Nothing like human(ナッシング・ライク・ヒューマン)

たちかぜしず

第1話


 prrrrr……prrrrr……


 無機質な電子音。


 prrrrr……prrrrr……prrrrr……pr──


 3セット目の電子音で、暗い部屋の中で丸餅めいた影が動いた。


「こんな時間に誰?」男の声が平坦な声で言った。

『今何してるの?仕事だって分かってる?』 

 女の声が答えた。苛立っているのを隠そうともしていない。

「仕事って?」

『もしかして忘れてたなんて言わないでしょうね?』

「忘れてたって?君は誰なんだ?仕事って?」

『くだらない問答に付き合うつもりはないって何回も言ってるでしょ。わたしは暇じゃないの。いいから早く来なさい』

「来てってどこに?君はさっきから何を言っているんだ?」

『ああもう。なんでよりによってこんなのが……とにかく今すぐ来なさい。いいわね』

「まだ僕の質問──」

『それと、もう9時過ぎてるわよ。以上!』


 ツーツー……


 影はしばらくもぞもぞと動いていたが、次第に上半身を起こした人の陰になった。 


「おはよう」


 影が立ち上がり窓へ向かい、カーテンを開いた。日の光が人影を照らす。


 部屋の持ち主は、とりたてて特徴のない人間の男だった。ただ、衣服を一切身にまとっていなかった。


 男は無表情で外の景色を眺めていた。


 四車線道路を挟んだ向かいのマンション。六階、右から二番目のベランダで女性が洗濯物を干している。


「今日はいい天気だ」


 男はキッチンへ向かった。蛇口を開き、水を両手で受けとめ、顔に水をかける。全く同じ動作を三回繰り返した。


 振り返り冷蔵庫の扉を開き、500ml入りの牛乳パックを取り出す。パックの蓋を開けて一息で飲んだ。パックに水を貯めて、軽くゆすり、その後シンクに流す。薄い白い液体が筋になってシンクを汚していった。男は白い線が消えるまでシンクを見つめていた。


 十秒ほど経過して、

「ああ、そうだ。今日は仕事があるんだった」

空になった牛乳パックをゴミ箱に入れて蛇口を閉じた。


「ああ、仕事か。面倒だなあ」


 男はリビングに戻り、クローゼットを開けて、白い下着とシャツを取り出して着た。黒い無地のネクタイを首に結ぶ。スラックスを取り出してはき、シャツをスラックスの中に入れた。最後に音もなくクローゼットを閉めた。


 布団の脇に置いてあった手提げかばんを取る。中から、大量の写真を取りだした。それは、写真を取り出した男自信を様々な角度から撮った写真だった。服装もシチュエーションもバラバラで。ただ、全ての写真で、写っているのは男一人であった。


 男はたっぷり十分ほどそれらの写真を凝視してから、全てカバンにもどした。


 布団脇に置いてあるフレームの細い眼鏡を手にして顔にかけた。携帯電話を手に取り、カバンに入れる。


 玄関へ向かった。靴ベラを取り、革靴に右の足先を入れ、かかとに靴ベラを当てる。かかとを靴の中に滑らす。左足も同じことをやる。靴ベラを置く。


 玄関扉を開け、一度振り返り、「それじゃあ、行ってくるよ。今日は帰りが遅くなるかもしれないから晩御飯はいらないよ」男は誰もいない部屋に向かってそう言った。



「あんたねぇ、なんでそうやって定期的に遅刻してくるのよ」

「忘れてたんだ。平均的な人間は少し位時間にルーズなんだ」


 スーツ姿の取り立てて特徴のない男と、胸元に『アメ』と刺繍された白いローブを着た女が、通常の二倍ほど横に長い錬金術師が使いそうなアンティーク机を挟んで立っていた。


 スーツの男はただ立って女の方を見ている。時折あちこちに首を向けるが、眼鏡の奥の眼が何かを捕らえた様子はない。


 女──アメは床に垂れるほど長い黒髪がカーペットを擦るのを気にする様子もなく机のそばをうろうろしている。


 二人の周囲は不規則的に並べられた本棚と本で埋め尽くされていて端が見えない。明かりになるようなものや窓が一切ないのに暗くない。天井はなく頭上には闇が広がっている。床にはあらゆる色、あらゆる素材の布地がつぎはぎされて一枚の大きなカーペットの様に敷かれている。


