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 髪の毛が汚れている気がして、不快感があったので、置いてあったシャンプーを適当に借りた。Aesopのシャンプーだった。「e」の文字の上に横棒がついている。鏡を見ながら頭皮をこすった。泡立ちが足りない気がして、追加で数度プッシュした。

 だんだんほかの箇所も気になりだして、結局トリートメント、洗顔料、ボディソープを用いて、全身を隅々まで洗った。

 石けんはどれも高そうな容器に入っていて、何ともいえないよい香りがした。とくにトリートメントは素晴らしかった。

 お風呂、沸かしてるからねと言われていたが、何か得体の知れないものを感じて、ただの考えすぎなのかもしれなかったけど、ハヌカはかたくなに入ろうとしなかった。わずかにバスタブのふたをずらすと、前もって入浴剤を溶かしていたようで、水面が薄緑色に染まっていた。


 バスルームから戻った。薫梨さんはソファに横たわって、大きなスクリーンで、たぶんNetflixオリジナルだと思うが、韓国ドラマを視聴していた。下部に日本語字幕が流れている。文字が小さすぎて、ここからは見えない。しゃべっている韓国語もさっぱりわからず、ハヌカにはあらすじが掴めなかった。

 お風呂はどうだったと聞かれ、よかったです、ありがとうとハヌカは礼を言った。手招きされて、ハヌカもソファに腰を下ろした。薫梨さんは相変わらず寝そべったままだったが、それでもスペースが余るほどのソファだ。ベージュの革張りで、どこまでも沈み込んでいくように柔らかかった。

 石けんを無断で使用したことは言わないでおいた。部屋着のサイズは不思議とぴったりだった。ドライヤーがどこにあるかわからなかったので、まだ半乾きという状態だった。薫梨さんは顔を埋めてきて、津田くん、いい匂いがするねと言った。


 薫梨さんの自宅は、想像していたよりずっと広かった。奈央さんもたいがいだと感じていたが、正直いって、それをはるかに上回っている。1LDKどころの話ではない。いったい何部屋あるのか、ハヌカには把握できない。とりあえず確認できた範囲だけでいうと、少なくとも五つの部屋があるようだった。

 これまでは、会うときはかならずラブホテルに寄っていた。もしくは現地解散だった。だから、薫梨さんの自宅に来たのは今日が初めてだった。

 専用のカードキーで開く扉で、ロビー階にはコンシェルジュもいて、ただし現時刻は遅いのでかかりの姿はなかった。駐車場は地下にある。予約すればハイヤーを出してもらえるのだという。


 韓国ドラマが終了すると、薫梨さんは腹筋を使って起き上がり、空腹ではないかと尋ねてきた。さっき焼肉弁当を食べたばかりだとは言いだせず、ハヌカは曖昧あいまいに首肯した。

 しばらくすると、スパークリングワインと、クラッカーが出てきた。小樽のワインだよと説明されたが、小樽というのが具体的に何を指すのか、それはわからなかった。ワインは非常に飲みやすく、マスカットのような甘い味がした。クラッカーは塩が効いていておいしかった。

 用意されたワインはハーフボトルというやつで、量が少なかったので、二人がかりで、三十分足らずで飲み終わってしまった。薫梨さんはクラッカーをかじりながら、わたし、津田くんのことずっと考えてたんだよと言った。どこに考えるポイントがあったのか、さっぱりわからなかったが、ハヌカは「うん」と返事した。それよりも、先ほどから股間を執拗しつように撫でられていて、そのせいで気が散ってしょうがなかった。


「これまで何してたの? ずっと忙しかった? 忙しかったのかな。次の予定もなかなか決めてくれないし、わたしが電話しても全然出ないし、ああそうだ、この前インスタに女の子とのツーショット、上げてたでしょう。ねえ、あれって誰かな。津田くん、内緒ないしょにしてるみたいだけど、ほかにもセックスの相手、本当はいるでしょう? 何人くらいだろうね。たぶん三人よりは多いよね。でも十人ってことはないかな。四人か五人か六人かな。どう、合ってる? ああいうのは避けたほうがいいんじゃないかな。嫉妬しっとされちゃうと思うから。あと未読スルーするのも止めたほうがいい」

