人鳥姫

蒼井どんぐり

人鳥姫

 蒼が黒く沈むほどの海の底、そこを横切る黒い影。深海の暗闇よりもっと黒い、漆黒とも言える黒に白いラインの入ったダイバースーツ。その影はまるで、空を翔ける鳥のように、抵抗感を感じさせずに推進力を産んで進んでいく。水などそこにないかのように、まっすぐ進むその影の下には、大きな都市の一帯が出迎えていた。



「依頼されてた区画の3Dデータはこれで全部スキャン完了ね」


 影の主が船に上がり、そのスーツを脱ぎながら、目の前にあるモニターに声をかける。黒いスーツとは対照的な、白く輝く長髪を靡かせ、頭から外したゴーグルをモニターに近づけると、小さく光った。


「さっすが、ユニカ! 今回も早かったね。送ってくれたスキャンデータも……うん、バッチリ」


 モニターから軽快な男性の音声が聞こえる。

 その声に応じ、影の主、ユニカは横に腰掛け、モニター横の冷蔵庫を開けた。そこにはペンギン印のエナジードリンクがたくさん詰まっている。ダイビング上がりにこれを飲むのがうまいのだよ、と思い、彼女は一本取り出し、プルを開けた。一気に飲み干す。炭酸が泳ぎ疲れた筋肉に染みる。うまい。


「まあ、私、に、かかればね。何年やっていると思うのよ」

「さっすが現役最速の遺物探査ダイバー。人鳥ペンギン姫の名は伊達じゃないね」

「その名前はあんまり好きじゃないから呼ばないでって言ったでしょ、ロアン」

「えー、可愛いじゃん。みんな気に入って呼んでるよ、人鳥姫。それにスポンサーネームなんだししょうがないじゃない。そのドリンクだってスポンサーの提供品でしょ? いいじゃん、そのトレードマーク」

「これはアデリーペンギンのイラストが気に入ってるから好きなの」


 ユニカは飲み干した缶を握りつぶし、ゴミ箱に投げ捨てた。


「で、先週からの依頼区画はこれで終わりでしょ。次の依頼は?」

「もう次の探査? 体壊さない? ユニカ、もう何ヶ月も休みとってないでしょ。いや何年……もじゃない? もう水中にいる時間が多いじゃん」

「だからこそのトップダイバーなのよ」


 それに、私にはあの景色を見つけなきゃいけない。小さい頃の記憶。光を背景に、真上の海を不思議に浮かぶ姿。ペンギンたちを連れて、彼らの中心で優雅に泳ぎ、まるで水の中ではなく空に浮いているかのように浮いていた、大きな幻のペンギン。記憶にただこびりつくあの影。世界が水に沈んだあの日から、私の過去を探る唯一の糸口。あれを見つけるまでは、泳ぎ続けるしか、道はない。


「で、どうなの、次の依頼は」

「休む気はないと……。うん、じゃあ、ちょうどいい、君にぴったりな募集を出していたら、すぐ依頼が埋まったんだ。これをお願い!」

 ユニカはモニターをタップしてその文字を読むと、その意味のわからなさに「は?」と声を漏らした。


「人鳥姫、初めてのスイミング出張講座、どう、面白いでしょ?」



「では、みなさん〜! 今日の先生はあの"人鳥姫"、ユニカさんに来ていただきました! みんな拍手!」


 隣の女性がにこやかな声でそうユニカを紹介すると、目の前の子どもたちが好奇心に駆られた目でユニカの方を見つめて歓声を上げた。


「すごい、本物だ!」

「第148海峡発見の冒険譚、教えて教えて!」


 子どもたちがはしゃぐのを隣の女性が宥めている。それに負けずに子供たちはワァワァと騒いでは行ったり来たり動き出している。まるでペンギンの子供たちみたいだ。その姿をユニカは半笑いで見つめていた。なんでこんなことに……。


「いや、応募は多いと思ってたけど、こんなに殺到すると思ってなかったよね。スイミング教室」


 ロアンが言うには、そんな募集を面白半分に探査依頼掲示板にアップしていたらしい。そしたら、そこに世界中の学校や児童施設から応募が殺到した。

「でも、スイミング教室なんて誰でもやっているんじゃないの?」

 今やスイミング教室、と言わず人はまず生きるために教わるのは"泳ぐ"ことだ。

 15年前、起きた謎の水面上昇。世界がまるで空まで深く水に沈んだ日。

 "青が蒼に塗りつぶされた日"。

 その日を境に人は海と共に過ごすことを余儀なくされた。走るより泳ぐ、そんな世界では水泳やダイビングは必須の技術となった。学区施設でも必須の教科として教えていると聞いたこともある。


