ロストエンジェル (天使の化石)
帆尊歩
第1話 ロストエンジェル (天使の化石)
アタシが目を覚ましたのは、どうやら病院らしい。
救急車が呼ばれたくらいまでの記憶はある。
目が覚めた時一番に思ったのは、(なんだ、まだアタシは生きているのか)だった。
それからが本格的な検査の嵐だった。
そして分かった事は、アタシの体はもうどうにもならないと言うこと。
余命は三ヶ月。
アタシは無理やり一次退院をして家に帰った。
死ぬための準備をするためだ。
三日後病院に戻ると、アタシはベッドに倒れ込んだ。
そう、元々一次退院が出来るような状況ではなかったけれど、天涯孤独のアタシの境遇に担当医は渋々許可を出した。
あとは死を待つのみだ。
アタシは六十三だ。
中学のころから、五十年間絵を描き続けてきた。
五十年間、天涯孤独の売れない絵描きを続けた。
もういいかなと思う。
さすがのアタシも、五十年も立てば諦めようという気持ちだって生まれてくる。
「先生、だから言ったでしょう。病院に行きましょうって」
唯一アタシを画家と認める画廊の三代目社長が、怒ったように言う。余命三ヶ月の病室で怒鳴るなよ、とは思ったけれど、この子は本気でアタシのことを心配してくれていた。
「ご迷惑を掛けてごめんなさい。救急車を呼んでくれた彼女にもお礼を言っておいて」
「もっと早い段階で、病院にかかっていたら」
「でもそれでなんになるの、もう十分よ」
「そんな先生」
「あっ、アタシの作品、あなたの画廊にお任せします。売るなり、焼くなり、しまうなり、何なりと」
「先生」
アタシは五十年間天使の絵だけを描いてきた。
五歳の時に、家に天使の絵が掛かっていた。
その天使にアタシは魅せられた。
あの頃はまだ、愛も恋も知らない子供だったので、それがどういう想いだったのか自分でも分らなかった。
アタシはあるとき、踏み台に昇って天使の絵にキスをした。
それがどういう衝動なのかも分らず。
天使と唇で契りを結んだ。
でもそれを目撃した父は、何を思ったのか、絵を焼いてしまった。
「あの絵のことは忘れなさい」父の言葉にアタシは、あがなうことなど出来なかった。
父は何かを感じ取ったのかもしれない。だからアタシは、絵のことなんか忘れたように過ごして来た。
それが中学三年の時に、これが恋なんだという事を知った。
耳年増な同級生の言葉で、語られることを総合すると、アタシはあの絵の中の天使に心を奪われ、そして絵の中の美しい少年の天使に恋をした。
でもその時にはもうあの絵はない。
アタシの中に恋い焦がれる思いだけが大きくなっていった。
でもあるとき気づいたのだ。
絵の中の天使に恋をしたのだから、その絵を再現すればいい。だからアタシはあの天使を再現しようと絵を描き始めた。
中学、高校と進むうち、何枚描いても彼に近づけなかった。
でも想いはどんどん膨らむ。
それから五十年。
未だに彼に会うことは出来ない。
でも小さなアトリエで絵を描いているときが、一番幸せだった。
絵を描くという作業は、彼を探している作業だったから。
アタシは、あなたを探しています。
それは最も強い彼への求愛だったから。
美大を出て、アタシは実家に引きこもった。
アトリエに天使の絵が増える毎に、アタシは何人もの天使の母になり、彼を捜し求める。
アタシは石の天使を描いた。
まさかそれが最後になるとは、おかしな物、石の天使なんて、まるで天使の化石じゃない。
もうだめ、結局五十年かけても彼には会えなかった。
もう疲れた。
だからアタシは、どんなに体調が悪くても病院に行かなかった。
アタシはこの生活を終わらせたかったのかもしれない。
それにはアタシが死ななければならない。
アトリエで具合が悪くなったとき、アタシはこれで死ねると思った。
なのにアタシは、病院のベッドの上で目が覚めた。
でも良かったのかもしれない。多少たりとも死ぬ準備が出来た。
きっとアタシのアトリエの天使達は、化石になっていくでしょう。
もうアタシの体は動かない。
痛くはないけれど、無数の管で身動きが出来ない。
頭がボーッとする。
思考がまとまらない。
まわりに、主治医や看護師さんがいる。
アタシを見つめて声を掛ける。でも良く聞こえない。
誰かが手をにぎってくれているけれど、感覚がない。
ああ、これが死ぬという事なんだなとアタシは考える。
でももういい。
これ以上生きながらえてもそこには何もない。
その時、病室に誰かが入って来た。
いつのまにか病室はアタシだけ。
彼だ、あんなに恋い焦がれた天使の彼。
何よ今更、遅いのよ。
もうアタシは死ぬんだから。
なんで、もっと早くに来てくれなかった。
アタシは嬉しいくせに彼に毒づいたが彼は何も言わない。
ただ黙って手を出す。
アタシは嬉しいくせに、それを押し殺して手を出す。
アタシの体はその手で軽々と起き上がる。
そして、そのままアタシは生まれて初めて、彼にお姫様抱っこをしてもらえた。
なんとなく聞こえていた電子音の波が、タダの長い電子音になった。
ロストエンジェル (天使の化石) 帆尊歩 @hosonayumu
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