 高級な図書館のように見えるが、そういうにはあまりにも異質だった。


「あんたそれ間違ってるから!」

「間違ってる?なにがどう間違ってるんだ?説明してくれないか?」


 アメはイラついた様子で頭を激しくかきむしり、長い黒髪が揺れる。


「ああもう! 豆腐の角に頭打って死ね!」

「それこそ間違っているよ。人間は豆腐の角に頭をぶつけても──」

「うっさいバカ!」


 アメはそう叫んでアンティーク机を両手で叩き、おもむろに分厚いハードカバーの本をつかんで振りかぶった。


 そして男めがけて投げつけた。


 本はまっすぐ飛んでいき、男の側頭部に直撃した。しかし、男は微動だにせず、しゃがみ込んで床に落ちた本を拾い上げた。


「痛いなあもう。本は投げるためではなく中に書かれているものを読むためのものなんだよ」

「知っとるわ! あんたよりモノを分かっとるわ! 返せ!」

「返せって、君が投げ──」


 アメが本をひったくるようにして奪い取ると、あるページを開き、男の顔に突き付けた。


「ここ、ここ。このページになにが書いてあるかわかる?」

「もちろん。この世界で一般的に使われている文字だよ」

「……そうね。それで、それが何を意味しているのかは?」

「意味?それが大事なことなのかい?」と男は無表情で言った。

「大事に決まってるでしょ。本ってのは……はぁいいわ」


 アメは大きなため息をつき、本を閉じて机に置いた。机を回って椅子に座り、引き出しを開けて中に手を入れた。


「それで、何を意味していたのかは教えてくれないの?」

「後で自分で調べたら?そんなことより」


 引き出しから封筒を二枚取り出し、机の上に置いた。


 封筒は汚れ一つない新品で、それぞれ赤と白のシールで封が閉じられている。


「はい、選んで」

「選ぶ……赤が危険で、白が安全。でも白は放っておいたらじきに赤になる。赤が黒になったらとても危険」

「それで?」

「だから僕はこっちを選ぶ」


 男は赤いシールで封された封筒を指さした。


「優先順位は僕でもわかるさ」

「そう? 本当に分かってる? ま、赤を選んでくれた方がありがたいけどね」


 アメは残った方の封筒をしまい、代わりに筆を取り出して机に置いた。


「それ、今はあまり使われてないから練習をしていないんだ。別の道具が使いたい」男が言った。

「いちいちうるさいわね。ここではこれしか使えないって何度も言ってるでしょ。早くしてよ」

「わかったよ」


 男は筆を右手でとり、左手で封筒を押さえ、封筒の下側に一定の速度で名前を書き、筆を戻した。


『ノリフ』


 書かれた名前はタイプライターで打ったように正確な文字だった。


 アメは封筒を手元に引き寄せ、男──ノリフのサインの隣に白いスタンプを押した。


 文字が染みの様に広がっていき、封筒が黒く染まっていく。


 アメは封筒を机の上に滑らせた。


「じゃ、これ持って受付に向かって」

「分かった。行ってくるよ」


 ノリフは封筒を手にすると、踵を返しその場を後にした。


「はぁ。所長はアレをどうするつもりなのよ」


 アメのつぶやきを聞く者はいなかった。



 本棚の迷路を通り抜け、ノリフは壁際にある古びた受付デスクの前で止まった。デスクの上に封筒を置き、丸い呼び鈴を鳴らした。


 呼び鈴の音が収まらないうちに、受付デスクの上に肘をついて寝転がっている黒いネコが煙のように現れた。


 ネコは口や鼻がなく、ただ目だけが煌々と光っている。


「俺を呼ぶのは誰だ?」

「仕事をしに来たんだ」


「はん?」

 ネコはジロジロとノリフを見た。

「仕事、仕事、仕事ねぇ。変な奴が仕事をしに来たってな」


「変な奴とは失礼だな。僕はただの人間でノリフという名前があるんだ」

「そうかい。いやぁ、悪いね。変な人間はよく来るけど、ただの人間は初めて見るもんでね」


 ネコは肘をついたまま欠伸をした。