「なんで今更そんな依頼にそこまで応募が……」

「そりゃ、君のネーミングバリューだよ。知らないの? 今の子供達のNo.1の人気の職業」

「もしかして……」

「そう、遺物探査ダイバー。君が有名になってから一気に人気の職業になったものだよ。と言うわけで、とりあえず、君にきっと相性の良さそうな地区からの応募を選んでおいたから、すぐ向かってね!」


 と適当なことを言って以降、ロアンからの通信はなくなった。あいつめ。


「じゃあ、改めて、ご紹介させていただきますね。フリーランスの遺物探査ダイバーのユニカさんです。13歳で最年少の認可遺物探査の資格を取得、それから十年以上も遺物探査を続けている方です。代表的な探査実績はみなさんもご存知、旧大陸にあったあの女神像の発見や、その前はロストテクノロジーとなりかけていた飛行艇の発見とその機構の復旧が有名ですね! それ以降も精力的に活動し、探査実績や発見された旧施設の領域、貢献度などから決まる、国内ダイバー順位"ペンギンランキング" ではもう5年も不動の一位。みなさんご存知、人鳥姫とも知られているお方ですね」


 先生と呼ばれていた女性がユニカの来歴を告げた。


「今日はこのユニカさんにダイビングのや泳ぎの秘訣を聞かせていただきます! ではユニカさん、まずは簡単にご挨拶と一言を!」

「え、あ、はい。みなさんこんにちは、ユニカです。今日は、えっと、みなさんに泳ぎ方を教えにきました、ってことでいいのかな?」


 無愛想な表情で彼女は子供たちに挨拶をした。小さい頃から人と話すことさえ稀、ダイバーになってからも単独行動。水の中では孤独との勝負、の彼女にとって、子供たちはむしろ海の中の生き物たち以上に慣れてない話し相手だった。どんな表情で話せばいいのかもわからない。

 それでも、子供たちは期待を込めた目で、彼女の話を聞いていた。


「はい、ユニカさん、ありがとうございます! では早速! 今日はみなさん、今日は初めてのダイビングの実習ですね。泳げる人も、深く潜るのは初めての人も多いかと思います。なので、ダイビングをする前の心得などありましたら、みんなにお伝えお願いします!」

「え、心得、ですか……、うーん……?」


 心得と言われても、物心ついた時から潜り続けることが当たり前だったユニカにとっては、特に考えたこともなかった。潜る時は、探すもの以外は特に何も考えていない。


「別に私もそんなもの教わったことないのだけど……」

「ユニカさんは誰に泳ぎを教わったんですか?」

「え、誰にも。強いて言えば、ペンギン達……」

「えっと……?」

「あ、いえ、忘れてください」


 彼女は私と同い年ぐらいだろうか。それなら知らないのも無理はない。

 ユニカは腰に巻いていたスーツを解いた。一面黒に、正面と左右の腕に白いラインの入った、人鳥姫を象徴するかのようなデザイン。それに彼女の特殊な泳ぎ方にカスタマイズされた特注のスーツ。あ、ペンギンスーツだ!と女の子が叫ぶ声が聞こえる。


「口で説明する前にまずは実際にみんなで泳いで見たほうが早いと思いますので。こちらのプール、お借りしても良いですか?」


 ユニカは背後に見える大きなガラスの壁を指差した。全長は数メートルぐらいの高さの一面の窓。その先は水で満たされている。上を見ると、そこから入れる形のプールだ。ダイビング練習用なのだろう。子供たちにとっては少し深いタイプのものになっている。溺れている子がいないか、常にここから様子が見えるようにもなっているようだった。


「え、ああ、みなさん! まずはユニカさんが見本を見せてくれるみたいです。上の階のプールの方に移動しましょうね!」


 先生に連れられ子供達がゾロゾロと連れ立って進んでいくと、見ると集団とはぐれるようにしてじっとしている女の子の姿があった。ほとんどの子供たちは泳ぐのを今か今かと楽しみにしているようにしていたのと反対に、まるでなるべくプールには近づきたくないような。

