脱皮
田無 竜
「脱皮」
……とんでもない物を見た。
いつも通る小さな横断歩道。
そこで僕はとんでもない物を目にしてしまった……。
「……マジか……」
それは、所謂────交通事故。
歩行者側の信号は赤だったが、気にせず渡ろうとする女子がいたのだ。
車道側の信号は青なので、その車は時速六十キロで突き進もうとしていた。
しかし油断していたのだろう。赤信号を渡る女子の姿を確認できなかったに違いない。
だからこそ起こってしまったのだ。
車は女子を撥ね、そのまま一瞬速度が緩まったかと思えば、何故かまた加速してどこかへと去ってしまった。
ああ、そうだ。だからこれはただの交通事故ではなく――轢き逃げだ。
僕はどうすることも出来ず、ただ地面に横たわるその女子を見つめて立ち尽くしていた。
映像でマフィアの拷問とかは見たことはあるが、なるほど人の血は目で見るとこんなにも綺麗に映るなのか……。
なんて言ってる場合ではない。
現実逃避しても目の前で起きた出来事が夢に変わるわけじゃない。
僕は重い足を何とか動かしてその女子に近付こうとした。
その時――。
「……ッ!?」
地面に横たわる女子は――何食わぬ顔で立ち上がった。
いやいやいやいや頭から血流してますやん。
何で生きてる……っていうか生きてても立てないでしょ普通。
僕が昔歌舞伎町でフクロにされた時は血が出てなくても起き上がれなかったぞ。
頭を強く打つと神経系にダメージがたくさん入る。たとえ無事でもフラフラすることもなくこんなあっさりと立ち上がれるわけがないのだ。
すると女子は自分の頭を掴んだ。
そして、まるで覆面を脱ぐかのように皮膚を大きく引っ張り――。
バッサァ
「……え?」
それはまるで…………『脱皮』だった。
女子は艶やかな長い髪を靡かせながらこちらに近付いて来た。
彼女の身体にあった傷はもう何も無い。
彼女がそれまで被っていた『皮』は彼女から流れ出たはずの血だまりに捨てられていた。
「……見たな」
「へ?」
トマト祭りの帰りみたいな状態の女子が、こちらをギョロリと見つめてきた。
やべ……嫌な予感……。
「忘れろ」
「……どれを?」
参ったな……西表島でサキシマハブに囲まれた時くらい参った。
でもまさか……この子も蛇なのか?
「今見たこと全てだ」
この子は強い口調で喋るが、声は小さくて可愛らしい。
正直見た目も好みだが、問題が一つだけある。
多分この子は……人間じゃない。
「……」
「おい、どこへ行く」
僕は彼女を置いて立ち去ろうとしたのだが、何故か呼び止められた。
まさか……僕に一目惚れしたのか?
「何?」
「『何?』じゃない。お前、言いふらしに行く気だろ」
「何を?」
「私のことだ」
……どういうことだ?
僕と言えばまだ皮も剥けていない純朴な少年だ。
彼女に限った話ではなく、異性の考えていることは全くと言っていいほど理解できない。
彼女は僕が何を言いふらすと思っているんだ?
「……」
「おい、何してる」
僕は混乱してつい彼女が自ら脱いだ彼女の『皮』の方に向かってしまった。
血だまりは相変わらずそのままだが、『皮』がどうなっているのか気になったのだ。
なるほど……凄いな、本物の人間の皮みたいだ。
体温は僅かに残っていて、肌触りはアレだ、肌を触っているみたいだ。
「聞いてるのか」
「え? あ、ああ……ごめんなさい。ビックリして……」
「『ビックリして』? お前一体何を考えている? 私の『脱皮』を見て驚いたのか? とてもそうには見えない」
確かに僕は昔から家族や家族だった人とかにいつも『お前は無表情だ』と言われてきた。
この子から見ても僕は無表情で何を考えているのか分からないのだろう。
……そうだ。僕がこの子の気持ちを分からないように、この子も僕の感情が分からないんだ。
この子は人間じゃなさそうだが、この子からしても僕は人間に見えていないのかもしれない。
だったらまずは人間アピールをするべきだろう。
この子をまずは安心させなくては……。
Prrrr
「おい、何してる」
「救急車だよ。僕は普通の人間だから、こういう時救急車を呼ぶんだ。だって人が轢かれたんだよ? 大丈夫? 多分五分くらいで来てくれるだろうから…………あ、はい。交通事故で。はい。救急です。火災じゃないです」
「……お前はもしかして『こちら』側の存在か?」
「はい。はい。えっと……住所ですか? え? いや……え? どこだっけここ……」
「……」
*
救急車を呼んだあと、その女子はどこかへと消え去ってしまっていた。
僕は取り敢えず救急隊の人にそのことだけ伝えて帰ることにした。
まあ、あれだけ血だまりが出来ていたら交通事故があったことだけは本当だと信じてくれるだろう。轢き逃げした車の車種とナンバーも伝えたし、僕の役目はもうないはずだ。
それから数時間後、僕は暗い夜の中、長い階段を昇っていた。
ここも僕がいつも通る道で、台地と平地が入り組んだ僕の住む町を象徴する往来の一つだろう。
無駄に長い坂道に無駄な階段を作りやがって……おかげで僕の体力が無駄に減っていくじゃないか。
「どこへ行く」
女子の声だ。
それも聞き覚えのある……というか間違いなく午前中の奴だ。
僕は声のした方向に振り向いて返事をする。
「寝床だよ」
「……誰にも言いふらしていないようだな」
「何を?」
「……お前のことを調べさせてもらった」
……何だって?