「それで、ただの人間さん。"仕事"についての説明はいるかい?」

「これで5回目の仕事だけど、一般的には、説明は何回も聞かないものじゃないか?」

「人によるねぇ」


 ノリフは黙った。表情やしぐさからは何を考えているのかわからない。ネコも黙ってノリフを見ている。


 十数秒後、ようやくノリフが口を開いた。


「せっかくだし聞いておこうかな」相変わらず平坦な口調だった。「あいよ」


 ネコは背中に手を回して一枚の紙を取り出し、顔の前に掲げた。


「ひとつ、あんたはこれから、アノマリーってヤベーのが活性化──つまりヤバい状態になったまま閉じ込められている空間に入る。そこでは老いも飢えもしないけど、怪我したり狂っちまったらそのまま。もちろん死んじまったら終わり。二度とうまいもの食ったり快適な場所で寝たりできないってわけだ。だからそうならないためには、中にいるヤベーアノマリーをどうにかして沈静化させなければならない」


 ネコは説明を止め、紙から目だけを出しノリフの反応をうかがう様な視線を向けた。


 ノリフは微動だにしていなかった。ネコはつまらなさそうに紙に視線を戻した。


「あー、それでだ。沈静方法はアノマリーによって変わる。パッと見でわかるものもあれば頭をひねらねえと分かんねえ奴もある。当たり前だけど事前に知るすべはないぜ。最悪、暴力でも解決できないことはねえけど、大抵は痛いしっぺ返しが待ってるしお勧めはできねえなあ。最後に、一度中に入ったらアノマリーを鎮圧させるまでは戻って来れないから」


「これまで戻りたいと思ったことはないよ」

「そりゃいいや。ケケケ。あんたは代わりもんのただの人間だな」


 ネコはニヤリと大きな笑みを作り、黒い封筒を咥えると、デスクの向こう側に転がり落ちた。


 そして、隣にある扉の上枠に、逆さにぶら下がるように出現した。


 封筒をぺたりと枠に張り付けると、枠内にまるで一冊の赤い本の様な扉が現れた。


 中央上側に読めない文字が書かれており、規則的に淡く光っている。


「よしきた。準備はいいか?」

「いいよ」


 ネコが扉に両方の前腕をタッチすると、赤い扉にまばゆい幾何学模様が走り、ガコンと内側に開いた。


 扉の中は青黒い染みが渦巻いている。


 ノリフは扉の前に移動して、取っ手に手をかけて開けようとしたとき、


「最後によ、何か言っておきたいことはあるか? 遺言になるかもしれねえからな」「縁起が悪いんだよ、そういう事を言うのは。そうだね、今知りたいことは、君が何番目なのかということかな」

「さぁて、忘れちまったよ、んなことは。多分百から千の間だ」


 ケケケケケと笑い声を残してネコは消えた。


「なんで誰も僕の質問にちゃんと答えてくれないんだろう」


 ノリフはそうつぶやき、平然とした足取りで渦の中に入っていく。姿が完全に飲まれると扉がパタンと静かに閉じる。


 水面に垂れた隅の様に扉の姿が滲みだし、消えた。



「君がアノマリーなのかい?」


 周囲を深い木々で囲まれた空間の中、ノリフが老朽化の進んだ建物に向けて言った。


 それは古い蔵の様に見えた。扉の上には木製の看板が掲げられている。書かれている文字は読めない。


 両開きの木製の扉は開け放たれていて、おびただしい数の大小さまざまなガラクタが、足の踏み場を探すのにも一苦労しそうなほど所狭しと捨てられているのが見えた。


 ノリフはしばらく入口の手前で立ち止まっていたが、

「違うか。じゃあ中にいるのかな。お邪魔します」

返事が返ってこないと思うと躊躇いなく建物足を踏み入れた。


 中は、はるか遠くにある壁から差し込むいくつかの光が細いレーザーのように差し込む程度で暗い。そのうえガラクタは壺や箒などのだけではなく、さびた鉈や狩猟用の罠などの危険物が乱雑に置かれていているので、少し進むのも困難に思えた。しかしノリフはただ散歩をするような足取りですいすいと奥へ進んでいく。


