【短編小説】全部貴方のせいなのに
綿来乙伽|小説と脚本
私はまだ、貴方のことが好きみたい。
「もうやめとくかい?」
貴方はそう言った。いや、言おうとしていた。
それまではいつもと同じだった。夕食に手を付ける箸使いも、日付が変わるころに腕時計を外すのも、会社では聞けない禁断の声も。だから、私に片腕だけを貸して眠りに付くのも、いつも通りだと思っていた。
「どうして委ねるの」
「君がしたいようにしたら良いと思うから」
「私がやめないって言ったら?」
「また同じ時間にここに来るよ」
「やめるって言ったら?」
「もう、ここには来ない」
貴方は私の左耳を見ていただろうか。耳朶が小さくてイヤリングを付けれないと言った次の日に、貴方はピアスをくれた。穴も開けていないのに、開けようとしたこともないのに、貴方が開けてくれるわけでもないのに、嬉しかった。でも穴は左耳に一つしか開けられなかった。だから私の左耳は、貴方が作り上げた貴方だけの場所。
「やめとく」
言葉をぶつけた。たった四文字が、私と貴方を崩すことはないと願いながら。だけど
それは貴方の前でボロボロになって砕けた。砕けた破片は貴方の顔を壊して汚して傷付けた。貴方を穢したのは初めてだと思っていたけれど、貴方がここに来ていることも、申し訳程度に私の手に触れていることも、どこか遠くを見ている目も、もう既に穢れている。私はそれを綺麗だと思っていたんだ。
貴方はそれでも、笑顔だった。
その笑顔は、償いの笑顔か、懺悔の笑顔か。
その笑顔は、私へ向けてか、それとも。
左耳に向けた視線の先。一人暮らしを始めた時に買った置時計の針が動いた。時刻は午前三時半。私の涙と反比例して、外は少しずつ明るくなっていた。
***
貴方に会える唯一の祝日だった。貴方が来てくれる、私だけのものになってくれる。そう思えるだけで頑張れた。
でも今日から、いつも、ではないから。私は起きたままの状態から窓の外から差し込む月の光を見ている。
私は今日も、生きているんだな。
第二土曜日は、貴方がいなくても走り抜けられるみたい。針が独り立ちする瞬間を、一人で見つめた。
「どうして私が謝ったのよ」
自問自答を部屋に投げたところで、誰も何も答えないし、誰か何かが答えたらそれはそれで怖いし。
でも悪いのは貴方だった。
好きにしたのは貴方だった。
好きにさせたのは貴方だった。
魅力的だったのは貴方だった。
好きになってしまったのは、私だった。
スマホが鳴る。
いつしか付けていたカウントダウンのアプリ。律儀に零時を知らせてくれた。
ああ、貴方に会えないなんて。
そう思っても貴方は目の前にいることは無いのに。
私の部屋に、もう一歩も踏み込んでこないのに。
愛してはいけないという感情と、過去の思い出と、貴方。全部無くなった方が良いって分かってる、誰にも話せないって分かってる。
こんな惨めな暮らしでも、私は良かったの。
***
「おはようございます」
誰にもバレない声のうわずり。誰かに気付いて欲しくても、自分の声を聞いてくれる人は誰もいない。聞いてくれたのはただ一人だけだったから。
「おはよう」
おはようございます、と社員達が会釈する。
貴方は今日も、誰かの上司で居続ける。
「おはよう」
返せなかった。顔も向けられなかった。これは私が望んだこと、私が望まなかったこと。
何度も自分に聞いた。大丈夫?やっていけるの?これ以上あの人を思って何になるの?って。私の好きはそれでも止まることはなかった。
自分のデスクに座った貴方。
今日も資料に目を通す姿が様になっていて、経った三日前の出来事すらも無かったことのようで。
私は仕事を続ける。
メールの確認、帳簿の整理、後で資料室に寄って、部長に聞くことだってある。
***
――「チェック終わったから入力しておいてくれる?」
貴方から受け取るチェック済の資料。
私が今一番欲しいもの。世界一素敵な名字、が赤い丸で囲まれている判子。
達筆なサインと、黄緑色の付箋。
「今日、家行ってもいいかな」
これだけで私がどれほど頑張れたか。
生きている心地がしたか。
優しい気持ちで人と絶する事が出来たか。
大好き。
そう言って貰えている気がして、私は付箋を撫でた。
***
「相楽さん。チェック終わったから入力しておいてくれる?」
相楽さん。
いつもはミナミなのに、と少し口角をあげて目を合わせたら、貴方はいつも焦っていた。それが好きだった。
でもこれから私の名前は、相楽ミナミではなく、相楽さんだ。
「やめとくなんて、言わなきゃ良かった」
ごめんなさい。
私はまだ、あなたの事が好きみたいです。
私は有りもしない付箋の為の空白を撫でた。
【短編小説】全部貴方のせいなのに 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21
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