何でそんなことをする必要がある?
この子……一体何者だ?
「
「? あ、ああ……そうだね」
「私はお前が『こちら』側である可能性を警戒していた。そうでないのなら……口封じすることに何の躊躇もない」
「僕を殺すの?」
正直意外でも何でもない。
彼女が人間でないのは明らかなのだから、あの『脱皮』などを見た俺を放っておくはずはない。
だってもしこの子みたいなのを見たことがある人物が生きているのなら、もっと世界は面白いことになっているはずだからだ。
僕は彼女の方に視線を向けつつ階段を昇り続けた。
「……お前は死ぬことが怖くないのか?」
彼女はまだ僕を殺さないのだろうか?
それとも実は結構躊躇いがあるのか? 『何の躊躇もない』とか言ってたのに。
「死ぬのが怖いのは当たり前として、僕からしたら君の方が怖くないのか疑問だよ」
「……私が? 何を恐怖すると?」
「良いかい? 疑問ってのは恐怖や不安から生まれるものだ。僕に質問を何度も投げかける君は、きっと何かを恐れているんだ。僕にはそれが何か分からないけど、もし僕を殺すのが怖いのなら……僕は君にそんなことしてほしくないかな」
彼女は風の所為で顔に掛かる長い髪を払いながら、細い目を僕に向けてきた。
「……私は決して死なない存在だ」
「へ?」
「故に『完全な存在』と呼ばれることもある」
「誰に? あ、僕ら人間に?」
「そうだ。例えばこのように……」
彼女は自分の左手の甲を爪で引っ掻いた。
傷ができ、血が若干染み出てくる。
そして彼女は次に、左手の甲の皮膚を思い切り引っ張った。
バッサァ
「……おぉ……」
左手の皮膚は剥がれたが、その下から無傷の新たな皮膚が露わになる。
これはつまり……また『脱皮』だろう。
「……私は長い長い時を生きてきた。かつては人間に隅々まで研究された時もあった。人間は私のような身体を欲している。だが……私からすればこんな身体、完全とも完璧とも言えない。お前のような私よりも遥かに少ない時しか生きていない人間からも……新たなことを学ぶときがある。私は不完全な存在なのだ」
「『新たなこと』?」
「私は……確かに恐れているのかもしれない」
彼女はどこかつらそうな表情をしてみせた。
それでも僕との距離を保ちながら階段を昇り続けている。
「私は人間じゃない。お前は人間だ。だが、それでも……私はお前が分からなくて怖い。お前ら人間はいつも我々を恐れるが……我々もお前たちを恐れているのだろうな」
「僕が分からない? 調べたんじゃないの?」
「調べたが理解できない。お前の思考回路はまともに成熟できていない。その特殊な生育環境の所為でな」
「……僕は子どもなんだよ。肉体的にも、精神的にもね」
彼女が僕をどう思っているのかは大体理解できた。
そうか……僕はそんなに怖いのか。
確かに僕は時々友達だと思っている人に『お前は何を考えているか分からない』と言われることがある。
そうだ……『分からない』っていうのは『怖い』という意味なんだ。
自分で言いながら気付いていなかったのかもしれない。
僕はいつもいつもいつもいつも周りの人間に避けられてきた。
どこへ行っても何をしても僕はみんなのようになれなくて……それでも周りに合わせようと頑張ってはきたつもりだった。けれど……僕は皮を剥けなかったんだ。
「お前はさっき、『寝床』に向かうと言った。『家』ではなく『寝床』と。お前は一体どこへ行くつもりだ?」
「……この上に神社がある。夜中は神主さんもいない。だからそこで一晩明かしてもバレることはない」
「お前を養っている者の家で寝ないのか?」
「……居場所が無い」
「お前は愛されたことがないから、今お前を引き取っている人物が自分を愛していると思えないんだ。私は既に調べた。今のお前の保護者はお前を愛していると判明している」
「神社は良いよ。気持ちよく寝れる」
「……なら私もそこで寝よう」
「……は?」
何言ってんだ……?
この子は僕を殺しにきたんじゃないのか?
それとも……僕に同情してくれたのか?
……へぇ、立派じゃないか、化け物の癖に。
「君は一体何者なんだ? 何が目的だ? 口封じはどうしたんだ?」
「口封じする他にも対処法はある。それがお前の傍にいることだ。そうすればお前がもし誰かに私の秘密を話そうとしても、すぐにその場で対処できる」
「……そうかい。でも学校に行くときはどうするんだ? 付いてくる気?」
「私の調べではお前は不登校のはずだ」
「……ッ。家の人にはどう説明するんだよ」
「私の調べではお前は家出中のはずだ」
「……何もかもご存知ですか。はいそうですか」
……もしかすると、これはチャンスかもしれない。
僕はずっと『きっかけ』を欲しがっていたんだ。
彼女がそのきっかけになってくれるのだとしたら……正直そんなに嬉しいことはない。
感情的になりかけたが、僕は彼女を拒む理由が無い。
そうだ……だって、彼女は僕の好みだし。
「……でも一つだけ確かめておきたい。君は……僕なんかに同情してくれたのか?」
「……もっと単純な理由だ」
「何?」
僕は自他ともに認める無表情だが、彼女も大概無表情だ。
せめてここは違う表情でも……なんて、言うつもりはない。
「一目惚れした」
――どうやら僕も、一皮むけられそうだ。
脱皮 田無 竜 @numaou0195
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