「今日の夜ご飯は何かな。昨日は豚肉だったから今日は魚を食べるのがいいよね。早く仕事を終わらせて定時で帰りたいな──」


 などと時々場違いなことをつぶやきながら、立ち入り禁止コーンを避け、開いた戸棚をくぐり、ネズミ捕りをまたぎ……。


 入口はとうの昔に見えなくなっていた。恐ろしく静かで、外から見ていたものよりも明らかに広いガラクタが転がるだけの空間を、ノリフは黙々と一定の速度で歩き続けた。


 自動車用バッテリーの上をまたいだ時、木製の棚の上でハンディライトが転がっているのを見つけた。


「明かりだ。これは持っていこう。僕は人間で暗いところが不得意だからね」


 ノリフはハンディライトを右手に取り、親指で電源スイッチを入れた。


 閃光。


 ノリフの手の中でハンディライトが爆発した。パチパチと残骸が鳴る音が周囲のガラクタに反響する。


 ノリフは無表情でガラクタを眺めていた。残骸を握った右手がところどころに裂けていて、傷の上でどす黒い液体が滲んでいる。


 そうして一分ほど経過したのち、「保管の仕方が悪かったんだ」ハンディライトの残骸を棚に戻した。ハンディライトを離した手の傷は消えてなくなっていた。


 その後もノリフは淡々とガラクタの山を進み続け、ついに最奥の壁に到達した。そこだけは、ガラクタが避けているのようにひらけていて、その空間の中央に豆電球が一つ垂れ下がっているおかげで比較的明るい。


 そして、壁には一枚の黒い扉がはめ込まれていた。


 ノリフは扉の手前で立ち止まった。扉の中央やや上を2回ノックした。


「もしもし?」


 瞬間、上から落ちてきた何かが、引きかけていた手をかすめた。


 それは鋭い包丁で、足先に突き刺さっていた。


 ノリフはゆっくりと見上げた。上空には光が全くさしておらず、ただどんよりとした闇が広がっていた。


 次に包丁を左手に取って眺めた。何の変哲もない切れ味のよさそうな包丁のようだった。


「危ないな。ちゃんと整理整頓しておかないからこうなるんだ」


 と言って近くの丸椅子の上に包丁を置く。


 そして扉の取っ手に右手をかけて引いた。扉はゆっくりと重い音を立てて開かれていく。


 その先は、畳が敷き詰められた明るい一室だった。



「お邪魔します。誰か、それともアノマリーはいますか?」


 ノリフは室内に入ろうとして、右足を前に出し、畳を踏む直前に、


「ああ、靴を脱がなきゃ」


 逆再生したような動きで元の体制に戻り、両足の靴を脱いで扉の外に丁寧に揃えて、改めて部屋に入った。


 部屋の中央まで進み、立ち止まり、周囲の様子を眺めるように首を動かした。


 その部屋は四方全てが白い壁で、扉がある壁とその両側の壁に、無数の黄色と黒の縞模様のテープが乱雑に張り付けられていた。テープには滲んだ白い文字で【立入禁止】と書かれている。


 奥の壁は3つの間に分けられていて、テープによる浸食はない。


 左の間、一番広く、壁に刃がむき出しの日本刀が3本飾られている。下の床畳には、市松人形の身体だけが座っている。頭部分は脇に落ちていて、白い髪の間から黒い眼が恨めしそうに空虚を睨んでいる。


 中央、一番狭い間には【危険】と書かれた掛け軸がかけられていて、その下は陶器製の招き猫が鎮座している。招き猫は手の部分だけカラクリで動くようになっている。


 右の間、上下に小さな物入がある。下の物入の上には割れた皿が置かれている。


 天井は木製で、中央に逆さまの囲炉裏が付いている。薪が怪しく燃えていて部屋を照らしている。床に落ちてくる様子はない。


「いい部屋だ。和室にはいると侘び寂び感じられて心が落ち着くよね」


 ノリフはその場に座り込み、感触を確かめるように畳をゆっくりと撫でた。


 タン!