「ごめん」とハヌカは言った。薫梨さんは表情を崩さなかった。それから、ADの仕事はどう、少しは慣れた? と真顔で質問してきた。うん、慣れたけどやっぱり力仕事だから体力が必要だね、遅くまで収録が長引くこともあるし、あとデスクワークが多いから腰がちょっと痛いかも、とハヌカは努めて冷静に答えた。


「それじゃあマッサージしてあげる」

 ソファにうつ伏せになるよう指示され、ハヌカはそれに従った。拒否しないほうがいい気がしたのだ。背後で薫梨さんが何やらガサゴソと物音を立てている。うつ伏せになるように言われているため、振り返ることはできず、彼女が何をしているのかはわからない。

 やがて薫梨さんがそばに戻ってきた。じっとこちらを見下ろしているのが、気配だけでわかる。いきなり肩甲骨のあたりを強く押された。途端に激痛が走ったが、マッサージというのは案外こんなものかと思って耐えた。痛くないかと聞かれて、うん、気持ちいいよとハヌカは答えた。

 十五分ほど続いたころ、不意に薫梨さんの右手が、ハヌカの下着の中にするりと入ってきた。ハヌカは身を震わせた。とっさに何か言おうとして、こういうシチュエーションで何を言うのが正解なんだと逡巡しゅんじゅんし、だがいつまで経っても答えが湧いてこなかったので、結局黙ったままでいた。


 薫梨さんに手を引かれ、寝室に連れていかれた。嗅いだことのないお香がかれていて、ライトも足りていない気がする。薫梨さんは、お香について、優れたリラックス効果があるのだと説明してくれたが、本当にこれでリラックスできるとは思えなかった。香りが何というか、妙な感じなのだ。

 部屋の中央に置かれたベッドは、どう見てもシングルサイズではなく、キングサイズとかそういうレベルなのかもしれなかった。かなり幅を取っているので、そのぶん存在感がある。

 壁の出っ張りの部分に、ハンガーとともに、例のプラダのコートがかけられていた。最初のデートで彼女が着てきたものだ。こんなところに置いていたら、お香の匂いが移ってしまうのではないかとぼんやり考えた。ほとんど押し倒されるようにベッドに寝かされ、薫梨さんが上から覆い被さってくる。


 ハヌカがコンドームに手を伸ばすと、薫梨さんはそれを制止した。「今日、安全な日だから」本当かどうか、判断しかねた。万が一、妊娠させてしまったら、相当それは厄介やっかいなことになる。ふたたびハヌカはコンドームをつけようとしたが、薫梨さんは大丈夫だと言って譲らなかった。

 セックスを中断しようかとも思ったが、最終的には、薫梨さんの言うとおりにした。挿入するときは緊張した。

 コンドームをつけないほうが気持ちいいかといわれれば、確かにこっちのほうが気持ちいいかもしれなかったが、だからといって特別な差があるわけでもなく、それより妊娠の可能性に怯えるあまり、ハヌカはうまく集中できなかった。

 ちらっと時計を見ると、オーガズムに達するまでに、普段の倍以上の時間がかかっていた。ちょうどハヌカが射精したとき、部屋中に電話の呼び出し音が鳴り響いた。


 薫梨さんかと思ったが、「あれ、わたしじゃないよ」彼女にそう言われて、ハヌカは自分のスマホを見やった。着信が来ているのは自分だった。知らない電話番号からだ。誰だろう、と思った。

 ハヌカは頭の中を探るように思案した。はっと思い出したが、それは実家の番号だった。LINEを削除していたので、普通のダイヤルでかけてきたのだろう。「出なくていいの?」薫梨さんに言われたが、大丈夫だと答えて放置した。

 設定を機内モードにして、ハヌカは、スマホをそっと伏せた。

 トイレに行ってもいいかな、と薫梨さんに聞いた。うんいいよ、ここを出て右に曲がった突き当たりにあるから、と教えてもらった。


 鍵をかけて便座に腰を下ろした。下半身の力を抜くと、尿がを描くように流れだす。用を足しながら、なぜ両親は電話をかけてきたのかと、ハヌカはわりと真剣に考えてみた。

 もしかしたら身内が病気になったのかもしれないし、あるいは事故にったのかもしれない。さらにひどい場合、生死の境をさまよっているという事態もありえる。父親か母親のどちらかが危篤きとくで、もう片方が電話をかけてきた可能性もありそうだった。