 どうしたのだろうか、とユニカが近づくと、彼女はスタスタと集団からは距離を取るように歩いて行ってしまった。


「ミュイちゃんです。あの子の名前」


 気づくと、子供達の引率を終えた先生が戻ってきていた。


「あの子、どうしても潜るのが怖いみたいで。水は苦手じゃないみたいなんですけど。海の生き物は好きなんです。特にペンギンは大好きみたいで」

「そうなんですね」


 確かに他の子供達は様子が違っていた。


「あの、改めて今日はありがとうございます。こんな無理なお願いを聞いていただいて」


 先生が申し訳なさそうに頭を下げた。


「え、あ、いえいえ」

「ユニカさんの人気はすごいんですよ。もうみんなあの"人鳥姫"マークをいろんなところで見ると盛り上がってしまって。私も持ってますよ、シール」

「そ、そうですか……」


 確かにトップになってからは探査のための船の改造費用のため、たくさんスポンサー契約をした。それによって、気づけば彼女は今や、かつてアイドルと呼ばれたもののような扱いを受けている。


「みんな、ダイバーになりたい!って言って聞かないんです。僕が先に遺跡を見つけるんだー!とか。やっぱり、ユニカさんは子供たちに取ってはヒーローみたいなものなんですよ。ちょっと前までは、みんなダイビングなんて嫌いだー、って大変だったんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ、みんな、その、親がダイバーや海中探査に従事する方が多いので。そのせいで、あの子たちもなかなか親とも会えないですから」


 残された各地の陸地は人の住む集落、コロニーとなっているが、働き口は陸地にはほとんどない。この小さなコロニーだと尚更だろう。必然的に海への出稼ぎが必要になってしまう。そんな環境では、親やダイバーを嫌いになる子が出てきてもおかしくはない。


「代わりにしばらく私やこの施設で預かっている子も多いです。仕事柄、帰って来れない人も多いですし。だからこそではないですが、これから大きくなるあの子たちには、たとえ一人でも生きていくのに困らない術を身につけてほしいと思ってるんです」


 プロダイバーになってから、ほとんど人と関わりの少なかったユニカにとっては、初めて知ることばかりだった。

 なぜだか少しだけ子供の頃を思い出した。全然環境は違うのに。ユニカはロアンがこの施設からの依頼を請け負った理由が、少しだけわかった気がした。



「えっと、潜る時はこう思いっきりどーんと潜って。あ、その時は目は開けちゃダメね。で、こう水の中に手を差し込むようにして切って、そうすると水の流れが推進力になって自然と体進んでいきます。そうすると、自然と体はエンジンのついた船みたいに進んでいくの。あとは進行方向を制御して体と手のひらを傾ける。どう、わかったかな?」


 プールに潜り、お手本を見せた後、ユニカはそんな言葉で子供たちに泳ぎ方を説明した。さっきまでの喧騒とは違い、みんな不思議そうな顔でポカーンとしている。

 何か私へんなこと言っただろうか?


「まあ、いいや、まずはみんな泳いでみるところから……」

『やっほぉー!」


 と声が聞こえてきた瞬間に子供達が一斉に飛び込んだ。水飛沫が一気に上がる。


「あー、深いんだからいきなり飛び込んじゃダメだって言ったでしょ!」


 と先生は言いながら、水を掛け合っている子たちを追いかけていた。しかし、子供達に水を駆られて、逆に追い返されてもいる。大変そうだ。

 ユニカは一旦潜り、溺れていない子がいないかを確認する。みるとみんな器用に足をばたつかせ、浮いている。もう潜って自由に泳ぐ子も多い。親の影響だろうか、水にも潜ることに慣れている子が多いのだろう。どうりで水中に対する恐怖がないと思った。