 ノリフは身体をひねって音がした背後を見た。先ほどまで開いていた扉が閉じていた。


 そして、突如壁のテープが暴れる蛇のように激しく動きだし、扉を封鎖するように横切った。


「閉じ込められてしまったかな」


 ノリフは立ち上がり、扉へ向かい、取っ手を右手で握ろうとした。


 途端にテープにバチと電流が走り、扉が青白く光った。


 手を引いて、指先を目の前まで持ち上げた。右指の人差し指から薬指が炭のように黒く焦げている。


「これはすごく痛い。うん、気をつけないと。人間は激しい痛みを受けるとショック死することがあるから……」


 焦げた右手を冷ますように振りながら、奥の間の方へ歩いていく。


 囲炉裏で燃える炎の光をノリフが遮り、掛け軸にゆらりと揺れる人影が写った。


「さて、どうするべきか」


 腕を組んで思案している様子をつくる。日本刀、市松人形、掛け軸、招き猫、物入、皿とノリフの視線がゆっくりと移っていく。


 皿、物入、招き猫と来た時、招き猫の手が動き出した。


「君がアノマリーか」


 ノリフが独り言ちると同時に、市松人形の口がカクカクと開閉した。白い髪が恐ろしい速度で伸びて床畳を白く染めた。


 全ての物入が開き、中から血にまみれた金の延べ棒があふれてくる。


 ノリフは招き猫に一歩近づいた。


 招き猫の腕の動きが早まる。


 3本全ての日本刀がカタカタと震えながら宙に浮きあがり、刃先がノリフに向く。


 囲炉裏の炎がひときわ激しく燃える。鍋から沸騰した液体が床に垂れ、畳を焦がす。


 壁のテープが増殖を始める。


「これ、どうやってるんだい? 知っているなら教えてくれないか?」


 ノリフは周囲を見渡してながら言った。


 掛け軸が裏返った。黒い枠に黄色い背景色、無数の赤い【危】の文字。


「GRRRRAAAA!」


 招き猫が鬼の形相に変わり、空気を震わすほどの叫び声をあげた。


 ノリフは恐ろしい速さの前蹴りを招き猫に繰り出した。が、前蹴りが到達するよりも前に、掛け軸が飛んできて蹴りを弾いた。


 バランスを崩してたたらを踏むノリフめがけて、日本刀がまっすぐ飛んできた。


 グサグサグサッ。


 ノリフの胸と腹に突き刺さる。


 尻もちをついた。ノリフの顔に金の延べ棒が殺到。鈍い、肉がつぶれる音。


 市松人形が釘でガラスを引っ掻いたような声で笑う。


 囲炉裏が一瞬ボウッっと激しく燃え上がって消えた。


 部屋は暗闇に包まれた。硬いものが柔らかいものを叩く音。笑い声。音。笑い声。音。


 静寂。



 再び囲炉裏に炎が灯るとノリフの姿はなく、代わりにあるのは散らばった衣服と畳にへばりついているどす黒いシミだけだった。


 日本刀や掛け軸は元の状態に戻り、招き猫の手の動きは止まっている。


 どす黒いシミは炎により照らされながら、微振動を起こしながら時折表面を泡立たせている。


 パチッと薪が小さく爆ぜたとき、市松人形の首の空洞から、髪を束ねてできた白い触手が数本伸びてきた。


 触手達は、尺取虫ようにあちこちに鎌首を向け、どす黒いシミの方角でピタリ止まった。


 徐々に矢の先端の様に鋭く変化していく。


 全ての触手が獲物を狙う蛇のように跳びかかった。


 ドスッ。


 同時に全ての触手がどす黒いシミに突き刺さる。


 そして触手が伸縮を始めた。


 キュー……キュー……


 ポンプのようにどす黒いシミから出る液体をジワジワと吸い上げられていく。黒い液体が通る白い管はさながら血管の様だ。エサに喜んでいるかのように触手が鳴く。


 キュー……キュー……キッ……


 吸われていく黒い液体が中間に来た時、突如触手の動きが止まった。


 触手が止めたのではない。その証拠に、触手は伸縮幅を広げ何とか吸い上げようとしているよう。


 市松人形からさらに数本の触手が出てきて、今度はまっすぐどす黒いシミに突き刺さろうとした。


 が、それらはどす黒いシミの表面に触れたところで固定されたように動きを止めた。


 キッ……キッ……


 ボコ……ボコボコ……


 どす黒いシミの表面に浮かぶ泡の量が次第に増え、黒いシミ-液体に触れている触手が溶解し、畳にボトボトと落ちる。


 キー! ……キー!


 短くなった触手は痛みを感じるのか鞭のように激しく振り、壁や天井やノリフの身に着けていた衣服に衝突を繰り返す。


 黒いシミ-液体が激しく震えながら一か所に集まり、徐々に大きくなっていく。


 やがてソレらはどす黒いうつ伏せに倒れている人間の形となり震えを止めた。


 ソレがゆっくりと起き上がった。


 人間の形をしたソレは表面に毛が一本もなくゼリーのようになめらか。顔の部分は見たものを深淵に引きずり込むような渦が巻いている。


 人が準備運動をするかのように──しかし異様なほど滑らかな動きで手足を動かしはじめた。


 おもむろにソレの右手がゴムのように伸び、暴れている触手の一束を掴み溶かした。


 一本の触手がソレの頭を激しく叩くが、ソレは意に介さずに、ゆっくりと市松人形へ近づいていく。


 いまや全ての触手が拒むようにソレを叩いたり巻き付こうとするが、ソレの歩みは止まらない。


 ソレは招き猫の目の前で歩みを止め、肥大化した右手で招き猫を握りこむように掴みあげた。


 キー! キー!


