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授業終了のブザーと同時に、まっ先にドアから退室した。休憩中もわざわざ教室に残って会話する生徒もいるようだが、ハヌカには到底理解できない。
素早く中庭を抜けて、正面の道路に出る。まだ人けも少ない。そばには警備員だけが立っている。会釈されたので、軽く頭を下げた。
キャンパスから表参道は近く、電車を経由すればセンター街にも行けた。ハヌカの通っている大学にはそういうブランド価値があって、世間では「オシャレで品のいい私立学校」というイメージで知られていた。
Google Mapsを頼りに、目的の駅に入る。普段は使わないホームなので、少し手間取った。案内図を見ないとうまく移動できなかった。
改札にICカードをかざすと料金不足と表示され、ハヌカはチャージの列に並んだ。携帯を取り出して、ちょっと遅れるかも、ごめんね、と
ハヌカは同時に四、五人とやり取りしていた。一人は奈央さんといって、化粧品ブランドの美容部員をやっている人だった。
あとは
毎日のように、ハヌカは、誰かしらと約束を取りつけた。
とはいえ、恋人にまで発展することはなく、だから余計に、マッチングアプリを
いろんな場所にデートにも訪れたが、いったいデートの何が楽しいのか、それはまだ全然わからなかった。会うためだけに会っている気もした。
そんなことを続けていると、ときどき、何となく面倒くさくなる。ハヌカはしょっちゅう予定を直前でキャンセルした。いちおう謝罪のLINEを入れるが、相手が怒った様子だと、連絡先をすぐにブロックする。罪悪感はなかった。マジメに人間関係をやっているほうがバカだという気持ちがあった。
銀座線で新宿まで行き、浅草線に乗り換えて、品川で降りた。黒っぽい雲が上空を覆っていた。ハートを無理やり縦に引き伸ばしたようなオブジェがあり、そのすぐ下に奈央さんが立っていた。
奈央さんはスマホで何かのゲームをやっていて、ハヌカが近づくとそれを中断し、さっとバッグの中に
それから二人で、アクアパーク品川に向かった。ここからは目と鼻の先だ。チケットはすでにウェブで購入しているという。奈央さんが案内してくれた。
アクアパーク品川とは、最新のデジタルテクノロジーを
「コツメカワウソって知ってます? 日本で見られるカワウソっていうと、コツメカワウソ、ツメナシカワウソ、ユーラシアカワウソ、カナダカワウソの四種類がいるんですが、コツメが最も小柄なんです。ちっちゃくて愛らしいんですよ。手足には水掻きがついてて、スイミングが得意です。爪は、名前のとおり、極めて短いです。そうそう、あの、ラッコっているじゃないですか。お腹の上で貝を叩き割るやつ。あれも実はカワウソの仲間なんです。ただし分類がちょっと違うんですよね。たとえるなら、うーん、そうですね、お正月にだけ会う親戚みたいな感じですかね」
エントランスから入場したあと、熱帯魚やクラゲを鑑賞し、上の階に移動した。オットセイやペンギンなどの、動物のエリアだ。ルートに沿って進んでいく。客足が多く、どうやらここが一番人気らしい。
奈央さんはコツメカワウソが大好きで、どれくらい好きかというと、ここの年間パスポートを買うほど好きなのだという。週末に訪れるのはいつもの話で、有給を使って見にくることもあるそうだ。
「いったんパートナーになると、コツメカワウソは、絶対に別れないんです。基本、死ぬまでいっしょにいます。これは、驚くべきことだという気がしますよね。つまり浮気とか不倫とか、そういうことがない世界ですからね。コツメには、絶滅のリスクがあって、森林破壊や密猟が原因なんですが、ただ、オスがたくさんのメスと交尾して、むちゃくちゃに子孫を増やしていった場合、どうなるんだろうという疑問は残ります。文字どおり子孫繁栄するのか、いや案外そんなこともないのかな。リアルなら絶対に許されないと思いますけどね。カワウソは、というか動物は、浮気されたときにショックを感じるのか、そこのところは、まあわからないんですけど」
へえそうなんだ、とハヌカは相づちを打った。奈央さんはガラスに鼻を押しつける勢いでコツメカワウソを観察している。早く先に進んだほうがいいのではないか、そう思ったが、彼女は相変わらずカワウソコーナーに立ち尽くしていた。動きだす様子もない。
コツメカワウソにはもちろん、勝手に芸をしだすとか、そういったサービス精神はないので、
奈央さんはNikonの一眼レフを持参していて、続け様にシャッターを切った。専用のアカウントがあって、そこにアップするのだという。フォロワーが二千人
奈央さんはよく研究していて、どういう角度で撮ればいいねが増えるか、どんなポーズが好まれやすいか、
「あとコツメカワウソは、オスよりもメスのほうが、タスクマネジメント能力が優れてるんです。タスクマネジメント能力は、獲物を効率よく捕まえたり、
奈央さんの
カワウソって飼ったりできるのかな、やっとハヌカがそう言うと、奈央さんはくすくすと笑い、飼うなんて絶対無理ですよ、信じられないくらいハードルが高いんだからと言った。
*