 さっきまではユニカのことに興味津々だった子も、気づけば泳ぎや潜ることを夢中になって、彼女のことなど忘れているようだった。子供たちの反応は正直だ。

 もう自分が教えることもないのでは、と思い、彼女は顔を水面から上げた。

 見渡すと、あのミュイと呼ばれていた子がプールに入ろうとして躊躇しているのが目に入った。気づくとチラッとこっちを見ている。目が合った。気まずい。

 ユニカはそのまま彼女に近づき、プールから上がると、できるだけ優しい声を作って話しかけた。


「あ、ミュイ……ちゃん? どうしたの、かな? 入らないの?」

「うん。えと、あの」


 彼女は恥ずかしそうに頭を伏せ一歩下がった。水泳帽に小さな白黒の丸いバッチがついているのが目に入った。見るとペンギン、それも私の"人鳥姫"のトレードマークだった。


「ミュイちゃん、ペンギン好き?」

「あ、はい」

「ペンギンのどんなところが好きなの?」

「えっと、黒くて丸っこいところ。あと、ちょっと不器用そうに歩くところが好きです」

「私も好き。あのでっぷりしたところとかね。あの子達よちよち歩くくせに獲物を見るとすごい速さで進むんだから」

「そうなんです! ペンギン、一度は本物を見てみたくて。ユニカさんはペンギンをたくさん見たことありますか?」

「しょっちゅう。ミュイちゃんはない?」

「うん。みんな陸には上がってきてくれないから」


 海が全てを満たしてから、ペンギンが陸に上がることは少ないと聞く。ユニカも思い返すと水中で見かけるペンギンがほとんどだ。人のコロニー近くには滅多に見かけない。

 

「ダイビングができるようになれば、たくさんペンギン見れるよ」

「本当?」

「うん。なんなら人より多いよ。私はペンギンの友達が多いから」


 むしろ人間の知り合いの方が少ないぐらいだ。仕事以外の友人はほとんどいない。ペンギンたちは仕事中にもよく出会うけれど。


「でも、私。いつも、練習でも上手く泳げないの。水の中に顔をつけると、怖くて。目が開けられないの。お母さんと違って、上手く潜れない」

「お母さんはダイバーなんだ」

「そう、ユニカさんみたいにランキングに載ったことはないけど。世界中を旅してるの。いつも忙しくて、あんまり泳ぎも教えてもらえなくて」


 そういうとミュイはさらに頭を伏せてしまった。


「もしかして、お母さん、嫌い?」

「そんなことない! でも、お母さんには心配をかけたくなくて。私、もう立派に泳げるって見せてあげなきゃいけないの。みんなはもうあんなに潜れるのに。私だけ上手く泳げない」


 思ったより、強い意識があるなと、ユニカは思った。

 どんな時でも、まずは一人で生きようとする意思はこの海に沈んだ世界では一番必要とされる意識だ。今の環境なりに彼女も戦おうとしているのだろう。


「ユニカさんはペンギンから泳ぎを教わったんですよね?」

「あー、あの時の話、聞いてたんだ。うんそう。そうね」

「どうやってペンギンの先生を見つけたの?」

「先生というか、うーん、そうね。私にとってはペンギンは親であり家族だったの。あの子達が私を救ってくれた」


 世界が海に沈んでから半年もした頃、ユニカは浜辺にいるところを近くのコロニーの人に発見された。ペンギンの群れに囲われた彼女は、まるでペンギンのように口に魚を咥えていたという。

 ペンギンに助けられ、ペンギンに育てられた子。

 生活インフラを取り戻し始めていた世界では、まるで海の申し子のような彼女を連日メディアで取り上げた。そんな彼女のことを"人鳥姫"なんて呼ぶようになったのはその頃だ。

 明るい話題もない世界にとって、そんな奇跡の話題が希望の一つとなり、人々の目を釘付けにしていった。彼女を保護した団体以外にも、連日ユニカの今後をサポートしたいと、たくさんの支援の申し出があった。

 荒廃した世界の眼差しに晒され、彼女は徐々に人の文化や行動を学び、言葉を覚え、ペンギンから人に成っていった。

 ある時、言葉を覚えた彼女に、過去にのことを聞くインタビューに注目が集まった。しかし、彼女は保護されるまでのことを話すことはできなかった。元からなのか、もしくは大洪水に流されたショックか、ペンギンたちと住んでいた時期より前の記憶はなかった。

 彼女の過去や正体がわからないまま時は過ぎていく。しばらくして、人々が人鳥姫という希望に慣れ、別の希望へ移り、飽きてきた頃。

 人々は彼女のことを徐々に忘れていった。同時に、小さな彼女の支援を申し出る人も減っていった。インフラが戻りつつあると言っても、自分たちのことで精一杯の世の中だった。困窮は続いている。徐々に彼女に希望を抱いた人は去っていき、気づけば彼女は一人になっていた。


