第5話:味方でいてください

「読んだんだ、面白かった?」

「え……いや、まだ」

「じゃあ面白いか分かんないじゃん」


 彼は僕の手を振り解いてロッカールームに行った。僕は、彼の腕を掴んだ自分の手と投げ捨てられたままの本を見る。この本のことになるとどうしてもいつもの自分とかけ離れた動きをしてしまう。

 本を取ってテーブルに置き、表紙に触れる。真昼の月がこちらを見ている。適当に開いたページは、第五章と書かれていて、一文字も読んだことのない僕からすれば全く理解出来ない内容のはずだ。だが僕は、この本をどこから読んだとしても理解出来てしまうんだろうと確信していた。



 ***



 夏休みも終わりを迎えて、空気が涼しく冷たくなった秋。私達高校三年生は、それぞれ進学という未来に向かって走り出していた。私は大学進学ではなく、親戚の会社への就職が決まっていた。だから勉強に集中している隣の席の子や、一生懸命眠っている進学先が決まった斜め前の席の子の邪魔にならないように授業をこなしていた。


「あの子、一年の先生とヤッたらしいよ」


 私にある噂が回ってきたのは、冬休みが始まる少し前のことだった。チャイムが鳴って、生徒が各々机を移動して昼食の準備に勤しむ。私の机にピタリと机を合わせた友達が、私の耳元まで寄って来て、私の後ろの席の男の子が一年の担任とホテル街に行くのを見た、という噂を伝えた。


 教師一年目の先生、受験勉強真っ盛りの高校生、教師と生徒、ホテル。学生が興味を持つには十分過ぎるフレーズ達は彼らを無視して、たくさんの生徒を介して学校中に広がっていたらしく、教室では彼らの話で持ち切りで、彼をどうしても見たいと教室への観覧客が大勢いた。ああ、だから最近教室に入りづらいのか。邪魔にならないようにと過ごしていた日常で、周りに何が起こっているかを把握していなかった。


「でも噂でしょ?さっきも普通に授業受けてたよ」

「でも否定しないんだって。先生も、下野君も」


 私はどうも納得いかなかった。先生も彼も、誰もが自分達のことを否定すると分かっていながら真実を話すのは無駄だと思っているのではないだろうか。人は真実より面白さや印象深さを求めることが多い。先生はともかく、下野君は教室に群がる生徒ほどアホな人ではないし、何かしらの理由があったとしても、そう長くはない高校生活だと割り切って諦めたのかもしれないと思った。


「受験なのにそんなことするかな。下野君、授業真剣に聞いてたし」

「分かんないけど。先生学校来てないらしいし、下野君も真面目そうでやることやってるって話。前の席だけど、あんまり口利かない方がいいよ」


 根も葉もない噂を信じる理由が分からなかった私は、教室の全員に聞こえるように口を開いてしまった。


「他人の人生なんてどうでも良いじゃん、人を馬鹿にする余裕があれば勉強したら良いのに」


 今思えば、第一志望に受からないかもしれない、推薦を貰ったが不安が募る、親や兄弟からの期待に押しつぶされそうになる、そんな気持ちを持った人達に放つ話では無かったのかもしれない。でも自分に余裕がないからと言って、他人を傷付けて良い理由にはならない。そう思い言葉にした意見は、今でも間違っていないと思っている。


 だが私が間違っていたのは、それで全員が改心すると信じていたことだ。私がその場にいた全員の目線に気付いたのはその後すぐで、下野君へ向いていた目線がそのまま私に向いたことを悟った。私は急いで貴方の方を向いた。貴方はいつも私の味方で、私の意見に「そのままでいい」と頷き、時には頭を撫でてくれたから。廊下に近い席に貴方が座っている。


 助けて欲しい。表情だけで訴えようと貴方を見ると、なぜか光が無い瞳と目が合った。だが、ものの数秒で逸らされた。貴方は私の味方をやめて、全員の味方になった。そして私はその日から、学校からいない存在になった。


 真昼なのに儚く消えそうな月が見える、ある晴れた日の出来事だった。

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