ハヌカ

内田ウ3

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 ハヌカは賢い子だ。

 両親からずっと、この子は本当に賢い子だから、と言われながら育った。確かにまわりよりも勉強はできた。体育はイマイチだった。

 あっという間に成人を迎え、ハヌカは高校を卒業した。進学先はMARCHだった。実家を離れることが決まり、春から一人暮らしを始めた。

 実家は都心にあるマンションだったが、ハヌカがあたらしく借りたのは、ごく普通のワンルームだった。築三十年越えの木造アパートだ。狭くてもきっと不自由しないだろう、ハヌカはそう考えていたし、実際に不自由なところは一つもなかった。


 両親に提案された引越ひっこし業者を断り、ハヌカは、スーツケース一つで家を出た。運転免許は持っていなかったので、電車を乗り継いで移動した。

 大家から鍵を受け取って、玄関を抜け、生活感のない部屋をざっと見渡してから、ハヌカはやっと少し満足した。TVモニタやソファ、本棚といった家具は持ってこなかった。ベッドすらなかった。ドンキホーテで寝袋を買ってきて、それにくるまって眠った。それで充分だった。

 異様に物の少ない部屋は、おかげで広々として感じられた。薄暗い天井を見つめながらハヌカは思った。逆に今までのほうが雑然としすぎていたのだ。


 家賃以外は自分でまかなうように言われていたが、ハヌカは、アルバイトのたぐいはいっさいやろうとしなかった。

 自分がマトモに社会と関われるとは思えない。

 求人誌を手に取ることすらしなかった。かわりに、一人でできる仕事はないかと探して、アフィリエイトを始めてみた。最初は軽い気持ちだったが、やってみると面白いくらいに食いつく。そういう才能があるんじゃないかと自分でも思うほどだった。

 毎日のようにアフィリエイト記事をアップし、それ以外はとくに何もしなかった。日中は寝袋に入っていることが多かった。


 大学の授業に関しては、単位を落とさない程度にだけ出席しようと、あらかじめ決めていた。入りたくてこんな大学に入ったわけではない。空きコマが出ないように調整し、週三日に絞って学校に通うことにした。

 残りは、もっぱら家にこもっていた。朝方までウェブサイトをいじり、そのままキャンパスに向かう。昼食はコンビニで済ませた。クラスの誰ともしゃべりたいとは思えなかった。

 授業が終わればまっすぐに帰宅した。教授に質問しにいくとか、まわりとプリントを貸し借りするとか、そんなことはなかった。シャワーを浴び、日付が変わる前には就寝する。その繰り返しだ。

 いったい自分が何のために生きているのか、ハヌカには全然わからなかったし、たとえわかったところでしょうがないだろうという気もしていた。サークルには所属しなかった。単純に興味がなかったからだ。


 運営していたブログが軌道に乗ると、収入はしだいに安定していったが、だからといって気分は晴れなかった。数字の増えていく口座残高を前に、ハヌカは、どうリアクションを取ればいいのか戸惑った。

 とりあえず、両親からの仕送りをLINEでストップし、今後もう二度と連絡は取らないと心に誓った。

 翌月、NetflixやHulu、それとYouTubeの有料会員にも加入した。手続きは一瞬で済んだ。とくに観たいものがあったわけではなく、ただ何となく契約したのだ。親しい友人や恋人もおらず、遊びにもいかないハヌカは、とにかく金が余って仕方なかった。

 Spotifyをダウンロードし、アルゴリズムに勧められるがまま、適当にプレイリストを聴くのが日課になった。


 それからハヌカは、たまに気が向いたとき、Tinderでマッチした人とデタラメに出会うようになった。ちょっとした時間つぶしとか、あくまでそんな感じだった。

 課金するとSuper Likeを送れるので、マッチング率が飛躍的に上がる。メッセージのやり取りも積極的におこなった。

 とはいえ、年代や性別せいべつに特別なこだわりがあったわけではなく、会えそうなユーザには片っ端からアポを取っていた。セックスにはあまり興味がなかった。やってもやらなくてもどちらでもいいかなという感じだった。

 薫梨かおりさんという女性がいた。株とFXとビットコインをやっているみたいな人で、初めに会ったとき、確か十一月ごろだったと思うけど、待ち合わせした渋谷の駅前で、プラダの高級そうなコートを羽織はおっていた。


「あの、津田さんですよね?」

 そう聞かれて、ハヌカは素直に頷いた。津田というのは偽名だった。マッチングアプリで本名を名乗るという人は普通少ない。

 それだけでなく、ハヌカの場合、職業から年齢、趣味、最終学歴などのプロフィールもすべて適当に設定していた。それほど大事なことではないと感じていたからだ。むしろ本当のことを正直に書くユーザなんているのかと疑問を抱いてすらいた。

 お仕事って何されてるんですかと聞かれれば、新卒でテレビ朝日に入ったばかりの新入社員だと自己紹介した。その場で思いついただけのホラ話だ。詳しく質問されると、ADをやってるんです、平然とそう言い放った。


 趣味のいい居酒屋で夕食を取ったあと、自然とラブホテルに入る流れになった。外は日が落ちていて、すっかり暗くなっていた。季節柄、肌寒かった。薫梨さんが先導して進んでいく。その跡を追った。

 部屋に入り、服を脱ごうとしたら、シャワーを浴びましょうかと言われたので、ハヌカはその通りにした。バスルームに向かおうとすると、わたしが先に入りますと遮られた。ハヌカはベッドに腰かけて、大人しく彼女を待った。

 彼女と入れ替わりでお風呂に入った。バスタオルで水気を拭ってから戻ると、薫梨さんはスマホを触っていて、ハヌカに気づくとそれをさっと伏せた。それから、おかえりなさい、と言った。

「うん」

「ただいまとは言ってくれない?」

「ただいま」とハヌカは少し間を置いてから言った。隣に座るように言われ、ハヌカは素直に彼女に従った。距離が近い。突然キスされた。舌の入り込んでくる感触がある。ハヌカは抵抗しなかった。抵抗するほどのことでもないと思ったからだ。


「わたし、世の中のことが全部わかるんです」くちびるをふっと離して、薫梨さんはそう言った。何かを試そうとするような表情だった。ちょっと首をかしげるような感じだ。全部わかるって何なんだよ、ハヌカはそう思った。世の中のこと? と聞き返してみた。

「うん。言われなくても何でもわかってしまうというか」

「へえ」

「この子、おかしなこと言ってるなって思わない? そうは思わないですか」

「いや、べつに思わないけど」ハヌカは嘘をついた。

常軌じょうきを逸した話にはそもそも興味が湧かない?」

 それで、ハヌカは無言で彼女と対峙たいじした。何を考えているのかわからなくて、気味が悪かった。どう返答しても間違いになる気がした。しばらくして、興味、あるよと慎重に答えた。ふたたび三十秒くらい沈黙が続いた。


 目を逸らすのもはばかられて、ほかに目のやり場もなくて、薫梨さんの顔をまじまじと眺めた。改めて見ると、彼女は、顔立ちがよかった。パーツはどれも整っている。鼻や口、両目の距離感とか、それぞれの配置も完璧だと思った。ヘアメイクとかも、きちんとしている印象があった。

 先に口を開いたのは薫梨さんのほうだった。わたしとセックスしたいですか、真顔でそう尋ねてくる。正直したいとは思えなかった。だけど結局、こうするのがベストだと考えて、ハヌカは首を縦に振った。

 薫梨さんは、ぐっと力を入れるように目を細めた。笑っているようにも見える。それから静かにハヌカの身体からだを引き寄せた。

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