セックスのあと、奈央さんは一瞬で眠りについた。隣から寝息が聞こえてくる。窓の向こうで、豪雨というほどではないが、ぽつぽつと雨が降っていた。ハヌカは寝れなかった。昼夜逆転型だからだ。
奈央さんの自宅は目黒区にあった。何の変哲もない1LDKという感じだ。七階の角部屋で、入り口はオートロック付きだった。
それにしても、たった一人で暮らしているというのになぜリビングとダイニングと一間が必要なのか、ハヌカには意味不明だった。こんなにたくさん部屋はいらないだろうと思った。スーモで検索すると、何と家賃は二十万円を超えていた。ハヌカは目まいがするようだった。
キッチンに移動し、冷蔵庫を開けて、ペットボトルのお茶を勝手に飲んだ。ペットボトルには「お〜いお茶」とあった。ベルキューブのチーズが冷やされていたので、そこから二、三個つまんだ。ゴミはバレないよう、ゴミ箱の奥底のほうに捨てておいた。
戸棚を開けるとクッキーの缶があり、ココナッツ味と黒ゴマ味のものをポケットに入れた。隣にゴディバのマカロンがあったので、それもついでに取った。
洗面所で、新品の歯ブラシを見つけてきて、歯磨き粉をたっぷりつけ、念入りに歯を磨いた。
リビングに戻ると、テレビがつけっぱなしになっていることに気づいた。海外ドラマのようだが詳しくないので何が何だかよくわからない。アメリカ人なのかイギリス人なのかフランス人なのかの区別もつかない。やってきた男が若い女を殴るシーンで、ハヌカは電源を落とした。
数時間前——アクアパーク品川からタクシーで帰り、奈央さんのマンションに着いたあと、いっしょにテレビを観た。そのときは確か、テレビ朝日のバラエティ番組だった。テレビ番組を観るのはなかなかどうして久しぶりだった。ハヌカの家にはTVモニタがないからだ。
バラエティ番組を観ながら、奈央さんはよく笑った。毎回、スタジオの観客が笑いだすよりも、ほんの数秒だけ早く笑う。奈央さん
CMに入ると、奈央さんはふっと真剣な表情に変わった。緊張した様子でハヌカに向き直る。そして、わたしたち、お付き合いしませんかと
二人で叙々苑の弁当を食べた。食べ終わるとベッドに移動し、どちらから言いだすともなくセックスを始めた。これまで会ってきたどの女性よりも、奈央さんは動き方が抜群に
ベッドで眠っている奈央さんの横顔を見る。髪の毛にはツヤがあり、肌荒れもない。すっぴんだったが、頬を触ると
いつだったか、美容部員って何をするの? とハヌカが聞いたとき、各々に合ったスキンケアのやり方を解説したり、新作のコスメを勧めたり、裏で在庫の数も管理するし、空いている時間で事務作業やメールも
静かにベッドから降りる。ハヌカはそれから、手早く服を着替えはじめた。自分の荷物をまとめる。逃げるなら今しかチャンスはないと思った。これは告白されてからずっと考えていたことだが、さすがにもう潮時なんじゃないかという気がしていたのだ。
カップルになれば毎日どうでもいい連絡を取りあうだろうし、ヒマさえあれば遊びに出かけようと誘われる。ハヌカは一人の時間をちゃんと確保したいタイプなので、正直あまり頻繁に誘われても困る。また、ほかの女性たちは切る必要があるし、当然ながらマッチングアプリも止めざるをえない。それはハヌカにとって不本意なことだった。
玄関からそっと廊下に出た。ボタンを押してエレベーターを呼ぶ。エレベーターで降下しながら、LINEやInstagramなど、すべての連絡先を削除していった。Tinderのマッチも解除した。最後にマンションを見上げ、やっぱり何の変哲もないなと思った。
あたりは真っ暗だった。すでに終電後で、ハヌカには行くあてがなかった。どうしようもないので、意を決して、傘も差さずに歩きだした。
雨足は徐々に強くなった。向こう側にファミマを発見し、傘を買おうかなと考えたが、もう濡れているのだから今さら買っても無駄だと思い直して止めた。
ファミマを通り過ぎると、背後からクラクションが短く鳴った。慌てて振り返った。黒いクラウンだ。ぴったりとくっつくように、ハヌカの隣を並走する。運転席をよく見ると、その姿は、薫梨さんだった。ハヌカはびっくりした。
助手席の窓が
車内はミント系の刺すような匂いがした。たぶん消臭剤の匂いだろうとハヌカは思った。ハンドタオルを手渡されて、それで頭や肩を
けっこう濡れたんじゃない、風邪引いちゃうよと笑いながら言われた。ハヌカは何かを警戒して、返事をしなかった。それから、二人とも黙った。ワイパーの音だけがする。深夜だからなのか、街を歩いている人が見当たらない。通り過ぎる対向車すらなかった。
後ろに流れていく景色を見ながら、ハヌカは、これはどこに向かっているのだろうという気がしていた。カーナビも切られていて、目的地がわからないのが不気味だった。もしかしたら今すぐここで降ろしてもらったほうがいいのかもしれない。
ハヌカが口を開こうとした瞬間、うちに来たら? と薫梨さんは前方を向いたまま言った。「熱いシャワーを貸してあげる」それがあまりに無表情で、ハヌカはうまく感情を読み取れなかった。
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