「なるほど、君が動かしていたのか。一本取られたよ」


 ソレが招き猫を顔の前にもってきて、しげしげと眺めるような素振りをしながら言った。古いカセットテープのように掠れた、ノイズ交じりの、ノリフの声だった。


 招き猫のあちこちに、いくつものとても細い白い触手が、まるで操り人形のように巻きついている。


「まったく酷いことをするね。大変なんだよ、元に戻るのは」


 右腕が縮み、元の位置に戻り、招き猫を自分の腹部に当てた。


 すると招き猫はズブズブとソレのどす黒い体内に沈んでいき、最後には見えなくなった。


「少しだけそこで大人しくしてね。さて、残るは君だけど……話し合いは出来なさそうだね」


 ノリフは市松人形のほうを向き、左手を握りしめて、大きく腕を振りかぶった。振りかぶった腕が丸太のように太く肥大化した。


 キー!


 残っている全ての触手が、ノリフめがけて一斉に飛び掛かった。


 ノリフは触手が身体に到達する前に、勢いよく振り下ろした。


 触手を打ち払い、飾られている日本刀を折り、市松人形の胴体を粉砕し、激しい音を立てて床畳に穴をあけた。


 市松人形が破壊される直前、触手から「ピギッ」っと悲鳴のような音が聞こえた。


 木くずやほこりが落ち着き、ノリフがゆっくりと左手を上げたとき、触手はほかの残骸とおなじガラクタのに一種になっていた。


「今回はあまり上手くできなかった。何がいけなかったんだろう」


 ノリフは元に戻った自身の左手を見ながら言った。


 その時、どこかで耳をつんざくサイレンが鳴った。


 直後に、地震が起きたように部屋が揺れ始めた。その揺れは終わることがなく、次第に大きくなっていく。


 天井が、壁が、床が、少しずつ崩れていく。その先には虚無が広がっていた。


「ああ、終わりだ。戻る準備をしないと」


 崩れ行く空間の中で、ノリフはもはやボロ雑巾のようになっている衣服を拾い、淡々と身に着け始めた。


 最後に、片方のレンズが割れた眼鏡をかけたところで、空間が完全に崩れ、ノリフは虚無の中に落下していった。



 牛乳瓶の底のように厚い眼鏡をかけたアメが、アンティーク机の上に積み重なった書類と格闘していた。


「終わったよ」ノリフが声をかけた。

「ああ、お疲れ様。やっぱあんたは死なな──」


 アメが顔を上げ、ノリフの顔を見て表情を凍らせた。


「あんた、顔……それ……クッソ、早くどうにか、しなさ……うぇ」


 最後まで言い終わらないうちに、口元を手で押さえ目を強く閉じた。額に脂汗が流れた。


「戻ろうとしたんだけど、忘れちゃったんだ。おそらく頭に強い衝撃を受けたからだと思う。僕のかばんはどこ?」


 ノリフは肌の色こそ元に戻っていたものの、顔はいまだに渦が巻いたままだった。


 アメは手だけを動かしてアンティーク机の脇を指さした。


 ノリフは机の端にかかっている手提げかばんを取り、中から数枚の写真を取り出した。


 アメは写真を凝視するノリフを視界に映さないように顔をそむけ、引き出しから取り出した小さな青い瓶──側面に『精神回復剤』と書かれている──のふたを開け、一気に飲み干して椅子に深くもたれかかった。


