万吉は項垂れて、それから力なく笑った。

「ちぇっ、ボウリングに来たのが間違いだったな」

「そうとも言えないよ」

「え?」

 顔を上げると、その先の一は満足げに微笑んでいた。

「君は万ちゃんをよく見て、よく知っていた。いつもとは正反対でも、端々に見える口調も仕草も、本物そっくりだった。正直今朝のことがあったから、心を入れ替えているのかと思った」

「だったら、どうして」

 すると、一の人差し指がこちらを指差した。

「その怪我、どうしたんだい?」

 彼が言うのは、額に貼られた絆創膏のことだった。途端、万吉は思わず笑い声をあげた。

「そんなこと僕が知らないと思ってるのか? 馬鹿にするなよ、一。僕の再現力は完璧だ。なんならこれを剥がして、怪我の具合まで見せてやろうか?」

「君は確かに完璧だよ。たった一つのことを除けばね」

「なんだと……」

「絆創膏の場所はそこじゃない。反対側だ」

 はっとして、万吉は言葉を失った。自分が鏡の世界の住人であることを、すっかり忘れていた。

「色々なことを考えたさ。何かに憑りつかれているのか、或いは、僕たちにとって嫌味な態度をわざとやっているのか……そっちの方が考えられたけどね」

 一は笑う。万吉はそれを見上げて思う。

 本物の万吉は、いつも彼に言いくるめられて、情けないと思っていた。お前の代わりになってやったら、俺は上手くできるのにって。こんなへらへらしている奴に、俺はぼろなんか出さないのにって。でも……ダメだ。やっぱりこいつには勝てないみたいだな。

「万ちゃんを、返してくれるかい?」

 万吉は、緩やかに口角を上げて微笑んだ。

「言ったんだ。お前の願いを叶えてやるって。本物の万吉に」


***

 がたごとと乱暴な音が響いて、万吉はうっすらと目を開いた。直後耳元で、がたんと大きな音が響いて、同時に眩い光が目に突き刺さる。

「こんなところにおったのか」

 万吉はまだぼんやりしたままで、上手く頭が働かなかった。

「おい、起きろ。世話かけさせるな、ったく」

 次の瞬間、口元に鋭い痛みが走った。

「むぐあ!?」

 その衝撃に、漸く意識が覚醒し、万吉は目を見開く。そこに映し出されたのは、自分の顔を覗き込む老人の顔。

「ご……吾郎さん……? なんでここに……」

「ふんっ、だーれがお前なんかを心配しとるというんだ。頼まれたんで、嫌々な」

 そんな彼のポケットからは、一万円札がちらり、顔を覗かせていた。

「随分とみっともない格好だな、まるで芋虫だ」

「人の気も知らないで……」

「少しは反省したか?」

 吾郎の言葉にどきっとして、万吉はたちまち黙り込んだ。


「散々だったねえ」

 入店のベルと同時に、一がこちらを振り返って言った。

 カウンターに腰かけた一の向こうでは、双葉がグラスを磨いている。

「もう大丈夫だよ、帰っちゃったから」

 一の傍には、あのコンパクトが置かれていた。手を伸ばし、蓋を開く。鏡の中を覗き込むと、そこにはもう一人の自分が映っていた。

 あの時のような勝ち誇った眼差しはない。いつもの覇気のないつまらない表情だ。

 今までどんな気持ちで、鏡の向こうから、自分の真似をしていたんだろう。

このまま入れ替わり続けることだってできただろうに……。

「彼、言ってたんだ」

 万吉の思いを感じ取ったように、一が言った。

「君の願いを叶えてやったんだって。ようく思い出してごらんよ」

 俺の願い……あの河川敷で……。

『少しの間でいいから、一人にしてくれないか』

 まさか……少しの間って……。


「……あのさ、あの時のケーキ、まだあるかな」

 一と双葉は顔を見合わせてから、万吉に向かってにっこりと頷いた。


 暫くすると、カフェの扉を勢いよく開いて、小さな影が飛び込んで来た。

「万吉先生!」

「こんなところにいたー!」

「万吉先生、アスレチックに来てください!」

 恭四郎たちは、目を輝かせて万吉を見上げる。

「アスレチック?」

「みんなで万吉先生のお誕生日をお祝いするんです!」

 と恭四郎が言うと、幸仁と澪は、「あー!」と大袈裟な声を上げた。

「ばか! それは内緒だったろ!」

「ここで言ったら、サプライズにならないじゃん!」

「ご、ごめん……」

 幸仁は分かりやすい溜息をついてから、渋々というように、万吉の方を向き直った。

「せっかく先生が来たのに、歓迎会してなかっただろ? 診療所も始まって、先生が忙しそうで、タイミング逃しちゃったのを、父ちゃんが気にしてたんだ」

「だから、それも一緒ってことでね! 万吉先生、改めてよろしくね!」

「……俺の方こそ」

 万吉はそう言って、不器用に微笑んだ。

「ほら! 行こう! みんな待ってるよ!」

「今度はかくれんぼして遊ぼうぜ!」

「アスレチックもいっぱい飾りつけしたんですよ! 万吉先生も驚くと……あっ」

「恭四郎はもう余計なこと言うな!」


 嵐のような彼らが去って、急に静寂が戻った。吾郎が捲った新聞のページが空気を切る。

「いいの? 行かなくて」

「いいんだよ。町長さんの意向なんだからね。お化けの僕が行っちゃ、興ざめだよ」

「それに、」と続け、一はテーブル席を振り返る。「僕らはこっちで、万ちゃんを祝わなくちゃいけないからね」

 テーブル席には、ホールケーキと向かい合うように、蓋を開いたままのコンパクトが置かれている。そして、フォークを握って豪快にケーキを頬張る、万吉の姿があった。

「誕生日おめでとう、万ちゃん」

「おう!」

「これからも、あの不貞腐れ王子を宜しくね」

彼は口の端に、入りきらなかったクリームをいっぱい付けて、にんまり笑って言った。

「もちのろん!」

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幽霊探偵キンダイチの事件墓! 咲蔵 風人 @ninomae_fumi_

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