 だがもっと違うパターンがあるかもしれない。たとえば祖父か祖母が節目を迎えたとか、近いうちに誰かの結婚式がおこなわれるとか、親戚に赤ん坊が生まれたとかだったら、それはハッピーな知らせだ。

 しかし考えれば考えるほど、それは今や自分にとって、まったく何の関係もないことだという気がしてならなかった。はっきりいって、どうでもいいし、関わりたくない。そして、この気持ちは今後も変わることはないだろうという予感もあった。


 両親のアドレスを着信拒否し、念のため叔父や叔母、いとこもブロックしておいた。薫梨さんのもとに帰った。彼女はTikTokを見ていたが、ハヌカの姿を認めると、それをめてスマホごとオフにした。

 おかえり、と言われ、ハヌカはただいま、と返した。満足げな薫梨さんを見て、ぶわっと嫌気が差した。ハヌカはおもむろにパンツを穿いた。そして帰り支度を始めた。

 そもそもハヌカは、他人と添い寝をするのがいやだった。なぜいやなのかというと、相手を起こさないように気をつかわなければいけないからで、だいいち他人の寝具だと落ち着かないし、ようするにまるで休んだ気がしないのだ。

 あれどうしたの、と薫梨さんに心配そうに聞かれ、ロケ撮影で朝一番のフライトに乗らなければいけないのだと言い訳した。どこに行くの? と続け様に聞かれて、ハヌカは「能登だよ」と吐き捨てるように言った。被災地に取材しにいくから、とさらに嘘を重ねた。薫梨さんは、そうなんだと言った。


 JR山手線から始発に乗り、じきにアパートに着いた。いつものようにPCを開く。Gmailに更新があった。仕事のメールだけを選んで開封していく。必要なものには返信を打ち、ピンで留めたりした。

 メールが終わったあとは、いつも、次に記事の執筆をしている。ハヌカは、ブラウザから運営ブログを開いた。アフィリエイトにはコツがあって、たとえばタイトルを過激なものにすればPV数を集められたりと、いくつかの要点を押さえることで簡単に集客できる。

 記事のネタを考案しているうち、ふと脳裏にカワウソのことが浮かび、そこから連想ゲームのように全体の筋立てが決まった。奈央さんのアカウントを思い出し、写真を何枚か勝手に転載した。いちおう引用元を載せておいたが、もしクレームが来たとしても、あとから消せばいいだけだと考えた。


 ブログの片手間に、陽菜さんと碧さんに、メッセージを送る。今日このあと会えないか、時間はいつでも構わない、という内容だ。

 五分後、碧さんのほうから返信があり、午後からはフリーなので可能だという。陽菜さんに送信したメッセージを取り消し、碧さんには、それではランチをいっしょに食べようと追記した。

 それから茜音さんに、来週のどこかで都合のいい曜日はあるかと連絡した。茜音さんはいつも返信が遅いので、おそらく返ってくるのは明日以降だろう。

 メッセージアプリを閉じ、その手でTinderを開いた。すべてのユーザを右にスワイプしていく。Tinderのいい点はいろいろあるが、一つは、気軽に出会いやすいところだ。さっそく、佳奈子かなこという二十二歳の女性とマッチした。遊び歩いているタイプには見えず、容貌もけっこう地味だし、どちらかというと清楚な感じがした。



  * * *



【参考文献】

Pat Morris and Amy-Jane Beer著、鈴木聡訳、本川雅治監訳『知られざる動物の世界8 小型肉食獣のなかま』朝倉書店、2013年


Yahoo!ニュース『なぜ「カワウソ」は賢いのか〜実験でわかった彼らの社会学習』(4月16日閲覧)

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/175a3d93dc7d39275c5ab64168ad993b94392c3e


サンシャインシティ『コツメカワウソの生態と魅力がわかる「カワウソたちの水辺」へ!』(4月16日閲覧)

https://sunshinecity.jp/aquarium/animals/kawauso.html

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ハヌカ 内田ウ3 @u3_uchida

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