「泳ぎは教えてもらえたけど、私も一人で潜らなきゃいけなくなったの。ほら、ペンギンたちも大人になると、自分から進んで潜るようになるでしょ。それと一緒。自分で餌を探して生きていかなくちゃいけない。あなたと一緒ね」


 ふと脳裏に保護される前の記憶が蘇った。後ろに並ぶ不安そうな子ペンギン達に押されなが、水面をじっと見つめる。怖い、と言う言葉もわからなかったあの頃、それでも私は自分の過去が沈んでいるであろう、その海の中に飛び込んだ。生きるためでもあり、それ以上に、そこにある糸口を目指して。

 あの日、私は蒼に潜ることを選んだ。


 遠くから先生の、ちょっと休憩にしましょうかー!という声が聞こえた。周りの子供達は次第にプールから上がり、下の階に降りていく。先生が横切る際に心配そうにこちらに近づいてきたので、ユニカは大丈夫、と目で合図をした。

 気づけばプールには誰もいなくなっていた。

 

「そうだ。ペンギンってさ、獲物が水中にいるのを見つけると、そこに向かって脇目も振らず突き進むの。例え自分を食べちゃうような生き物がいるかもしれない海でも。一度標的を定めたら、恐れを忘れて、自分から飛び込む」


 それがゴールと決めたかのように、まっすぐと。

 ユニカは立ち上がり、ミュイに手を差し伸べた。ミュイは手を取り、立ち上がった。


「だから、あなたもまずなにを目指して潜るか、目標を決めてごらん。それが上手く潜る秘訣」

「目標?」


 そう言ってミュイは考え込み始めた。その横を通りユニカはプールへと入る。そしてじっと水面を見つめる彼女のことを見守って待った。


「お母さん」


 ミュイは小さくそう声を発した。


「お母さんに心配させたくない。でも、それ以上に、私、追いかけたい。お母さんと一緒に、潜りたい」

「そう、それがミュイちゃんの目標?」

「多分……、いやそう、そう!」


 彼女は勇気を振り絞ってそう叫ぶと、一気に水面へと飛び込んだ。

 水飛沫が小さく上がる。ミュイは小さな足をばたつかせて、しっかりとバランスを取っている。目は水面ではなく、その先を見ている。その姿を見てユニカは、もう大丈夫だろうと思った。ちゃんと見えてる。


「じゃあ、それが目標なら、潜れるようにならなきゃ。なんなら、お母さんを追い越せるぐらい」

「う、うん!」

「じゃあ、下、潜るよ。まずは深く潜ろうと思わないで、お母さんが先にいると思って、それをただ追いかけて、掴もうと思って進んでみるの。じゃあ、いくよ」


 そうユニカは語りかけ、先に潜った。青いプールの底がすぐ見える。でも、海とは違くて浅いプールでも、ミュイにとっては未知の深い底だろう。

 見上げると、ミュイが追って潜ってくる。ぐっと瞑っていた目を開けると、目標を探すかのように周りを見渡し、そしてユニカを見つけた。そしてそのもっと先、きっと彼女の目標に目を向けて、彼女は足をばたつかせ、手を差し込み水を切る。徐々に推進力を生むように、すーと、抵抗感を失ったかのように進む。そして徐々に、徐々にだが、彼女は潜っていった。

 ねえ見て、私泳いでる!と言わんばかりの驚きと笑顔の表情をミュイが見せる。その時、彼女は何かに気づいたようにプールの側面のガラスの壁を指差した。その先には、休憩中の子供達が応援するようにこちらを見ていた。声は聞こえないが、きっと、ミュイのことをずっと応援してくれていたのだろう。

 声を出せないミュイは恥ずかしながらも、でも今度は嬉しそうにそちらに手を振り返していた。そんな彼女の姿を、どこか懐かしさを覚えて見つめていると、ふと光の反射の影響か、窓に大きな影が映った。なんだろうと体を捻って、水を切ってガラスの方に近づく。手のひらを返し、ブレーキをかけ、無駄なくスピードを落とす。