 およそ15分後、ゲッソリとした顔をしたアメがようやく目を開けた。ノリフは元のとりたてて特徴のない男の顔に戻っていた。


「久しくなかったから油断してたわ……うー、最悪……」

「大丈夫? 体調が悪いんだったら休んだ方がいいよ」

「うっさい。あんたのせいだっての」


 アメはその姿を見て深い息を吐き、そして手に招き猫を持っていることに気づいた。


「……それなに?」アメが筆で招き猫を指した。

「持って帰ってきちゃったんだ。忘れてて」

「持って帰って……?」

「そうだよ」


 ノリフは招き猫を机の上に置いた。


 アメはまじまじと招き猫を眺めていたが、興味を惹かれたのか引き出しからルーペを取り出して細部を調べ始めた。


「ふーん。けっこう年季が入ってるように見えるけど傷はないし希少品として売れるかも」

「アノマリーは同じものがふたつとないと所長が言ってたしそうなんじゃない?」「…………は?」


 アメが顔を上げてノリフを見上げた。手からルーペが落ちた。


 ポカンとした表情で陸に上げられた魚のように何回か口をパクパクさせたのち、絞り出すように声を出した。


「じょ、冗談でしょ? これ、アノマリー?」

「冗談って何が冗談なの? 僕は嘘をつかないよ」


 事も無げに言い放つノリフの態度に、アメの表情に驚愕と怒りが混ざりはじめ、目が赤く光りはじめた。


「どうしたの?」

「あ、あんた、バカじゃないの!? なんでよりによってアノマリーを持って帰ってくるのよ!?」

「異常化の原因は取り除いたし大丈夫だよ」


 アメが顔を強張らせて両の掌で机を叩いた。振動で書類の一部が崩れ床に落ちる。招き猫の手をさりげなくノリフの手が押さえた。


 目を真っ赤にしたアメが勢いよく机から乗り出してノリフの胸を指で突いた。


「そういう問題じゃないの!こ・れ・は、常識では測れない異質なモノだから『アノマリー』って分かりやすく呼ばれてるの!持ってきたらすごく危険!考えなくてもわかるでしょ!?」

「そうなんだ。それは知らなかった。今度からは気を付けるよ」


 そう事も無げに言い放つノリフに言葉を失うアメ。力が抜けたように椅子に座り込んだ。


「もういいかい? 僕の仕事は終わったんだしそろそろ帰るよ。あ、それと、腕を動かしたら危ないから気を付けたほうがいいよ。後はよろしくね」


 最後にノリフは一方的にそう言い放ち、踵を返してその場を後にした。


 数秒後、正気に戻ったアメが、

「ぁぁぁ!もう!所長はまだ帰ってきてないのに!あの腐れモンスター!バカ!アホ!──」

頭をかきむしり、地団太を踏み、口から呪詛を飛ばし続けた。


 アンティーク机の上で、招き猫が静かにその様子を見ていた。



「ただいま。帰ったよ」


 玄関扉を閉めて鍵を閉めてからノリフが言った。


 廊下の向こう、リビングの窓から差し込む淡い光が室内を不気味に照らしている。


 暗い玄関で丁寧に靴を脱いで揃えて置き、短い廊下を進んでキッチンへ。


 シンク脇の調理スペースに買い物袋を置く。中から牛乳パックを2本取り出して冷蔵庫に入れた。


 買い物袋から手のひらサイズの鮮魚が3尾入っているパックと箸を持ってリビングへ向かい、


「暗いから電気をつけるよ」


 途中、部屋の電気を入れた。部屋の中にはノリフ以外何物もいない。


 テーブルの上にパックを置き、椅子に座った。


 丁寧に両手を合わせ、

「いただきます」

と言い、箸で鮮魚を器用につかみそのまま口に入れた。そして数回租借し、飲み込んだ。


 時折「うん」や「ほう」などのわざとらしい相槌をぎこちなくうちながら、同じ速度、同じ動作でシッポの先まで食べていく。


 3匹目を食べ終えたのちに、

「ごちそうさま。君の料理はいつも美味しいよ」

何もない空間に向けてそう言い、パックをキッチン脇のゴミ箱に捨てにいった。


 カーテンを閉じ電気の消えた暗い部屋、布団の上で身体を起こしているノリフの顔を携帯電話のディスプレイの光が照らしていた。


 画面には22:58の表示。ノリフはただじっとその画面を見ている。


 22:59。


 23:00。


「そろそろ寝る時間だね。君も早く寝ないといけないよ」


 と言い、眼鏡をはずして携帯電話と共に枕元に置き、布団の上で横になった。


 携帯電話の淡い明かりが室内を照らす。ノリフの影は形を崩し、丸餅めいた影となって動かなくなった。


「おやすみ」


 携帯電話の画面が消えると、部屋は完全に闇に沈んでいった。

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