第6話:消えてください
それからというもの、あっという間に感じていた一日は酷く長く、流れていく時間は鉛のように私の全身にのしかかっていた。玄関を上がり靴を履き替えているだけで私の名前が小さく聞こえた。下野君のせいで入りづらかった教室は、私の気配のせいでまた違った入りづらさを纏った箱になっていた。席に座ってもなお、何かに見られているという感覚は消えなかった。誰も見ていないのに誰かが見ている。誰も話してないのに私の悪口が聞こえる。私はそんな生活を繰り返すことになり、卒業まで数か月だった高校三年の冬、私は学校に通うのをやめた。
***
僕はその本のページを勢いよく閉じた。そこまで分厚い訳でもないただの単行本なのに「バタン」という音が休憩室に響き渡った。今見た情報を脳内から消し去ってしまいたいと願っての動作だった。僕は我に返って、この状況が誰かに見られていないか心配になり辺りを見回した。
表紙に写る真昼の月。そして五章に埋め尽くされた言葉の羅列。僕はこの本が発売され書店に入荷した時から、この本を読みたくないと思っていた。本が好きでもこの本は嫌いだった。真昼の月が僕を見ていつも笑っていたからだ。この内容は、ここに出て来る全ての登場人物に、この作者に、「祈るばかりの私」に関わる全てのものに、心当たりがあったからだ。
***
「おまたせ」
誰もいない冬の水族館。既に観覧し終えた人々とすれ違う広い敷地と化していた。丘にある猿山からは綺麗な夕日が見えて、閉館時刻が着々と近付いていることを夕日と高くに位置する時計が告げていた。
私は貴方と共にここに来ていた。来館した時には既に終了していたレストランの隣にあるベンチに座っていた私に、自動販売機で買ってきたりんごジュースを渡した。私は今、貴方の右手にある烏龍茶が飲みたかった。
貴方はベンチに座った。私の隣、少し距離を置いて座った。最近は私の身を削るかのように密着させて隣に座っていて、この人は恥ずかしげが無いのかなと疑問に満ちていたところだったのに、今日は生後半年程の赤ん坊が私と貴方の間に座れるくらいの穴が開いていた。貴方は烏龍茶の蓋を開けて飲んだ。
私が学校に行かないこと、私が目に見えない仲間はずれをされていること、あの日私が助けを求める目で貴方を見ていたことは、全く話さなかった。水分補給をした貴方はただ私を見て、赤ん坊を一瞬で踏み潰して私を抱き締めた。
「どうしたの」
「ぎゅーしたかったんだ」
ここに来たのは私が不登校になる前から約束していたからだし、この場所も私が決めたけれど、今はそんなことどうでも良くて、私達の関係を考えて欲しかった。
私をベンチに座らせて飲み物を買ってきてくれた時のときめきは、今はもうどこにもない。抱き締めてくれるだけで幸せだった瞬間もない。あの時の貴方の輝きは、今の私の目には映らないし、あの時も貴方はそこまで輝いていなかったのかもしれない。恋は盲目と言うし。
今私が今問いただせば、貴方は「ごめん」と謝るだけだ。強制された謝罪は謝罪とは言わない、鎮静だ。私には貴方と話し合う時間も与えてもらえないんだ。
私は貴方の腕が体中に絡みついている間、貴方がここからいなくなることばかり考えてしまった。私と触れているところから消えて、きらめく粒となり、ここの肥料や動物達の餌になって欲しいとまで思った。
貴方への愛を語っていた時期が、遠い昔のようで、夢のような気がしていた。
祈るばかりの私 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21
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