 その動きは、一瞬、あの記憶に重なった。

 心に焼きつく、あの大きな幻のペンギンの姿に。

 いや、それは。徐々に目が光になれ、影が次第に色を帯びると、そこに映っていたのは大きなペンギンのような、ユニカの姿だった。

 自分の泳いでいる姿なんて最近全然見ていなかった。プロダイバーになってから泳ぎ方なんて振り返りもしない。

 見慣れているようで新鮮な自身の泳ぐ姿を見ていたら、徐々に記憶が輪郭を帯び始めた。ぼんやりと泡沫のように揺れて掴めなかった、あの日のこと。

 そうだ。あの日は、行ったのだ。水族館に。お父さんとお母さんに連れられて。

 ショーをどうしても見たいとわがままを言った。ペンギンのショーを。チケットを片手に、大きな窓からプールの底を見つめる。ドーム上の天井がガラスになっているスペースだった。その上を、あの大きな幻のペンギンが泳いでいく。いや、お演技んじゃない。ダイバースーツを着た飼育員なのかダイバーなのか、ショーでペンギンたちと優雅に泳ぐその姿は、次第に真上から横に移動し、ペンギンたちを伴って目の前に無駄なくブレーキをかけて止まった。誰よりも、ペンギンたち以上に、水の中を浮いているような不思議な動き。

 私はその姿に憧れた。その後の記憶はまたはっきりとしない。すぐ大洪水が起こったのか、それとももっと後なのか。それに、お父さんとお母さんの顔もまたはっきりしない。それでもずっと掴めなかった過去への糸口が、今少し見えた。

 それに。

 ずっと記憶の中にあったもの。幻のペンギンの正体。その理由。

 人鳥姫と呼ばれるのがあまり好きではなかった。私に私じゃない何かを重ねて人が希望を抱くから。でも、期待から人鳥姫と呼ばれた少女は、幻のペンギンを追って、自分の翼でその幻にいつの間にか近づき、また人鳥姫と呼ばれるように成った。

 憧れを背負い、追いかけたペンギンに私は追いつけたのかもしれない。それなら。

 人鳥姫という名前も悪くはないな、とユニカは思い、笑った。



「ユニカさん、私、潜れた、ゴホゴホ」

「ほら気をつけて。泳いでいる時は喋っちゃダメ」


 水から上がって後、興奮冷めやらないと言った感じで焦るミュイに声をかけながら、ユニカは彼女の背中をさすった。


「あれ、ユニカさん、どうしたの?」

「うん?」

「なんか楽しそうな目をしてる」


 言われて、ユニカは自分が無意識に顔が崩れていたのに気づいた。つい、目標が見つかると嬉しくなって笑ってしまう。


「そうね。私も次の目標、さっき決めたから」

「え、なんですか?」

「水族館を見つけるの」

「スイゾクカン?」

「そう。とっても素敵な場所だったところ。私のずっと探していたものもそこにあった。それに、ペンギンたちもそこにいっぱいいたの」

「え、私も、私もいけるかな? お母さんと一緒に」

「そうね、今のあなたなら、きっと来れると思う」


 ユニカは立ち上がり、手のひらを組んで背を伸ばした。


「だから、私がまず見つけておいてあげる」



「ねえ、ロアン。ちょっとまた休暇をもらっていいかしら?」

「えー、もっと休んだ方が……ってええ? どうしたの急に」

「ちょっと見つけたい獲物が見つかってね」


 スイミング教室を名残惜しく終えてすぐ、ユニカは船を出して海に出ていた。待っている時間が惜しい。

 ガタガタと揺れていた船が動きを止めた。目標地点についたようだ。


「ふーん。で、いつから?」

「すぐ。というか今、もう潜るから」

「いきなりだねー」

「そりゃ、誰よりも先に私が見つけるんだから。ファーストペンギンって言葉知らないの?」


 そう言いながら、ユニカは立ち上がり、スーツに袖を通した。体が黒に包まれる。手と腹には白いライン。カラーリングはペンギンのそれだ。

 船の端に立つと、光を反射する綺麗な水面が漂っているのが目に入る。しかし、知っている。この海には全てを黒く塗りつぶす怖さがあることを。それでも。


「よし、まずはこの区域から。あの水族館は特徴的な入り口をしていたはず」


 そう、だからきっとすぐ見つけ出せる。

 水面の先。彼女の記憶のもっと先。その目標の導となる、新しい獲物を目指して。

 人鳥姫は槍のように海へと潜っていく。


 <了>

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人鳥姫 蒼井どんぐり @kiyossy

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